第二話 出版界ドラフト制度
登竜門は現状、二種類あります。
○賞に応募して新人としてデビューする方法。これが、高校野球のドラフト指名制。
○なろうなどで発掘されてデビューする方法。これはフリーエージェント制。
もう上記で解かってくれよ、と言いたいくらいなんだけども。
ドラフト指名で取った作家は、編集部で育てる気満々な作家だよ。けれど、フリーの作家は、次回作は自分で売り込んできてね、という投げっ放し作家なんだ。
出版業界の方で、どうやら使い分けの方向性が顕著になってきていて、ラノベ作家というのは、このフリー扱いの最たる人々だってことだ。
これはにわかに出てきた傾向ではなく、以前から、例えばエッセイストなんかはそういうのがあって、それが作家という人種にまで拡張されてきた、ということ。
一度プロデビューさせてから、淘汰してしまえ、という方式に変わってきたんだね。(以前は、才能を発掘して育てる方式だったけど)
ビジネスは汚いものだから、綺麗事で見ることは、自分が馬鹿を見るということだ。
いくら世の中で、「そんな考え方は哀しいこと」とか「人を信じられなくなったらおしまい」だとか、綺麗ごとを無責任に垂れ流すヤツが多くても、騙されたと泣くのは自分なので、そういう偽善者どもなど「くたばれ、」とでも思って無視したほうがいいです。
出版社がなぜ育てるのを一部に限定したのかと言えば、読者のニーズが多様化してきたからだね。
読者が「使い捨て」を是としたので、業界の方でもそのニーズに合わせて使い捨てられる作品を大量に発売し始めたというだけのこと。
蔵書という言葉が指すように、昔は書籍は価値あるコレクションとして厳選されるものだったわけで、出版のほうでも厳選する読者のニーズに合わせた作品しか発売できなかった。
同人レベルの作品など発売しても売れなかったから。また、発売する出版業界でも、価値あるものを、という気概が育っていたというのもあってね。
現在、同人とプロの壁が薄くなって、読者が同人とプロを区別しなくなったんで、かつては商品にならなかったレベルの作品でも商品価値が出たから、そのニーズに合わせた売り方で売り出したというわけ。
つまり、5年後10年後まで本棚に残ることを想定した作りの書籍と、週刊誌のように読み捨てられる書籍とだわ。
これは、出版業界の責任じゃない、読者がそれを求めたからだよ。自業自得なんだわ。読み捨て目的の書籍が誕生した背景には、それこそ、中古市場の確立だの同人ブームだの二次創作だの経済成長だの、なんのかんのと色んな要素が複雑に寄与してるわけだけどもね。
それを総称して「時代の流れ」なんて言い方をする。
で、ビジネスライクに割り切るなら、出版としては100%競争社会で、片っ端からデビューさせて淘汰して、生き残った作者、売れる次作を作れる作者とだけフリー契約を結ぶのが一番効率いいんよ。
大手は特に、他の同業他社との契約競争だけで面倒はないから。育てるなんてのは、それでいうと、効率が悪い。(笑
それでも片方の登竜門に賞を残して、育てる作者を探しているというのは、やっぱビジネスライクに割り切ることが出来ない出版社としての矜持とかプライドがあるからでさ。
そのメガネに叶うというのは、やっぱそれなり、本当に才能ある人になってくる。出版社でも余裕がなくなってきてるだろうしね。
だから、現状は、かつてプロを目指した人々に比べると、実際にはさらに厳しくなっているよ。
プロにしてから篩にかけよう、なんていうんだからさ。(苦笑
だから、まず最初にする事。
自分は、「ドラフト狙い」なのか「フリー狙い併用」なのか、はっきりしないといけない。
どっちを選ぶかで、次の段階がまるで違ってくる。
ドラフト一本で行くなら、とにかく賞に送ること。自分が目指す作風だけを見据え、それ以外の作品はせいぜい話題作に限って、狙いを絞った読書をする。
ラノベ作家を目指すなら、ドラフトに値するのは時雨沢恵一とか、あの辺になるから、そういうプロの中でも実力の認められてるメジャーを読む。
そして、一般書籍(ミステリ、海外作)を取り込む。
まちがっても、なろう作品など読まないことが肝心だ。いや、なろうに居る意味がない人々でもある。
予選落ち作品の保管場所、くらいの利用法しかないんじゃないか?
ドラフトで求められるのは「才能」だけ。時流を読む、目端が利く、の類は求められていない。それは一般的な普通の人々の位置に近いということで、ドラフトが求めるのは普通からは離れたものだからだ。
普通の感性は、普通の人々によくウケる。けれど、経年劣化に耐え切れない。
ドラフトが求めるのは、普遍に通じる感性であり、流行ではない。
流行で爆発的に売れるものの他に、ドラフトでは定番としてラインナップするべき商品を求めるわけだ。
だから、小説でいうなら王道、普遍を扱える作者ということになる。そこに必要な作者の個性は、「普通じゃない」ことだろう。
普通の人である読者が読んで、なんらか感じさせることが出来る、という事に尽きる。
作者の個性で、読者が本を買うと思しき作者、ということだ。作者本人がブランドになる。
こういう作者はむしろラノベの賞ではなく一般の賞を狙ったほうが良かったりもする。いや、そっちも視野に入れて、練習としてラノベを書けばいい。
流行を巧く取り入れられる作者は、併用狙いでいけばいい。
なろうなど読者の支持が高ければ、その作品一本に価値を認めて出版社は本にしてくれるだろう。
後は、次の作品も同じように読者の支持を得ればいい。そうやって、自分と言う個性を読者に認めさせるといいわけだ。
これは、上記であげたドラフトの逆をいくということだ。
まず作品、流行が先にある。
読者は流行を目当てに本を買ったわけで、その時点では作者の価値は低いと言わざるを得ない。
読者は流行そのものに価値を置いており、作品はその派生だからだ。
だから、何度も自分の名を読者の前に見せる必要がある。そのうち、流行ではなく、読者は作者の名前を覚える。「あ、この作者さん、前も見たな、」てなもんだ。
そこで初めて、その読者に作者本人が認知される。
そこから一気に、固定ファンになる場合もあるが、そこまでが大抵は厳しい。
作者と読者で次の流行がマッチしなければ、それまでになるからだ。
一作で、自分と言う作者を印象付けることは有効だ。
他の流行に乗っかった作品とは明らかに一線を画する作風で、いきなり自分と言う作者を印象付ければいい。流行は単なる道しるべになる。
その作者にしかない味というものに、味をしめれば、読者は他のどんな作品を書こうとも、必ず覗いてくれるようになる。(覗いた上でその作品は合わなかったという場合はもちろんあるので、出来るだけ作風は統一したほうがいい、となるわけよ。)
作者に個性がないなら、その読者にとっては、その作者は単に流行を追うための、代替えの効く作者でしかないということだ。だから、同作者でも、流行に関係ない他作品に用はないから覗いてもくれない。
読者の、そういう観方こそ、出版業界のビジネスライクな物の観方と同種なので、そこで勘違いしたら、プロにしてから放り出す、という悪徳商法に引っ掛かることになる。
ウケたその作品は、書籍化しても売れるだろう。しかし、その次の作品を、前作を買ってくれた読者が「やったぁ! あの作者さんの新作だ!」として買ってくれるかというと・・・。
そういう事なんだよね、ブランド買いか、単品買いかの違いですだよ。
どちらを目指すにしても、作者としての個性を確立することを目的として執筆していかないと、費やした時間のすべてが無駄に過ぎてしまった、ということになる。