(3)新しい世界へ
名前って何でしょう?
薔薇と呼んでいる花を別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま。
(ならば名前に一体、何の価値があると言うのだろう?)
それは確か、幼い頃に、実朝から教えて貰った古典“ロミオとジュリエット” の一節だったか。
名前の何が大事なのか。特に姓にこだわる事に何の意味があったのだろう。
ただの清澄だけで良かったのではないか。
名前が個々を指す固有名詞でしか無いのならば、あんなに執着する理由はなんだったのか。
「清澄さん?」
目を覚ましても闇は晴れない。
霞がかった右目のみの視界で見渡す部屋はどこまでも古びた木の天井で、畳の上に敷かれた布団の感触だけが清澄の存在の居場所を教えてくれる。
息を吐く。肺に満たされた酸素を吐き出して、また吸う。
繰り返される呼吸に胸が上下する。そんな当たり前なことが奇跡に感じた。
あれから何日経ったのか。障子の外から聴こえてくる虫の音が夏の終わりを告げている。
「なつやすみ、おわった?」
掠れた声で清澄が囁けば、隣でうちわを扇いでいた真姫がその顔を覗き込み、甘く微笑んだ。
「まだですよー。あと三日は残ってますから」
「宿題やってないや……」
「ふふふ、わたしもです」
どうでもいい会話に笑う。何だかとっても幸せだ。
腕すら軽く持ち上げることもままならない清澄の体は、本当ならば都会の大病院に担ぎ込まれなければならない程の怪我を負っていたが、村長の判断で鬼達の村での治療を受けていた。
大袈裟過ぎるくらいに巻かれた包帯の下には通常の肌の色は無く、ほんの僅かでも身じろぎするだけで清澄は苦痛に顔を歪めてしまう。
「清澄様。此の度は誠に申し訳ありませんでした」
清澄が目覚めたと聞き、真姫の父、鬼那里の長が妻を伴い部屋へと訪れた。
挨拶もそこそこに深く頭を垂れ、夫婦共々、額を藺草に擦り付ける。
「……父様。母様」
「真姫も。本当にすまなかった。お前には親として自由に生きよと外に送り出したにも関わらず、村長として青九郎の甘言に乗ってしまった私を許して欲しい」
鬼である誇りはある。長である威厳もある。彼も妻も、幼い頃から生まれに縛られ、血に縛られ、己の宿命を受け入れてきた。
この村の中だけに生き、決められた相手と愛し合い、子を成し、何れは死んでいく。
自由を知らなければ、案外と狭い枠の中でも生きやすいものだった。
幸せだった。妻も子供も愛おしく、村人達も自分を信頼し、穏やかに生きてこれた。
それでも、もしも己がこの鬼那里の長の生まれではなかったなら。
鬼という異形の血を継がなければ、どれほど今と違う人生を歩んでいたか。
憧れなかったわけが無い。
羨み、妬まなかった事も無い。
「私は、お前が羨ましかったのかもしれん」
血に縛られず、名に縛られず、己が宿命すら変えようとする娘に少なからず憧れと羨望を抱いた。
幼い頃の恋心を今も忘れることなく持ち続け、愛する者を追おうとする娘を応援する傍ら、妬ましかったのかもしれない。
『真姫を連れ戻せ。鬼として、代々受け継がれし鬼那里の長として、代を継ぐことこそが貴方の為すべき役割ではないか』
己の存在価値を問われた気がした。
真姫だけがその責を負う必要は無い。宿命を負いたい者だけが負えばいいと思っていたのに、突然、真姫が鬼との子を成し、代を繋がなければ己の生きた価値は残せないと思ってしまったのだ。
「恥ずかしいばかりです。娘の幸せを己の幸せと秤にかけたばかりか、私の幸せこそが真姫の幸せだと錯覚してしまった……そんなこと、あるわけないのに」
ふ、と息を吐き出し、父は少し項垂れてみせた。威厳に満ちた鬼達の長は今、ここにはいない。
「名とは恐ろしいものです。血もまた拘れば拘る程、本来の価値を見失い狂ってしまう。大事なのは群れではなく、我々は個々で生きていること。
同じ名も、同じ血も、土台であるだけで、そこから個体として人格や経験を積み上げてきたのは己だということを忘れてはならないのです」
長曰く、家系や血筋とは個を構成するフレーバーの一つでしかない。自己紹介の一部、あっても無くても己が在るのなら特に口にすることもない一文。
