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夫と偽令嬢に殺害計画を囁かれているのを聞いてしまったので、返り討ちにして二人とも地獄へ送ることにしました

作者: 熾星
掲載日:2026/07/22



 夫の誕生日、私はケーキを抱えて彼の会社を訪れた。


 社長室の扉はわずかに開いており、中から妹の星羅の声が聞こえてきた。


「次順位受益者の資格放棄書、どうしてまだ署名させていないの?」


 直哉が苛立った声で答えた。


「あと数か月待て。子どもが生まれたあとで紫乃に事故が起きれば、父親の俺が子どもの信託財産を管理できる」


 短い沈黙のあと、星羅の声が氷のように冷えた。


「でも、その子が生きている限り、私は九条家で唯一の後継者にはなれない」


 扉の外に立ったまま、手の中のケーキが少しずつ傾いていった。あの二人が欲しがっていたのは、私の結婚も株式も、それだけではなかった。


 私と、お腹の子の命まで奪うつもりだったのだ。


 録音ボタンを押し、私は東華都の雨の中へ引き返した。



1



 私の名は九条紫乃。九条アパレルホールディングス会長、九条隆臣に認知された実の娘だ。正確に言えば、父が婚姻外でもうけ、戸籍上の父娘関係だけは認めながら、一度も家族として受け入れようとしなかった娘だった。


 母の桐谷香澄は、若いころ九条家の本邸で働いていた。九条家は長年、母が金目当てで主人に近づき、本来生まれるべきではなかった私を産んだのだと世間に説明してきた。


 母は私を産んだその日に亡くなり、私は一度も顔を見たことがない。祖父は、九条家が実の子を見捨てたと非難されることを恐れ、私のために撤回不能の個人信託を設定し、九条ホールディングス株式七%相当の受益権を残した。


 そのお金があれば、生活に困ることはない。けれど、グループの中枢へ入るには足りず、白鷺台にある九条家本邸での私の立場を変える力もなかった。


 九条家の将来を決めるのは、祖父が別に設けた一族の事業承継信託だった。戸籍上、父と正妻・美沙子の娘である星羅が第一順位受益者に、私は次順位受益者に指定されていた。


 信託契約には、支配株式の受益権を最終的に取得できるのは九条家創業者の血を引く直系子孫に限る、とも定められている。第一順位受益者の親子関係に偽装や重大な詐欺が認められた場合、その資格は失効し、次順位受益者へ承継される仕組みだった。


 祖父が亡くなった当時、星羅が父と美沙子の実の娘であることを疑う者はいなかった。彼女は正妻の娘として生まれ、幼いころから後継者教育を受けてきた。一方の私は、醜聞をこれ以上広げないために残された、婚姻外の娘にすぎなかった。


 星羅が私より先に置かれることを、誰も不自然だとは思わなかった。私自身でさえ、そういうものなのだと受け入れていた。


 星羅は幼いころから私を嫌っていた。十三歳のとき、彼女は裏庭で割れた鏡の破片を私の左頬に突き立てた。治療中にもわざと包帯へぶつかり、傷口を二度も開かせたため、頬骨から口元まで長い傷痕が残った。


 あの日、私は何時間も泣いた。父は星羅を叱らず、美沙子はかかりつけ医に、転んでガラスで切った事故だったと説明させただけだった。


 それ以来、私は髪で顔を隠し、目立たず、誰かが自分のために声を上げてくれることを期待しなくなった。


 相馬直哉が現れるまでは。


 直哉はごく普通の家庭に生まれ、大学卒業後、九条グループの取引先企業へ入社した。初めて会ったとき、彼は傷痕を凝視することも、哀れむ表情を浮かべることもなかった。ただ私のデザイン画を見て、優しく笑った。


「九条さん、このデザイン、とても素敵ですね」


 その後、彼は私を熱心に口説いた。家族に責められた夜には門の外で待ち、傷痕は醜くない、懸命に生きてきた証だと言ってくれた。


 私はその言葉を救いだと思った。ようやく九条という名字の向こう側にいる、本当の私を見てくれる人に出会えたのだと信じた。


 結婚後、直哉は私の個人信託から得た資金で、相馬クリエイティブ株式会社を設立した。持株比率は私が五十五%、直哉が三十五%、残りは従業員向けのストックオプションとして確保された。


 けれど私は経営に関わらず、議決権行使の委任も、会社の代表印も、日常業務も、すべて彼に任せていた。九条グループが広告宣伝やオンライン販売に関する大型案件を次々と発注したこともあり、直哉はたちまち、裸一貫で成功した若き社長としてメディアに取り上げられるようになった。


 妊娠が分かったとき、彼は誰よりも喜んだ。遺言書の変更にも付き添い、私が亡くなった場合、個人信託の受益権を子どもへ承継させるよう勧めた。さらに、将来に備えるためだと言って、子どもの出生後に使う財産管理権限の委任案まで持ち出した。


 その中には、難解な文言で書かれた事業承継信託の確認書もあった。私が次順位受益者としての資格を自発的に放棄する、という内容だった。


 ほかの書類には署名したが、それだけは先に弁護士へ相談したいと言った。


 直哉は笑って書類を引き取り、急ぐ必要はないと答えた。


 雨の中に立ちながら、私はようやく理解した。署名されていない一枚の書類が、なぜあの二人をあれほど焦らせていたのかを。


 録音データを三つに複製した。一つはクラウドへ、一つは匿名で作ったメールアドレスへ送り、最後の一つは私しかパスワードを知らない外付けドライブへ保存した。


 汐浜区のマンションへ戻り、壁に飾られた結婚写真を見上げた。写真の中で笑う直哉が、初めて見知らぬ男に見えた。


 私はLINEを開いた。


「誕生日おめでとう。仕事、無理しないで。早く帰ってきてね」


 数分後、いつもと変わらない返信が届いた。


「ありがとう、紫乃。これが落ち着いたら、君と赤ちゃんとの時間をちゃんと作るよ」


 長いあいだ画面を見つめ、それから静かに閉じた。


 今の私には、あの二人へ復讐する力などない。


 最初にすべきことは、ただ生き延びることだった。



2



 翌朝一番に、神谷法律事務所へ連絡した。神谷玲奈は、私の婚前契約と個人信託を担当した弁護士だったが、九条家への配慮から、これまで私と二人きりで話すことはほとんどなかった。


 録音を最後まで聞くと、玲奈は長く沈黙し、すぐに秘書へ事務所の扉を施錠するよう命じた。


「紫乃、これはもう不貞だけの問題ではありません。あなたの夫と星羅さんは、あなたをどう死なせるか話し合っています」


「でも、まだ何も実行していない」


「具体的な日時も実行行為もない以上、直ちに殺人未遂として扱わせるのは難しいでしょう。ただし、この録音は現実に生命の危険があることを示す重要な資料です。できるだけ早く住居を離れ、警察にも相談記録を残してください」


