無気力ニートの決意
孝明と雫の2人が影無家に上がりこんでからは沈黙が続いていた。
俺を含む3人がいるリビングには、茶を注ぐのどかな音が断続的に流れている。
他の音はなにもない。人がしゃべる声さえも。
茶を注ぎ終わった湯呑みを2人が座っているもとへと運んでいく。
そして3人同時にすすり、溜め息をつく。なんとも平和であるとともに無駄な時間であろうか。
「…茶を飲んで感想なんか言うなよ」
「なぜだ?」
「反応が面倒だから」
「このお茶、玉露ね。とっても美味しいけれど、玉露は水出しのほうが一段と味がよくなるのよ」
「あのー、雫さん?俺の話、聞いていましたか?」
「えぇ」
「なら、なぜ感想と批評を口にした」
「美味しいからと、その味を向上させるために言っただけなのだけれど」
「…俺がまともに相手をしたのがバカだった」
この通り、俺は一度たりとも雫に口論で勝ったことがなかった。いや、口論にすらならない一方的な批評だったかも。
その会話を最後に、3人はひたすらずず…と茶(玉露)をすする音がリビングを満たしてゆく。
そして、その音が空間を飽和状態にしたとき、ある事実を思い出した。
「そういや孝明、神治大学に合格したんだってな」
「あぁ。入るのに苦労したけど、まさか入ってからも苦労することになるとはね」
「つーか、学校なんて苦労の連続だろ」
「大学はほら、入るは難し出るは易し、って言うから楽なのかとたかをくくっていたらご覧の有様だよ」
「そーなのかー」
「人のことには全くといっていいほど興味がないのは昔っからなおってないな」
「いや、それほどでも」
「褒めてないし」
そう、孝明は今年の3月の後期日程まで頑張り、有名大学への進学を勝ち取ったのだ。
いわゆる勝ち組というやつである。…畜生、羨ましくなんかないぜ。
孝明もそれ相応の努力はしたみたいだから、嫉妬心を抱くというのは筋違いだろう。(いや、逆に努力してなければこちらが困る)
「で、雫は環境系の専門学校だっけ?」
「そういうことね」
…なぜそんな勝ち誇った言い方をするのだろうか。
「…何でそんな上から目線なんだよ」
「だって私、”合格”したから」
なるほど、そういうことか。
つか、「合格」の部分を強調するな、めんどくさい。
「はぁーーーー……。さいですか」
「さいですよ」
雫は自分の志望していた学校の受かったと知らされたときも眉一つ動かさずにガッツポーズだけしていたのが今でも鮮明に思い出すことができる。
一切自分の表情を変えない彼女も、自分の目標をしっかりと自らの手で掴み取った。
…掴み損ねたのは俺だけか。
ま、不思議と負けてる気はしない。なぜかって?
それは俺が無気力だからだろう。焦りもなければ劣等感すら抱いていない。
人は人、自分は自分。このモットーで生きてきたからか、周りに対する興味は学年が上がるにつれて薄れていった。
そして、あまり他人と関わらなくなった影響なのか、損得勘定で動くことが多くなった。
自分に影響を及ぼす可能性があるものには全力で否定し、自分になんら関係のないものには全力で肯定する。
どうだ、協調性120%だろう。
これこそ、社会その関わりを少しだけ持ちつつ、面倒なことから逃れられる唯一無二の方法である。
…と、自負しているのだが。
「で、お前はこれからどうするんだ?」
ええい、今は俺の人生論を語っているんだ。邪魔をしてくれるな。
「………」
「おーい、起きてるかー?」
俺の目の前で手を振る孝明。その横では我関せずと読書を開始する雫の姿が。
仕方ない、構ってあげないと孝明は孤独死するのだろう。
「…何だよ」
「何だよじゃなくて、これからのこと」
「…さっ、十分くつろいだろ、帰ってくれ」
「そうは問屋が卸さないよ、新人」
「…なんで今日はこんなに憂鬱な話題ばっかりなんだ…」
誰にも聞こえないように愚痴をこぼす。
確かに、いずれはこんな時がくることはわかっていたけどさ。こう、鬱になるよね、主に頭が。
「何か言ったかい?」
「…いや、何も言ってないよ。空耳だろ」
「そうか、ならいいんだ。…いや、よくないって!」
「…ばれたか」
「今日はお前がどうするのかを話してもらうまで帰らないつもりだから」
「…えーーー…」
じゃあなにか、俺がこのまま黙秘権を行使し続けたら孝明と雫はこの家に泊まるってことなのか?
