⑶デートに行こう!(後編)
恋とは一体何かしら?
疑問は昔から、真姫が清澄を恋しく思うと口にする度、誰かしらから訊ねられる。
それは本当に恋なのか?
ただの親愛だろう。友愛だろう。もしくは一種の家族愛ではないか。
人は言う。擬似だ。児戯だ。
それは恋慕ではないと頭ごなしに否定する。
では、恋とは何か。愛とは何か。
実朝は言う。
「恋は下心と言うだろう? 多分、劣情を催すのが恋。愛は真心と言うから、劣情から慕情に変われば愛じゃないか?」
都ならばこう言う。
「恋は片想い。一方通行。たとえ両想いであっても、情の大きさを比べ、競い、足りないと不満に感じるのが恋。そして愛はそれが均一になって互いに思い合っていることを知り、満足するものじゃないかしら?」
清澄は首を振る。知らない。分からない。そう悲しげに口にする。
そして真姫は――
「は……」
べたりと巨大な水槽の壁に張り付いて、その声は大きな感動に比例せず音にならず、惚けた表情だけがガラスの向こうの青い水に映り込んだ。
ここは水族館。山育ちの真姫にとって、こんなに大量の水とカラフルな魚達を見るのは生まれて初めてのことである。
「すごい……すごいすごい! 清澄さぁん! すごいですよぉ!」
「うん。私も初めて見た時は息が出来ないくらい驚いたし、やっぱり何回見ても凄いと思う」
水槽の向こうを覗き込む角度を変える度、真姫の柔らかなシフォン生地のスカートがふわふわと揺れる。
可愛い洋服。(同性だが)年頃の二人。片方からは常にラブビームが放たれて、恥ずかしいと困ったように笑う方にも悪いようには思っていない気配がある。
まさしくデート。誰がなんと言おうと、真姫と清澄のデートである。
「こんなに多種多様な魚が沢山いるのに、どうして鮫は食べないのかしらね?」
「飼育員の与える餌で腹がいっぱいだからだよ」
「まあ。なら餌を与えなければ直ぐに食べられてしまうのね」
「誰もが満腹なら、戦争は起きないってことかな」
「……お二人共……」
身も蓋もない、夢も希望もない雑学知識をありがとう。
コブ付きのデートという条件で赤点が許されたからには、彼女達の同行に文句は言わない。だが、そこは空気を読めと思わずにはいられない。
「もーっ、邪魔しないでくださいよぉっ」
「ははは。都の可愛い質問に答えただけだよ」
「さすが実朝よね」
にっこり。悪意ある美しい笑顔が二つも並ぶ。
わざといい雰囲気を霧散させる意地悪小姑のような二人の所業に、真姫はプンプンと怒って見せるが、効果の程は推して知るべし。
「ふふふ、ごめんなさいね。つい貴女が羨ましくて意地悪をしてしまったわ」
「清澄を独り占めされるのが面白くなくてつい、ね」
「むむ。実朝さんはわかりますが、都さまもですか?」
「ええ。私もキヨが大好きなのよ」
「姫……」
純粋で力のある誰も否定出来ない微笑みは、さしもの清澄でも、そんなわけが無いと疑問にすることが出来なかった。
その告白は嬉しくもあり、誇らしくもある。だが畏れ多くもあった。
「で、でもでもっ! 今日はわたしと清澄さんの初デートなんです! いいいいくら、都さまでもっ、邪魔しちゃダメですよっ!」
言った! 言っちゃった!
大昔から鬼の一族が逆らうことが出来なかった存在に、ついに真姫は逆らった。
興奮した面持ちで、鼻息も荒く、都を真っ直ぐと見据えている彼女に都は気を損ねることもなく頭をやんわりと下げてみせる。
「そうね。ごめんなさい。少し茶化しすぎたわね。お詫びに今日は実朝の監視に徹するわね」
「は? ちょ、みやこ?」
するりと実朝の腕に腕を絡めた。有無を言わさぬこの笑顔は実朝にも有効であるらしい。
「今日は私達もデートにしましょう? こう言うレジャー施設でのデートなんて久しぶりでしょう?」
「……」
「嫌なの?」
「はぁ……嫌なわけないでしょ。もう」
下から覗き込む都の可愛さったら。実朝でなくとも無条件で頷きたくなるものだ。
「なら行きましょう。私、イルカのショーが観たいのよ。ほらほら」
「わーかったから! 引っ張りなさんな」
「ふふふ。じゃあね、真姫さん。しっかりとおやりなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
何をしっかりとやるのだろう。
未練たっぷりに振り返る実朝に手を振りつつ、清澄は都の残した言葉に首を傾げた。
デートとは言うが、自分の中ではしっくりとこない。真姫には悪いが、色恋の気持ちはまだ清澄にはなくて、あんなに色々と気にかけて貰っているのに彼女の望む気持ちになれないことを本当に申し訳なく思う。
「ふわぁぁ……」
隣でうっとりと、優雅に泳ぐジンベイザメを見上げ、真姫はその幻想的な世界をじっと眺めていた。
山にはない、静かな空気。