 まだ目立たない腹部へ手を添えた。昨日までは夜になるたび、どんな顔の子が生まれるのだろうと想像していた。それなのに今は、息をするたび、誰かがこの子のそばへ刃物を置いているように感じた。


「一つだけ、先に確認したいことがあります。子どもが生まれたあと、本当に直哉が私の信託を支配できるんですか?」


 玲奈は財産管理権限の草案を開き、いくつかの条項を指した。直哉が九条家の支配株式を直接承継することはできない。けれど私が死亡すれば、子どもは私の個人信託受益権と次順位資格を承継する。


 子どもが未成年のあいだ、直哉は財産管理人に選任されるよう求めることができる。しかも私はすでに一部の委任書へ署名しており、残りの書類がそろえば、通常の親権者を大きく上回る管理権限を得られる可能性があった。


「彼は子どもを利用して、九条家の利益の中心に居続けるつもりです」


 社長室で聞いた、星羅の冷たい声がよみがえった。


「でも、星羅はその子が生まれること自体を望んでいない」


 玲奈が顔を上げた。その表情はさらに険しくなっていた。


「では、あなたが直面しているのは一つの計画ではありません。利害の違う、二つの計画です」


 その後の数日で、私は玲奈が手配したセーフハウスへ移った。携帯電話と各種口座のパスワードを変え、実印、通帳、パスポート、信託関係書類をすべて別の場所へ移した。


 録音と警察への相談記録、そして婚姻関係が実質的に破綻している事情を確認したうえで、病院は改めて面談の機会を設けてくれた。


 子どもを連れて逃げることも考えた。けれど、生まれた瞬間にその子は信託へ組み込まれ、直哉が財産を支配するための道具となり、同時に星羅が排除しなければならない障害になる。


 九条家と直哉の監視の中で、この子を守り抜ける自信はなかった。彼らが私より先に動くかどうかを、命で賭けることもできなかった。


 手術の日、窓の外では細い雨が降っていた。麻酔から覚めると、白い病室のベッドの上で、腹部が空洞になったように痛んだ。それでも涙は、なかなか流れてこなかった。


 私はあんなにも、この子が来てくれることを待ち望んでいた。


 退院前、診療情報の取り扱いに関する同意欄へ署名し、玲奈にもすべての手続きと記録を厳重に保管してもらった。血の入った袋を用意することも、誰かに流産の責任を負わせる計画も立てなかった。


 見事な反撃を考える力など、残っていなかった。


 あのときの私は、ただこの結婚から生きて出たかった。



 数日後、九条家は星羅の帰国記念レセプションを開いた。彼女はパリでのブランドマネジメント課程を終え、正式に九条グループのブランド戦略室へ入る予定だった。


 父は銀行、メディア、ファッション業界の有力者を招待していた。直哉はその会場へ入るため、何事もなかったかのようにセーフハウスまで私を迎えに来た。


「紫乃、どうして最近、家に戻らないんだ?」


「体調が悪いの。玲奈さんに、しばらく環境を変えて休むよう勧められたから」


 一瞬だけ警戒が目に浮かんだが、すぐに優しい笑顔へ戻った。


「今夜の星羅のレセプションは、会社にとって本当に大切なんだ。君も一緒に来てほしい。疲れさせないと約束する」


 私を心配しているのではない。九条家の婿という立場で会場へ入りたいだけだった。それでも、まだ妊娠が続いていると信じさせるため、私は最後にうなずいた。


 レセプションは、皇城町にある皇城グランドホテルで開かれた。会場へ入るなり、直哉は私を隅へ残し、グラスを手に挨拶回りを始めた。


 少し離れた場所では、銀白色のドレスをまとった星羅が父の隣に立っていた。丁寧に磨き上げられ、展示された「後継者」という作品のようだった。


 父が星羅のグループ入りを発表すると、会場は盛大な拍手に包まれた。マイクを受け取った星羅は、突然こちらへ笑顔を向けた。


「もう一つ、お姉さまにも贈り物を渡したいと思います。ご懐妊なさったと聞いて、私も心からうれしく思っています」


 スタッフが私へスポットライトを当てた。星羅は親しげに腕を絡め、星形の髪留めを取り出すと、わざと左側の髪をすべて耳へかけた。


 傷痕が照明とカメラの前へさらされ、すぐに周囲から抑えたささやき声が上がった。


「あの傷、写真で見るよりずっと目立つわね」


「お母さまが昔、会長の家庭を壊したそうよ」


「それでも九条家が娘として認めているんだから、十分寛大でしょう」


 以前の私なら、すぐにうつむいて髪を戻しただろう。けれどその日は、目の前で笑う星羅を見ながら、昨夜、私と子どもの命を語っていた声を思い出していた。


「贈り物をありがとう」


 星羅の目に勝ち誇った光が浮かんだ。


 私は髪留めを外し、彼女の手のひらへ戻した。


「それから、十三歳のときにこの傷を残してくれたことにも感謝しているわ。おかげで、笑いかけながら私の血を待っている人を、見分けられるようになったから」


 会場が一瞬、静まり返った。人前で過去を口にするとは思わなかったのだろう。星羅の笑顔が固まった。


「お姉さま、あれは子どものころの事故でしょう?」


「事故だったかどうかは、あなたが一番よく知っている」


 それ以上は争わなかった。彼女が最も望んでいるのは、私がカメラの前で取り乱すことだ。もう、その芝居に協力するつもりはなかった。



 帰りの車内で、直哉は不機嫌そうに、星羅を怒らせるべきではなかったと私を責めた。将来、九条グループを継ぐのは星羅であり、相馬クリエイティブの仕事の大半もグループから来ている。私の数言で重要な契約を失うかもしれない、と言った。


「彼女が大勢の前で私の傷をさらしたとき、どうして助けに来なかったの?」


「君たちは姉妹だ。俺が口を挟むのはよくない。それに、星羅はただ贈り物を渡しただけで、悪意なんてないだろう」


 窓ガラスに映った横顔を見つめた。私がかつて愛したのは、この男ではなかった。彼が私のために用意した仮面を、愛だと思い込んでいただけだった。


「分かったわ」


 その夜、私はマンションへ戻らなかった。


 翌日、録音データを持って白鷺台の九条家本邸へ向かった。




3



 父は書斎で録音を聞き終えると、私の身を案じるより先に、同じデータがほかにも存在するかを確認した。向かいのソファに座る美沙子は、一瞬だけ顔色を変えたものの、すぐ平静を取り戻した。


「前後の文脈も分からない録音では、何の証明にもなりません」


「星羅は、どうして私が資格放棄書へ署名していないのかと聞いています」


「家族内の争いを心配しただけでしょう。妊娠してから情緒が不安定になって、二人の言葉を誤解したのではなくて?」


 私は父へ顔を向けた。


「直哉は、子どもが生まれたあとで私に事故を起こすつもりです。星羅は、その子が生きていることさえ望んでいない。それでも誤解だと思うの?」


 父は眉を寄せた。娘の命に関わる話ではなく、厄介な取引上の問題を処理しているような顔だった。


「弁護士には調べさせる。だが、この件を外へ漏らすことは許さん。星羅は来月から取締役候補として育成に入る。後継者が義兄と不貞関係にあり、しかも殺害計画まで疑われるなどという醜聞に、九条家は耐えられない」


