第十七話 「ようやく・・・ようやく書き方について!」一人称編
長かったね。
今までは、執筆の注意あーんど愚痴エッセイって感じで、クソの役にも立たんものでしたが。(笑
そろそろ本腰入れていきませう。
まずは、一人称の書き方。
えー、小説を読みなれている人が、普通一般における読者あるいは購買層と呼ばれる人々であります。
もともと小説が好きな人々ね。買ってでも読む!という人々。
これを分類するともちろん、一般書籍中心とかラノベしか買わないとか漫画中心とか雑誌だけとか、色々と購買層にも特色は出てくるけど、おおむね、皆さんに関係するのは、ラノベ層と一般小説層ね。
え、さて。
ゲームやる人なら経験あるんじゃないかな?
Aボタンがアタック、Xボタンがジャンプって具合に、操作方法が決まってんだけど、ソフトによっては微妙に違ってくるわけですわ。アクションゲームだとその違和感というのは顕著でね、困るんだ。
Aボタンがアタック、Xボタンがジャンプ、で慣れてんのに、逆になってるゲームをやると、イライラする。こっちはA=アタックで慣れてんのに、そっちは自分ルールでA=ジャンプだよ、と。(笑
これと同じ事が、実は小説においても起きる。
商業誌の一般文芸とラノベならそうそう気になる人は少ないと思う。差が微妙だからね。
けれど、同人あたりになると、共通ルールを理解してない度が跳ね上がるんで、途端に顕著になる。
よく言われる、三人称と一人称がぐちゃぐちゃに混ざってる、とかの問題です。
だいたい、そういうのが真実どうでもいいというなら、最初から小説の歴史の中で三人称だの一人称だのの区別なんてのは消えてしまっている。
必要だから現在まで残っているんだよ。それをまず、念頭に、いや、肝に命じろ。
嫌味ではなく、一般書を読みなれている人にしたら、なろうに置かれている小説の8割は「読みにくい」という感想を受けているものと思う。いっそ、ネット小説という全体でそういう印象を持たれていると見ていいとすら思うんだ。
わたしも元々ラノベとか読まん人間なんで、一般書を1~2冊読んだら、もうなろう小説は読みにくくてしょうがないと感じる。順応力が高いんで、なろう小説でも読めているだけなんだ。その作品の主人公が好きだとかストーリーが好きだとかで、無理やり翻訳しながら読んでる状態だ。(笑
この場合の順応力ってのは、読みにくくても感情移入が出来るという意味で、わたしはCM30秒の世界で感動の涙が流せるほどこの能力が高いんだ。普通は、ヘタクソな文章に感情移入を阻まれて、どこが面白いのか解からん、という感想になるだろう。
中高生がなろう小説を絶賛するのは、単に読みなれていて、小説のルールがなろうに準拠しているからだというだけだ。(酷い人になると、天下の名作小説が読めないなんて人も居るんだろう。)
こないだの、資料の求め方という感じでいうなら、『思いっきり傍流から突入しちゃった人』という事だ。
ここまで書いて、さて、書き方に移行するね。
まずは一人称小説。
注意すべきは、一人称というのは「すべて表現は主人公の感性を通している」という点だ。
君は電車に乗って街に繰り出した時に、浮かれた気分、落ち込んだ気分、普通の気分で、その街角の建物やら情景やら、どのくらい注視している?
事細かに、詳しく書いていいのは、三人称一元視点になる。
そうでないなら、一人称なら、三人称一元視点のようには書いちゃいけないんだよ。
ここですでに、なろうに投稿されている9割は一人称ではない。
いや、もっと酷い状態で、一人称と三人称一元視点が一行ごとに交差したゲテモノになっている。
読みにくくて仕方ない。(笑
一般書にはそんな最低なことは有り得ないんで、非常にイライラする文章だ。
なぜかは解からない、元々一人称と三人称一元視点は似ているから、明確には区別が出来ないんだが、読みなれていれば「違うということは解かる」んだ。
さて、舞台背景を、主人公の見ている景色を一人称で説明するというのは難しい。
まず第一に、主人公にはその景色に注視する理由がなくてはいけないからだ。
さらに、その理由によってはどの程度描写するかの制限が出てくる。大した理由もなく、事細かに観察するのは不自然だろう?
