其は夢現の如く
夏、それは私のとってとても重要な意味を持つ季節。
私がこの世に生を受けた夏、弟ができた夏、父が死んだ夏、弟が消えてしまった夏。
そして、あの不思議な体験が起こった夏。
「真奈ー、浴衣はリビングだから着たかったからそれを着て行ってね。じゃぁ、お母さん今日夜勤入ってるからー」
どたどたと慌しく階段を下りる音を掻き消すかのように母の声が真奈の耳に届いた。読んでいた本を閉じ、ベッドから降りると真奈はがらりと窓を開け放った。真奈が窓から顔を出すと、ちょうど母が玄関から出てきたところだった。
「いってらっしゃい」
真奈が手を振ると、母は「いってきます!」元気に叫んで走り出した。母の姿が見えなくなると、真奈は部屋を出て階下に下りていった。弟の裕が消えてしまってから、3人だった家族は母と真奈の2人だけとなってしまった。3年がたった今でも、家は寂しさにとらわれていた。
母が出かけた後の静寂、この静寂がより孤独を引き立てているようで真奈は苦手だった。
寂しさを振り払うように真奈は軽く頭を振った。気を取り直してリビングへ降りて母の言っていた浴衣を探すことにした。それはすぐに見つかった。紺の布地に赤い蝶をあしらったものだった。それは前に母と買い物に行ったときに見つけてちょっと良いな、と思ったものだった。気づいてくれたんだ、と真奈は顔をほころばせた。
「よし、こんなものかな?」
着替え終えると、大体ちょうどいい時間帯だった。なので、このまま出かけることにした。机の上においておいた巾着を手にして真奈は玄関に向かった。
靴箱から下駄を出し、スリッパから履き替えて外に出た。
空は奇麗な茜色だった。正面に向かう山の緑の中に鳥居の赤を目にし、真奈は軽い足取りで歩き出した。
祭り場に近づくにつれ、真奈の耳に祭囃子の音が聞こえてきた。その軽快な調子に真奈の足取りもより軽いものとなっていった。
真奈は祭りが好きだった。楽しげな祭囃子を聞くだけで楽しくなってくるし、屋台を除くだけでわくわくした。そして、3年前に消えてしまった祐は祭り場で消えた。だから祭り場から帰ってくるような気がしてならなかった。だから毎年祭りには参加していた。
祭りは主に、神社の広場で行われる。決して広いとはいえないがある程度の広さはある広場や道に屋台などが立ち並ぶ。そして、神社前で奉納演舞が行われる。お稚児さんの少女達が煌びやかな衣装でくるくると踊る様はとても愛らしいものだ。
かくいう真奈もその役に選ばれたことがある。ちょうど祐がいなくなった祭りのとき、真奈はその役に選ばれていた。祐は母と一緒にその様子を見ているはずだった。しかし、母達が少し目を放した隙に弟の姿は忽然と消えた。その後、町内会で探し回ったが、祐の消息はつかめなかった。
そんなことを考えているうちに、到着したらしい。真奈の耳には祭りの喧騒が届いてきた。歩いているうちに空は茜色から紺色へと移り変わって行き、提灯に灯がともった。
夏祭りの始まりだった。
焼きそばを食べ、金魚掬いに挑戦し、りんご飴を買い、真奈は祭りを堪能していた。しかし、真奈は擦れ違う人の姿を目が追ってしまうのを止められなかった。どこかに祐がいるのではないかと期待してしまうのだ。特に、そのくらいの男の子の影を見つけると、祐ではないかとつい確認してしまう。
「!」
そのとき、真奈の目に一人の男の子が飛び込んできた。一瞬時が止まったように思えた。それはまさしく祐だった。あの日、いなくなったままの姿をした祐だった。
「祐!」
真奈が叫ぶと、祐と思わしき少年がこちらを向いた。少年は驚愕に顔を染め、次の瞬間弾けるように走り去ってしまった。真奈はあれを祐だと確信した。走り去る前に、少年の口が確かに「ねぇさん」と動いたのを見たのだ。
真奈は少年の後を追って走り出した。少年は社の方に向かって走っていた。下駄のせいで走りづらかったが、いかんせん14歳の少女と8歳の少年では歩幅の違いなどもある。何とか見失わずに追いかけることが出来た。ちょうどこの時間は社のほうでは何も無く、人気が無い。走っても誰かにぶつかることもなく、人に紛れて見失うということもなかった。
そのとき、真奈は足がもつれ転んでしまった。痛む額を押さえ、涙目になりながらも、動きづらい下駄を脱ぎ捨てて再び走り出した。
