第三十九話 複雑な読者心理Ⅰ
『今の世の中、人々が自信を失っている。』
これは、TV業界以外でも、色々なところで言われている言葉だが、ここまであちこちで聞くならラノベ読者にもなろう読者にも当てはまると考えていいと思う。(なろうの場合はさらに「読者=作者」でもある)
活動報告でも紹介したが独自に纏めてみたので改めてこちらでも紹介。
『Iwatamの個人サーバ』‐ネット世代の心の闇‐
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/index.html
詳しいところについては、上記サイトのコラムを参照してもらうとして。
小説を書こうと思っている者にとって、関係がある事だけを重点でここでは取り上げる。
著者(以下”氏”)は、まず「ネット世代」という特殊な区分けを用いてある種の人々だけを抜き取って解説している。それは、昭和の頃には「テレビ世代」と呼ばれていた人々と同種であるとも書いている。
我々、書く側の人間に関係あるのは、これらの記述から導き出される一事である。
想定上の「読者」には少なくとも二種類以上のグループ分けが出来る、という点だ。
(間違わないように。読者の全体は社会全体に及ぶ。なろう限定の話はしていない。)
ネット世代と対比して、普通の人々というグループが出てくる。こちらはネット世代とは明らかに異なるグループと読み取っていい。こちらについては、詳しく書かれてはいない。
小説家を目指す人の中でも、ラノベ書きを目指そうという人に関連するのが「ネット世代」であろう。
一般文芸を目指す場合は、このグループの読者は無視して通って構わない。
ラノベ読みのうちのかなりの数は、ネット世代と分類される人々である。一見はそう見える。
彼らはラノベ以外の一般文芸作品は読まない。面白くないと決めつけてかかって、目を止めることもない。一般文芸の形態のままで、彼らに読んでもらおうという努力をする事は無駄である。
彼らに読んでもらう努力とは、一般文芸の作品をラノベ作品に変える努力である。
ところで、一般文芸とラノベの明確な違いというものはない。
だが、読者の区分に従った枠組みというものは作れる。
ネット世代が求める種類のラノベは、一般文芸のほぼ対極の位置である。
具体的にいうと、ここ「なろう」のランキングに上がってくるような作品ということだ。
つまり、「なろう主流読者」は「ネット世代」と価値観が同じと言い換えられる。
もちろん、なろう読者のすべてがネット世代と呼ばれる人々ではない。対極の人も含まれるので、なろう主流、である。
私は、なろうに限らず、氏の言う「ネット世代」はノイジーマイノリティと思っている。彼らの影に隠れた本当の主流という人々と、彼等ネット世代とは似て異なると考えている。
現代の人々は、自信を失っているというよりも、小賢しくなった、というべきだと思う。
中二病と言われる『学校にテロリストが入り込んで云々』という妄想も、実際は本気でそんな事態が起きるとは考えられなくなっている。非常に頭が良くなったせいで、現実に在りうるか否かを正確に判断できるようになり、成長過程としての中二病に罹りにくくなってしまった、という処だろうと思う。
漠然としたイメージではなく、明確なシステムを理解出来るようになってしまい、妄想要素(例えばテロリストが誰にも気づかれず学園に入り込む事は可能か、またはそれを可能としたテロリストにドシロウトの自身が敵う余地があるか、など)を自ら否定せざるをえなくなった、という意味で中二病に浸れなくなったということ。モノの道理が解かっていれば、無暗な反抗は出来ない。
氏のサイトコラム、キーワードの項目に並ぶ「中二病」の記述では、中二病とは「周囲の考えに振り回されるのをやめて、自分の考えを持つこと」に至る前段階と書かれてある。
前段階どころか、中二病にすら至れない人々が居て、彼等を「ネット世代」と氏は呼んでいるのである。
なろう主流を分析すると、そういう区分けの人々ばかりとも言い難い。
