第二十八話 地の文を使った人物の書き方
今回のテーマは、取扱いの前に、まず人間の関係図から語っておく必要がある。
世の中には三種類の人が居る。タイプで言うと「キツネ」と「ヤギ」と「イヌ」である。
ヤギはイヌとキツネの区別が付かない。
イヌはヤギからミルクをもらえば、ヤギの役に立ってあげようと思い、行動する。そしてキツネに吠え掛かり、追い払おうとしてくれる。
ヤギにも吼えるが、それは誘導のためで、キツネに対しては追い払うためだ。
ヤギは、イヌの吼え声の違いが解からない。責められているように感じてしまう。
そしてキツネはイヌのふりをして、本物のイヌの悪口を言ってヤギから遠ざける。優しいふりでヤギに近付き、ミルクをもらう。しかし、イヌのように役立ってあげようとは考えない。言葉しかあげるつもりがない。その言葉は役に立たない美辞麗句で、聞いていると気持ちいいが、役には立たない。
キツネは自分の手柄を分かち合うつもりがないから、役立つことはしない。マヌケなヤギからミルクを騙し取る為に気持ちのいい言葉をささやく。そういう技術が優れている。
詳しくは、PHP文庫『あなたを傷付ける人の心理』加藤諦三氏著 に詳しく記されている。
さて、本題。
上記の本で、アガサクリスティが例題として挙がっていて、はっとさせられたので。今回は人物の造形の話をしていこうと思う。
アガサクリスティやイソップが今も変わらず読み続けられている理由に掛かるのかも知れない。
それに関しての理屈、あるいは理由は、お気に入り欄に追加した『素人の批評に足らないもの』 百(難しい童話)氏の書評を読んで貰いたい。
ラノベはどうか知らないが、一般向けでヒットした作品というものは、何らか問題提起を含んだものばかりだ、という言葉を胸に留めておいて、先を読んでもらいたい。
上記、加藤氏の説話によると「ポアロは合理的な方法で、登場人物を見抜く」という事が書かれているらしいのだ。言葉と行動を照らし合わせる、観察眼によって人物を判じると言う。
”丁寧で誠実そうな言葉を吐きつつ、行動は「意味ありげだ。」”とアガサは書くと言うのだ。
読者はそこで気付く。なにかあるぞ、と。(笑
そして次にアガサは、ポアロがその人物にチップをはずんだことで、その相手が非常に親切になった、と匂わすことを書く。
この手法はラノベは知らないが、一般ジャンルだと実に多く見かける。言葉の上では誠実さを装い、その実、誰かの為に犠牲になろう、悪者になろうということのないズルい人間を描く時に使われる手法だ。
リアルでもこういう利己主義的な人間は多い。だから「なるほど」と思わせられる。
そういう人間の見分けが出来なくて損ばかりする人は、殊更に見分ける事が出来る主人公に感心する。
ところで加藤氏の言では、「キツネはキツネの匂いがしていて、キツネの表情をしているから、本来なら誰にでも見抜ける。」と書かれている。その感覚はしかし本能的なものだから、キツネは言葉で誤魔化してしまう、とも。本能というものは、マニュアルがない。勉強しようにも参考書がない。だから、人は不安を抱えながら、自己判断だけでやらねばならないわけで、その為にアガサやイソップのような寓話的テーマの盛り込まれた作品は時代を超えても評価され続けるわけだ。
作家というものは、人物を書く商売だ。
キツネをキツネとして書かねば、読者は違和感を感じてしまうだろう。それでは多くの読者に読んでもらえない。加藤氏のいうヤギの人は、おそらく作家には向かない人だろう。キツネを善良なイヌと勘違いして書いてしまっても、それに賛同してくれるのは同じくキツネに騙されるヤギだけだからだ。多くの読者は違和感を覚え、キツネをイヌだという作者に不信を覚える。
小説なら「ヘンなの。」と閉じられてしまうだけだからいいが、リアルでこんな間違いをしていれば信用を失う。キツネに騙され、一緒になって誰かを攻撃するが、周囲にはまるで貴方が先頭に立っているように見えている。キツネはそういう性質のワルなのだ。
キツネは自分をイヌだと思わせるために、ヤギが間違っても指摘しない。そして、ヤギの作品からアイデアだけを頂戴する。ヤギを利用することしか考えていない、ヤギが一歩でも前進するのは嫌なのだ。追いつかれるのがコワイ、利用出来なくなるのがコワイ、だからヤギの為になる事は何一つしない。
イヌがまっとうな事を言い、ヤギがショックを受けると「イヌは酷いやつだ、あんなの気にしなくていいよ、」と囁くのである。ヤギはそれで、キツネを優しいイイ人だと思ってしまう。
キツネはヤギなどどうなっても構わない。だから、真に親切なイヌを遠ざけて、ヤギを利用するだけして、利用価値が無くなったり、弱ったりしたら捨てるのだ。ヤギは破滅する。
ヤギが利用されたことを知って激怒しても無駄なことが多い。キツネは口が巧いのだ。
「ひどい、わたしを疑うの? そりゃ参考にしたけど、それは貴方の作品が好きだからで、人気が出たのはただの偶然でしょ?」と泣きだす。
そうすると、無関係の第三者の中からも意見が出て来る。
「アイデアに著作権なんてないんだし、偶然かぶっただけかも知れないじゃない、それなのに疑うの?」と言い出す奴が出てくるが、まず間違いなくキツネである。
よく考えてみるといい。
その作者や作品が好きだと思う気持ちと、パクる行為のどこに関連がある?
