⑴鬼哭
きっと彼は純粋に彼女が好きだった。
彼女を初めて見たのは彼女が生まれた時。彼女は特別だった。
鬼故か、それとも遺伝か、ごく少数の確率でしか女が産まれない鬼那里の村に生まれた純粋の鬼の子、権力者である村長の娘、誰もが望んだ鬼の姫が彼女だった。
年の差など微々たるものだ。たかが十離れたくらい何処にでもある恋愛フレーバーだろう?
兎にも角にも、あの日、あの時、彼女が産声を上げた瞬間、村の誰もが村長の邸宅の前にいた。
純白のおくるみに包まれた彼女を彼は見た。
ああ。
ああ。
「『お前(この子)は特別なんだ』」
――目を開く。暗闇。目が見えない? ああ、違う。夜だ。
白い筈の病室の壁を藍色と黒をぼんやりと混ぜたような闇が塗りつぶし、馬鹿みたいに静かな空間にグッと込み上げてきたのは後悔や罪悪感、絶望、悲しいと言う言葉では表しきれないほどの感情。
泣けるのならば泣きたかった。
けれど、泣くことをやめたあの日から身体は涙をこぼす事すら許してくれない。
痛みに悶えるだけ。殴られ、蹴られた物理的な痛みから情けない自分への怒りや大切だった人を失った精神的な痛みまで、全身がそれに悲鳴を上げる。
「……きー……さん……っ」
掠れた小さな声で呼ぶ。
震えて断続的な言葉で呼ぶ。
『はぁい。どうしましたか?』
無条件でくれるあの笑顔が、無い。清澄だけに向けられた、特別な笑顔だったのに。
「清澄の具合は?」
さらりと切りそろえられた黒髪が弧を描いて揺れる。
出血はしていたものの手加減はされていたのか、骨に異常はなく、内出血と腫れだけで済んだのは幸いだった。が、痛いものは痛い。
大きく腫れ上がった顔も、体に出来た赤紫色の内出血の痣も、年頃の少女にとってあってはならぬものだ。
軋むほど奥歯を噛み締め、実朝は怒りに眉間に皺を刻む。
都は静かに目を閉じて、病室の扉を背にもたれていた。
この向こうにいる清澄は一体どれ程の思いを抱えているのか。
(きっとあなたの比ではないわ)
実朝が誰に対して怒り、悲しみ、後悔しているのかは十分過ぎるほど理解している。
それは都も同じだ。
「私達は、私達の出来ることをやりましょう」
「出来ることとは? 真姫を取り返すことか? それとも清澄を諦めさせることか?」
「あの子の良いように」
「……取り返せるか?」
「法律は効かないわね」
「……」
「かと言って、私の天翔院としての効力も効きにくいみたい」
それは鬼と天翔院の双方の血が薄れた故か、それとも都自身によるものか。天翔院の長である彼女の祖父や父ならば、その威厳により鬼を調伏することも可能なのだろうが、この件での助力は求めることすら困難だ。
「練国の、それも清澄“ふぜい”に天翔院本家が出張ることはない」
父は正しい。分家のトラブルに本家は何も関係なく、更には縁を切られた役立たずに労力を割く義理も時間もない。
「やるなら、私達だけで」
「……何でもする。何でもやる。あの子の為なら。たとえ嫌われても」
「止めるつもり?」
「力で解決出来るとでも?」
この話の終わりは、二択だ。
理論で諭すなり、力で訴えるなりして真姫を取り戻すか、真姫を諦めるか、である。
「……すべては、清澄の意のままに」
望めるのならば。
(どうか、わたしを、忘れないで下さい)
あの人が、自分を責めないように。苦しめないように。嫌ってくれてもいい、憎んでくれてもいい。
いつかは消えゆく思い出でも、あなたに伝えた言葉は嘘じゃないから、覚えていて欲しい。
「……」
身につけた真っ白な着物の意味は決して純真でも清廉でも無い。
ましてや洒落たファッションなどでもなく、ただ単純に、死装束と同等の意味合いを兼ねている。
私の心は死んだも同じだ。
お前に添う心は此処には無いのだと主張しているのだ。
「……」
深い山の中、緑と緑の中に溶け込んだ鬼達の村、鬼無里に帰ってきた真姫は今、実家の村長の邸宅に居た。
何も無い、広さだけが無駄にある畳の部屋。その中心で真姫はずっと微動だにせず正座している。
視線は格子窓の向こうから外さず、心は此処にあらず。
夫となる男が目の前に来ようと話そうとはしない。
「観念しろ。お前は俺の妻になる」
「……」
「お前の親も了承済みだ」
「……」
月が煌々と輝く。電気も無い所だから、こんなにも月が目立つ。
あの街は真っ暗闇の中でもピカピカで、煩くて、いつまでも寝静まらなくて、月なんて電飾の一つでしかなかった。
こんなにも月が綺麗だ。
静寂が気持ちいい。
だからこそ、悲しい。
(清澄さん……)
あなたが今、見上げる月はこの月と同じですか?
