『美容師ウサヒコと濁髪の魔法使い』を読んで
ある一冊の本が家に届いた。丁寧な梱包が印象的であり、最初にポストで見たときは、はて何かなと不思議に思ったのは、今でも鮮明に覚えている。
その届いたのは、網田めいさんの『美容師ウサヒコと濁髪の魔法使い』であった。
この本は以前、小説家になろうのサイト内で横書きで読み、ある程度内容はわかっていた。そう言いつつも、せっかく届いたのだからと縦書きを読んでみた。
驚いたことに印象がまるで違う。これは縦書きで読むのに味わい深いとすら感じた。
私は横書きで読むことに抵抗を感じている。どうも、英文を読むときは自然に横書きで読めるのだが、日本語だと縦書きという固定観念から脱することができなかった。
縦書きで読んでみると、地の文が実に明快である。
おそらく、その良さは横書きにおいても同じことが言えるだろう。これが小説家になろうの怖さであり、横書きに慣れてしまったという人も数多くいるだろう。
私はただ縦書きにこだわっているせいか、横書きに抵抗を感じているだけだ。
これは、ライトノベルしいては誰でも読めるということに意識が言った結果であろうと推測できる。それに加え、イラストもところどころに挟まり、小説は文字だけではない、絵の世界も見せてくれる。
文章が明快であるということは、言ってみると簡単だが難しいことなのかもしれない。上から下に読むだけで頭に入ってくる世界、これは作者の腕次第であろう。さらに縦書きにしたことで、味わい深さは増す。詩を読むかのごとく、綺麗な音色が目から入ってくるかのようにすら錯覚をさせる。
本を読むうえで、視覚、目から文字を見るしいては読むことは当然のことだ。目で文を追っていく。この追う動作がなめらかなほど心地よく、またリズムを出す。
この文章において、目で追うことはリズムよくできるのだ。流れるように文が進む。会話が進む。そこに難解な言葉などはない。言ってしまえば読みやすい。
この読みやすさに、イラストという第二の視覚情報が加わる。これにより、さらに鮮明な世界を作り出すことを可能とした。
今までの作家という生き物は、どれだけ文章で情景を作り出せるかを勝負していた。とくに明治、大正、昭和とかけて、自然主義からロマン主義、新感覚派など表現方法で競ってきたが、絵というものの前には文字はちっぽけなものだ。
絵には、一目みただけで何かを表す。そこには文字を読むときに必要な作業は一切不要だ。この絵、イラストもまた本を読むうえで助けとなっている。
これは美容師の話だとタイトルを読んだだけでもわかるだろうが、一から十まで美容師にこだわっている。髪が主題となっている。これにふさわしい世界観というのが出来上がっている。そこに合う人物がいる。
これは偶然なのだろうか、ウサヒコという現代の美容師が、突然異世界に行く場面においても髪にこだわっている。シディアとの出会い、ここにおいてすら髪を直すことがはじめているのだ。こうして物語は始まる。最初から髪の登場である。
その後も、髪を絡めながら、笑いを誘う。
ウサヒコが21世紀の東京から、異世界に来てしまう。さらには、そこには魔法が存在する。この魔法の説明も、作者らしく実に明快だ。魔法は髪によって決まる。
ファンタジーでよくある世界観に、髪を追加することで、美容師が際立って見えるところが重要な点である。
作者の配慮が行き届いている証拠でもあるのだろう。これは決して難解な物語ではない。
私は推測でしか物語について述べることができないが、これは一読するのに充分に楽しめる作品だと思う。
これは昔の文学作品に比べてわかりやすく門が大きく開かれている。
この作品は、多く語ることはない。読めば教えてくれる。難しいことなどない明快な世界に引き込まれる要素を含んでいるのだ。
以上、この作品について書いていたのだが、どうにも書き進めることが難しくなってきた。私は内容についても特に触れておらず、とにかく髪だ。美容師だのの話を少しばかりしたのだが、これより先に深く進む必要はない。
素直に読めば素直に語りかけてくれる。
この作品を語る際に難しいことなど何もいらない。簡単に述べることしか要求していないのだ。
作者が書いた作品は、作者にしかわからない。どう読んだところで、自分は自分の読み方しかできない。各自が勝手に味わっているだけなのである。それでも、この作品の容易さというのが切っても離れないものとして読者に語りかけ、印象が残るだろう。
知らぬ間に、カナブンが肩の上で止まっているように。