(4)さよなら
もしも、練国 清澄が男であったならば、最初から最後まで練国家の人間で居られただろうか。
もしも、練国 清澄が美しく、賢い女だったならば、まだ練国家の一員として其処に居られただろうか。
彼女がまだ、練国家にとって価値があったならば、きっと不要などと言われはしなかった。
追い出された理由は、捨てられた理由はただ一つ、彼女に利用価値が無かったからだ。
“普通” “平凡” という言葉は残酷だ。ただの村人ならば、その言葉もあまり意味を成さない。
清澄は練国家の長の一人娘である。女である事は残念ではあるが、女であるが故、何れは同族の純血統同士で婚姻を交わし、直系の子、跡取りを産む価値があった。
だから最初は生まれただけで祝福されていた。
しかし、彼女は“普通” で“平凡” だったのだ。
彼女がどれほどの才を持つ婿をとろうと、彼女の遺伝子を持てばまた“普通” が生まれるかもしれない。
だから言われた。
『お前は不要だ』と。
「……何をしに来た」
低く、少し嗄れた老いと同時に得た威厳に満ちた声は、俯いた清澄の頭を更に下へ下へと押さえつけた。
恐くて、泣きたくて、今すぐにでも逃げてしまいたくて。
けれど足がすくんで動かない。
「答えよ」
「っ、あ」
「失せろ」
名前を、呼んでくれない。
挨拶すらさせてくれない。
お前に興味などないと、話すらさせてくれない。
会話は常に一方的だ。昔からそうだ。彼を前にすると、勝手に体も頭も萎縮する。
『お前は不要だ』
あれから何度この言葉を聞いただろう。
思い出し、夢に見て、空耳すら聞こえてくる。
(私は、此処に要らない)
知っていたはずなのに、どうして此処に来たのだろう。
沈黙が続く。無駄な時間だ。きっと目の前の彼もそう思っているのだろう。
何か言わなければ。でも何を?
何を言ったって、清澄は要らないのに?
『きよすみさん』
彼女の優しい声がした。
甘くて、くすぐったくて、全てを柔く包み込んでくれるような彼女の声が清澄を“清澄” と呼んでくれた。
(きーさん)
真姫の笑顔を思い出す。あの声が、彼女の呼ぶ声が、祖父の声を打ち消した。
(ああ、そうだ。私は練国に帰りたくて来たんじゃない。きーさんに……返しに来たんだ)
ふっ、と。力が抜けた。
泣きたい気持ちが溶けるように消えて、くっ、と唇の両端が持ち上がる。
「む?」
顔を上げた。祖父を見た。
まっすぐ彼を見て、笑った。
「……」
「……」
彼女の笑顔を見たのは何年ぶりか。真っ直ぐに目を合わせたのは果て、いつだったか。
「……そうか」
「?」
「少し、待っていなさい」
何かを察したのだろうか。齢八十を過ぎても一本背に棒を差したように、真っ直ぐな彼の背中が屋敷に戻っていく。
玄関に灯る蝋燭の灯りから外れた暗闇の中、清澄は待った。
虫の声、風の音、それすらも止まっている静寂な、息苦しい夜だった。
(きーさん。今、どうしてるかな?)
そんなに離れて日はたっていないのに、いや、そもそも再会してそれほど時間を共にしたわけでもないのに、何だか無性に会いたくて、あの声が聴きたい。
彼女から聴く清澄の名は、どうしてあれ程嬉しく聴こえるのだろう。
「……きー、さん」
此処はとても寂しくて、辛い。
(帰りたいなぁ)
早くお家に帰って、真姫とご飯が食べたい。目を閉じて、素直にそう思う。
「……待たせたな」
「……」
屋敷から男が出てくると、一瞬にしてピリッと空気がひりついた。
喉がつまり、口が乾く。
飲み込める唾液が一瞬にして無くなった。
「……?」
無言で、何かを差し出された。
(……かたな?)
真っ白な鞘に漆黒の柄、下緒は明るい橙色。およそ二十センチから三十センチ有るか無いか程の、短刀だ。
「これは、お前のものだ」
「え?」
「……確かにお前のものだ。持って行きなさい」
白い鞘に、名がある。
子が生まれた時、その子の成長と繁栄を願って造られ、贈られる祝福の証である“お守り刀” 。そこに名が彫られている。
“練国 清澄”
確かにそれは、練国に生まれた、清澄を祝福する、清澄の為に造られた刀だった。
「お、じ」
「行け。此処はお前には不要だ」
ぐ、と堪えた。慌てて俯き、唇をかんだ。
(だめだ。ダメだダメだ。ダメだ。泣くな。泣くな……っ)
ずっと堪えていた。昔からずっと、練国である為に泣く事を許しはしなかった。
この家を出た後も、この村を出た後も、それだけは守っていた。
泣いたら、練国ではいられないから。
泣けば、また不要だと言われてしまうから。
練国でいたかった。練国 清澄でいたかった。
だから、泣かなかった。ずっと。ずっと昔から。
(おじいちゃん……)
この刀は、清澄が、練国 清澄だった証だ。
この村で、望まれてこの家に生まれ、少しでも愛され育った、その証をギュッと胸に握りしめた。
頭を下げ、彼を見送った。
もう清澄がこの家の門をくぐり、敷居を跨ぐことは無い。
彼を祖父と呼ぶこともなく、また、父も母もそう呼ぶことは無いだろう。
新しい清澄が旧い清澄のようにならない事を願う。
ただただ、そう願った。