会いたい。引き結んだ唇が弱音を吐きそうで、ぐっと下唇を噛んだ。
(まさか、父様と母様までこいつと繋がってたなんて)
私の気持ちを知っていたくせに、私の幸せを願っていると言っていたくせに、結局、体裁が大事だった。
「まぁ、聞けよ。俺達は他の血が混じらなかった純粋な鬼の末裔よ。この村の鬼の血も大分薄まっちまって、この先、鬼になれない奴らで埋まっちまったら……この村はもうお終いよ」
「別にいいじゃない。鬼でなくたって。今の世に、鬼はもう必要じゃないの。わたしは……人でいい」
格子窓から外された視線はやっと男に向けられ、強く睨みつけた。
ああ、彼女の否定は余りにも真っ直ぐで、幼稚で、愚かだ。
――ぱぁあん!
「く……!?」
体が横に飛ぶ。床に叩きつけられ、頬が摩擦で熱を持つ。
「貴様……っっ!」
角、牙、光る青緑の瞳。
美しくも恐ろしい鬼の姫。
「ああ、そうだ。お前こそが先祖代々、脈々と受け継いできた血の結晶。我ら鬼の誇りだ」
「ぐ・・・ぅぅ」
女だろうが子供だろうが関係ない。躾にしては怒り任せな平手打ちの後、倒れた真姫の身体に男はのしかかった。
細すぎず太すぎず、少女と女性の間の瑞々しい肉体を遠慮なく弄る。
「触るな……触っていいのは……」
「練国 清澄だけか?」
男は嘲笑う。あんなものが純粋な鬼の女である真姫に釣り合うとでも思っているのか。
戦う術を持たず、また人間としても弱い、ネガティブの塊のくせに、この最高の女を手に出来るとでも思っていたのか。
「真姫よ。よく聞け。そして刻め。身体に、脳に、精神に。
お前の夫の名は……鬼島 青九郎。お前に相応しいのはこの俺だ」
「――ん!?」
分厚く、硬い唇が真姫の柔らかな赤い唇へと覆いかぶさる。
吐き気のする様な感触に目の奥に火花が散った。瞬間、真姫の膝が青九郎の巨体の腹を突き上げていた。
「ぐごぉっ!」
蛙のような嘔吐きと共に青九郎が床にひっくり返る。そこに馬乗りになった真姫の拳が雨のように降りかかる。
「真姫!」
異変に慌てて駆けつけた父親が見たのは、まさに鬼である娘の姿だった。
血に塗れた拳を絶えず突き出し、泣きながら、呪詛を吐き出しながら、青九郎を殴打し続けていた。
「くそっ……くそっ……!」
「ははは、初めてか! 初めてだったか! そうか! そうか!」
「くそぉおおおっ!」
殴られ続けていても青九郎は心底嬉しそうに笑っていた。
愛しい少女のファーストキスを奪えた。あの女ではなく、この俺が。その事実は永遠に真姫の体に、記憶に刻まれた。
そのなんという光栄なことか!
悲鳴ともつかない怒りの声が村に、山に木霊する。
けれどその声が遠く離れた彼女に届くことはなかった。




