第四十六話 残虐性・繰り返す懺悔
前回、物語では味方の側に残虐な人間を配置してはならない、非道な事をした人間は幸せなラストを迎えてはならない、という話をした。
だが、例えば「ダイの大冒険」のヒュンケルは? 「ドラゴンボール」のベジータは?
と思った人も多いだろう。
人間、興味としては複数の要素が重なるほどに、その対象に深く入れ込むものだ。
可愛いと思ったり、カッコイイと思ったり、色んな感情が積み重なることで、お気に入りのキャラとなる。だから、キャラ作りでは「多面性」、色んな要素を入れなさいと言うわけだ。
ツンケンしたキャラが、他人の居ない所では甘えてきたり、また甘えようとしてるのにヘタクソで伝わらなくてキーキーしたり、ということだ。
で、特に深い興味を与える要素は「嫌悪感」だったりする。
これはなまじな「好感」を押しのけて心を捉えてくる。だから、総じて「嫌な要素のあるキャラは人気が高い」のである。
多く小説指南では、良いトコばかりのキャラ作りではなく何か弱点を作れと言うが、これは「嫌だと思われる要素」のことである。
ヒュンケルやベジータは、普通のキャラ作成の逆バージョンなのだ。嫌な要素だらけの中に、後付けで良い要素を付けたキャラである。
悪人を描くジャンルがある。これもかなり人気は高い。
だが、人々が彼等、悪のヒーローに何を求めているかと言えば、「断頭台」なのである。
最期には破滅することを念頭に置いた、期待値の高さが彼らの人気の源泉である。
彼等は自己投影で、読者の歪んだ欲求や暗い情念を映す鏡でもある。だからこそ、彼等には破滅を望んでしまうものだ。彼らが暴力を振るえば、暗い欲求が満たされる。しかし半面で、罪に対する善良さが罰を求めて苦しみはじめる。
だから、彼等は最期には、読者を代表して断頭台の露と消えてもらわねばならない。
残虐性のバロメーターというものが存在する。
レッドゾーンを突き抜けたキャラは、何が何でも断頭台送りになってもらわねば納得がいかない、というレベルだ。
だから、ヒュンケルもベジータも作中で殺されているのだ。
ヒュンケルは味方を救う為、ベジータは無念を呑んで、と形式は違えど、これは「禊」である。
「ドラえもん」のジャイアンも、普段のいじめっ子キャラで積もり積もった嫌悪感のポイントを、映画版やらスペシャル番組などで、味方のピンチを救うなどの助っ人ポイントでチャラにしている。
もともとが、単なるガキ大将レベル、作中でもおかーちゃんにゲンコツ貰ったりでポイントをうまいこと発散しているキャラだ。
だから、あの作中でもっとも印象の強いキャラになってもいる。
嫌悪感で注意を惹き、懺悔でますます引き込み、訪れる悲劇の結末、断罪によって幕を下ろす物語。
「Fate/Zero」なんかは、複数のキャラがこの状態に陥り、次々断罪されてく連鎖が、圧倒的な迫力となって胸に迫る。
嫌悪感というものは「行為そのもの」だけでなく、それを行った時の「キャラの心理」が読者感情を左右する。女を殴るという行為を例にすると、「女を」という点でまず一つ引っ掛かる。さらに「殴る」が一つ。その「程度」も関係する。「平手」なのか「グー」なのか。「一発きり」か「ボコボコ」か。「平然としてる」のか「瀕死ではいつくばっている」のか。「倒すことが目的」か「殺すことが目的」か。
ギャグならば、一発でお星さまになったりする。あれは、暴力描写の軽減策という作用もあるのだ。
相手の立場も関係する。裁判のようにかなり細かい計算が起きる。
正義の信念のもとに殴るのと、自己防衛のために殴るのと、殴りたいから殴るのとでは、ポイントが異なるということだ。
正義の為といいつつ、それが独善であればやはり情状酌量の余地はない。
残虐キャラが主人公側で許される為には「禊」が必要であり、そこには深い懺悔が必要だ。
なに? ベジータは反省してないって? 時代の流れだね、アウトローにも理解が生まれたんだよ。
悟空側になった後のベジータも、それ以前のベジータも、「殺しに陶酔していない」んだ、これ重要。
残虐性ってのは、その行為を行う動機、実行中の心理状態が関わるわけ。
苦しめる為に、という心理があるなら特上の残虐性だ。改心しないなら死刑でいいんじゃね?
人が嫌悪を感じる行為ってのは、ほとんどが諸刃というか、危険のシグナルだからね。
結果オーライになるってのがそもご都合なんだよ。




