⑷襲来
(しまった)
初手は一撃で沈めるべきだった。
「ぐぅぅ……ぅぅ……」
掛かった液体の熱さに身悶えつつも怒りを顕に、男は実朝に向けて戦闘態勢をとった。
その足下には脳を揺らされ行動不能中の仲間が、でかい図体を大の字にして倒れている。
「こぉぉお……!」
ぼこ……ぼこぼこぼこ。
男の額がまるで沸騰をしたかのように大きく隆起しては収縮してを繰り返す。
ぶつん。額の中央の皮膚が破け、そこから黄褐色の角が生え伸びた。
「鬼……」
「ゆる、ゆる、ゆるざん!」
男はもう正気ではなかった。怒りで理性を失い、獣の咆哮を上げて足を踏み込む。
ドンッ! 地を蹴った瞬間、男の姿は実朝の視界を覆うほど近くにあった。
速いなんてものじゃない。人の運動神経を超えていた。
「おやめなさい!」
りぃぃん。
鈴の音のような高く冷たく、美しい声がした。
男は腕を振り、実朝の横っ面を潰さんばかりに殴りかかる。
つもりだった。
都の声は、天翔院の声である。
鬼共は天翔院の支配下にあり、何百年の時を経てもその呪縛は解けはしなかった。
男の動きが一瞬、たった数秒、動きを止めた。
天翔院など恐るるに足らず。呪縛は他者と交配を繰り返し、鬼の血が薄まる程に効力を失っている。
「ふ」
だが、実朝にはその一瞬だけで十分だった。
男の視界から実朝が消えた。
振った腕は虚空を抉り、その反動で巨体が前のめりにバランスを崩す。
「お?」
後ろに回り、先ずは膝裏に足を入れた。
地面に膝を、手をついて、男は呆気なく無防備な体勢になる。
「さて」
背後で実朝が勝利を宣言する。
男の目前に影がさし、顔を上げると、そこには威圧感を放つ少女が男を冷たく見下ろしていた。
「お話を伺いましょうか。鬼那里の鬼。あなたのご用事は一体なぁに?」
「はぁぁ……堪能したぁぁ」
幻想的な海の世界を疑似体験し、真姫は幸せな溜息を大きく吐いた。
隣で清澄も満足な様子で、うんと背伸びをしている。
「また、また来ましょうね! 清澄さん!」
「そうだね。でも他にも行くところはいっぱいあるからなぁ」
「他にも……あ! 動物園でしょー。遊園地でしょー」
「うんうん」
「映画館にー、プールにー、本物の海にもいきたいなぁー」
「……水着はちょっと……」
行きたい場所を指折り数えて、キラキラと期待に満ちた瞳にノーとは言いにくい。
あとひと月の夏休みの間に、どれだけ彼女と一緒に出かけられるのか。
(まぁ、来年も、再来年もあるか)
真姫と居れば退屈はしないだろうな。
人混みは嫌いだけれど、こうして遊びに出かけるのも悪くは無い。そう思えるようになっただけでも、随分と清澄は変わったものだ。
「あ、あの……清澄さん?」
「うん?」
水族館を満喫し、外に出る頃には夕日が赤々と空を染めていた。
先程までの青い水槽とはまた違う美しい景色に、清澄はぼんやりと天を仰ぐ。
「あの、わたし……」
もじもじ。真姫が内股で恥じらっている。トイレだろうか。
「トイレなら……えーっと、あっちだって」
「ち、ちがいますぅ!」
「ん?」
「て……手、あの、手を……繋ぎたいなって」
「……」
手。手を見る。
「……ごめん」
「え?」
「なんか汚れてる……って言うか、ちょっと臭うような。あ、ふれあいコーナーでヒトデ触った時かな?」
くん、と嗅いでみると磯臭い臭いがする。一応、触った後に洗ったけれど、まだちょっと気になる、気がする。
「洗ってくるから待ってて!」
「あ! きよすみさーん!」
手を繋ぐ。と言うことは、勿論、真姫にとって“恋人” とする行為なのだと思う。
繋ぐことに、多分、抵抗はない。それは清澄が真姫に対して友情以外の感情が無い……と言う事に他ならない。
(期待させちゃうのは悪い気がする……嫌じゃないけど、嬉しいとは違うから……)
水族館から離れたところに立っているレストルームは、周りに木々が囲んであるせいか人目につきにくい。
夕方だけあって人気もなく、館内とは違う静けさが少し不気味だ。
(繋ぐべきか、断るべきか……でもなぁ、泣かれたらやだなぁ……)
ジャアアアアア――
(はぁ……)
くん。洗い終わった手に鼻を近づけると、香料のきつい石鹸の匂いが鼻をついた。
別の意味で臭いが、これくらいなら磯臭いよりはマシだろう。
「さて、と」
そう言えば実朝達はどうしただろう。別行動とは言え、帰る連絡位は入れた方が良いような気がする。
「ん」
携帯電話を取り出しながらレストルームを出る。
「おお」
気付けば実朝、都と順番に何度も着信履歴が残っていた。
館内で迷惑がかかってはいけないと音量をサイレントにはしなかったものの、極々小音量にしていたのが仇になっていたらしい。
「何かあったかな?」
着信履歴から実朝の番号を選んで、折り返し連絡を掛ける。
ワンコール。ツーコール。
「……」
三回、四回、五回。
六回。
『清澄!』
「あ、実朝?」
『今すぐ――!』
「え?」
ぽん。
肩を叩かれた。
振り返る。
携帯電話から実朝の声が何かを叫んでいる。
「――練国 清澄だな?」
それは、小さな清澄からしてみれば、大きな大きな体をした、熊のような男で。
ご。
瞬時に行われた暴力は、清澄の意識を奪うにはあまりにもあまり過ぎる痛みと恐怖を与えた。
『きよすみさん』
体が吹っ飛んで、気にぶつかる。
空耳かは分からないけれど、真姫の声がしたような気がした。
(なんか、痛い)
思考は麻痺をしていた。ぼんやりと開いた目に映るのは赤い夕日と、男が一人、清澄を見下ろしていた。
殺される。殺気を孕んだ目は青く光って、怒った時の真姫の目に似ていた。
「これが? これが、練国 清澄なのか?」
男が苦々しげに言葉を吐き出す。その声の節々に憎悪と嘲笑が混じっている。
(きーさん……)
私は死ぬんだ。こんなことならすぐにでも手をつないで上あげれば良かった。
動物園、遊園地、行けないなぁ――
(ごめん)
ぷつん。そんな音と共に清澄の意識は飛んで消えた。
風が木々を揺らし、清澄の髪を撫でる。
『――! ――!』
携帯電話からは実朝の声だけが虚しく流れ、男は笑ってそれを踏み潰すのだった。