「だから、すべてを耐えるのは私でなければならないの?」


「まず直哉と穏便に離婚しろ。しばらく日本を離れていればいい。グループが生活は保障するし、祖父がお前に残した個人信託にも手を付けない」


 書斎の中央に立ちながら、十三歳のあの日を思い出した。あのときも父は、起きてしまったことを蒸し返せば家の恥になる、と言った。


「私が断ったら?」


 美沙子が冷ややかに私を見た。


「相馬クリエイティブの顧客の大半は、九条グループです。あなたは五十五%を保有していても、経営には一度も関わっていない。グループが取引を打ち切れば、あの会社は三か月も持ちませんよ」


「脅しているの?」


「忠告しているだけです。今のあなたに必要なのは静かな療養であって、自分と九条家の名誉を一緒に壊すことではありません」


 そのときようやく、美沙子は直哉と星羅の関係を以前から知っていたのだろうと悟った。二人が本当に私を殺そうとしているかどうかさえ、彼女には重要ではない。


 星羅が滞りなく後継者になれるか。それだけが問題なのだ。


 最後に父が私を見た。声には一片の温度もなかった。


「紫乃、お前の出生によって、この家は一度すでに醜聞を背負わされた。これ以上、全員に代償を払わせるな」


 その瞬間、父に対して残っていた最後の期待が消えた。


 妊娠を終えたことは、誰にも告げなかった。本邸を出たあと、車の中で長いあいだ動けずにいた。それからようやく玲奈へ電話をかけた。


「離婚の準備をしてください」


 直哉は初め、離婚を拒んだ。一時の迷いだったと泣いて謝り、次には私が私的な会話を盗み録りしたと責め、最後には九条家の圧力を持ち出して、秘密保持契約と次順位資格の放棄書へ署名するよう迫った。


 玲奈は、タイムスタンプ認証を済ませた録音、保険関係書類、不審な検索履歴、財産管理権限の草案を、彼の前へ静かに並べた。


「紫乃さんは公表を控えることができます。ただし、条件を決めるのは彼女です。これ以上引き延ばすなら、資料を警察、相馬クリエイティブの取締役会、そして信託機関へ提出します」


 直哉の顔色が、ようやく変わった。


 離婚協議は三週間続いた。私は相馬クリエイティブの議決権行使委任と会社印を取り戻し、汐浜区のマンション、個人信託、婚前財産を守った。次順位受益者としての資格を放棄することも拒んだ。


 直哉は離婚へ同意したが、最後の数日で中核社員を引き抜き、主要顧客を星羅が支配する新会社へ紹介し、九条グループにも前倒しで取引を打ち切らせた。


 法律上、私は相馬クリエイティブを取り戻した。


 現実に手にしたのは、受注を失い、負債だけが残った空の会社だった。


 署名の日、法律事務所へ現れた直哉は、惨めに落ちぶれてなどいなかった。高価なスーツを着て、その背後にはまだ九条家と星羅がおり、九条グループ関連会社の顧問職まで得ていた。


「紫乃、株を取り戻しただけで勝ったつもりか?」


「そんなこと、思っていないわ」


「九条家を離れれば、お前の持っているものなんて何の価値もない。いずれ星羅がグループを継ぐ。お前は顧客のいない会社を抱えているしかないんだ」


 かつて私を守ると誓った男を見ても、もう怒りは湧かなかった。ただ、あまりにも遅く訪れた理解だけが残っていた。


「あなたが私へ近づいたのは、私が九条姓だったから。今、星羅の隣に立っているのも、彼女が九条家を手に入れると思っているからでしょう」


 直哉は鼻で笑った。


「少なくとも、星羅は自分の価値を分かっている」


 子どもがもういないことは教えなかった。永遠に生まれない切り札を待たせ続けることが、あの時点で私に残された唯一の防御だった。


 離婚成立の翌日、九条家は、私たちが性格の不一致により円満に別れたと発表した。ほどなくメディアには、私が情緒不安定で結婚生活へ適応できなかったという記事が流れ始めた。


 妹の後継者という立場を妬み、夫と星羅の不適切な関係を捏造したのではないかと示唆する記事まであった。


 玲奈は録音を公表するかと尋ねたが、私は断った。二人がすでに殺害計画を実行へ移していたと証明するには、資料が足りない。九条グループに対抗できる社会的な立場も、私にはなかった。


 ここで戦いを始めれば、美沙子とグループの弁護士は、私の精神状態、中絶の診療記録、夫婦の私生活へ世間の目を向けるだろう。


 今は、退くしかなかった。



 日本を離れる前、私は東華都から電車で一時間ほど離れた海辺の町、凪浜市へ向かった。母の墓は、海を見下ろす常寂寺の墓地にあった。


 二十年以上、九条家は私が母を公に供養することを許さなかった。美沙子は、他人の家庭を壊した女を九条家の人間が悼む必要などない、と言っていた。


 墓石には「桐谷香澄」とだけ刻まれていた。白い桔梗を供え、湿った石段の前へ座り、私はようやく声を上げて泣いた。


「お母さん、私はどうしたらいいの?」


 背後から、ためらうような足音が聞こえた。


「あの……もしかして、紫乃ちゃん?」


 振り返ると、同じ白い桔梗を抱えた五十代の女性が立っていた。佐伯真理子と名乗ったその人は、若いころ母と一緒に九条家で働き、毎年、命日には欠かさずここへ来ているという。


 真理子さんは、母が九条夫人になろうとしたことなど一度もなかったと教えてくれた。祖母が重い病に倒れたとき、父は治療費を負担する代わりに、母をそばへ置いた。


 母は何度も逃げようとした。けれど病院も、仕事も、住む場所も九条家に握られ、どこにも行けなかった。


「香澄が一番怖がっていたのは、あなたがいつか、他人の家庭を壊した女の子どもだと言われることだったの」


 真理子さんは古びた布袋を取り出した。中には日記、病院の領収書、小さな録音テープが入っていた。


 母が亡くなったあと、母と親しかった使用人は全員解雇され、真理子さんも二度と母のことを口にするなと警告されたという。


 日記には、美沙子が長年不妊に悩んでいたにもかかわらず、母の妊娠後、突然自分も妊娠したと発表したことが記されていた。二人は同じ日に、九条家と長く付き合いのあった榊原産婦人科医院へ運ばれた。