…ふざけるな。こいつらが影無家にいたら、美華姉と章矢兄貴は間違いなく俺と2人を比べるだろう。それだけは何としても避けたい。…里紗は2人がいてもいなくても関係ないだろうな。
それに、俺の憩いの時間を、安眠の時間をこいつらに奪われてたまるか。
こうなったら、出まかせでもなんでもいい。こいつらをさっさと説得することができればそれでいい。
「実は俺さ、…今回落ちた大学をもう一度受けようと思ってるんだ」
どうだ。これなら一発で納得してもらえるだろう。
最初の出だしは早くして、本題を切り出す前に少しだけ間を置く。そうすることで、その間で決意をしているかのように見せることができるからだ。
「嘘ね」
あっさりと見破られた。…なぜだ…。
いや、すっぱりと斬り捨てられたというべきか。
「いや、本当だからな、これは」
苦しい。非常に苦しい。
雫の一言で孝明も俺を疑っている様子だし。ホント、なんで雫には勝てないのだろうか。
「新人は嘘をつくときは、話の出だしがはやくなるからすぐわかるの」
「…すいませんでした」
いつから嘘をつくときの仕草がばれていたのかと思うとゾッとする。
こうなったら頭を垂れるしか許しを請う方法がないのである。
「で、結局のところどうするつもりだ」
「………」
「話したくないなら無理に話させるような真似はしない。だが、オレたちは新人のことを心配してきたんだ。これだけはわかってくれ」
「…そうか」
「ありがたく思いなさいよ」
「…はい、そのお気持ち、ありがたくいただきます」
「よろしい」
この応酬に満足したのか、雫は読書に戻っていった。
…さて、これはどうしたものか。
素直に腹を割って話すべきなのか、嘘を交えた形で孝明たちを安心させるか。
…後者はもうすでに失敗したよなぁ…。
それなら残る選択肢は一つしかない。腹を割って話す、だ。
自分の湯呑みを見る。茶柱は立っていなかった。
「…俺はさ…、孝明とか雫みたいに何か明確な目標があって生きてきたわけじゃないんだ。ただ周りに合わせて、自分だけ傷つかない世界を構築して生きてきたんだ。誰にも誇れるような生き方じゃない。それはわかってる。けど、去年の俺は少しだけ違ったんだ。この先は目標を持って進まないと生き残れない世界があるって知ったんだよ。だから必死になって自分を探そうとした。けど、たった1年だけじゃ短すぎたんだろうな。結局、自分が何をしたいか、自分の持つべき目標すら見つからなかった。そんな不安定な条件下で、自分の目標を見つけている連中と対決したら結果は目に見えてる。ものの見事に俺は叩きのめされた。いや、わからされたんだろうな、世間とは何かを。『井の中の蛙大海を知らず』とはよく言ったもんだよ」
そこまで言うと俺は一旦言葉を切って茶を飲み干す。
「その受験戦争が終わって、自分のことを客観的に振り返ってみればそれは情けないことばかりが浮かび上がってきたよ。どうポジティブに捕らえようとしても後から後から後悔ばかりが俺を襲ってくる。あの時はこうしていればよかった、あそこはこの方法がよかったんじゃないか。そんな過去のことは後悔しても意味はないのに、俺はその後悔という強迫観念にとらわれてしまった。だが、マイナスのことは人間いつまでも耐えられるものじゃない。嫌なことからは目を背けるのは人間の防御反応なのかもしれないな。そこで俺は腐ってしまったんだ。自分がこれ以上傷つく現実から逃避するために。でもそれは一時的な安らぎでしかない。現実を少しの間遠ざけたって後には今までの倍の速度で追いかけてくる。結局のところ、現実から逃れる術はないんだよな、自殺しない限りは…」
そこまで言うと雫が猛烈な勢いで迫ってきて、俺の肩をぶんぶんと揺さぶりながら、
