⑹大事な人
どうして自分は人に疎まれても、嫌われても、罵られても笑っていられるのだろう。
その答えは、慣れとしか言いようがない。
『 なんでぇ? なんで、清澄さん笑うの? なんで真姫のこと、怒るの? 』
(正直、あの言葉はグサッときたなぁ)
嘲られても、危害を加えられても、怒ることはしなかった。
泣くこともしなかった。
無関心を貫きたかった。
でも真姫にはそれが滑稽に見えていたのかもしれない。
(笑っておけば……泣かなくても済む)
泣くのだけは嫌だった。
泣いたら負ける。泣いたら終わりだ。ずっとそう思って生きてきた。
「っ、た」
「あ! ご、ごめんなさい……」
誰もいない保健室に二人、男女ならロマンチックな展開にでもなっていただろうか。
大した怪我でもない薄らと擦り切れた膝の傷を、真姫が半ば強引に消毒し、ぺたりと絆創膏を貼る。
「……」
「……」
傷よりも沈黙が痛い。
真姫の目元は擦りすぎたせいで赤く、今もまだ瞳は潤んでいる。
彼女は清澄の為に怒ってくれた。それは分かっている。
分かってはいるが、彼女は人ではない。
鬼と化した姿を、人を超越した力を周囲の人間に晒した事が問題なのだ。
「きーさん。ここは私やきーさんの村とは違って、鬼に対する認識は無いんだよ。鬼は想像上の生き物であって、その存在は無いものになってる」
「……知ってます。父様に散々聞きました」
「だったら分かるよね? 人前であんな事をしちゃダメだって」
「……」
「分かるよね? 角も、力も、普通の人は受け入れられないって」
「だって」
「私はきーさんに、私みたいになって欲しくないんだ」
人から恐れられ、異質な存在として敬遠され、何れは排除しようと危害を加えられるかもしれない。
清澄とは扱いは違うが、嫌われ者として生きていく事には変わりない。
「確かに木を殴り倒したのは……いけないことでした。
でもっ、謝りません! 清澄さんにあんなこと、あんな酷い事をした人達は許せません!」
「大したことじゃないよ。怪我だって、大したものじゃない」
「そういう事じゃありません!」
ぶん、と真姫が首を振る。
長い髪が乱れ、また大きな瞳から雫が溢れそうだ。
「大したことなんてない! どんなに小さい怪我でも、嫌味の一つだって、私にとっては大したことです……っ」
(ああ)
零れた。
真姫の目からぽろりと落ちた涙を、清澄の視線が追いかけた。
(なんで?)
なぜ真姫が泣いているのか分からない。
その涙が自分の為のものだと理解しているのに、その理由が分からなくて、首を捻る。
「ごめんね。きーさんが私の為にあんな事をしてくれたのは分かってるんだ。でも……」
でもね?と清澄が真姫を真っ直ぐ見上げて口を開く。
その表情に感情はない。
(あ……似てる)
能面に近い無表情。いや、違う。
真姫に思い当たったのは、いつかの狩りの時のこと。罠にかかった獣がこんな表情をしていた。
全てを諦めた顔。希望など無い事を知った顔。
「私なんかに同情しなくてもいいんだよ」
「き」
「私はさ、きーさんに好きになってもらうほどの価値は無いんだよね。
ほら、こんな見た目だし、頭も良くないし、運動神経も悪いし。
特技もないし、趣味もゲームしかないし、性格も良くないし」
「そんなことないです。価値はあります」
「そう? でも、きーさんはさ、私のこと、小さい頃の私しか知らないじゃない? 十年も前だし……一年も一緒にいなかった」
そんな相手を美化してないと言いきれるかな?