「私の価値は私が死ぬ時に誰かが評価した瞬間に決まりましょう。ですが、それまでは価値など無いも同じなのです。私も、妻も、真姫も、貴女も」
「……」
「だから。どうか。これからは」
大の男が凛と背筋を伸ばし、包帯だらけの少女の前で深く深く頭を下げた。その隣で、慎ましくも麗しく妻も夫に倣い頭を下げる。
「貴女が、真姫が、何者の悪意に苛まれようとも、何者の心無い行為にゆく道遮られようとも、自由に、誇り持ち、己の人生を全うされますよう……我ら一同、心より祈り申し上げます」
「……あ、の」
「清澄様。ふつつかな娘ですが、どうぞ真姫をよろしくお願いします」
(ああ。認められたんだ)
この先、誰に何を言われようと、どんなに後ろ指さされようと、ここの鬼達は清澄と真姫を決して裏切らない。自分達は味方であると言ってくれたのだ。
虫が鳴く。りん、りん、と鈴虫が鳴いて、涼しい夜風が障子を揺らす。
世界が優しい。今までにない柔らかな空気が清澄を包み込む。
村長とその妻が清澄達の部屋を後にし、しばらくの沈黙に二人は浸った。
そう言えば。実朝と都の姿が見えないことに気づいた清澄が質問を口にしようと開くその前に、真姫がうんざりと言う表情を浮かべて答えてくれた。
清澄と青九郎の仕合が終わり、清澄が意識を失った後、都と実朝が先にとった行動は先ず天翔院本家から医者を呼ぶことだった。
鬼那里にも医者はいたが、小さく閉鎖的な鬼の村では自然治癒と民間療法、呪術的で原始的な方法でしか診れなかった。
天翔院、それも本家が抱える医者ならば都会とそう変わらない知識と技術を持った者もいたのだろう。
都はそう安くない頭を垂れ、天翔院の長と直接交渉をしてくれた。清澄を助ける為に恥もプライドも捨てて、すがりついたのだと言う。
実朝は都が医者を連れてくるまでの間、必死で清澄の応急手当をしてくれた。泣きながら、嗚咽すら吐き出して、清澄の側から離れなかったそうだ。
そんな二人も今は落ち着いて、清澄が目覚めるまで天翔院の里で待っている。
それが天翔院の長との約束なのだ。
「で、なんで、きーさんは不機嫌なの?」
「都さま達がここを出る前、アイツが……青九郎が言ったんですよ」
「ん?」
「女人同士では子は作れまい。ならばどちらも俺の妻になればいい……って!」
ぐしゃっ!
清澄の為に扇いでいた団扇が粉々に砕けた。
とりあえずその後の青九郎がどうなったかは聞かずとも分かる。
忌々しげに瞳を発光させ、角が怒りの度合いを示すかのようにどんどんと伸びていく。
「あいつ、ほんと殺しておけばよかった……っ!」
「う、うーん」
「なんか、清澄さんのこと、気に入ったみたいで……ううっ」
思い出すだけで身の毛もよだつ。怒りと生理的嫌悪に身震いし、真姫は顔を歪めるほどに歯噛みした。
清澄は割とまんざらでもない様子で、「へー」と感嘆を漏らす。
「き、清澄さん?」
「あ、や、男の人からって言うか、他人からそんなこと言われたことがないから」
少なくとも真っ直ぐな好意だ。嬉しくないと言えば嘘になる。
「だ、だめですからね? ね?」
「うん。わかってるよ」
誰かに認められるのは嬉しいし、誰かに好かれるのは涙が出る位嬉しいけれど。
「ねえ」
手を天井に向けて持ち上げた。
ふらふら、ゆらゆら。すぐにでも落ちそうになるのを堪え、清澄は真姫に体を起こして欲しいと訴えた。
背を支え、優しい誘導に従って上半身を起こす。
「障子、開けていい?」
「はい」
障子を開けてもらう。夜。町の街灯よりも明るい月が藍色の空にぽっかりと浮んでいる。
ざわざわと風に揺れる木々は一体、何本あるのだろう。
懐かしい山の匂いがする。
幼い頃に嗅いだ匂いがあの時の記憶を呼び覚ます。
「あのね、きーさん。お願いがあるんだけど……」
「なんですか?」
「あのね。行きたい所があるんだ」
「え?」
「連れてってくれる?」
自分じゃまともに歩くことも立つこともまだ難しいからと、清澄は真姫に頼んでその背に担いでもらった。
どうしても行きたかった。
あの時、幼い自分の人生を終わらせようとした場所へ。
あの時、初めて鬼の娘と出会った場所へ。
