第十話 基礎の基礎【人称の違い】
基礎には触れない、と書いておいてなんだ!と怒りたい御仁はしばしマテ。
基礎は基礎でも「文頭には一文字下げろ」だの「カッコ内に句点は不要」だのを言いたいんじゃないからね。そういう『書く以前の問題』は他の方が一通り優しく解説してるんで今さら書かない。
てか、わたしはどっちもやらかすタイプの天邪鬼なんで書く資格はない。(笑
そんなルールなんざドブにでも捨てて掃いとけ!てな心意気だ。
(真似てはいけない、決してだ!)
作品の中ではいちおう、譲歩して文頭一字下げはしてるよぉ。
コダワリってほどのこともない、言うこと聞いたら負けだとかちょっと強迫観念染みて意固地になってるだけだから、変わり者の変わってるトコだとくらいに思っておいて、真似はしないようにね。
(カッコ内の句読点取り除くと気持ちが悪いんだ、大目に見ておくれ)
では本題。
一人称とか三人称とか以前に、やっていい事わるい事をしっかり意識出来ているかい?
例えば、一人称だと「主人公から見たものしか見えない」という部分だ。side〇〇とかで視点を変更するとかではなく、無意識に、見えるはずのないものを見ちゃってる主人公になってたりするから注意。
『この場面は主人公には見えない』『この描写は見えてないから使えない』といった判断をして文章を書いているだろうかね。
わたしの作品、デスゲスライムでは主人公が分身の術を使えるので物語の幅が広がっているが、これ、分身で視点変更が容易でなければ、例えば敵陣の様子も、味方の様子も、書いちゃいけないんだよ。
ひたすら、主人公が通った一本道だけの描写しかしてはならないって事を頭に叩き込んでおいて。
逆にいうと、そういう非常に厳しい制約のかかる人称であるから、緩めるためにsideって方法が取られるようになったんだよ。
三人称と一人称、どっちが難しいか、という命題がちょくちょく出るが、純粋一人称がもっとも難しく、次に三人称神視点、三人称一元視点、side含む一人称、の順になると個人的には思っている。
書く題材にもよるけれど。
三人称の場合も、三人称一元視点はほぼ純粋一人称を書くつもりでカメラワークがコロコロと変わってはいけない。その代り、視点人物の内面をくどくどと描写しても構わない。
三人称神視点には二種類ある。
ひとつは全知全能の神という立ち位置でカメラが回るもの。もうひとつは語り手がいて、解説役をやっているもの。
これ、語り手三人称は未来を書いてはいけない。登場人物たちが経験してない未来を書いていいのは、全能の神視点だけだから。
そして、神視点は曖昧描写をしてはいけない。登場人物たちが経験した、あるいは経験する事柄において、曖昧な態度を取ってはいけない。すっぱり書かないという手段しか使えない。
語り手は神ではないので『よく解からない』という描写をしてもいいが人物が経験しない『未来は語り手にも見えない』、神は全能なので『すべてが見通せる』けれど『濁した言い方はしない』ということ。
三人称小説では、上記のふたつの視点がごっちゃになっている場合が多い。
また、一人称の場合は、主人公の推測として他者の様子を書くことは出来るが、主人公の頭の良さに左右されてしまうという欠点がある。頭のよろしくない主人公には、敵の洞察やら作戦内容やらは推測できねーんだよ、ということだ。
それはひいては、年少の主人公だと年長者の深遠策謀のなんたるかなんぞ、解かるわけがない、嘘っぽい、という印象に繋がってしまう。凡人主人公が陥る罠だ。
(最初から凡人描写などしなければヨロシイ!!)
だが、(頭の程度が)非凡な主人公の描写は難しい・・・。
人称にはいずれも、やれる事と「やってはならない事」とが存在する。忘れないように。
なぜそんな事を気にしなきゃいけないかと言えば、『読者が混乱するから』だ。
追加。
一人称と三人称一元視点の違い。
一人称は主人公の主観がメインになり、三人称は基本的には客観視されねばならない。
つまり、一人称でなら主人公の偏見での出来事の観方が出来るが、三人称一元視点では、それはやっちゃならない。
だいたいそんなかんじー。




