第二十五話 三人称の書き方
一人称は、制限がキツく掛かってくる形式だということは、一人称の書き方のページで書いた。
では、三人称はどうなのかという話を。
三人称は、「自在すぎて扱いが極めて難しい」という事に尽きる。
三人称のほうが一人称よりも簡単だと思っている人は、まぁ三人称を書けていないものと推測する。(笑
前に人称の簡単さを図式で示したが、訂正。
『純正一人称長編>三人称長編>>>>>>>side付き・視点変更有一人称長編』
これが正しいと思う。
純正一人称とは「最初から最後まで主人公視点で変更されない一人称作品」だ。
やはり縛りの強さからして、これが最強に難易度が高いものと思う。長編、と付けたのも意味がある。
中編、短編を入れると難易度の順序がぐちゃぐちゃに変わってしまうからね。
短編なら純正一人称がもっとも楽になり、ジャンルによってはもっともっと一人称は簡単になるから。舞台が複数に渡り多数の登場人物が居るという条件に近付くごとに、純正一人称は難易度を増す。
『長編>ショートショート>短編』
この順番で、文章の長さによる難易度が変わるようにも感じるね。
ショートショートは、200文字とか1000文字とかで物語にする形式で、これは難しい。なんせ無駄な文字は一切使えないってくらいに単語や文章の推敲をしまくらんと創れないから。純粋に語彙力と文章力を要求される。
長編は、長いということがとにかくネックになる。簡単に言うと「バラけやすい」という一言に尽きる。
人称の統一にしても、文章のテンポにしても、ストーリーの流れにしても、人物の考え方にしても、長編は長い時間を追うために纏まりのあるカタチにし続ける事自体が難しくなる。
三人称の何が難しいか。
例えば、三人称主人公視点とひと口に言っても、スタンスは何通りにも設定出来てしまう事だ。
主人公視点というのは、単に一人称同様に「主人公から見えるものしか描写しない」というルールに過ぎない。だから、心の中は見えないものだから、他人の心理描写はもちろん出来ない。そこで、視点変更を行って、主人公を入れ替えるわけだ。
そのために、一人称だと「俺」「わたし」が主語になるところ、三人称だと名前を使用する。地の文の主語は存在しないから、見える背景などの描写に人格は存在させなくていい。(一人称で書いた、注目してない景色は詳しく書けない、の縛り。)
逆に言うと一人称は「俺」「わたし」である故に主人公が固定されてしまう。地の文に置いても固定されるので、主人公の興味の対象しか書けないという不便が起こる。
神視点はすべて書けるが、これで都合のいいところは書き出して、他は書き出さない、というのをやると先に述べた「統一感」が失われる。神視点での「すべて」とは文字通りの「すべて」であるよ。
読者は、作者が演出上で隠したがる事柄ほど知りたいのだという点を考えてほしい。
神視点は誰の内面にも入り込めるはずなのに、(読者にとって)どうでもいい心理描写は書いても、知りたい部分の心の動きは書かれていない、という事になるのだ。
神視点は、「誰の内面にも踏み込まない、誰の心理描写もしない」か「全員の内面に踏み込み、全員の心理描写を全ての場面で行う」かの二択である。
だから、本来の神視点とは、前者の「誰の心理描写も行わない方式」いわゆるハードボイルド形式を指していたんだよ。
誰の心理描写も行わないという形式が、三人称の中ではもっとも難易度が高いだろう。そして、全員の心理描写を行う作品というものをもし書いたなら、非常にうっとうしい、究極の駄作に仕上がると思う。(笑
一瞬で出番が終わる雑魚から通行人まで、登場する人物が何か考えたなら余すことなくそれを書かねばならないからだ。
だから、三人称神視点と言いつつ「都合のいい時だけ色んな人物の内面描写を行っている」作品は、ちゃんと三人称を扱えていない、ということになる。(ちなみに神話はこの形式)
神話や民話がそういう形式を取っているんだから、もちろん、タブーというわけではない。
ないんだが、小説という文芸基準での技術評価点はゼロだと思ってくれていい。(笑
三人称における難しさは、そういうわけで視点変更のタイミングにある。
主語が変わる、すなわち、主人公の交代ってことだからだ。コロコロと頻繁に変えたらアカンのよ。(笑
さて、例えばハードボイルド視点で「誰の内面にも踏み込まない」と決めてしまうと、長編になるほどに、後々でこの前提が崩れてしまいやすくなる。
うっかりと、主人公やヒロインの内面や心理描写をやらかしてしまったりするわけだ。
それと同様に、序盤のうちでは主人公視点で、たまに別の人物の視点に切り替わって、というのを9:1くらいでやってたとする。Aの名前と視点で9千書いて、Bの名前と視点の千文字を挟む、というテンポで書いてた場合ってことね。作品が進むうちに、この割合が変わってきても、やはり統一感が失われる。
序盤で主人公視点ばかり3万文字4万文字と続いたのに、終盤ではコロコロと視点が変わっている、という感じね。もちろん、序盤が主人公しか登場してないなら無問題だ。他の主要登場人物が居て、視点変更される間隔が一定でない、という事ね。
これももちろん、三人称を扱い切れていない、となる。
内面に踏み込まない、心理描写を極力行わない、というスタンスで書き始めたらラストまでそのトーンを維持しなさい、ということだ。
序盤は主人公の心の声が煩いくらいだったのに、途中からだんまりだ、なんて事になれば、やっぱり三人称を扱えていないという評価になるから要注意。
三人称でも視点は存在している。
特に地の文での「視点人物への傾倒具合」には気を付けなくてはいけない。
地の文、背景描写の部分の文章の雰囲気と比べて、特に台詞を言わせた後の地の文では内面描写寄りに成り過ぎてはいないかい?
(地の文がちぐはぐになっている、と感じるかどうかは、読者が小説を読みなれているかどうか、その度合いに関わっている。)




