第四十五話 レーティング・残虐性
よく、青少年向けとか一般向けとか18禁とかのレーティングについての事が書かれてあるが、ちょっと間違った部分も見受けられる。
表現もさることながら、”意図”が問題となる。
復讐モノとかで、やられた分だけやり返す、という価値観を児童レーベルではやっちゃいけない。
残虐行為を正義側がやる、というタブーを犯すことになるからだ。
これは、一般向けですら受け入れられない。残虐な性根の人間は、最後には破滅するのが世間一般の「お約束」であり、残虐行為を行った人間が「幸せなラスト」を迎えることは、物語のタブーである。
誰も納得しない。
間違えないで欲しいのは、児童レーベルでは正義側に残虐性を持つ人間を登場させてはならないし、一般においてもそういう人物は幸せに暮らすラストを与えてはならない、という事だ。
現実では残虐な者がのうのうと幸せに暮らすなんてどこにでも転がっているが、それこそ、「物語が求めないリアリティ」である。
残虐行為を行った人間が破滅する、これが復讐モノの定理である。読者の求めである。
この定理はまた、宗教から道徳の授業でまで幅広く人類に提示されてきた普遍の価値観である。
残虐性ゆえにその人物は裁かれねばならない、という方程式があるということだ。
これを覆そうと思うなら、それ相応のテーマ性を持ってこなくてはならないという事だ。
喧嘩を売る、という事だからだ。
多くの作家が「人間の残虐性」をテーマに掲げて問題作を作り上げている。
大抵は「破滅」とのセットで語られる。
人が信じる最低限の良心だとか、まぁ、色々とあるんだが、ヤンデレ好きは特に「破滅する運命」ごと、相手を好きになってやってくれ、としか言いようがない。(苦笑
滅びの美学、とでもいうのかな。
幸せな結末が蛇足になってしまう、最たるジャンルだ。
復讐モノで、復讐者が最後に幸せになれるのは、彼らが実際の復讐において残虐な行為を行っていない場合だけだ。これが覆され、残虐性に対する代償が支払われないままに終わった物語は駄作となる。
小説は人間心理を無視したら成り立たないメディアだ。
だが、その「人間心理」はなにも登場人物に限ったことじゃない、読者の心理をも納得させる必要がある。だから、「アリエナイ」設定は酷評されるし、意図として納得のいかない決着方法も酷評される。
残忍な人間にはソレに相応しい、残虐で美しき最期を与えてやってほしいものだ。(笑
お手本というか、そういうジャンルの名作と言われるのが、『ゴッドファーザー』だろう。
残虐な暴力が全編で流れる。
最期から逆回しで、という描かれ方だがラストシーンは本当に名シーン。
あそこまで虚しい最期は、そして、皮肉が効いてて美しい最期はないだろうなぁ。(笑
ふつくしい?




