第二十九話 会話文にも説明セリフというのがある。
セリフなどの技巧については、わたしより詳しい方のエッセイがちょうどいい具合にこのなろうに発表されておったんで、そちらを紹介して私の方はちょっと楽させてもらう事にするよ。(笑
『セリフの書き方―キャラクター造形の為のメモ― 』モト氏
完全シロウトの独学と違い、ちゃんとしかるべき場所で(この方の場合、劇団関連)勉強してきた人の知識はやっぱりしっかりしている、という事で信頼を置いているエッセイだ。
ところでここのところずっと引き合いに出してる「キツネとヤギとイヌ」の加藤氏の言なんだけど、「キツネは安易に他人を利用する」というのがね、私もこうして参考になりそうなエッセイはばんばん紹介しちまってるわけだが、いいんだろうか?とちょっと悩んでいる。
貴女にちょっとでも恩を返そうと思う善意があるのなら、面倒臭がらずにちゃんと自身の「お気に入り欄」に入れて利用するようにしておくれ。紹介者として面目が立たんから。(苦笑
ブラウザ登録なんてのは、本当、紹介した者としては失礼極まりないんだから、そんなんだったら読むなよと思うんだよ。(キツネの思考はほんっと相手に失礼だ)
では、会話文の注意をひとつ。
ちょうど良く、連載作品で例題になりそうな状態がまた起きたんで、使ってしまう。(笑
地の文と台詞、両者を照らし合わせ、読者が自身の頭の中で推測しながら物語を読み進める、という方式を取っていたんだが、ついうっかりと以前の書き方で場面を回してしまったんだ。
(言ってる意味がまず解からないとかいう人は、このエッセイを一から読み直せ。あなたの頭には何も入っていないという事だ。)
セリフには表面通りの言葉だけでなく隠された意味がある。そして、地の文に書かれたキャラの行動にも、そのキャラの性質や目的などが隠されている。
アイテム一つにも匂わすように配置されたものがある。
例えば、主人公の一人アレンが食事をするシーン。
この男は食べた後の皿がきれいに片付いたことに満足する、という描写がある。・・・綺麗好きなんだね。(笑
アウトローのたまり場で、ハンカチなんて洒落たモンを使うなんてのは公爵と同一人物と匂わすギミックで、露骨に書いてあるから気付かない人はまぁ少ないと思うが、綺麗好きはどうだろうかね。
それも、整理整頓系の綺麗好きなんだけどね。(笑
とまぁ、そういう風に、推理しながら読む用に書いていってる作品で、ポカをやらかしてしまった。
突然、書き方(いわゆる作風)が変わってしまったんだが、気付く人はどんだけ居るだろうかと。
七話までは上記の、「じっくり推理しながら読む文体」を心掛けていた。
八話で、いつもの「説明セリフで会話だけ読めば流れが解かる文体」になってしまった。
この説明セリフって、ズボラな読者には便利でウケもいいんだが、本来の読書に慣れた層には鼻で笑われる書き方なんだよな。(苦笑
『普段の会話でこんなに丁寧な説明を交えながら話をするかよ。』てなもんだ。
会話にリアリティが無い。リアルな掛け合いをしてないその人物は、生きていない。
説明用のキャラや場面になってしまう。
電話の応答ですら、本来は声の調子とか抑揚で感情表現を混ぜて、言葉の捕捉をする。捕捉がある事はもはや前提で、言葉の方はその分を省いてしまうのが通常だ。(←ここが肝心!)
お互いが見えているなら、声と表情とゼスチュアが加わり、これを言葉と比較して、本心を測る。
「いやいや、そんな気遣いは無用だよ、」と言いつつ、嬉しそうな顔をしていれば、謙遜しながらも喜んでいるという事だ。「ありがとう、嬉しいよ、」という言葉は隠れている。
もう一歩突っ込むと、「ありがとう、嬉しいよ、」と素直に口にしない人物だという事で、そこに何かもう一つの性質が隠れている。「照れ臭がり」とか「部下に舐められまいと簡単に謝辞を述べない、」だとかだ。
セリフが「説明台詞」になっているということは、それを吐く人物たちも薄っぺらくなる。
人物だけでなく、物語の厚みもなくなる。
「鍵括弧」が付いているだけの、あらすじ小説だからだ。
説明というものはシンプルイズベストである、いかに要点をきれいに纏められるかがカギであるよ。
それは、小説とは真逆なんであるよ。(笑
私は確信を持ってんだが、理路整然と要点絞って書ける人ほど、味わい深い作品は書けないね。(笑
将棋界に大山名人という方がいて、その関係の方に聞いた話だが。
将棋ってのは、一手指す間に、二十手先まで計算していて、膨大な選択肢を思い浮かべている、という話を聞いた。将棋という特殊な世界のみかと当時は思っていたが、実際はそうやって緻密な計算を必要とするモノだらけだと最近は思うようになった。
小説も、感性だけ、思い付きだけでは限界があると知った。計算能力を磨かねばと思った。
《無駄コラム》
参考にさせてもらってるPHP文庫『「あなたを傷つける人」の心理』加藤諦三氏著、であるが、そこのラスト近い章に興味深い記述があったんで紹介。
なろうを彷彿としてしまったんでね。(引用を使えないのがキツイが)
キツネが多数になった集団というのは、カリスマが出てくるらしい。
キングオブキツネであるよ。(笑
キツネが尊敬するのはキツネなんだそうだ。一般の感覚では「とんでもない人」と定義されるような、人を食い物にして生きる悪辣な人や口先だけで誠意のないような人が「偉大な人」と評されるらしい。
実際の努力はせず綺麗事を言って誤魔化す口の巧い人を、普通は「口の巧い奴だ」と見抜けるものだが、キツネはそもそも同類なので、見抜けないという事らしい。
そういうとんでもない人が尊敬される集団は、「価値剥奪」というのが関係するらしい。自己に価値を見いだせないまま成長したような者が、自身から価値を剥奪した張本人に近い性質の者に惹かれ、それを崇拝して奪われた自身の価値を取り戻そうとする、というような事らしい。(なんか難しいね)
そんで、物事の道理が考えられない特殊な思考形態をしているらしい。つまり、自分に都合の悪い事が出て来そうな事柄は考えることが出来ない、という。