 母は難産で亡くなり、美沙子は星羅を抱いて本邸へ戻った。星羅の正式な出生記録を見た者はおらず、その医院も数年後には閉鎖されていた。


 幼いころ、美沙子が書斎で電話の相手へ怒鳴っていた場面を思い出した。


「そのお金を、いったいいつまで払い続ければいいの?」


 当時は意味が分からなかった。けれど今、その言葉が、暗闇の中から伸びてきた一本の糸のように思えた。


「真理子さん、医院の名前を覚えていますか?」


 彼女はうなずき、紙に名前を書いた。


 墓地を離れる前、真理子さんが私の手を握った。


「香澄が最後に願っていたのは、あなたが無事に大人になることだけ。自分の代わりに復讐してほしいなんて、思っていなかった」


「分かっています」


 墓石に刻まれた母の名を見つめ、静かに答えた。


「でも、私が永遠に黙っていたら、あの人たちはこれからも、被害を受けたほうが悪かったと言い続ける」


 翌日、相馬クリエイティブに残った事業と売却可能な資産を専門家へ任せ、母の遺品と守り抜いた資金を持ってパリへ渡った。


 私は勝者ではなかった。


 ただ、ようやく逃げ出せただけだった。



4



 パリは、九条家を離れた私へ自動的に新しい人生を与えてくれたわけではない。最初の半年は狭いアパルトマンで暮らし、昼はアトリエで生地を整理し、夜は自分のデザインを描き直した。


 公に示せる経歴も、自分のブランドもなかった。しかも、私が十代のころに描いた数作品は、すでに星羅が九条グループ名義で登録していたため、初めてバイヤーへ作品を見せたときには、日本の大企業を模倣したのではないかと疑われた。


 パリを拠点に活動するデザイナー、セシル・ローランは私のスケッチを見ても、代わりに弁明してはくれなかった。ただ、過去の作品をすべて箱へしまうよう命じた。


「紫乃、あなたはずっと、周囲が期待する『九条らしい服』を描いている。誰が見ても、これはあなただけの作品だと分かるコレクションを作りなさい」


 納得できない部分もあったが、言い返さなかった。最初のコレクションはすべてのバイヤーに断られ、二作目は数着しか売れず、三作目でようやく小規模なインディペンデント展示会から注目された。


 失敗を重ねて初めて、九条家を離れたからといって、すぐ自分自身になれるわけではないと知った。彼らが私の中に残していった声を、一つずつ消していかなければならなかった。


 私は「KASUMI」という名を使い続けた。母の名から取ったその言葉は、自分のために残した秘密の通路のようでもあった。


 昼はパターン、生地、ブランド運営を学び、夜は母の日記を整理した。玲奈には、日本の調査会社を通じて榊原産婦人科医院の行方を追ってもらった。


 頬の傷痕にも数度の修復手術を受けた。大きく盛り上がっていた痕は、少しずつ細い線へ変わった。治療が最も痛む夜には、いつも十三歳の自分を思い出した。


 以前は、傷痕が残っている限り、星羅が勝った証拠になると思っていた。けれど、本当に私を縛っていたのは傷ではなく、他人の評価を自分の価値だと信じていたことだった。


 二年目の春、アジア系の独立デザイナーを対象にした展示会で、一ノ瀬怜司と出会った。彼は日本人で、長くフランスでブランド投資と小売コンサルティング会社を経営し、アジアに背景を持つ新しいブランドを支援しようとしていた。


 初対面で事業計画書を最後まで読み終えると、彼は一言だけ告げた。


「デザインはいい。経営は壊滅的だ」


「それなら、投資しなければいいでしょう」


「投資したいからこそ、あなたが耳の痛い話を聞ける人か確認している」


 彼は私の顔を見て言葉を止めることも、なぜカメラを避けるのか尋ねることもなかった。在庫、価格設定、サプライチェーンの問題を次々と指摘し、私が最も自信を持っていたデザインまで容赦なく批判した。


 最初の会議は険悪なまま終わった。それでも翌日、彼は秘書を通じて、詳細な市場分析資料を届けてきた。


 すべて読み終えたあと、私から電話をかけた。


「次はいつ話せますか?」


「今夜七時。少なくとも三日は怒っていると思っていた」


「そんな時間はありません」


 それから私たちは、ビジネスパートナーになった。怜司がブランド設計と販路を担当し、私はデザインと商品を担当した。予算と表現をめぐって何度も衝突し、深夜まで一緒に発表計画を修正する日も増えた。


 ある発表会の直前、カメラマンが何度もストロボをたいた瞬間、身体が反射的にこわばった。怜司は人前で理由を尋ねず、撮影を自然光と会場照明だけに切り替えさせた。


 終了後、黙って温かい水を置いた。


「出たくない撮影は、これから断っていい」


「ブランドには露出が必要です」


「露出のために、あなたが苦しむ必要はない」


 すぐには答えられなかった。直哉も以前は優しかったが、その優しさには必ず目的があった。怜司の示す尊重は、愛されやすい人間へ先に変わることを私へ求めなかった。


 私たちは一年近くかけて、KASUMIを小さなアトリエから安定して商品を供給できる独立ブランドへ育てた。三年目の春、私のコレクションはパリ・ファッションウィークの新人部門に選ばれ、複数の百貨店やセレクトショップから長期契約の打診が届いた。


 怜司が経営する一ノ瀬ブランドパートナーズでも、東華都にアジア事業拠点を設ける計画が取締役会で承認された。


 祝賀会のあと、怜司と長いあいだセーヌ川沿いを歩いた。彼はふいに、日本へ帰るという話を聞くたび、なぜ私が黙るのかと尋ねた。


 橋のたもとで立ち止まり、私は初めて九条家、直哉、妊娠を終わらせたこと、そして録音について話した。すべてを聞けば、慰めるか、過去を忘れるよう勧めると思っていた。


 けれど彼が口にしたのは、一つの質問だけだった。


「それでも、日本へ帰りたい?」


「帰りたい」


「復讐のために?」


「母のためでもある。母を、主人を誘惑した女として永遠に残したくない」


 怜司は少し黙り、こちらへ手を差し出した。すぐに触れようとはせず、私が決めるのを待っていた。


「なら、準備ができるまで待てばいい。勇敢だと証明するために、もう一人で帰る必要はない」


 宙に止まったその手を見つめ、最後に自分の手を重ねた。



5



 三年目の夏、調査は大きく進展した。榊原産婦人科医院はすでに閉鎖されていたが、当時研修中だった看護師が、夜間に撮影した数本の映像を保管していた。


 その看護師は、医院が乳児の違法な引き渡しと診療記録の改ざんに関与しているのではないかと疑い、秘密裏に受け渡しの様子を記録していた。そのうちの一本には、美沙子が偽の腹部を外し、医師から生まれたばかりの女児を受け取る姿がはっきり映っていた。


 その女児が、星羅だった。


 調査員はさらに、美沙子が二十年以上、カナダの一つの口座へ送金を続けていた事実を突き止めた。口座名義人の高橋絵里は、自分が星羅の実母であると認めた。


 当時、借金を抱えていた彼女は仲介人へ子どもを渡し、後になって娘が九条家の後継者として出生届を出されていたことを知った。美沙子は沈黙させるため、毎年一定額を支払い続けていた。


