人物造形捕捉 脇役の役割
どこかのページで「説明で話を進めてしまうと、読者の印象に残らない」という話をしたと思う。
だから、まだるっこしくても、人物同士の会話や誰かの行動で示さねばならない、と書いた。
例えば探偵モノを例に取るなら、一人称にして、探偵役が思考ですべての経緯を推理していくという方式はポピュラーだが、探偵役自身が関わるドラマティックな展開は造りにくい。
探偵はあくまでオブザーバー、解決するだけの人になりやすい。
この形式で探偵をスポットライトの中央においてしまうと、なんともあっさりとした物語になってしまう。アニメの名探偵コナンは映画でこそ深みある作りになっているが、毎週のお話はあっさりだ。
あれは戦略としてそういう方式を採用している節があるので、テレビ局の戦略としては成功している。毎週放送の名探偵コナンと映画版名探偵コナンは、厳密にはジャンルが違うのだ。
ゲームでいうなら、前者はパズル要素がウリになっている。この方式は他に、レイトン教授シリーズが挙げられる。
ハードボイルド形式の探偵は、自身の足で歩きまわり、あまり思考による推理というものを読者には見せずに、誰かに会うことによって物語を進めていく。刑事モノなどもこれが多い。
会話によって、駆け引きが生まれ、物語に深みを与えたり、探偵役自身の葛藤や背景などを織り込むことが出来る。
ハードボイルドは主人公のタフさや動じなさを表現するために、あえてこの形式で葛藤が生まれたり悲惨な背景を彷彿とさせる場面に主人公を放り込むのである。葛藤の場面でビクともしない様を描くことで、タフさを表現する。現在ではスタンダードな要素として、他のジャンル主人公の多くも当たり前に持っているタフさである。
古典のハードボイルドと現状のネオハードボイルドは少し主人公に求められる要素が違っている。ネオハードボイルドは特に非情さを強調し、バイオレンスに特化したような部分も見える。
古典は主人公の思考をあえて緻密に描写しないことで軟弱さを排し、新しいネオハードでは容赦のない暴力を振るう主人公という姿で、軟弱に流れそうになるイメージを押しとどめている。
例をあげるならデビルメイクライやメタルギアのシリーズ、ブラックラグーンなどになる。
なお、ピカレスクという悪漢小説の主人公は古典と新しいネオのハードボイルド手法の両方を使う。
思考の緻密描写や善性をあえて書かず、苛烈なバイオレンスを行わせることで、主人公の非情さを極端なほどに際立たせるやり方と言える。
さて、会話や行動で表現するためには、主人公だけではなく多数の脇役を配しておかねばならない。
漫才ではないから、会話の相手は一人では済まないし、複雑な話や壮大な話となれば大人数を使わねばならない。主人公とヒロインの二人だけでは役者が足りない。
脇役の人々が重厚に描かれることで、物語の厚みが出る手法ともいえる。
ラノベはこの点で逆になってしまうと考えがちだが、実はそうでなく、序盤では「脇役が出てこないだけ」という状況を作り上げることが肝心となる。
冷たい世間の描写も、あえて主人公に脇役たちと触れ合せないようにするためのギミックと捉えるべきだ。いかに主人公の周囲に誤解を巡らせ、冷たい世間と認識させるか、それをどのように解いていくかという戦略思考が必要となる。
ラノベで売れている作品(私は読んでいないんだが)、青の退魔師やらにしても、恐らくはそういう手法を使っているんじゃないかと思う。序盤は主人公が世間と隔絶される状況であり、読者はじっくりと主人公と向き合えるようになっている。次にはヒロインが登場し、これも社会との関わりがあまり描写されないままで二人の関係性が語られ、徐々に周囲の人間像へと広がっていく、という方式ではないかな。
いざ、社会を揺るがすような大事件が語られる段となった頃には、主人公なりヒロインなりに感情移入が完了している、というところか。
一般文芸ではこの辺りを、実に「一気に」流してしまう。
読者は急ピッチに、与えられる情報の処理を完了していく。
「登場人物の把握」と「事件の概要認識」と「人間関係の整理」を、同時にこなす。
推理物になると、ここへさらに「トリックのヒント情報」や「時間軸での整理」まで入ってくる。
ラノベは、これを分解して、順番にゆっくりとやらねばならない、という事だ。