「ああ」
星々はまるで宝石箱のような夜空に散らばって、月は真珠のように輝き佇む。
木々は樹海。ざわめき、穿って、引いては押し寄せる波のよう。
静かなのにうるさい夜。
獣の気配を感じながらも、真姫の背にある安心感に少し微睡む。
「着きましたよ」
「うん」
覚えている。真姫も清澄も忘れなかった。
山の斜面を転げ落ちた先に見つけた、死に場所を探して見つけた場所。
木々の隙間から身を乗り出せば、月を仰ぎ見ることの出来る小さな拓けた場所に出る。
小さな少女二人が座っていた切り株は、今座るには何だか小さくて、二人して顔を見合わせて笑い合う。
「やっぱり綺麗だ」
風が吹き、木々が揺れ、雲が流れて、月の光が彼女を照らした。
白い角が柔らかい光に反射してキラキラ光る。
こちらを向いたせいで逆行に暗くなった顔を見れば、淡く発光する青緑色の瞳とかち合う。
「綺麗だね」
それは希望の色をしていた。
死にたかった小さくて孤独な少女は、その色が綺麗で綺麗で、ずっと見ていたいと思った。
「ありがとう。ずっと、言いたかった」
「き」
「ありがとう……っ、きーさん」
今なら素直に泣ける。ぼろぼろと零れた涙は木の根に、土に染みて、なくなる。
弱々しく持ち上げられた清澄の包帯だらけの手が、そっと真姫の頬に触れた。
震える指が真姫の頬を、目を、蟀谷を撫でる。
鼻をすする音が断続的に響く。
「なんできーさんが泣くの?」
「だって、っ」
「私ね、きーさん。きーさんのお父さんが言ったこと、聞いて、わかったんだ。どうして練国の名を捨てられなかったんだろうって」
真姫の父の言う通り、名や血は個々を作る土台である。
最初は土台が無ければ物を形作る事はできなかっただろう。
清澄にとって名や血は己の存在がこの世に存在していることを証明する証だった。
それがなければ自分はこの世にいないも同じだった。
「家族って輪の中にいないと私は何者にもなれなかった。練国と言う血がなければ、清澄という名も価値が無いって、そう思ったんだ」
今もまだそう思う。思うだけで、もう苦しくはないけれど。
「ねえ、私がただの清澄になっても、きーさんは好きになってくれる?」
いつものように困ったように笑わない。悲しそうに笑わない。
真剣に答えを求めて、何でも受け入れると覚悟した笑みに真姫は躊躇うことなく頷いた。
「ただの清澄さんは、わたしの好きな清澄さんです。練国である貴女も、練国じゃない貴女も、今から新しく名を作ったって、貴女はわたしの、いちばん、いーちばん好きな人」
「……」
清澄の手を取り、二つの手で柔く柔く握りしめる。
真姫の言葉に嘘はない。今すぐ清澄が別名になったって構わない。名はあると呼ぶ時に便利だけれど、中身がないならただの文字と音にしかならないのだから。
「……あの時の、約束って有効かな?」
「はい?」
「もう一度、叶うなら」
月が陰る。清澄も真姫も表情が闇に溶けてしまった。
それでも清澄の声は真姫の耳によくよく通り、風も虫の音も空気を読んで止んでいた。
「叶えてくれるなら。きーさん、ねえ、お願い」
幼い幼い孤独な少女は、無邪気で可愛い鬼の少女の恩返しに心から欲しいものをねだった。
でも今度は恩返しじゃなく、憐れみも、同情も、嘘もない。
彼女が心から求めるのは、これから先、練国を捨てた新しい清澄と共に生きてくれる大切な伴侶だ。一緒に清澄を作ってくれる人がいい。
「私のお嫁さんになってください」
目を見開く。大きく大きく見開いた。
月が出て、二人の姿が光の下に浮かび上がる。
真姫は驚きに固まっていた。
清澄は少し困ったように笑っている。
真姫が頷く。最初は小さく、それから大きく。何度も何度も頷いた。
「大好きだよ」
照れ隠しに月がまた陰り、真姫の唇に柔らかく幽かな温もりが触れて離れた。
「――――――!!!?」
バサバサバサ――ッ!
その日の夜。鬼那里の山に声にならない何かの奇声が木霊した。
眠りについた鳥達は何事かと一斉に飛び立ち、危機を感じた獣たちは我先にと山を飛び出す。
その時、確かに清澄の世界が真新しい色に変わって回り始めた。
ゆっくり、ゆっくりと二人を中心に回り始めたのである。