気がつくと、周りの景色は知らないものへと変わっていた。竹藪の中に鳥居がずっと続いている。そんな景色、真奈は見たことが無かった。それでも真奈は走り続けた。道は一本道。この一本道の先には祐がいるはずなのだ。
走っていると、いつの間にか鳥居も終わり、竹藪の終わりが見えてきた。そろそろ真奈の体力も限界に近づいていたため、竹藪の終わりから見える光が希望となった。竹藪を抜けるとそこは高台らしく、あたりを見渡す事が出きた。それは、不思議な景色だった。一面の自然だった。人家など見当たらない。しかも木々はどれも皆巨大で、悠久の時を感じさせるものだった。
あわてて振り返ってみると、鳥居が見当たらない。ただの竹藪になっていた。何がなんだかまったくわからなかった。そのとき、後ろの竹薮からガサガサと音がした。裕かと期待しながら振り返った真奈の目に飛び込んできたのはよくわからないものだった。
「っ!?」
一泊おいてそれが何なのか理解した真名は恐怖のあまり声も出なかった。それは、百足だった。しかし、その姿は異常なまでに大きかった。その全長はゆうに6mを超えているかもしれない。だからこそ真奈は最初はそれを百足だと理解できなかった。いや、認めたくがなかった。
あまりの恐怖と嫌悪感に思わず鳥肌が立ってしまった。それに背を向けて逃げ出すこともできず、震える足で少しずつ後ずさっていたのだがそれにも限界が来てしまった。高台のぎりぎりの端まで追い詰められてしまったのだ。目の前に百足が迫ってきて、真奈はもうだめだ、と目をつぶった。その時、いきなり足元が崩れ、真奈は浮遊感と急な落下に襲われた。
目が覚めると、狐が覗き込んでいた。
「目が覚めたでやんすか」
「!?」
狐が口を開いた。真奈は驚愕にぽかんとしてしまった。
「き、狐がしゃべってる!?」
「おや、こんな事で驚いているということは嬢ちゃん、あんたアチラの世界の住人でやんすね」
聞きなれない表現に狐に聞きかえそうとした瞬間、真名は先ほどの恐怖を思い出した。
「そ、そうだ!むっ百足は!?」
「大丈夫でやんす。安心するでやんすよ。ここはあっしの住処、安全でやんすよ」
そういって狐は落ち着かせるように真奈の背を優しくさすった。狐にさすられ、だんだん真奈は落ち着いてきた。落ち着いてきた真奈はにじんだ涙を拭い取り、狐に向かって確認した。
「貴方が、助けてくれたの?」
「あっしは、空から降ってきた嬢ちゃんを拾っただけでやんすよ」
どうやら木がクッションとなってあまり大きな怪我をせずにはすんだらしい。しかし、体のあちこちに擦り傷ができていたり、痛かったりと無事というわけにはいかなかった。このまま頬って置かれていたらどうなっていたかわからない。血の匂いにつられてきたさっきみたいな化け物に食べられてしまっていたかもしれない。
「ありがとう。そっちはその気でなかったかもしれないけど、貴方のおかげで私は助かった」
真奈は狐に向かって頭を下げた。どうにも奇妙な感覚だった。
「貴方は一体……?」
「あっしは見ての通り狐でやんすよ。まぁ嬢ちゃん達の世界の狐とは少し違いますがね」
そういって狐は二本足で立って歩いて見せた。真奈が驚いて目を丸くすると、狐は満足そうに笑って再び真奈の隣に座った。
「ここは嬢ちゃん達の住んでいる世界とは異なる次元にある世界でやんす。隣り合って重なっているがなかなか交わる事のない世界。嬢ちゃんたちヒトが妖怪や妖と呼ぶモノ達の住む世界でやんす」
「そんな世界に……なんで祐が?」
真奈の呟きに、狐が怪訝そうな顔をした。
「裕?」
「私の弟。3年前にいなくなった。今日、祐を見かけて追いかけてきたらここに辿り着いたの」
「嬢ちゃんの弟はそのいなくなった時と変わらない姿をしていたりしていなかったでやんすか?」
確認するように聞いてきた狐に真奈が頷くと、狐はなにやら納得したように頷いた。
「どうやって生身の嬢ちゃんがこんなところにやってきたのか不思議でやんしたが、これでわかったでやんす。嬢ちゃんは神隠しに着いてきてしまったのですね」
「神隠し?祐が!?」
狐に掴みかかりながら聞くと、狐はそうでやんす、と頷いた。気が抜けてへたり込んでしまった。
そろそろ頭が着いていけない。見知らぬ景色、異なる世界、喋る狐、神隠しとなった弟、頭がパンクしそうだった。しかし、実際に自分の目で見てしまっているので、信じないわけには行かなかった。
「弟に、祐に会いたい」
「あっしにはお勧めできやせんですがねぇ」
「何で!?」