 私的に行ったDNA鑑定の予備報告では、星羅は美沙子の娘でも、父の娘でもなかった。さらに重要なのは、海外の検査機関から、三年前に星羅本人の旅券情報を使って申し込まれた鑑定記録が見つかったことだった。


 星羅は、直哉と私を害する計画を立てるより前から、自分が九条家の血を引いていないと知っていた。


 玲奈は続いて、星羅と美沙子のLINEデータの一部を入手した。星羅は、私が信託機関へ血縁資格の異議を申し立てたらどうなるのかと母へ尋ねていた。


 美沙子の返答は簡潔だった。紫乃が放棄書へ署名するか、二度と異議を申し立てられない状態になれば、第一順位は変わらない――と。


 すべての線が、ようやく一つにつながった。


 幼いころの星羅は、本当に自分が九条家の実の娘だと信じていたのかもしれない。けれど成人後に真実を知りながら、彼女は後継者の座へ居続け、直哉とともに私へ資格放棄を迫った。


 彼女が恐れていたのは、私に生活を奪われることではなかった。その生活が最初から欺瞞の上に築かれていたと、真実によって証明されることだった。


 同じころ、KASUMIは日本市場への進出準備を始めていた。一ノ瀬ブランドパートナーズは東華都にアジア本部を設け、経営難に陥った日本の老舗アパレル企業を買収する計画を進めていた。


 怜司には怜司自身の事業目的がある。私たちは同じ方向へ進むことができた。


 出発前夜、私は調査資料をすべてテーブルへ並べた。


「帰国すれば、九条家は必ずあなたを調べる。私の弱点として利用しようとするはずよ」


 怜司は資料を閉じた。


「だから、僕にはパリへ残ってほしい?」


「普通のブランド発表のために帰るんじゃない。それだけは分かっていてほしいの」


「分かっている」


 彼は穏やかな目で私を見た。


「一緒に帰るのは、君の代わりに復讐する人間が必要だからじゃない。君がどこへ帰っても、これからも一緒に暮らし、働き、愛していきたいからだ」


 しばらく何も言えなかった。かつて直哉を唯一の救いだと思っていた私は、裏切りを知ったとき、世界そのものが崩れたように感じた。


 今はもう、一人で立てる。それができるようになって初めて、誰かと未来を分け合いたいと認める勇気を持てた。


「怜司、日本へ戻っても、私はあなたの後ろに隠れない」


「僕も、君の前に立つつもりはない」


 三年ぶりに、私はデザイナーKASUMIとして東華都へ戻った。


 東華国際空港の広告モニターでは、九条グループの次期後継者を紹介する映像が流れていた。星羅は父の隣で品よく微笑んでいる。


 画面の下には、別のニュースも表示されていた。九条星羅と相馬直哉、近日婚約発表――。


 直哉はついに、自分が本当に価値ある女だと思う相手を手に入れた。


 星羅も、一族の事業承継信託における支配株式の承継手続きを目前にしていた。


 二人とも、私にはもう戻って奪い返す資格などないと信じていた。



6



 KASUMIが東華都で開いた最初の発表会は、大きな注目を集めた。九条グループは近年、デザイン面での評価を落としており、星羅が主導した複数のコレクションは、私の初期作品と酷似していた。


 メディアはすぐに、パリから戻ったデザイナーと、長年公の場から姿を消していた九条家の次女が、同じ顔をしていることに気づいた。


 私は身元を隠さなかった。


「私は九条紫乃であり、KASUMIです。ただし、このブランドは九条グループとは一切関係ありません」


 発表会が終わると、直哉がバックステージへ現れた。三年前よりも身なりに金をかけ、スーツも腕時計も九条グループの提携ブランドでそろえ、胸元にはグループ顧問の証明書を下げていた。


「紫乃、久しぶりだな」


「相馬さん、お久しぶりです」


 他人行儀な呼び方に、彼の表情が一瞬固まった。すぐ笑顔を取り戻し、録音も、離婚も、あの脅しも存在しなかったように振る舞った。


「パリではうまくやっているようだな。星羅も君の帰国を知っている。父親の六十歳の誕生日会へ招待したいと言っていたよ」


「結婚するの?」


「来月、公表する。君も理解したほうがいい。九条家の本当の後継者は星羅だ」


 得意げな顔を見ていると、笑いそうになった。三年前、私にはもう利用価値がないと判断して星羅の隣へ移った男は、自分が結婚しようとしている女が信託の資格を満たしていないことを、まだ知らなかった。


「おめでとう」


 ここまで平静に返されるとは思わなかったらしい。立ち去る前、直哉は声を低くした。


「過去を調べるのはやめろ。もう自分のブランドがあるんだ。今さら戻って、全員の生活を壊す必要はない」


「何を怖がっているの?」


「忠告しているだけだ。パリの小さなアトリエが、九条家に対抗できると思わないほうがいい」


 直哉が去ると、反対側から怜司が歩いてきた。傷ついたかどうかは尋ねず、届いたばかりの資料を差し出した。


 相馬クリエイティブの過去三年間の会計資料と、知的財産権の移転記録だった。


 離婚後、私は会社の過半数株式を保有したまま、整理を専門家に任せていた。直哉と星羅はその間に、主要なデザイン、顧客、人材を九条グループの新会社へ移し、本来は相馬クリエイティブが所有する商標まで不当に安い価格で売却していた。


 当時の私には追及する力がなかった。今なら、これらの記録をもとに民事訴訟と役員責任の追及を再開できる。


 最初にするのは、DNAを公表することではない。


 直哉が私から奪ったものを、先に取り戻すことだった。


 玲奈は私の代理人として、相馬クリエイティブの旧経営陣と九条グループへ内容証明を送り、不正に移転された商標、デザイン、資金の返還を求めた。


 同時に私は、十年以上前の原画、制作日時の記録、メールのやり取りを公表し、星羅が手掛けたとされる複数のコレクションが私の作品をもとにしていることを示した。


 当初、メディアは姉妹間のデザイン争いとして扱った。けれど第三者機関が紙、データの作成日時、メールサーバーの履歴を確認すると、九条グループは該当商品の販売を停止せざるを得なくなった。


 複数の百貨店から使用権限の説明を求められ、星羅は初めて公の場で余裕を失った。


 彼女から、花菱通りの会員制ラウンジへ呼び出された。


「昔のデザインを取り返すためだけに、戻ってきたの?」


「あなたには昔のデザインでも、私には、あなたが子どものころから盗み続けたものよ」


「数枚の絵が自分のものだと証明すれば、九条グループへ入れると思っているの? 祖父が第一順位に指定したのは私よ」


「知っているわ」


 その答えに、星羅の肩からわずかに力が抜けた。私はゆっくりと続きを口にした。


「でも、祖父の信託には血縁資格の条件もある。それは、あなたが誰よりよく知っているでしょう」


 星羅のカップが受け皿へ強く当たり、乾いた音を立てた。


 その瞬間、彼女が以前から真実を知っていたことを確信した。


「何を言っているの?」


「別に。正式な承継手続きの前なら、次順位受益者は信託機関へ資格異議を申し立てられる。そう伝えたかっただけ」


 顔から血の気が引いていた。それでも無理に笑おうとした。


「証拠なんてないくせに」


「それなら、どうして怖がっているの?」


 証拠はすでに、弁護士によって保全されている。私が必要としていたのは、三年前に追い出した女が戻ったこと、そして今の私は一言で怯えて引き下がる紫乃ではないと、彼女へ理解させることだけだった。


