⑸愛する人へ
嫌な予感がした。一瞬、吹き抜けた風が真姫の髪を乱して巻き上げた。
赤々とした空が綺麗すぎて不吉で、突如鳴り出した着信音に危険信号がチカチカと点滅する。
『真姫! 清澄は!?』
切羽詰った実朝の声で全てを悟った。内容など聞く必要もなかった。聞く時間さえなかった。
「清澄さん!?」
清澄の後を追いかける。駆け出すスピードは人のそれでは無い。
怖い。何が?
とにかく胸がざわついて、気持ち悪い。
(やめてやめてやめて)
誰にともなく懇願する。
嫌な予感が確信に変らないように、祈る。
「……よお」
けれど、真姫の願いを聞き届けてくれる神など存在しない。
こんなにもささやかな願いなのに、誰も叶えてはくれない。
二メートルはあるだろうか。
男は熊のような図体で道の真ん中に仁王立ち、真姫を待っていた。丸太の如き腕を強固に組んで、不敵な笑みを浮かべる。
年は若い。二十を過ぎたあたりの青年だ。過密度に鍛え上げられた筋肉と角張った顔は厳つく、一般的な人間ならば道端では避けて通るほど威圧感のある姿をしている。
だから何だ。真姫の目は既に男からその後方、ぐったりと木に寄り掛かる少女に釘付けられていた。
「き、よ」
空気を吸うことも忘れた。
目頭が熱くなると同時に清澄の元へと駆け出していく。
「無視かよ」
低く唸り声を上げ、脇を通り抜けていく真姫の腕を男が取った。
風切る音。鋭く、目の前に迫ったのは彼女の膝だ。
「……」
予想していたのだろう。それとも人では無い“それ” の本能だったのかもしれない。
難なく男は真姫の一蹴を受けた。手で、受けて、止める。
「いい蹴りだ」
「お前……ッ!」
そのまま振り抜こうと意地になって力を込める真姫の足は、ただただ反発に震えるだけでピクリとも動かない。
「清澄さんをどうした!」
「ああん? ああ、あの虫けらか。ったく、練国っつーから期待してたのに、お前、とんだクズ掴まされたなぁ」
男が下品に顔を歪めた。
ぷつ。何かが静かに、飛んで弾けた。
「ッうおっ?!」
ドン! まずは膝を押し止めていた手に強い衝撃が来る。
手が弾かれた。正面に大きな隙が生まれる。
ドォ! 振り抜いた片足を素早く地に打ち込み、それを軸に真姫の全身が回転した。
そのスピードを、力を利用した回し蹴りは男の首に易易と踵をめり込ませる。
「く……」
「まだまだぁ……だなぁ」
にたりと更に悦びに歪むその顔の醜さに真姫は本能で身を引いた。
完全に入った筈だ。なのに男はふらつくこともしない。
「は」
息を吸う。そして、ゆっくりと長く吐き出す。
男と距離を取り、間合いを測る。
わかっていた。こいつは自分と“同じ” なのだと。
めぎ……めきめきめき。
真姫の蟀谷より少し上、髪に隠れていた象牙よりも白い角が緩やかにカーブしながら姿を現す。
今にも食らいつきそうな鋭い犬歯を剥き出しにし、青緑色の瞳は煌々と光を宿していた。
「美しい……」
「退け」
恍惚とした表情で鬼化した真姫を男が見つめる。
真姫は今まで見た事も無いような冷たく、蔑んだ目で男を見上げた。
たっ。
「退けぇぇえええっ!」
真姫が地を蹴り、男に向って走り出す。強行突破。目的は遣り合うことではなく、今すぐに清澄の元へと行くことである。
「はははっ!」
男は腕を広げた。まるで愛しい花嫁をその胸に抱くことを夢見て。
だが、美しい鬼は男など初めから眼中に映してはいなかった。
(清澄さん、清澄さん、清澄さん、清澄さん……っ!)
愛する少女の元へ。なりふり構わず腕を伸ばして、彼女は跳躍した。
「……おい?」
彼女は高く飛び上がり、男の頭上を越えていく。
軽やかに、風のように、鳥のように、スカートを翻しながら、真姫は清澄目指して、ひたすらに――
「んで、だよ」
ぷつん。男の額から小さなとんがりが皮膚を破り生えた。
ぶちん。ぶち、ん。ぶちぶちぶち。角は次第に大きく伸びて、赤黒い血に塗れながら天を指すようにその姿を現した。
瞳は赤く。狂気の光を煌々と放っている。
彼の中で其の瞬間は止まっているも同然だった。
浮遊する真姫の足を掴むことは容易く、その鳥を地面へと叩きつけることもまた容易い。
「が……ッ?!」
地に凹みを作るほどに叩きつけられた小鳥は痛みよりもまず、現状を把握する事で精一杯だった。
何が起こった? 地に降りればすぐに今すぐに清澄の元に駆け寄れる筈だったのに、この現状は一体、どうした事だ。
「初めてか? そうだろう。お前より強い鬼なんて、お前の父親くらいなものだったからな」
「ぐ、ぅ?」
「初めて地に落とされたか。俺が初めてか? ふひひ、はははははは!」
男は悦びに打ち震えながら真姫の前でしゃがみこみ、その姿に高笑う。
(痛い? なんで? あれ? きよすみさん?)