生い茂る緑に覆われ、降り注ぐ太陽の光を受けた活力に溢れる山が父なら、なるほど、蒼く穏やかで魚達を包み込む海は確かに“母なる海” なのだろう。
「すごいですねぇー……綺麗ですねぇー……」
言葉では言い表せない感動が二人を包む。暗い館内に水影が揺らぐ。
「……」
「……」
しばらくの間、彼女達に言葉はなかった。無くとも空気は冷えず、じんわりとした暖かさが胸に広がる。
「はーい! みなさん、ごちゅうもくー!」
ぞろぞろと観光客だろうか、人の群れが二人の後ろを通ってペンギンが観れるブースへとやって来た。
少し甲高いガイドの声が辺り一体に響き渡る。
「皆さんは動物の間でも同性同士で結ばれるという話を知っていますか? メス同士で愛し合うアホウドリや、ずーっと離れようとしないオス同士のイルカさん。カモメやヒツジ、ボノボと言うお猿さんも。なんと実に1500種類もの動物に同性愛行動が確認されています」
『えーっ!』
『やだぁ! きゃはは!』
「動物園でも、二匹のオスペンギンがつがいになった。なんてニュースもありましたね。彼らは普通のオスメスのカップルから卵を盗もうとすらしたそうです。卵を与えると、ちゃんと孵化させたそうですよ? 凄いですねー。愛ですねー。私も無駄な婚活はやめて、もっと可能性を広げてみようかなぁー」
どっとガイドの説明に笑いが起こる。茶化した野次、楽しげな笑い声、一部苦笑はあるものの感心した声もある。
「……」
二人の少女は、ペンギンに満足したであろう団体客が引いたブースに足を運んだ。
ガラスの向こうでは二匹のペンギンが仲睦まじくじゃれ合っている。
ガイドの言っていたように、二匹のオスペンギンはこのまま二人きりでいたのなら、恋をして、愛し合い、いずれはつがいになるのだろうか。
ああ、それはとても素敵な可能性ではあるけれど。はたして恋と呼べるかどうか。
「きーさん?」
ガラスに手を張り付け、真姫はペンギン達を食い入るように見つめていた。その釘付けされた横顔はとても悲しげで、切なげだ。
(わたしは……それでも羨ましいんだ。たとえ、その感情がメスが居ないから仕方なく、だったとしても……)
嘘でも何でも、少しでも、気まぐれでもいいから。
(あなたに、好きになって欲しい)
真姫は思う。
恋も愛も自分の勝手な思いでしかない。
言葉にならない大きな感情を持て余し、堪えるのが恋だろう。
そして堪えきれず押し付けるのが愛なのだ。
(父様は知らない。母様も、村のみんなも、都さまも、実朝さんも、清澄さんだって知らない)
「きーさん。次に行こう?」
笑う。純粋な、可愛い笑顔で笑ったつもり。
「はい」
(わたしは獣のように。あなたの身も心も貪り尽くしたいんだよ)
角が疼いた。牙が熱い。紅潮した頬を清澄が勘違いしてくれることを祈る。この劣情を、知らないままでいて欲しいと思う。
嫌われたくないから。
でも、この気持ちがただの恋だと思わないで欲しいのです。
「……練国……清澄だな?」
イルカショーは大歓声を受けて終わった。さあ、次はどこへ行こう。
女同士の違和感などとうに超越して、仲睦まじく腕を組む二人の美少女は周囲からの感嘆の溜息と視線を受けていた。
なんとも煩わしい。他人からの不躾な好奇心を体に纏わせることに実朝は辟易する。
清澄は今頃、真姫と仲良くやっているだろうか。
彼女の傷ついた心を癒してくれるのは有難いが、それが自分じゃないことが面白くない。八つ当たりだ。そう、大人げない。
「はぁ」
「おい、聞いているのか!?」
人の少ない休憩ブースに避難しようと移動してきたのはいいが、如何せん、変な輩に絡まれた。
都は今、お化粧室だ。
よかった。自分が面倒事に巻き込まれるのは宜しくないが、都を危険な目に遭わさなくて済んだのは実朝の一族的にもほっと胸を撫で下ろす所だ。
(それに)
自販機で買ったコーヒーのカップを指で撫で、元から表情が少ない実朝の顔に薄らと笑みが乗った。
「練国 清澄だとしたら。何?」
「ふん。少し痛い目に合ってもらうのよ」
屈強な男が二人、実朝の座る席を取り囲む。周りの客が不穏な空気に逃げていくのを見送りながら、警察くらいは呼んでくれるだろうか? とカチャカチャと脳が演算を開始する。
「いいだろう」
実朝が立ち上がる。酷く緩やかで、穏やかな速度で椅子を引き、立ち、手にしたカップを男の一人にぶちまけた。
「あっちぃいいいーっ!」
淹れたてのホットの珈琲はさぞかし顔面の皮膚には熱いだろうな。
無事な方の男が慌てて腕を振り上げ、振り下ろす。
だがその初速は実朝が男の懐に潜り込むよりも遅く、掌底を顎に入れられる前には力を失っていた。
地面にあっけなく沈んだ男を見下ろし、実朝は答える。
「――私が練国 清澄だよ」