 その夜、直哉から電話がかかってきた。


「今日、星羅に何を言った?」


「本人から聞いていないの?」


「紫乃、俺たちを仲違いさせようとするな」


「あなたが彼女を選んだのは、九条家を継ぐ女だと思ったからでしょう。星羅があなたに何を隠しているか、考えたことはある?」


 電話の向こうで、長い沈黙が続いた。


 ようやく、ひびが入った。



7



 直哉は人知れず星羅を調べ始めた。婚約者として信託の承継書類へ触れようとしたが、星羅と美沙子は血縁資格に関する条項だけは、決して見せようとしなかった。


 さらに、過去のメールから、星羅が三年前に海外の検査機関へ連絡していたことも知った。


 星羅も、直哉が書類を複製していることに気づいた。自分が受益資格を失ったあと、私を害する計画をすべて星羅の責任にするつもりなのかと問い詰めた。


 利益によって結びついた二人は、相手もまた利益のために自分を先に裏切るのではないかと、ようやく恐れ始めた。


 私は真実をすぐ公表せず、相馬クリエイティブに関する訴訟を進めた。裁判所の仮処分によって、争いのある商標と一部資金が凍結された。


 九条グループの内部監査でも、離婚直前に直哉が職務権限を利用して会社資金を移転した事実が見つかった。グループを守るため、父は初めて直哉へ顧問職から一時退くよう命じた。


 直哉はようやく理解した。星羅と九条家を失えば、自分は妻の資金で事業を始めた男へ戻るだけなのだと。


 私のもとへ来たとき、発表会の裏で見せた余裕は消えていた。


「星羅は九条家の実の娘じゃない。そうなんだろう?」


「なぜ私に聞くの?」


「君はDNAの証拠を持っている。それを俺に渡せば、当時の計画は全部星羅が言い出したと証明できる。調査にも協力するし、相馬クリエイティブの金も全部返す」


「謝りに来たの? それとも星羅に価値がないと分かって、次の賭け先を探しに来たの?」


 直哉の顔が青ざめ、次には赤くなった。


「紫乃、あのころの俺が間違っていたのは認める。でも、俺たちは夫婦だっただろう」


「夫婦?」


 私は初めて、本当に笑った。


「星羅と私の殺し方を話していたときも、自分たちが夫婦だったことを覚えていた?」


 彼は声を潜めた。


「あれは計画だけだ。実際には何もしていない」


「私が先に逃げたからよ」


 証拠を渡すことはしなかった。その代わり、玲奈を通じて、一部だけを抜き出したLINE記録を匿名で星羅へ届けた。


 そこには、婚約者が受益資格を失った場合、自分は知らなかったことを理由に婚約を解消できるか、証人として捜査へ協力すれば処分が軽くなるかと、直哉が弁護士へ相談した記録があった。


 星羅はその夜、直哉が高額な生命保険を契約した記録、事故死について検索した履歴、未成年者の財産管理を相談した資料を、自分の弁護士へ渡した。これで直哉を抑えられると思ったのだろう。


 ところが翌日、直哉は、星羅と美沙子が「紫乃を異議申立てのできない状態にする」と話していたチャットをすべて複製した。


 二人はついに、互いを売るための証拠を残し始めた。


 父の六十歳の誕生日会が近づいていた。九条グループは、その席で星羅がブランド事業責任者へ正式に就任することを発表し、一族の事業承継信託における支配株式の承継手続きも開始する予定だった。