なぜか狐は言い渋った。その様子に真奈は噛み付くように叫んだ。ずっと裕を探してきていたのだ。やっと手がかりを掴み、会えると思ったのにそれを否定されて叫ばずに入られなかった。真奈を落ち着かせるように宥め、狐は頭をかきながら溜め息をついた。つくづく人間のような狐だった。
「ここは結構危険な場所でやんす。特に嬢ちゃんのような生身の人間は一秒でも早く抜けるべきでやんす。あまり長くいすぎると、此処の世界に合わせて嬢ちゃんの存在が変わってしまうでやんすよ」
そこまで言って狐は近くにあった水桶から水を少し飲んだ。真奈にも進めてきたので真奈はありがたく受け取って一気に飲み干した。真奈から空の柄杓を受け取り、狐は続けた。
「それに嬢ちゃんのような人間を喰べるモノもあっしらの中にはいるでやんす。嬢ちゃんも実際にあの百足を見たでしょう?アレよりももっと恐ろしいのがもっとたくさんいるでやんすよ。行くまでにそいつらに襲われるかもしれないでやんすよ?それに世界が重なるのは永遠ではないでやんす。早くしないと元の世界に帰られなくなるかもしれないでやんすよ」
狐の話を聞いて真奈は戦慄した。あの百足よりもずっと恐ろしいものがまだまだ一杯いるなんて、と。それでも、それでも真奈は裕に会いたかった。この機会を逃せばもうあえない可能性のほうが高い。そして、狐はとても優しい奴なのだと思った。
「確かに危険かもしれない。帰ったほうがいいかもしれない」
「そうでしょ、そうでしょ」
「でも、それでも祐に会いたい。心配して止めてくれたんだよね?ありがとう」
真奈がにっこりと微笑んでお礼を言うと、狐は少し照れたように頬を掻いて溜息をひとつ吐いた。
「はぁ、このままじゃ一人でも行っちまいそうですねぇ。うーん、ここで見捨てるのも寝覚めが悪いねぇ。あー、もう。嬢ちゃんには負けました。あっしが道案内をするでやんすよ」
そういって狐は出口の方へ歩き出した。出口付近で立ち止まり、ついてくるように真奈に促した。真奈は起き上がり、天井らしきものに頭をぶつけないように頭を低くしながら外にでた。
外にでると、真奈は今まで自分がいたところが巨大な木の根元にできた空洞だという事がわかった。
「さて、あっちに見えている山、あれが神隠し達が住んでる山でやんす。嬢ちゃんの弟は多分そこにいるでやんすよ。なるべく危ないモノに遭遇しないように行くでやんすが、時間はあまり無いでやんす。走るでやんすよ」
そういって狐は走り出した。走り出したといっても全力疾走というわけではなく、真奈がきちんと追いつけるように配慮した走りだった。その優しさに気づいた真奈は笑みを浮かべた。
「大丈夫でやんすか?」
「はぁっはぁっ、うん、まだ、大丈夫。走れるよ」
「あと少しでやんすから頑張ってくだせえ」
あれからしばらく森の中を走っていった。道らしい道はなく、真奈にはとても走りづらかった。時々危ないものに遭遇しそうになったらしいのだが、狐がその直前に気づいて引き返したり方向転換してくれたおかげで遭遇することはなかった。時々何か巨大なものが這った痕のようなものがあってその上は走りやすかった。何の痕なのかは怖くて聞けなかった。
そのとき、いきなり狐が立ち止まった。
「嬢ちゃん、到着でやんすよ」
「はぁっはぁっ、ここ?」
目の前には真っ赤な鳥居があった。狐は迷うことなく鳥居をくぐり、階段を登りだした。真奈も軽く息を整え、その後に続いた。もうくたくただったが、この先に裕がいると思うと、それだけで走る気力が出てきた。
階段を登り終えた真奈の目に飛び込んできたのは、この世界とは思えないような光景だった。神社の敷地内では子供達が駆け回り、無邪気に笑いながら遊んでいるのだ。
「あっしらは祐ってのを探してるんでやんすが、知らないでやんすか?」
「祐君?多分あっちだよ!」
狐が走り回ってる子供を一人捕まえて、聞き出した。その子は森の方を指して答えると、また輪に加わって遊び始めた。
真奈はいてもたってもいられなくなり、その子の指差した方向へ向かって走り出した。
森の中を走ると、少し開けたところがあった。そこに祐はいた。石の上に座って呆けたようにただ、空を見上げていた。
「祐!」
叫んで真奈は走りより、祐を抱きしめた。本来この世界にいるはずのない人の登場に、祐は慌てふためいた。
「ねっねぇちゃん!?何で此処に」
「ぼんが祐でやんすね。嬢ちゃん、ぼんの後を追って此処にやってきてしまったんでやんすよ」