そう言って、清澄は笑った。
「清澄さん……」
どうしてこの人は、悲しそうに笑うんだろう。
笑っているのに、笑っていないんだ。
(わたしには、泣いてるみたいに見えるのに)
「清澄さんは疑うんですね。わたしの想いを、信じてくれないんですね」
「……」
返答はない。それでもいい。
真姫は笑う。
清澄とは違う、幸せに満ち溢れた笑顔がパッと花開く。
眩しくて、清澄は目を逸らした。
その顔を両手で包み込み、真姫は自らの胸へと優しく引き寄せる。
「大好きです。大好きですよ。
大丈夫。嘘じゃない。大好きです」
「……きぃ、さん?」
胸の中で掠れた声が呼ぶ。
髪を撫でると少し怯えて、肩が震えた。
「昔の清澄さんじゃないなら、今の清澄さんを教えてください。わたし、自信あります。今の清澄さんも好きになれる自信、ありますから」
「……きーさん、変だよ」
「変じゃないですよ。恋なんですよ」
「変なの。変なきーさん」
ふふっ。清澄が笑う。
胸の谷間に埋まった清澄がどんな表情で笑ったかはわからないが、あの悲しそうな笑顔じゃなければいいな。と真姫は思った。
「ふぅ……」
倒れた木の処理は、都が呼んだ業者がスムーズに何処かへと運んでいった。
天翔院の力は都会でも健在だ。
あの一族は能力のある者を多岐に渡る企業に紛れ込ませ、重要位置に着けることで裏で権利を得る。
気づけば会社一つ乗っ取られていた。なんて良くある話だ。
「実朝。先生方への説明も終わりましたわよ」
「“洗脳”の間違いじゃないか?」
「あら、嫌ね。失礼なお口は塞いでしまおうかしら?」
「暴力じゃなければ喜んで」
先程まで業者や教師で賑やかだった中庭にはもう誰もいない。
窓に張り付いていた生徒達も皆、授業に戻ったようだ。
「私達も戻ろうか」
「もう授業は半分以上終わってますわよ」
「うん?」
中庭から校舎へ、実朝が手を差し出せば、都の細い指先が優雅にその手に触れる。
「生徒会室の鍵ならありますわよ?」
「お姫様が自らサボタージュですか?」
「働きの対価が欲しいだけよ。それとも、私とは嫌?」
「まさか」
階段を上る時は女性が足を踏み外しても支えられるように、紳士は後ろを歩く。
歩く際は腕を絡ませて、必ず女性の歩幅に合わせてゆっくりと。 ドアを開けて、お先にどうぞ。 実朝のエスコートは常に完璧である。
「お姫様。紅茶で宜しいですか?」
「ふふ、宜しくてよ」
校内の他のどの教室よりも広く、落ち着いた調度品に囲まれた立派な部屋は、都こそが主に相応しい。
黒革のソファーに腰を下ろし、実朝が淹れたお茶をゆったりとした動作で口にする。
「清澄は大丈夫かな?」
「……さあ?」
静かな空間に二人。実朝が口にしたのは清澄の名前だ。
都は呆れとも無関心ともとれる口調で答える。
「あれが鬼那里の鬼か。初めて見たな」
「ええ。彼らは基本、山から下りてはこないし、余程のことがなければ天翔院の里には近づかないものね」
「……」
自分の分の紅茶を淹れ、実朝は都の隣には座らず、窓際へと寄りかかった。
カップに口をつけ、目は冷たく空を見つめている。
「清澄の為に怒ったんだな」
「そうね」
怒っているのはあの鬼の娘だけではない。
その表情には知的で、冷やかで、ゾクリとするような美しさがあった。
都が好きな実朝の顔。けれど、それは決して都の為には見せてくれない表情の一つだ。
「真姫はいい子だ。それは分かった」
「……認める?」
目を閉じ、独り言のような実朝の呟きに耳を傾ける。
都の好きな実朝の声。誰かさんへの想いのこもったその声は、当然都に向けて吐き出されたものではない。
「まだ。清澄にとって“良くないもの”なら……」
彼女の目は、いつだって大切なあの娘に向けて。
彼女の声は、いつだって大切なあの娘のことしか言葉にしない。
(私を好きだと言う口で、キヨの話題しか出さないのだから……困った人)
「今は黙って見守ってあげなさいな。良いものか悪いものかは、キヨが決めるわ」
「……わかってる」
「なら、他に口にすることがあるのではなくて?」
例えば、ここにしか居ない人間に愛を囁いてみたり、愛を込めて口付けてみたりとか。
そうしてやっと実朝が都の隣へと腰を落ち着け、そのサクランボのように潤んだ唇に唇を寄せていく。
(私は誰でもいいわ。キヨを救ってくれるなら。誰でも……ええ。貴女でも構わない)
けれど、それは叶わない。
実朝でも清澄は救えない。
そして都でさえも。
「ん……」
離れた唇を指でなぞる。
自嘲した笑みを浮かべ、都は実朝の胸に額を寄せた。
実朝と自分の気持ちは幼い頃からずっと同じ。
愛し合っていても、大事なものは互いではなく、たった一人の少女だった。
(けれど、あの子の痛みを増やしているのは私達)
どんなに実朝が愛しても、都が庇護したところで自分たちでは救えないのだ。
あの愛しくも哀れな天翔院のなり損ないを、負の底に落とせても、そこから掬い上げてやることは到底不可能なことなのだ。
(願わくば、真姫さんがあの子の希望となりますように)
祈り、願い、都は顔を上げた。
「さあ、次の授業が始まるわ」
自分たちに出来ることはやった。
これからも出来るだけのことはする。
後は彼女達次第だ。
都が手を差し出すと、実朝が恭しくその手を取った。
完璧なエスコートで再度教室へと赴けば、清澄と真姫が二人を笑顔で出迎えてくれた。
都は頷く。
これならきっと上手くいく。
上手くいくはずだと実朝を見上げて、少し嫉妬した横顔に小さく苦笑を浮かべるのだった。