「純粋な鬼の血を引く姫君よ。お前には俺の妻となり、鬼の血を絶やさんために子を生んで貰うぞ」
「う……あ……?」
ぬるり。血が出ている。
頭から、腕から。足の痛みは骨から来ているのかもしれない。
(そんなのどうでもいいじゃない)
痛いとか、辛いとか、怖いとか、関係ない。
「ふーっ……ふーっ」
「お? 立つか?」
ふらふらと真姫が立ち上がる。
男は余裕の表情でそれを見ていた。
目を閉じ、開く。その瞳の美しさに再度、男は見蕩れた。
「清澄さん……」
「あ?」
やっと、彼女の目に男の存在が映る。憎い。嫌悪。邪魔。
こいつは、自分と清澄とを隔てる無粋な壁だ。
「は?」
男の余裕は消える。
真姫の姿が消えた。
いや、見えている。が、既に彼女の姿が霞むほど近くに居たのだ。
「ま、て」
彼女の足が上がる。
瞬間、男の顔面に重い、圧力が掛かった。
ズゥンッ! 地響きと共に、大男の後頭部は真っ直ぐに地面へと打ち付けられ、深くめり込んだ。
鼻骨は砕け、顔についた器官の穴という穴からは生々しい血が溢れ出し、眼球は剥き出しになっている。
「はぁ……」
(清澄さん清澄さん清澄さん清澄さん清澄さん)
早く行かなきゃ。早く行かなきゃ。
足を引きずりながら、ふらつきかながら、それでも真姫は揺らぐことなく清澄に向って歩き出した。
「清澄さぁん……」
木に寄りかかった少女に意識はなかった。
「ひどい」
女の子なのに。あの男は清澄の顔に拳を振るっていた。
膨れ上がった頬にそっと手を添える。痛かっただろう。怖かっただろう。
彼女の気持ちを思うだけで真姫の心は千々に引き裂かれそうになった。
自分が受けた傷よりも痛くて、苦しくて、辛い。
「待っていてください。すぐに病院に連れていってあげますからね」
意識を失っていても安心させるように真姫は笑顔を浮かべた。
その耳に届かなくても優しい声で囁いた。
――何故、その笑顔と声が俺に向かない?
低く、地の底から湧き上がってきた恐ろしい声。嫉妬と怒りに塗れた醜い声。その声に真姫の拳が反応する。
背面に向って振り向きざまに裏拳を飛ばした。
ゴツ。手応えあり。けれど、その頬は輪郭を凹ませたまま微動だにしない。
「真姫。忘れたか? 俺の顔を忘れたと言うのか?」
「っ……お前など知らない!」
「お前を嫁にする。そう約束しただろう?」
めり込んだ真姫の拳を掴み、男はその指にキスをした。
ぞわっ! 肌が粟立ち、嫌悪感にもう一方の拳を放つ。
「おっと」
超至近距離の一撃も精彩を欠いたのか、簡単に捕らえられてしまった。
ゴッ……! 額の角に当たらないように鼻を狙って頭突きを当てる。
「ふん?」
やはり怯まない。
もしかしたら、万が一、勝てないかもしれない。
真姫の脳裏に敗北の影がちらつく。
(せめて清澄さんを)
逃がさなきゃ――
「そいつが気になるか?」
男の目が赤くぎらつき、清澄を映した。
「やめて」
真姫の静止よりも早く、男の拳が真姫の頬を打った。
咄嗟に腕で顔を庇ったものの、あまりの手加減の無さに体が横に吹っ飛ぶ。
ズザザ……! 土を削り、摩擦で転がった体が止まった。
「清澄さん……っ! いやっ!」
男が清澄の髪を鷲掴み、まるでゴミ袋のように持ち上げた。
顔を歪め、清澄の目が薄らと開く。
きっと彼は彼女に容赦しないだろう。
人間だろうが、女だろうが、子供だろうが容赦はしないだろう。
彼は “鬼” なのだ。
ゴッ。
「いやあああっ!」
ゴッ。ゴッ。ゴッ。
殴っては持ち上げ、殴っては持ち上げ、殴っては持ち上げ。
真姫の心と共に、清澄を壊していく。
(きー、さん)
痛い。痛い。痛い。
体も痛い。けれど、薄らと視界に映る真姫の泣き顔と、悲痛な叫び声が酷く心に痛くて、辛い。
「ぅ……ぁ……」
「あー……すっきりした」
「き……さま……きさま……」
「怒るか? まぁ、いい。わかるか、真姫。分かるか?」
涙を流し、辛うじてまだ狂う寸前の鬼の姫に、男はボロボロになった清澄の首に手をかけて見せた。
このまま、力をいれて、殺して見せようか? そう言って笑った。
「ぁ……」
この男ならやるだろう。
やって見せるだろう。
「や……めて……」
真姫もボロボロだった。
清澄の為なら死ねる。清澄の為なら何だってする。その思いしか今はなかった。
「そうだ。お前の選択肢など一つしかない。俺のものになれ。そして俺の子を生むんだ」
「きよすみさん」
最後に触れた頬は赤黒く腫れていて、涙で覆われた目に互いの姿は輪郭すら朧気に映っていた。
ごめんなさい、最初にそう言ったのはどちらだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……っ……ずっとそばにいるって、言ったのに……っ」
優しく清澄の髪を撫で、その体を抱え、抱きしめる。
声は遠くに消えていく。
温もりも何処かへ消えていく。
そして彼女も――