主人公に感情移入しやすいかどうか、というような事がよく言われるが、実際のところは、あまり関係がない。自分とはまるで性質が違う主人公でも割と平気で受け入れる。
読者の方は「疲れている」だけで、昔のタイプの読者と基本は変わっていない。感情移入しにくいから読まれないと考えると、答えの無いループに陥るので注意してほしい。
主人公に自身を投影して読むスタイルも、傍観者として読むスタイルも、ラノベ読者にはある。
そうではなく、
一般小説のように情報が一気に氾濫してしまうと読み解こうとはせずに放り出す、ということなのだ。
(一般に慣れた作者からみれば、「この程度でもダメなの!?」と驚くほど、彼等は情報処理を嫌う)
情報処理が嫌いな彼らに向けて作られた作品は、商業の大量生産特化のものほど、情報処理を削るために内容を限定的にせざるを得なくなっている。女の子が沢山出て、事件性はなにもない、という事になる。読者を選ばないようにと創るとそうなる。
この、沢山出て来る女の子、というものも「脇役」に数えられる要素である。
主人公は、思考の中だけで自己完結しないように注意しなければならない。「歩いて」脇役に会って、物語を進めなければいけない、ということだ。
群像劇などの落とし穴であるが、脇役をお飾りにしてしまうと途端にリアリティが失われ、物語全体がうそ臭く薄っぺらいものになってしまう。
良作ハードボイルド映画の画面がどこか雑然と薄汚いのに対し、お洒落なシティ派映画の画面は洗練されて綺麗だが、どこか現実感がなく浮世離れなのはそのせいだ。シティ派の画面はハリボテを映している。
「組織」を描くとそれが如実に表れる。三人以上の人間像を描くとそれは「組織」となり、人間関係図が必要となる。人間を点として、すべての点には線が引かれている。
これが主人公を中心に放射線のみであったら、なんともうそ臭い有り得ない関係図だ。(苦笑
横線があってしかるべき、斜めに線が通っていてしかるべき、その主人公との関係以外の線をきちんと描写しなければならない。
これが一人称となると、恐ろしいことに、「主人公との会話で、会話している相手の人間が、その場に居ない別の登場人物と関連がある事を、主人公の視点を通じて、仄めかす」ように描写する、という高等技術が必要となる。
だから、主人公とヒロインくらいの描写で済む恋愛モノは一人称でも割と簡単に描くことが出来るが、群像劇はほぼ不可能と言えるほど難しい、というのだ。
ちょっと社会にまつわる事件やテーマを扱っただけでも、物語は群像劇の様相を帯びる。
だから、そういう話は最初から三人称で書くべきだ、と言われるのだ。
物語が薄っぺらくなるのは、大抵の場合は脇役の描写が原因だ。
例えば悪の組織の下っ端であっても、ロボットじゃないんだから個人個人の事情で駆け引きや判断をする。いちいちボスにお伺いを立てて自分の思考がまるでない人間などは、実際にも居るかもしれないが、そんなのが全員ってのはどう考えたっておかしいわけだ。
おかしい、という違和感がリアリティの無さとなり、そのまま物語を表面だけの薄っぺらいもの、というイメージに塗りつぶしてしまう。
これが、端役の端役である下っ端程度ならまだ許せる。
主人公周りを固める「仲間」というサブキャラ辺りがそれだと、もう読む気が失せるものだ。主人公との関係性しかなく、他者との繋がりはまるでない、周囲がそういう偏った描写だと世界観も薄っぺらく感じる。ひたすら主人公を中心に放射線を描く、主人公以外がハリボテの世界と予測が立つ。
仲間ですらお飾りだというなら、物語などたかが知れている、と思われてしまっても仕方ない。
そして、そんなお粗末な人間関係では壮大なストーリーを考えても奥行きを与えられず、薄っぺらいハリボテ感が強まったり、矛盾だらけのお手上げ状態になるだけだ。
そういう判断で作品を斬り捨てる読者が、「一般的な小説を読む層」である。
ラノベを読む層との違いを考えて、序盤を構築しないといけない。
主人公を中心にした放射線のみの人間関係図となる作品は駄作である。
ラノベは主人公を通らぬ線が、少なめに存在するというジャンルである。
一般は主人公を通らぬ線が、縦横無尽に引かれているジャンルである。
どこまで主人公抜きの人間関係を描写するか、その線の数を吟味することが大事だ。




