第三話 テンプレ作品は作るな
ここで書くことは、あくまでプロを目指そうという場合のみに適用されるのでそのつもりで聞いてほしい。
なろうでよく聞くテンプレ作品は、書いてはいけない。
どういう事かというと、「二番煎じはやるだけ無駄」だからだ。
賞を狙うなら、多数のライバルが食いついてきそうな題材などは、こっちで避けていかねばならない。
選考委員が「はいはい二番煎じ、インスパイア、乙。」と言って、ポイと投げ捨てるだけのものなら、書くだけ無駄だ。時間の無駄。
だいたい、わたしもなろうのコラボ企画に参加してるクチだが、出品してる二作はまぁダメだろうなと見ている。商業ラインで見たら、テンプレ範囲に入っていると思われるからだ。
つまり、SAOあるいはBTOOOM!のパクリ作品程度の観方しかしてもらえない。
なんで商業がそういうのを避けるかといえば、パクリに賞を与えると権威が落ちるからだ。商品としては、読者はつくだろうからそういうのもイケると思うだろうが、パクリ二番煎じで売るというなら、なにも新人にそれをやらせんでも、子飼いの作家はゴマンと居るだろうが。
わざわざパクリ作品から新人賞を選ぶなんてのは、リスクしかない。
光るものを見たりしたら、どうするか? その回、その作品はサクッと落として、「次回作を期待しておきます、」とでも言って、パクリはするなとアドバイスをするだろう。つまり、編集者が付いて、こそっとアレコレヒントをくれるようになる。
その方が、出版社も無駄が省けて効率がいいはずだからね。この作者はモノになりそう、と踏んだら、これはやっちゃダメとかのノウハウを教えて作品を作らせると思うよ。
だから、まずはモノになりそう、と思ってもらうのが先決で、二話の「作者の個性」が必須となる。
個性というのは、真似が出来ないという意味だ。だから、テンプレなどいくら巧く書けようが、なんの強みにもならない。
テンプレで見るべきは、読者のニーズがどこを向いているか? それだけでいい。
今は、物理的強さというものを読者が見限っている。
喧嘩や格闘技における、フィクションでの戦闘にはもはやリアリティは不要だ。
ゲームのせいもあるんだろう。主人公は強いことが当たり前、今さら、強くなっていくという描写は求められていない。強さだけに終始する脳筋ストーリーに飽きたってことだろう。
でも、それは物理的な戦闘力に限定のことだ。また、スポーツモノ界隈は別の話。
読者は、主人公の物理的強さに魅力を感じなくなっている、「強さ」はすでにオプションだ。
それ以外で、魅せてくれることを望んでいる。ハードルが上がっているわけだ。
もう一つ。
なろう作品では、時に、読者のこの要求は、歪んだニーズとなる。
扱き下ろせる、あるいは、自分よりヘタな作者を観て悦に浸ろうというニーズでも人気が出る。
表面上は、「応援してます、頑張って!」などと言い、その実は、見下している。(その辺は、わたしのもっとも得意とする普遍的な人間心理というヤツで、大好物ですだよ。)
ゲームタイトルを見よう。
竜が如く、モンハン、デビメイ、どの作品でも主人公は登場時ですでに最強だ。ドラマ、映画でもそう。
強いのは当たり前になっている。
強い上で、別の切り口でストーリーが進むことはもはやお約束として、読者は期待の目を向けている。
今の読者に読んでもらうには、「強さを極めていくという切り口」は捨てなくてはならない。それは最初から付いているオプションで、主題にはならないってことだよ。
だから、俺TUEEEがウケているから俺TUEEEならいいって事ではない。
読者のニーズは俺TUEEEがオプションでくっ付いているという条件付きでの、面白い作品だ。
その面白さは、従来通り、なにがウケるかは未知数だ。
努力描写はウケない。
なぜか? 現実を嫌というほど受け入れているからだと思うよ。
読者というのは、これはイコールで「凡人」と考えてオケだ。
例えば、ゲームでも強さというものはオフゲームでも味わえなくなった。ネットにプレイ動画が配信されているからね。
神プレイヤーなんてのは、全ユーザーの数パーセントに過ぎない。
読者は知ってしまった。
努力では埋められない差がある、ということを。
けれど、それで才能TUEEEをバカ正直にやったってウケるわけない。
読者の大半は「凡人」に過ぎないからで、それを本人が嫌というほど知っているからだ。
だから、天才を主人公にしてもあまり受けない。いっそ、設定的に「ありえねーよ、」と、小馬鹿に出来るような穴だらけの作品の主人公でもなければ、天才はウケない。
そういうTUEEEは、「努力」を嘲笑う天才と、「天才」には成りえない読者という凡人との比較になる。感情移入とか主人公に好感抱く以前に、「カチン」と来る。