祐の疑問に真奈の後ろにいた狐が答えた。知らない声に一瞬警戒した裕だが、真奈が狐に信用を置いている様子を見て警戒を解いた。
「追いかけてきたの!?なんで!?」
「祐に会いたかったからに決まってるじゃない!祐がいなくなってからどれだけあたし達が心配したと思ってるの!」
真奈は裕を抱きしめながらぼろぼろと涙を流した。
「ぼんは嬢ちゃんをここに連れてきちまった。そのおかげで嬢ちゃんは死んじまうところでやんした」
「そんな……僕……そんなつもりは……ただ、ちょっとねぇちゃんが元気してるか、気になっただけ
で……」
責めるような狐の言葉に裕は途切れ途切れに言った。その顔には後悔と戸惑とが混じったような表情が浮かんでいた。
「わかってるでやんす。でも結果嬢ちゃんは着てしまった。ぼんが引き起こした事、責任持って嬢ちゃんをあちらへ送り返すでやんすよ」
「うん」
うなずいた裕の目はさっきと違い決意に満ちた目をしていた。
「祐、一緒に帰ろうよ、あたし達の家へ」
真奈が言って手を差し伸べると、祐は少し寂しそうに笑って首を振った。
「ダメなんだよ。僕はもう神隠しだから、あちらに留まる事はできないんだ。でも、ねぇちゃんは早く帰らなきゃ。僕が送るから」
「もう、帰らなきゃいけないの!?せっかく祐と会えたのに、もうお別れなの?」
真奈はより強く、縋り付くように祐を抱きしめた。
「ねぇちゃんは帰らなきゃ。そうしなきゃ、母さんが一人になっちゃうよ」
「ぼん!もう時間が無いでやんすよ!」
真奈と祐が別れを惜しんでいていると、狐が焦ったように叫んだ。真奈はどういうことか解からず首をかしげた。しかし、祐には通じたらしい。その声に祐ははっとして真奈から離れ、何かを探るように少し集中した。
「?」
「!世界の繋がりが!?」
「そうでやんす!」
真奈にはよく状況がつかめなかった。しかし、裕たちの慌てぶりを見ているとどうやら大変なことのようだった。
「なにがおこっているの?」
「嬢ちゃん、もう嬢ちゃんをあちらの世界に帰さなければならない時間が来たでやんす」
「もうな!?まだ祐と逢えたばかりなのに!?」
狐の言葉に思わず真奈は声を上げた。縋るように裕のほうに目をやると、裕も寂しそうにうなずいた。
「ねぇちゃん、これから僕が二つの世界の繋ぎ目を広げてあっちに送り返すよ」
その時、祐が何かを思い出したらしく、浴衣の中から何かを取り出し、真奈の手に握らせた。
「ねぇちゃん、これあのときにプレゼントしようと思ってたんだけどずっと渡せなかったから今渡すね。これを僕だと思って」
「ぼん!」
狐のせかす声に、祐は大きく息を吸い込んだ。そして詠いだした。
「二つの世界をつなげましょう。
小さな橋を架けましょう」
「歌?」
「神隠しの詩でやんす。神隠しは世界を渡るのに詩を謡うんでやんすよ。言葉は強い力を持つ。そして詩はその力を凝縮したものでやんすから」
最後まで優しい狐の言葉に、目頭が熱くなるのを真奈は感じた。ぼやける視界と反対に、真奈の耳には弟の澄んだ歌がよりいっそう大きく聞こえてきた。
「あちらから迷いし異邦人、あるべき世界へ返そうよ。
あちらの世界へ戻そうよ」
気がつくと、神社の鳥居の下にいた。後ろのほうからは祭囃子の軽快な音楽が流れていた。
先ほどのありえない不思議な体験を思い出し、真奈は白昼夢でも見ていたのかと思った。しかしそのとき、真奈は手に何かを握っているのに気づいた。
手を開いてみると、赤い飾り紐が出てきた。祐が最後に握らせたものだった。
「夢じゃ、なかったんだぁ。……祐…!」
飾り紐を握り締めた真奈の瞳からは透明な雫がいくつも、あとからあとから零れ落ちてきた。
祐がいなくなってから早5年。そしてあの夏祭りから2年が過ぎた。
未だに裕は見つかっていない。今でも時々アレは夢だったのではないかと思えてしまう。あの飾り紐がなかったら自分でも信じられなかっただろう。誰に言っても信じてもらえないような、そんな夏の日の不思議な体験。 ―完―
部屋にはカリカリと鉛筆を走らせる音だけが響いていた。
部屋の主である女性は一心不乱に原稿用紙に文字を書き込んでいた。
「こんなものかな」
最後まで書き上げた女性は鉛筆を置き、原稿用紙を読み直した。一通り読み終えた女性は一度大きく伸びをした。その女性の髪には赤い飾り紐が揺れていた。
幻想風小説を書こうとして出来上がった作品です。