「自殺なんて許さない!させない!絶対だからね!」
「…………っ。誰も自殺するなんて一言も言ってないだろ。…それよりも手をどけてくれ、痛いわ」
「…ごめん。自我を失った」
「…いいよ、だからそんなに真剣に謝るなって」
そういうとようやく雫が離れてくれた。
…ああいう無防備なところも少しはなおしてもらいたいよな…。本人に自覚はないのだろうが、おかげでこっちは目のやり場に困る。
おっと、脱線したな。あぁ、孝明からの視線が痛い。
「…結論を言うとだな。俺はこの1年で自分を見つけることにした」
俺の言葉を聞いた2人は、ぽかんと口を開けたまま何もしゃべろうとしない。
………。おい、息苦しいからこの空気を何とかしろ。いや、何とかしてくださいお願いします。
「…あのー、何か言ってもらえませんか?この空気、俺が辱めを受けてるみたいですごく不快なんだが」
「いや…、なんて言うか、そこまで思いつめてたんだなーっと」
「…それだけ?」
「だってオレも自分の目標とか明確にわかってないから」
「…………はぁ?」
「いや、だからまだ自分とは何かなんてわかってないし、わかろうとしてない」
「…どういうことだ?」
「だってさ、『自分とはこういう人間だ』って決めちゃうとそこで自然と線引きが始まると思わないか?自分で自分の限界を知っていないのに客観的に自分を分析してしまうと、本来の自分を見失う可能性もあるってこと」
「…一理あるな」
「そう思ってくれたなら何より」
確かに孝明の言っていることは理解できる。
ようするに、自分がムリだと思うまで挑戦する心意気が大事ってことか。さすがは優等生、言うことが違うな。
「私も明確な目標なんてなかった」
不意に透き通った声が響き渡る。
「…ほう?」
「ただ少しだけその分野に興味があったから受験してみただけよ。逆に興味がない分野の有名大学なんてどうでもよかった」
「…有名な大学も自分のしたい分野がなければ無名同然か」
「えぇ、そうね」
どうやら俺の悩みはこいつらにとっては取るに足りないものだったらしい。実に悲しいことだが。
外は夕闇が迫っているようで、オレンジ色の夕日が沈んでゆく。
「お前の決意が聞けたことだし、オレは帰るわ。これでも忙しいからな」
「…その言葉は2回聞いたから飽きたよ」
「雫はどうするんだ?」
「私も帰る。弟の世話を頼まれてるから」
「…お前も忙しかったのかよ」
「こんなの忙しいには入らないわ」
「…さいですか」
「さいですよ」
そう言いつつ玄関へ向かう。
不思議なことに憂鬱な気分はもう晴れていた。なぜかはわからない。
門扉を開けて2人が影無家から出てゆく。
「それじゃ、また暇が見つかれば遊びにくるよ」
「…暇じゃないのに来たのは誰だろーねー」
「私もまた来る」
「…ホント、物好きだよな、お前ら」
「何がかしら?」
「俺みたいなやつに会いたがるなんて」
「会いたいから会う。これのどこが物好きなの?」
「…すいませんでした、俺が悪かったです。先ほどの言葉は撤回いたします」
「よろしい」
やっぱり雫は苦手だ。今この瞬間にわかった。
そしてこの状況を楽しんでいる輩が1人。
「新人、ご苦労様です」
「…笑いながら言われても何も嬉しくない」
「わっ、笑ってないって…フフッ」
「…笑ってんじゃねぇか」
こいつも俺の苦手人間に追加してやろうか。
そんなブラックな想像をしていると、
「じゃ、頑張って自分を見つけろよ。だが、1つだけ忠告しておく。自分を見つけるには自分だけではムリだからな」
?
一瞬戸惑う。
「…それってどういう…」
口にした時には孝明と雫の姿は夕闇にのみ込まれて夕陽い照らされているはずの長く濃い影すら見つけることができなかった。