⑴楽しい食卓
真姫と一緒にいると楽しい。
そんな単純な感情を覚えたのはいつぶりの事だろう。
友達としてか、それとも別の意味でかは分からない。
ただ、普通に、一緒にいて楽しかった。
「きーさん。帰りにスーパーに寄ってもいい?」
真姫と同棲を始めて一週間。
転校初日の騒動以来、学校では言う程のトラブルは起こっていない。
清澄に対してのささやかな“ちょっかい”は常々なされていたが、意外にも真姫は理性的にそれに対応していた。
清澄が足を引っ掛けられれば、即座に常人には有り得ない反射速度で転ぶ寸前の体を受け止めた。
清澄に対して囁かれる悪意の言葉は、それ以上に優しい真姫の言葉でかき消された。
怒りで暴走して木を殴り倒した本人とは思えない程、冷静な対応である。
最初の内は意地悪の度合いが高ければ、いくら清澄が大丈夫と嘯こうが真姫の鬼化は免れなかった。
例えば清澄の持ち物を隠されたり、わざとぶつかって危害を与えたり、陰湿な手紙を送り付けられたりした時だ。
一般的な虐めだと清澄がスルーしようとしても真姫はそれらを見過ごしはしなかった。
そんな時、清澄が編み出した台詞がこれだ。
「きーさん、ね、お願い。きーさんには笑ってて欲しいな。怒ったきーさんよりも、笑ってるきーさんの方が好きなんだ」
角を生やし、今にも周囲の物を破壊し尽くそうと瞳に怒りを燃やした真姫はその一言で呆気なく鎮火した。
さすが学園一の色男に相談した甲斐があったと言うものだ。
「お買い物ですか? 行きます行きます!」
村では畑生活だったからか、真姫はスーパーマーケットがかなりのお気に入りなようで、初めて中に入った時はまるで小さな子供のようにはしゃぎ回っていた。
特にお菓子売り場で他所の子供達に混じってキラキラと輝く瞳でお菓子を物色する姿は、微笑ましすぎて好きなだけお菓子を買って上げたくなった――が、我慢した。
「そろそろお米の備蓄が切れそうなんだよね。五キロ……で足りるかな?」
清澄ひとりならば五キロでも一ヶ月は余裕に越せるが、真姫が来てからはそうもいかない。
安売りでついつい買ってしまった十キロの備蓄用の米が一週間で尽きたことを考えれば、五キロはやはり少ないか。
いやむしろ、十キロでも足りるかどうか……。
(お米重いしなぁ。きーさんなら十キロくらい平気で持てそうだけど……)
今日の夕飯分の材料プラス米袋と考えれば、その重量にうんざりとする。
いくら学校から自宅が近いからと言って、大荷物を持って平然と歩けるほどの体力は清澄にない。
鬼である真姫なら軽々かもしれないが、一人で大量の荷物を持たせるのも気が引けた。
「今日は何にしよう。しばらく和食だったし、たまには洋食にしようかな?」
そう言えば思い出す最初の夕食の話。真姫が花嫁として実家で修行をした成果を見せる! と張り切って台所に立ったのはいいが、結果は散々だった。
『きゃー! まな板がー!』
実家ではどんなまな板を使っていたのだろうか。力加減を間違えて真っ二つになったのは戦慄的だった。
『いたーい!』
お決まりの包丁での失敗談。しかし豪快なこの鬼嫁はかなり深く指を切ってしまった。
普通なら即座に病院行き案件な怪我も、鬼だからかびっくりするほど早く傷がふさがり、大量の血だけが床に残っていたのは未だに記憶が薄れない。
『あれー? 味がつかないなぁ?』
そりゃあ魚の煮物を作るのに鍋に水を大量に入れたら、煮汁はそれだけ薄くなる。
『あれー? なんか辛い?』
その水の量に合わせて醤油を目分量でドバドバと投入すれば、当然そうなる。
『母様の煮物と味が違う! なんでー!?』
どうやら見よう見まねで作ったらしい。
『うえーん!』
『まぁ、ね、うん。台所の勝手が違うからね』
清澄の実家を含め、あのド田舎では台所はシステムキッチンはおろか、未だにガスすら使われていない。
竈や囲炉裏で作る料理と、IHシステムキッチンで作る料理ではまず火の起こし方から違うのだ。
(あの時のきーさん、まるで初めて火を見た原始人のような顔をしていたなぁ)