 信託機関はすでに私の資格異議申立てを受理し、内部では手続きを凍結していた。しかし九条家は、まだその事実を公表していなかった。


 美沙子から電話がかかってきた。彼女が自分から連絡してきたのは、三年ぶりだった。


「紫乃、あなたのお母さまは二十年以上前に亡くなっています。これ以上調べても、全員が恥をかくだけよ」


「恥ずべきなのは、母が何をされたかですか。それとも、あなたたちが何をしたかですか?」


「あなたはパリで成功し、新しい男までいる。どうして今さら戻って、星羅の場所を奪おうとするの?」


「彼女の場所を欲しいと思ったことはありません」


 テーブルに置かれた信託契約書を見つめた。


「証明したいのは、欺いて手に入れた場所へ、彼女には立つ資格がないということです」


 美沙子の声が、初めて平静を失った。


「星羅だって被害者よ。生まれたときは何も知らなかった」


「生まれたときは知らなかったでしょうね。三年前も、本当に知らなかったんですか?」


 電話の向こうが、突然静まり返った。


 私は続けた。


「誕生日会の前に、あなた自身が信託機関へ真実を説明することもできます。私が公表するのを待つこともできる。まだ選択権はあります」


 返事はなく、電話は切られた。


 彼女が自分から認めることはないと分かっていた。二十年以上守ってきたのは星羅ではない。九条夫人であり、後継者の母であり、勝者である自分自身の立場だった。


 誕生日会の前日、玲奈から、すべての資料を信託機関、警察、戸籍と親子関係を扱う弁護団へ提出したと連絡があった。


 旧医院の映像、送金記録、星羅の実母の証言、私的DNA鑑定報告、そして星羅が以前から知っていたことを示す記録は、すべて正式に証拠保全された。


 怜司は、本当に会場へ行くのかと尋ねた。


「正式な手続きはもう始まっている。君が直接、あの人たちの前へ立つ必要はない」


「母は二十年以上、あの人たちに公の場で汚名を着せられてきた」


 衣装掛けからドレスを外した。左頬の傷痕は、もう髪で隠していなかった。


「母に代わって、私自身の口で言いたいことがあるの」



8



 父の六十歳の誕生日会は、三年前と同じ皇城町の皇城グランドホテルで開かれた。あの日、星羅は同じ会場で私の傷痕を大勢へさらした。


 三年後、私は怜司の腕を取り、同じ宴会場へ足を踏み入れた。記者のカメラは変わらず私を追ったが、向けられる視線はまるで違っていた。


 パリから帰国したデザイナーと呼ぶ者もいれば、KASUMIの日本進出計画を話す者もいた。怜司が日本の老舗アパレル企業の買収を進める投資家だと気づく者もいた。


 九条家はもう私を、家族へ依存し、結婚に失敗して精神を病んだ女として世間へ見せることができなかった。


 星羅はメインステージのそばに立ち、顔色を失っていた。直哉とは半歩ほど距離を空け、互いの様子を探っている。婚約を目前にした男女の親密さは、どこにもなかった。


 父は挨拶を終えると、星羅がブランド事業責任者へ正式に就任し、事業承継信託の承継手続きも始めると発表した。拍手が起きた直後、司会者へスタッフが一枚の紙を渡した。


 司会者の表情が、目に見えてこわばった。


 信託機関から、次順位受益者による血縁資格の異議申立てを理由に、承継手続きを停止するとの通知が届いたのだ。


 会場がざわめいた。父は私を見た。その目に初めて、本当の動揺が浮かんだ。


「紫乃、何をした?」


 私はステージへ上がった。会場のシステムへ勝手に触れることも、誰かに映像設備を乗っ取らせることもしていない。


 映像上映は「九条家の歴史を振り返る資料」として事前に申請され、弁護士は開宴前にすべての証拠を関係機関へ提出していた。


「お父さま、今日はお誕生日です。二十年以上前に残された映像を、皆さまと一緒に見ていただきたいと思います」


 スクリーンに、榊原産婦人科医院の薄暗い廊下が映った。美沙子が偽の腹部を外し、医師から女児を受け取る姿が流れる。


 続いて、長年にわたる海外送金記録、高橋絵里の証言概要、正式な再鑑定を求める法的書類が表示された。


 美沙子が勢いよく立ち上がった。


「止めなさい! 全部、偽造よ!」


「原本は第三者機関の鑑定を受けています。高橋絵里さんも、正式な調査に応じる意思を示しています」


 星羅はステージへ駆け上がってマイクを奪おうとしたが、スタッフに止められた。父を振り返った声は震えていた。


「お父さま、私は何も知らなかったの。私もお母さまにだまされていたのよ」


 私は次の資料を司会者へ渡した。スクリーンには、星羅が三年前にDNA鑑定を依頼した記録と、美沙子とのLINEが映し出された。


「彼女は、ずっと前から知っていました」


 宴会場から、すべての音が消えた。


 星羅は画面を凝視し、顔から少しずつ血の気を失った。突然、直哉を指さした。


「この人に脅されたの! 紫乃の信託を手に入れるために、子どもが生まれたあと事故を起こそうと言い出したのは直哉よ!」


 直哉は、まるでこの瞬間を待っていたかのように、鞄から印刷資料を取り出した。


「紫乃と子どもを一緒に消したがったのは、お前だ。あの子が生きている限り、自分は九条家で唯一の後継者になれないと言っただろう」


「でたらめよ!」


「録音もチャットも残っている。お前と美沙子さんは、紫乃に放棄書を署名させろと俺に迫り、車の事故まで手配させようとした」


 星羅は甲高い声で否定し、今度は直哉が高額保険へ加入した記録、未成年者の財産管理を弁護士へ相談した資料、産後うつと事故死について検索した履歴を取り出した。


 二人は大勢の前で、自分を守るために準備した証拠を一つずつ投げ合った。それによって、三年前の会話が怒りに任せた冗談ではなかったことを、自ら完全に証明した。


 父はステージに立ったまま、十歳も年を取ったように見えた。星羅を見て、次に私を見た。唇を何度か動かし、ようやく声を出した。


「なぜ、もっと早く私に言わなかった?」


「言いました」


 私は父の目を見た。


「三年前、録音を持ってあなたの書斎へ行きました。夫と星羅が私の死を相談する声を聞いても、あなたは、九条家が醜聞に耐えられないから、穏便に離婚して日本を離れろと言った」


 父はその場で硬直した。


「星羅が九条家の実子ではないことを、あなたは知らなかった。でも、私が傷つけられていることは知っていた。それでも私を犠牲にした」


 美沙子が駆け寄り、泣きながら、自分は家庭を失うのが怖かっただけだと言った。星羅は生まれたとき何も選べなかったのだから、血のつながりがないという理由だけで、すべてを奪われるべきではないと訴えた。


「自分の出生について責任を負う必要は、もちろんありません」


 私は星羅へ向き直った。


「責任を負うべきなのは、真実を知ったあとも私の作品を盗み、私の夫と関係を持ち、資格放棄を迫り、私を消す計画へ加わったことです」


 勝ったとは宣言しなかった。その場で誰かを有罪にしろとも求めなかった。


 信託資格、虚偽の出生届と親子関係、私を害する計画は、これから正式な調査と司法手続きへ入る。今夜の目的はただ一つ、九条家が二度と真実を書斎の中へ閉じ込められないようにすることだった。



 ホテルを出ると、東華都には細い雨が降っていた。怜司が傘を開き、私の側へ少し傾けた。


「寒い?」


「寒くない」


 雨ににじむ街の灯りを見つめた。想像していたような爽快感はなかった。


 星羅の正体を明らかにしたことは、まだ最初の一歩にすぎない。母から奪われた名前も、九条家によって二十年以上定義されてきた私の人生も、これから取り戻さなければならなかった。



9



 誕生日会のあと、信託機関は星羅の第一順位受益者資格を正式に停止し、裁判所へ親子関係と詐欺の確認を申し立てた。第三者機関が改めて採取した試料によるDNA鑑定も、私的調査と同じ結果を示した。


 星羅は父と美沙子の実子ではなかった。美沙子は、虚偽の出生届と出生証明書の偽造、長年の口止め料、承継資格審査の妨害に関与した疑いで調査を受けることになった。


 星羅が資格を失ったのは、「高貴な血筋ではなかった」からではない。第一順位を得た前提そのものが、偽造と欺瞞によって作られていたからだ。


 成人後に真実を知りながら隠蔽と加害に参加した以上、自分もすべての被害者だったと主張することはできなかった。


 直哉も、星羅を売ったからといって許されたわけではない。三年前の録音、保険書類、車両事故の準備、財産管理権限の委任書、そして本人が保存していたチャットが一つの証拠の流れを作った。


 警察は、財産上の利益を得る目的で配偶者へ危害を加える準備をしていた可能性について、改めて捜査を始めた。相馬クリエイティブの資金移転と商標処分は、民事訴訟と取締役責任の手続きへ進んだ。


 直哉は一度、私へ助けを求めてきた。


「紫乃、証言する。金も全部返す。だから弁護士に、あのとき本気で実行するつもりはなかったと言ってくれ」


「本気だったかどうかは、あなたが契約した保険、相談した弁護士、準備した車が答えているわ」


「俺は星羅にだまされたんだ」


「私へ近づいたときも、愛していると言った。星羅のほうが価値があると思ったら、彼女と一緒に私の死を計画した。そして今、星羅に相続価値がないと知ったら、自分も被害者だったと言いに来た」


 三年間、胸の奥へ押し込めていた言葉を、ようやく口にした。


「直哉、あなたは誰も愛したことがない。自分を上へ運んでくれる人間だけを愛しているのよ」


 彼は九条グループの顧問職を失い、不正に移した会社資金の返還も求められた。九条家の契約と私の資金がなくなると、自慢していた事業が一度も本当の意味で自分のものではなかったと、すぐ思い知った。


 父からは何度も電話がかかってきた。最初は証拠の入手経路を説明するため本邸へ戻れと命じ、やがて声を弱め、最後には初めて父親らしい口調で、家族全員で話し合いたいと言った。


