終章
九月も半ばを過ぎた頃、まだ残暑が厳しいながらも風は秋の涼しさを装い、太陽は気温を上げながらも照りつけはどこか穏やかだ。
新学期が始まり、夏休みの名残か、まだ少し浮き足立った生徒達の波が賑やかに校門を移動している。
朝の挨拶はしっかりと。お嬢様学校の面目をそれぞれ保つ意識はお持ちらしい。
きゃあ。黄色い声が一部で上がった。そこから前方へと甲高いざわめきと共に、モーセよろしく人波が二つに割れた。
麗しき我らが姫君、生徒会長の天翔院 都と、学園の王子、皆守 実朝のご登校である。
「おはようございます! 都様!」
「実朝さまぁ! 今日もかっこいい!」
テレビで見かけるチープなアイドルよりも身近なのに、まるで天上人のように手が届かない。いや、自分如きが触れてはならない神聖さに誰もが遠巻きに見蕩れているだけ。
きっと彼女達に近づけるのは彼女達と同じような特別な者だけなのだと誰もが思う。
例えば、そう。夏休みが明け、以前よりも更に健康的な美しさが増し、同性でもドキリとしてしまうような色気を匂わせ始めた噂の転校生のような、そんな美少女ならば都達の傍に居ても許されるのだろう。
だからこそ間違ってもちんちくりんで、暗くて、卑屈で、平凡を絵に描いたような練国 清澄なんかが居ていい場所ではないのだ。
「ちょっと……またあの子……」
「なんでわかんないかなぁ?」
「身の程知らずよね」
羨望は妬み嫉みを伴って、単純な悪意として清澄を襲う。
鋭い棘を持った言葉だ。刺されば痛い。とても。凄く。痛いだろう。
「……」
「きーさん」
構わないよ。別に。
そう囁いて、清澄は悪意に見向きもせず門を潜った。
牙を剥き出し、番犬よろしく周囲を威嚇していた真姫は清澄の穏やかな様子に一瞬で少女達への興味を失うと、大股でその後に続いて行く。
「まったく! あの人達は見る目が無いですね! いつまで経っても節穴のままだわ!」
「全くだね」
怒りに任せて大股過ぎた歩みは軽く三人の少女達を追い越して、振り返った顔はぷっくりと頬が膨れていた。
都も実朝も当然素敵な方達だと理解しているし、納得もしている。けれど、真姫の中で清澄を上回ることは過去にもこの先にも絶対に有り得ない。
一応、はっきりと清澄より下だと断言されたわけだが、都も実朝もその発言に気を悪くしないばかりか同意すらしてしまう。
実朝に至っては真姫と競い合うように如何に我が従姉妹殿は素晴らしいかを語り始めるのだから、清澄はその愛に苦笑するしかない。
「あらあら、愛されてるわね」
「うーん、嬉しいんだけど……ちょっと褒めすぎかなぁ」
「ふふ。実朝ったら、真姫さんに張り合っちゃって。夕べもあの人から電話があったでしょう? ごめんなさいね。長々と付き合わせて」
「……ううん。私のせいだもの」
「そうね。否定はしないわ」
僅かばかりチクリと棘のある言葉が都から零れ落ちた。
あの夏の青九郎との死闘は実朝に深いトラウマを刻み込んだ。
傷つき壊れた玩具のように地面に転がる清澄の姿、全身の色が変わるほど血と土と痣で染まった清澄の体、死にかけ実朝の声も届かない場所へ消えそうになった清澄の意識。
その全てに恐怖し、傷ついた実朝の心は一瞬でも清澄から離れる事を嫌がるようになった。
都との関係は変わらない。だが、大切な者を失いかけたショックは大きく、その傷が癒える時間はまだまだ掛かりそうである。
「姫……」
「謝罪はいいわ。もう終わったことよ」
「……ん」
少なくとも都もそれなりに清澄に対して過保護になりつつある。この親戚であり親友でもある少女を愛しいと思うのは何も真姫や実朝だけではないのだ。
「まぁ、一番困っているのは真姫さんなのですけどね」
「あー……」
事情が事情だけに実朝の過干渉を無下にできない清澄と蜜月関係にある真姫としては、心中はかなり複雑だと思う。
だからこそ、本気ではないにしても実朝との争奪戦には熱が入ると言うものだ。
「清澄さんは私の清澄さんなんですぅ! 実朝さんは二番目! いえ、圏外です! 圏外ぃい!」
「ははは、何を言っているんだい。清澄を独り占めなんてまだまだ早いよ」
「わたし達のこと認めてくれたんじゃなかったんですか?!」
「“認める” と、“あげる” は違うんだよ」
「ぐ! ぐうう!」
まだ渡さない。そう言って実朝は挑戦的に真姫へと微笑んだ。
その笑みの妖艶さたるや真姫が歯噛みして唸るほどである。
「もう、困った人ね」
「あはは」
「真姫さんも。構うことないわよ」
「でもでも! わたし、清澄さんに“ぷろぽーず” してもらいましたから!」
「う! く!」
ふふん! 真姫が勝ち誇ったように豊かな二つの球体を見せつけるように張り出した。
ぺたんこの双璧の奥が痛むのか胸元を掴み、実朝は苦しげに目を閉じて、眉間に皺を刻み込む。
「ふふ。負けてない」
「きーさん……」
地味に清澄にも恥ずかしさのダメージが来ていた。仄かに赤くなった頬が愛らしくて、微笑ましい。
真姫と実朝はそれから教室に辿り着くまでの間、絶えることなく清澄の話題で盛り上がった。
ちょっとした嫉妬や苛立ちはあるが、互いに共感できる良き理解者として認めあってはいるらしい。
「きよ」
教室の扉を開け、実朝と真姫が入っていく。
都は清澄の背を呼び止めた。
「今、幸せ?」
少女は答える。今までにない輝くような笑顔で。
「うちの奥さんは可愛いし、従姉妹は優しくてかっこよくて自慢だし、綺麗で賢くて憧れのお姫様が私の親友でいてくれる」
それがどれほど嬉しいことか。
どれほど幸せなことか他人に計り知ることができるだろうか。
「幸せだよ。すごく幸せだ」
迷いなく、躊躇うことなく出た言葉はスルリと都の耳に入って、心に落ちる。
落ちた場所からほんのりと熱が広がって、全身が幸せで温かくなっていく。
「では、出席をとります」
HRが始まり、教壇に立った教師が生徒達の名を呼んだ。
「練国 清澄」
その名は多くの生徒達の耳には残ることなく、軽く流されていくのだろう。
名はただの文字の羅列であり、音である。個々を指し示すだけの識別の方法の一つでしかない。
けれども、彼女と、彼女を愛する者にとって、その名は愛しく、とても価値のある物だった。
「練国 清澄?」
「はい。ここに」
ここに私はいます。と、そうはっきりと言葉が返る。
(そう。私はここにいる)
練国 清澄は今日も此処に、
可愛い鬼嫁と優しい親友達と共にいる。