火が無いのに湯が沸いた! 魔法か? 妖術か? なんて目をしていたっけ。
思い出し笑いを浮かべ、清澄はカートを押したそうにチラチラとこちらを窺う真姫にカートを譲ってあげた。
「きーさん、何か食べたいものある?」
「あ、わたし、前から気になってた食べ物があるんです」
「なに?」
「えっとですねー、確か、一度人里に降りた従兄弟がですね、都会で食べた……何だっけ? 半……婆ぁ、具?」
「……ああ、ハンバーグ」
今、何か発音がおかしな事になっていたような気がしたが、気のせいに違いない。
ハンバーグならば挽肉と、それと混ぜるだけで作れるレトルト商品を買えばいいだろう。
「後は卵と、牛乳と……あ、きーさん。お米売り場にも行くよ」
「はーい!」
カラカラカラ。カートを楽しげに押す真姫に和みながら、本日の強敵である米売り場に着いた。
五キロ、いや、十キロか。それが問題だ。
シェークスピアもかくやな悩み事である。
「ねえ、きーさん」
「はい? なんですか?」
「十キロ……って、持てる?」
「十キロって、これですか?」
ひょい。と積み上げられた十キロのコシヒカリをいとも簡単に肩に担ぎあげたその姿に、清澄は目を見開き “いける!” と確信した。
そして少し欲が出てしまった。
奇しくも今日は米の特売日。ポイント三倍の日だった。
「きーさん……もう一袋……」
「はい! もう一袋ですね!」
がっつり! 両肩に十キロの米袋を担いだその姿はまさに鬼嫁である。
「きーさん、かっこいい~……」
憧れと尊敬に満ちた、清澄から初めて受ける情熱的な視線に真姫の体は一気にヒートアップした。
それはもう調子に乗っていると明らかに分かる興奮した面持ちで、鼻息荒く米と清澄を交互に見ては「あと何俵要りますか!」と目を輝かせる。
「十俵ですか! 二十俵ですか!」
「うん。そこまではいらないかな」
生ぬるい笑みで頷き、優しく否定を口にする。
折角なので米は十キロを二袋購入する事に決めた。
会計時、そして帰り道でかなり目立ったが、意外と清澄も嬉しそうにしていたので今回の道行く人達の奇異な視線は気にならなかったようだ。
「さて、と。作りますか」
料理が上手いか下手かで言えば、清澄は普通に上手かった。
切る、焼く、煮るが出来て、味付けはレシピ通りに、きちんと分量を量れば失敗する事は滅多に無い。
基本は和食を作ることが多く、その理由も味付けが醤油と味醂と砂糖だけでできるものが多く簡単で、作り置きが出来るという、一人暮らしの自分には有難かったからだ。
あとは混ぜるだけのレトルト食品や、うどんやそばなどの茹でるだけで食べられるものが清澄の食生活を支えている。
手料理と言う程凝ったものは作れないが、毎食、本職の料理人が作ってくれる実朝や都に比べれば遥かに自炊と呼べるものだ。
それだけは唯一、あの二人に勝てるものだと思っている。
(でも……あの二人ならやればできるんだろうな。私よりも全然上手く……)
はぁ。溜め息をついて、冷蔵庫を開ける。
野菜はレタスとトマト。それからツナ缶を取り出してサラダを作る。ドレッシングさえあれば味は不味くなりようがない。
挽肉に、乾燥した玉ねぎやパン粉が最初から入ったレトルトを混ぜて、形を作る。
プレーンのタネと、チーズを入れたタネを作って、丸めて、グリルで焼けば完成だ。
ソースはケチャップだけでいいだろう。
「お味噌汁も作ろうか。具は麸かな? 豆腐かな? よし、麸にしよう」
ハンバーグがずっしりしている分、口当たりの軽い麸の味噌汁がいいと思う。
ささっと出汁の素を入れ、麸と味噌を混ぜたら出来上がりだ。
「きーさん、ご飯だよー」
「わーい!」
真姫の為に買った大きめの茶碗に炊きたての白米を盛り付ける。
三合用の炊飯器を二回炊いてはみたが、どうだろう。足りるだろうか。
「こ、これが、半婆ぁ具……おばあ様が作らなくても半婆ぁ具なのですね」
(一体、きーさんの従兄弟はハンバーグをどう説明をしたのやら……)
絶対からかわれてるな。そう思いつつ、否定も肯定もしないのは、いつまでも無垢な彼女でいて欲しいと言う願い故か。