 私は白鷺台へ戻らなかった。


 あそこは一度も、私の家ではなかった。


 九条グループそのものが、一度の出生醜聞だけで崩壊したわけではない。ただし、デザイン盗用と経営陣への信用失墜によって、取締役会は後継体制を全面的に見直した。


 さらに調査では、星羅が後継者としてのイメージを守るため、縫製委託工場で起きた重大事故の内部報告を廃棄するよう社員へ指示していたことも判明した。アパレル事業に直結する問題であり、父も会長職へとどまることはできなかった。


 取締役会は最終的に父を解任し、グループは数か月にわたる監査と事業再編へ入った。無関係な従業員と正常な事業を守るため、KASUMIと一ノ瀬ブランドパートナーズが取得したのは、中核デザイン部門と一部ブランド資産だけだった。


 残る事業は、外部の専門経営者へ委ねた。


 一族の事業承継信託で星羅の資格失効が確認されると、私は次順位受益者として承継対象になった。けれど、九条グループを、私を閉じ込める別の家族王国にはしなかった。


 支配株式は専門の受託者へ管理させ、独立社外取締役を導入し、委託工場の事故で被害を受けた家族への補償基金を設けた。


 かつて彼らが最も私へ与えたがらなかった資格を、私はようやく手にした。


 それでももう、その資格で自分の価値を証明する必要はなかった。



10



 母の日記と録音は、弁護士による確認を経て公表された。かつて九条家の説明をそのまま記事にしたメディアは、母の人生を改めて取材し、初めて彼女を一人の人間として、フルネームで紹介した。


 桐谷香澄は、会長を誘惑した使用人ではない。


 権力によって自由を奪われ、最期まで娘を守ろうとした被害者だった。


 記事が掲載された日、私は一人で凪浜市の常寂寺を訪れた。白い桔梗が風に揺れ、墓石の名は以前と同じように簡素だったが、もう昔ほど孤独には見えなかった。


「お母さん、ようやくみんなが、あなたが誰だったか知ってくれたよ」


 長いあいだ墓前に座ったが、勝ったとは報告しなかった。勝利と呼ばれるものが、失った子どもを戻してくれるわけではない。二十年以上、父の愛を得られなかった事実も変わらなかった。


 ただ、隠されていた出来事を、ようやく正しい言葉で語れるようになった。それだけだった。



 東華都へ戻ると、怜司は新しいアトリエで、チームとアジア向けコレクションの確認をしていた。私たちの関係を発表会の話題にすることも、九条家の醜聞をブランド宣伝へ利用することもなかった。


 公の場では、彼はKASUMIの投資家であり経営パートナーだった。二人きりのときも、私へ近づく前には、変わらず表情を確かめてくれた。


「パリのチームが、いつ戻るのか聞いている」


「来月。東華都のチームが安定したら、両方を行き来するつもり」


「それなら、僕もパリの会議を増やす必要があるな」


「会社の経費を私用に使おうとしていない?」


「私的な旅程として処理すればいい」


 思わず笑った。


 以前の私は、愛とは自分を誰かへ差し出し、守る価値があるかを相手に決めてもらうことだと思っていた。三年かけて自立を学び、誰も必要としないことこそ強さなのだと思いかけたこともある。


 怜司は、私に依存を求めなかった。


 ただ同じ道に立ち、一人で危険へ向かおうとするときは注意し、日本へ戻ると決めたときはその選択を尊重し、すべてが終わったあとには、次にどこへ行きたいかと尋ねてくれた。


「紫乃」


 彼は手を差し出し、いつものように、私との間にわずかな距離を残した。


「アトリエが落ち着いたら、結婚しよう」


「それは、プロポーズ?」


「そうだ。契約書はない。九条グループの株式を持ってくる必要もない」


 彼を見ながら、直哉が初めて私のデザインを褒めた日のことを思い出した。あのころは、たった一言の優しさで救われたと思った。


 今なら分かる。本当の愛は、資格も、財産も、声も、自分自身も、先に差し出せとは要求しない。


「私はほとんどの時間を仕事に使うし、何度もパリへ戻ると思う」


「知っている」


「従順な妻にはならない」


「僕が好きなのは、従順な君じゃない」


 私は彼の手のひらへ、自分の手を重ねた。


「はい」



11



 半年後、KASUMIの東華都アトリエが正式に開業した。九条グループに残ったデザインチームと若い社員の一部も新しい体制へ加わった。


 ブランドの未来は、どの一族の娘であるかではなく、本物の作品と専門能力によって決められるようになった。


 星羅と直哉は、思い描いていた結婚へたどり着けなかった。自分の責任を軽くするため、互いのチャット、送金記録、録音を次々と提出し、二人の間には長い捜査と訴訟だけが残った。


 美沙子は九条夫人としての体面を失った。父も会長職を辞したあと、初めて一つの事実と向き合うことになった。


 血のつながらない娘へすべての父性愛を注いだこと自体が、私を傷つけた理由ではない。自分が過去に犯した過ちを認めようとせず、その責任をいつも私と母へ負わせ続けたことが、私たちを傷つけたのだ。


 私は、父の後悔を世話するために戻らなかった。


 それは、父が一人で引き受けるべき人生だった。


 怜司との婚姻届では、一ノ瀬の姓を選んだ。法律上の名は一ノ瀬紫乃となったが、仕事では変わらずKASUMIを名乗った。


 結婚式には多くのメディアを招かず、セーヌ川に近い小さな教会で式を挙げた。真理子さんは白い桔梗を抱えて最前列へ座り、セシルがベールを整えてくれた。


 光の中に立つ怜司は、私の傷ではなく、まっすぐ目だけを見ていた。


 誓いを交わす前、彼が声を落として尋ねた。


「緊張している?」


「少しだけ」


「今なら、まだ引き返せる」


「あなたもね」


 彼は笑った。


「ずっと準備してきた。引き返すつもりはない」


 式が終わったあと、一人で教会の外へ出て、左頬に今も残る細い傷へ触れた。九条家はかつて、この傷を使って私が人前に出る価値のない娘だと証明しようとした。


 直哉も、私を操るための弱点として利用した。けれど今は、ただ私の身体の一部にすぎない。愛される価値があるかどうかを決めるものではなかった。


 母が私の無事な成長を願ったのは、私を一生、憎しみの中へ閉じ込めるためではない。


 九条家は私から名前と自信と選択を奪い、直哉は、一人の男を失えば世界まで失うのだと思い込ませた。


 けれどこれからは、誰を愛するか、どこへ行くか、どんな人間になるかを、自分で決められる。


 もう、誰かが隠したがる婚姻外の娘ではない。傷をつけられ、夫に裏切られた妻というだけの人間でもない。


 私は紫乃だ。


 デザイナーのKASUMIであり、自分の未来を自分で選べる一人の人間だ。


 今度の私は、誰かが救いに来るのを待たなかった。


 先に自分自身を救い、そのあとで、もう一度誰かを愛することを学んだ。




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