⑸最初の第一歩
朝が来た。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の中を薄らと照らし出す。
「ぅ……ん……」
真姫が目を覚ますと、目の前にあるはずの清澄の頭がなかった。
清澄は夜寝るのは遅いのに、朝は早く起きるタイプの人間だ。
しかし睡眠時間が少ない性質なのではなく、不眠症に近い症状である。
「ん?」
枕元の時計の針を確認して、現在は朝の六時二十分ちょっと過ぎ。この時間ならば清澄は既に起床しているはずだ。
けれども、何だか今日はいつもとは違う雰囲気だ。
もぞ。胸元で何かがモゾモゾと蠢いている。
二つの大きな球体の谷間にすっぽりと収まった何かは、まるで眠りから覚醒することを拒むように真姫の胸に額を擦り付けてはイヤイヤと左右に頭を振っていた。
「きよすみさん」
真姫はその頭を愛しげに抱き込み、甘くその名を囁く。
頭はプルプルと小刻みに震えた。くすぐったくて少々笑い声を漏らしてしまう。
幼い子供のようにしがみつく体が愛しくて愛しくて……抱きしめる手についつい力がこもった。
「んむー……っ!」
「あっ」
ギブアップ! 清澄の手が真姫の胸をぺちりと叩いた。
「ぷはっ」
文字通り胸に埋もれた顔を持ち上げ、苦しげに息を吐く。
朝から死ぬかと思った。男ならここで死にたもうても、まさに昇天、であろうが、清澄は女である。そこまでの悦びはまだない。
(まぁ……気持ちいいけど)
ふにふにとボリューム感満載の二つの球体は、ほどよい弾力と何物とも比較できない柔らかさと滑らかさを持っている。
テンピュール枕? そんな物は比較対象にもならない。
「……おはよう」
「おはようございます!」
照れくさい朝だった。自分の中身をさらけ出し、ましてやいつの間にか自分から真姫に抱きついて寝ていたのだ。
恥ずかしい、が、どこかスッキリとしている。
「ご飯、食べようか?」
相変わらずの遠慮がちな笑顔を浮かべ、すぐに真姫に背を向ける。たった一晩で、人は変わらない。
「ふふっ」
それでも、真姫は満足だった。
知ったのだ。
真姫は知ったのである。
「実朝さん! わたし!」
学校に着いて、真姫がまず先にした事は実朝に教えること。
興奮した面持ちで、輝くような笑顔で、自信に溢れた声で、堂々と言葉を口にする。
「わたし、やっぱり清澄さんが好きです!」
「ちょ、きーさん?!」
清澄もいる教室のど真ん中で愛を叫ぶ。
まだ他に人がいない事だけが救いだった。
「ほう?」
長く均整のとれた美脚を組み替え、それまで目を落としていた文庫本から視線を持ち上げる。
興味深げに真姫の姿を真正面に捉え、くい、と眼鏡を持ち上げた。
「どこが好きかなんて、最初から問題じゃなかったんですよ! わたしは全部! 清澄さんの全部が好きです!」
「き、きーさん?」
「ふぅん? それで納得がいくとでも?」
「実朝さんに納得してもらわなくても結構です。清澄さんにも納得されなくても構いません。だって、この想いは言葉になんて表せられないんですから!」
「は……」
きらきらと、真姫の言葉は何とも、純粋で強引で、綺麗な言葉だった。
実朝は息も思考も止まってしまった。
都はその隣で楽しそうに笑っている。
清澄はと言えば、真姫の隣で泣きそうなくらい真っ赤になって、動揺していた。
(あらあら。いつもと反応が違うじゃない?)
平安貴族のようにお気に入りの扇子を開き、顔半分を隠しながら都はこっそりと清澄の様子を見ていた。
照れているのだろう。真姫の言葉に素直に反応している。受け入れて、理解している。
それだけで、二人の関係が昨日とは違うものになっているのだと感じた。
(そう。真姫さんの想いが、本物だって気づいたのね)
まだ清澄の感情は定まっていないものの、これは一歩前進と言ったものだろうか。
コンプレックスも、自分に対する卑屈も、他人に対しての心の壁も今すぐ無くなるものではない。
それはマイナス的な感情だけれど、彼女を構成する大切な一部なのだ。
真姫はそれも愛しく思った。
そんな清澄も愛しているのだと知った。
「ふふ、実朝の負けねぇ」
「都……私は勝負はしていないよ。でも、まぁ、認めるよ。真姫の気持ちはね」
「や……ったぁ」
「あ、でも。清澄は私のだから」
にっこり。その笑顔は意地悪も冗談も含まれていなかった。
純粋な自信溢れる実朝の笑顔は、悔しいくらい美しい。
「みみみみみ都さまぁああ! 浮気! 浮気してますよぉっ!」
「あらあら。妬けるわねぇ」
「それだけですかぁ?!」
「そう言われても……私達の関係もかなり特殊なのよ? いつかは私も一族の子を産むために別の男性と結婚しますし、実朝とは期限付きのお付き合いになりますわね」
「え?」
「この人、一人にしてしまうと本に囲まれた部屋から一生出てこなくなりますもの。キヨがいないと孤独死してしまうのが目に見えますわ」
「あの……ちょ……重い。なんか重いですぅぅ」
「そうだね。清澄がいないと……私は死んだも同然だな」
じっ、と実朝の眼差しが清澄をねっとりと包み込む。
普段はクールな王子様が急にしおらしい姫君のように変わってしまった。
真姫は驚きに身を震わす。自分には出来ない繊細な、それでいて庇護欲をそそる甘えた表情に戦慄した。
「清澄は……私を見捨てたりはしないよね?」
「何でそんなこと……そんなことするわけないでしょう」
「あああ!」
なんか狡い! 誰のか知らない机に拳を叩きつけ、割れた。
「こら、きーさん!」
「うわああん! だめぇぇ! 清澄さんはわたしの旦那様なんですぅぅう!」
からかわれたのか。それとも本気か。実朝と清澄の親しさを見せつけられて、真姫の嫉妬心は全開だ。
騒ぎを聞きつけた生徒達が足早に教室へとやってくる。
にょきにょき伸びた角を清澄が隠そうと必死になる側で、実朝と真姫は仲良くケンカ中だ。
「姫~。助けてよ~」
「あらあら。仕方ないわねぇ」
なんて心地いい喧騒なのだろう。今までにない騒がしさに都は何とも言えない充足感を感じた。
いわゆるこれが普通の、ありきたりで何事でもない生活なのだ。
(ずっと、こうしていたいわ)
その願いは叶わないことを知っているけれど、それでも願わずにはいられない。
それほどまでに幸せな、大して何事でもない日常の一コマだった。