頂きますと手を合わせて、まずは真姫がプレーンのハンバーグに手をつける。
「ほ、ほわああ」
お箸で半分に割れば、上手く肉汁が溢れてきた。焼き加減は絶対だったようである。
ぱく。口に入れた瞬間、玉ねぎの甘さと、しっかりとした挽肉の味と油が口いっぱいに広がった。
「美味しいぃ~っ!」
「よかった。サラダも食べなね」
「お肉美味しいです! 半婆ぁ具美味しいですぅ~!」
「きーさん、サラダ」
「ちーずも美味しい~! とろけるぅ~!」
「野菜も食べなきゃダメだって」
「……ううう」
一週間、食卓を共にして分かったことだが、真姫は野菜よりも肉派であり、あまりトマトが得意ではないらしい。
小皿に盛り付けたサラダの中で一際鮮やかに存在するトマトを睨み、あまりの憎さに瞳が次第に潤んでいく。
「なんでトマト入れるんですかぁ~……」
「え? 彩り?」
「あぅぅ~」
「残しちゃダメだよ。ほら、頑張って食べたら、ハンバーグもう一個あげるから」
「うう!」
ばくっ! ハンバーグをもう一個が効いたのか、真姫は勢いよくトマトに箸をぶっ刺すとそのまま口の中に放り込み、一息に飲み込んだ。
「おお、偉い偉い」
「うぇぇ……」
「チーズの方をあげよう」
「わぁい……」
嫌々食べたトマトの味に苦い顔をしていた彼女も、肉を割り、中からトロリと溶け出たチーズと共にハンバーグを口に入れれば、途端に笑顔に戻るのだから可愛いものだ。
「清澄さんはお料理が得意なんですね。すごいです!」
「いや、普通だよ。これくらい」
「普通……じゃあ、煮物も作れないわたしは?」
謙遜も時と場合を考えなくてはいけない。清澄の発言に真姫は大層ショックを受けた顔で震えている。
ここは素直に褒め言葉を受け取って礼を言う所だと理解し、清澄は慌てて有難うと口にした。
「わたしも嫁として頑張らねばなりませんね。せめて煮物くらいは一人で作れるようにならなくちゃ」
「別に今どき嫁が料理を作れなくてもいいと思うんだけど」
「ダメです! ダメダメ! 好きな人に美味しいご飯を召し上がって頂くのは妻の誉れなのですよ!」
「そういうものかなぁ」
「はっ! でも、清澄さんがお嫁さんなら……?」
名案だ! いやいや、けれどお嫁さんになる約束だし、やはりお嫁さんに憧れるし……!
コロコロと真姫の表情が多様に変わるのを観察しているだけでも面白い。
レシピ通りに作るだけでこんなに喜んでもらえるのなら、真姫のお嫁さんになるのも悪くは無いのかもしれない。
(なんて……何考えてるんだ。私は)
「清澄さん! 結婚しましょう!」
「はいはい。ご馳走様するのなら片付けるよー」
「あ! ああっ! ダメです! まだ食べます~!」
「あはは」
おかわり! と掲げられた茶碗を受け取り、清澄は台所へと足を運んだ。
その足取りは軽く、表情は柔らかい。
(清澄さん、嬉しそう)
真姫の表情もそれと連動して緩く柔らかい。
清澄が嬉しいなら自分も嬉しい。
清澄が楽しいなら自分も楽しい。
最初はぎこち無かった関係も、最近では随分距離が縮まったように感じた。
(もっと笑って欲しいな)
笑うと昔の、幼かった頃の清澄と同じ顔になる。
笑うと可愛い。誰よりも可愛くなるのに。
(わたしが清澄さんを笑顔にするんだ。もうあんな顔はさせない)
泣いてるような笑顔は嫌だ。
誰かの悪意にさらされて、痛いのを我慢する清澄を見るのはもう嫌だ。辛いのを我慢する清澄を見るのも嫌だ。
出来るなら笑顔を見たい。
一緒に笑って幸せを感じたい。
だから真姫は決めたのだ。
清澄を守り、そして悲しませないことを。
その為ならば、血管が沸騰しそうな程抑えきれない怒りも、全てを破壊し尽くしたくなる衝動も、自らの体を傷つけてでも抑えよう。
(あなたの為なら、何だってします)
大好きだから、何だって。
白米が山盛りに盛られたお茶碗を手に清澄が戻ってきた。
茶碗を受け取り、真姫は一口、大きく開けた口いっぱいに白米を詰め込んだ。
その光景を目に、驚きつつも嬉しそうに笑う清澄に幸せを感じながら、彼女は今日も美味しくご飯を頂くのだった。