非常に暑い日だった。
照り返す太陽は黄色を過ぎてもはや真っ白と映った。
これは三人称一元視点、特に一元寄り。
暑い、あんまりにも暑い。
なんでこんなに暑いんだと空を見上げると、ギラギラ光る太陽しかなかった。
これが一人称の情景描写だよ。
とにかく、思ったことしか描けないんだ。
主人公が、起きた出来事にどういう感情を抱いたかとか、何を思ったかは簡単に書けるが、逆にね。
景色一つでも、どこまで書くのが妥当かと頭を悩ませるのが一人称だ。
こんな心理状態で、そんなところまで注視するだろうか?
これが違和感の元になるから、事細かな情景描写はほぼ厳禁になってしまう。少なくとも、三人称のように書いてはいけない。違和感が天を衝くよ。(笑
『普通にリアルでもこうとしか感じないだろう』と考えて書かないといけない。
それを一人称で書く場合には肝に銘じておくこと。
一人称と三人称が入り混じるほどの悪手はない、くらいはプロを目指すなら当然知っているだろう。
そういう作品は一次審査すらパスしないのも知ってるね?
つまり、「俺」「わたし」を使ってしまえば、そういう巨大な制約が付いてしまうって事を無視すんな、てことだよ。
あなたはなろうばかり読んでいるから、それに違和感を覚えないだろうが、一般の人は読書感覚が違うからバリバリの違和感を感じてイライラするんだよ。一人称と三人称が下手すりゃ一行ずつで入れ替わるんだからさ。(笑
よく書評で言う、視点がコロコロ変わって読みにくい、というのを、例えば主人公視点とヒロイン視点でコロコロ変わる、ということだと思っていないかい?
視点ってのは、登場人物の視点以外にもカメラワークの視点があるって事を忘れているから、そういう事になる。
カメラの視点を中心に時々主人公視点で内面を描写するって方法でも、視点変更には気を遣い、タイミングを計って、コロコロと切り替わらないようにと苦心するだろう、それを一人称ではもっと気を付けなきゃいけないって事だよ。
主人公の内面は非常に細かく書けるが、主人公以外はまるで書けない、ということだ。
風景はもちろん、脇役もちょろっとしか書けない。注視する理由がないからだ。見えない部分、知らない部分も書けない。世界や設定の説明も、主人公が「興味を持たない」ことは書けない。
頭の良さに比例して、書ける事は増える。バカや能天気を主役に据えると、途端に説明が書けなくなる。
そのアイテムを見て、主人公が「興味を示し分析を試みる」性格でないといけないからだ。
頭の中にアニメや映画が流れて、それを描写しているような感覚で小説を書いている人。
悪い事は言わない、三人称で書きなさい。(笑
なろうで人気の作品は、たいてい「冒頭が一人称で途中から俺がと言ってるだけの三人称一元視点」になっている。そういうテクもあるから別にいい。
けれど、問題はむしろ、書いてる本人がそれを解かってやってんのかどうか、ということだ。
単なる偶然だったら、その人気も偶然ってことになりかねない。
一発屋、というのは嫌な響きだね。(笑
追加訂正:
三人称一元視点は、「主人公の真後ろにカメラがある」から客観的に描写が出来る。
一人称視点は、「主人公の目を通して見ている」から主観的な描写しか出来ない。
客観的に書くと、主人公が感じていることなのに、まるで他人が主人公に代わって解説しているようになるから、違和感を覚える。
なろうにどっぷり漬かってる人は、その状況に慣れているから違和感を感じなくなってる。所詮は「違和感」に過ぎないから。
けれど、商品として棚に並んだ時、多くの買い物客はなろうルールには慣れていない。違和感で、その小説は棚に戻される。
その事を知っている選考委員は、そういう違和感を感じさせると気付かない作者など欲しくない、ということだ。
解かってて、面倒臭がって使ってるだけなら別にいいんだよ?(by治せなくなるかも知れんと今頃になって焦ってるバカ作者)