他人の作品を参考に書く。その心理の奥底には「いいネタや展開があったらパクってやろう」というズルい考えがあるのだ。肯定の心理が隠れていないなら、いいと思ってもそれをそのまま使ったりはしない。
しかし、キツネは半面で恐れている。ズルいことをして自分だけが楽をしたり得をしたいくせに、それで相手に憎まれるのは嫌なのだ。
他人の作品を参考にして書くことを是としている論者は多い。だが、彼等は、参考にされた方やその行為を知った者の全員が自分と同じ考え方をすると信じ切ってしまっている。
参考にされた方が、あるいはそのファンが、参考にした方の作者を泥棒扱いする事を非難するのはお門違いだ。それを予測し得なかった方がマヌケなのだ。「李下に冠を正さず」だ。
人はみな本能で、自身がキツネやイヌやヤギに当て嵌まってしまう事を知っている。本能だから、漠然としていて確証はない。不安である。狡賢いキツネに騙され利用されて、悔しい思いをしたくないのだ。
こういう人間の微妙な関係性を小説というジャンルは取り上げて、問題提起する。
非常に身近なことなので、興味を持つ読者は時代を渡っても居なくなることなどない。
こういう、一連の流れでわたしが何を言いたいか解かっただろうか?(たぶん解からないだろう)
わたしは、「観察することの重要性」を示したかったんだが、通じただろうか。
小説の地の文で、何を書くべきかという話をした。行動や、情景を書かねばならないというのが、前回だった。匂いや温度は忘れられがちだ。
そして、心理描写だけでなく、行動でその人間を現すという手法を今回は伝えたい。
一般ではよくある手法だ。
「無意識の行動」と「表面的な態度」と「台詞」による演出だ。
読者がその人物をどう評価すべきかというヒントを描き込むわけだ。
行動と台詞との兼ね合いで、いろんな人物像が描き出せるだろう。
ツンデレを書こうという時には「台詞は憎たらしく」「行動はいじらしく」と心掛ければいい。
ペテン師は、「台詞は親切丁寧で」「表面上は優しい行動で」「相手を従わせようという目的がある」ように書けば良い。
わたしも、お恥ずかしながら多分にヤギだったせいで、今さらようやくに理解した事柄である。
今後に活かすよ。(笑
しかし、注意点。
地の文に書かれた行動でその人物を評価されるとなると、問題も起きてくる。
つまり、行動のちぐはぐさを指摘されるようになる。
なろうでウケているような地の文壊滅状態の作品は、ようするに「台詞だけで人物を判断してもらっている」状態だから、気をつけるべきは台詞だけでいいわけだ。
それが、台詞も行動も、行動を描写する時の単語すら、気を遣わねばならなくなる。
ツッコミどころの多い作品が人気なのは、ウェブ特有のヒマつぶし需要のためだ。
今、ソーシャルゲーで大人気のパズルや間違い探しのミニゲーム、あれが作品にオマケでくっ付いているようなものだという事だ。読者は残酷なものだからね。
そういう付録が付いていない作品は、プロ級でもなかなか勝負が難しいが、プロ級と言っても何が違うか解からないものだ。
推理小説は、ウェブ作品のミニゲームに対抗する要素があったりする。
登場人物の、動作からその人物の本性を推理する、という要素だ。
「目は口ほどに」とか「目を見て話せ」の意図するところは、多くの人は言葉だけでその人を判断していないから、所作を合わせて相手の考えを推測しなさい、というところにある。
普通の人はごく当たり前に日常でこれを行っているので、これは「社会人なら当たり前に持っているべき物差し」なのであるよ。
だから、書く側はことさらに気を遣って書かねばならない、ということなのだ。
言葉と行動、その行動を形容する単語は連動している。
その辺りに気を使って書けば、人物に違和感が生じることもなくなるはずだ。
(わたしも今まではまるでそんな事を考えて書いた試しはなかったので、大いに反省する)
プロ作品として世に出回って、多くの読者に読まれている作品は「この物差しで登場人物の人柄を推測しながら読むことが出来る」作品だということだ。
ちょいと改定して続編へ。
逆になろうでウケる作品は、いっそすっぱりと地の文での人物描写を止めちゃってる作品ばかりと思う。
「あたしは死んだ。」みたいな文章をバカにする前に、読みやすさ、違和感の無さで言えば、地の文の人物の行動描写が滅茶苦茶なものよりも、いっそ地の文皆無の作品のほうがまだ読みやすい、ということになるわけだ。
そして、一般でウケている寓話的テーマのある作品は、台詞だけで描きだすことは不可能であるよ。(←ここ大事)