頑なにテンプレを面白いと信じ、自己暗示をかけている人々というものは、これは右に倣えの「ネット世代」とはまた違うと思われる。行動の結果そのもの、選択の条件付けそのものは両者は同じなので、同じ括りではあるが、動機はかなり異なるように感じる。
彼らは、購読の基準を株式投資の要領で行っている節がある。
海の者とも山の者ともつかぬ作品を先行投資のように買い込み、それが大化けする事に期待している。その動機はむしろゲーム感覚である。評価は作品ではなく、その作品を選んだ自身へ向かう。
だから、そういう基準で小説を読まない者には奇異に映る。(これはⅡで詳しく取り上げる)
「人々が自信を失っている」とは具体的にはどういう状態なのか。
私としては、「皆、大人しくしているが、それに納得しているわけではない。手足を伸ばすことをためらっている。」という状態と思う。根本原因はまさしく「自信がない」からであるが。
全体的に賢くなったせいであろう。
だから、ルール違反者に対して容赦がなくなっている。手足を伸ばす判断基準を間違えた彼らに対しては、みな我慢しているのに迂闊な事をしたせいでますますそのルールにおいての規制が厳しくなり、結果として自身がさらに窮屈になるという理屈が解かっているという事だろう。
バカをバカと見抜けるようになったのだ。だから、罪を憎んで人を憎まずなどと言えば火に油を注いでしまう。悪いのは罪ではなく、無智だからだ。
巡り巡ってゆけば、赤の他人すら被害者となる。その理屈が解かっている。
だから、被害者の苛烈さで加害者を弾劾する。
そういう類の「自信の無さ」から生まれる複雑な心境は、読者心理にも影響する。
彼らは頭の良さゆえに自信を喪失している。ゆえに、論理を並べて自信を持てと言っても、よほどに優れた論理でもなければ、彼らの心には響かないのだ。
ドキュメント、「現実」という問答無用の説得力であれば、彼等も細かな事など言わずに納得する。
逆に、それ故に、ありとあらゆるフィクションが、「しょせんは虚構」と一刀両断にされた。
虚構でもって説教をされても、なんら改心しようという気にならない。それどころか、虚構の中でなにを偉そうに、と反感を覚えるのが彼等の反応だ。
同様に、虚構の中で頑張れと言われても、胸に響いてこない。それは「リアル」で苦しむ人が居て、その姿を見て頑張れという人が居て、その光景を見ることでようやく実感となることなのだ。
虚構を虚構と見抜くようになった。誤魔化されなくなった。
だから、商業小説は「お仕事小説」でないと売れない。実際にその仕事に関わった経験がある著者の作品ならば彼らは買うのだ。ハウツー本やエッセイもよく売れる。「リアル」だからだ。
現実を描写するモノへの目が、異様なほど厳しくなった。
「ネット世代」は自分の判断がない人々である。それとは別に、諦めている人々がいる。彼らにとっては、説教臭い従来の一般向け芸術よりは、中身のないラノベの方が心が休まるのだろう。
動機は違うが、結論は同じになる二種のグループである。混ざったものが、「なろう主流」である。
この二つのグループの読者が好む作品は、「リアルを感じさせないネバーランドの物語」である。
私は、日本全土を見渡してもネット世代に相当する人々など少数だろうと考えている。ただ、諦めている人々が、表面上ではここに加算されてしまう為に社会の主流を形成しているように見えると考える。
ネット世代本人たちは自身がレアケースという事には気付いておらず、主流派と思っているだろう。
ネット世代というのは、いわゆる奇形であるから、そんなに数がいるわけはない。社会が回らなくなる。彼らは特異であるから目立つというだけだ。本当の主流は沈黙したマジョリティである。
だから、タイプとして分類のしやすいこの人々は、最初から読者に入れなくてもいいのだ。
読者層として取りこぼしても問題ない数しかいないと思っている。むしろ難題といえるのは、「諦めている人々」の方と思う。
彼らは諦めているだけである。だからネット世代のように「判断出来ないわけではない」。
ネット世代に絞って刊行されたラノベは、だから盛大に爆死する。




