第20話
──深夜、佐野小春は逃げ場のない焦燥感とイラつきに発狂しそうだった。
ガシャァァァァンッ!!
鼓膜を貫く破壊音と共に、数百万円は下らないであろうアンティークの戸棚が、木っ端微塵に粉砕された。
破片が飛び散る高級マンションの一室。
薄暗い間接照明だけが照らすその部屋の中心で、荒い息を吐いているのは、井ノ原悠太だった。
「……クソが。まだ、馴染まねぇ……ッ!」
悠太は、血の滲んだ己の右腕を忌々しそうに睨みつけている。
その腕の皮膚の下には、まるで黒い蛇が這い回っているかのように、異常な色をした血管──『人工怪異』の霊脈が、ドクドクと不気味な脈動を打って浮かび上がっていた。
井ノ原グループでも異端である彼の父親が、四家を出し抜くために進めている『プロジェクト・キメラ』。
その研究成果を、悠太の霊脈に埋め込んだのだ。
ソファに深く沈んでいた自らの身体を起こし、尋ねる。
「痛い? 悠太」
「……あぁ? 小春か。チッ、見ての通りだ。親父の奴、まだ調整段階のモンを俺に埋め込みやがって……。だが、力は漲ってくる。今の腑抜けた四家のエリート共なんか、今の俺なら素手で引き裂けるぜ」
充血した目で凶悪に笑う口調も性格も変わってしまった悠太を見て、私は背筋に薄ら寒いものを感じながらも、興味なさそうに視線を落とした。
悠太がどれだけバケモノになろうが、正直どうでもいい。
私が今、それよりも遥かに苛立っているのは──手元のスマホに表示された、数枚の隠し撮り写真だった。
ネットに一般人がコメント付きで公開してるそれを、眺める。
【おい、不動院灯の笑顔なんて初めて見たぞ】
【和装も良いが制服の灯様も素晴らしい】
【実は一般人にも優しい我らが水無瀬凛々子も何か顔赤くね?】
【わたしは隣のスーツ着てるクールビューティが気になる】
【不動院の人間だろ確か。いつも灯の近くにいるやたら綺麗な人】
【オレの鏡花たんはいないよな!? セーフだよな!?】
【天ツ風オタは鏡介の心配しろよ。なんかボコボコにされたらしいぞ】
【それより】
【そんなことより】
【【真ん中にいるハーレム状態の男は何者なんだよ!!???】】
そこに写っているのは、私がいなければ何もできないはずの、幼馴染だった。
砂見閑。
写真の中の閑は、あの不動院灯と水無瀬凛々子という、この世代のトップに君臨するような女たちに囲まれていた。
不動院の女は閑の腕に胸を押し付けるように抱きつき、水無瀬の女は顔を真っ赤にして何やら口答えをしている。
その真ん中で、閑は……あろうことか、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑っていた。
ガリッ、と。
無意識のうちに、親指の爪を噛み割っていた。血の味が口の中に広がる。
「……なんで」
ギリギリと奥歯が鳴る。
スマホの画面が割れそうなほど、指に力がこもった。
「なんでアンタが、私のいない場所で笑ってんのよ……ッ!」
閑は、私の奴隷だ。奴隷にした。
だというのに。
四家の女たちに囲まれて、自分も特別な人間になったとでも勘違いしているのだろうか。
「私がいなきゃ、まともに息もできないゴミのくせに……ッ!」
腹の底から、どろどろとした黒い怒りが湧き上がってくる。
閑のあの笑顔を、今すぐぐちゃぐちゃに踏み躙りたくてたまらない。
あの余裕ぶった四家の女たちの前で、閑が地面に這いつくばり、私の靴を舐めて許しを乞う姿を見せつけてやりたい。
閑の居場所は、私の足元だけだ。
絶対に引きずり戻して、二度と他の女なんか見られないように、その手足をへし折ってやる。
「おい小春。なにスマホ見てブツブツ言ってんだ、気味悪ぃな」
悠太が苛立ったように舌打ちをした。
「……砂見よ。あいつ、咲雲で四家の女を侍らせて、いいご身分みたい」
「あぁ? そんなことより……今日は良いだろ?」
悠太の顔に、サディスティックな愉悦の笑みが浮かんだ。
「今日も何も。許したことないでしょ」
彼は黒い血管が蠢く右腕を掲げ、ギリッと拳を握りしめる。
「お前ッ……いい加減にしろよッ!! 俺がお前のために、どれだけのモノを失ったと思ってるんだ!!!」
壁に押し付けられて、首を締められる。
「……」
私はただ、悠太を見つめる。
「……クソッ。部屋片付けとけよ」
解放された私は、ソファに再び沈み込む。
筋肥大した肩を怒らせて部屋を出ていく悠太を見ながら思う。
所詮アンタはその程度よ。
でもそれぐらいが可愛くて良いと思う。
三年前のあいつ──砂見閑みたいに、私の目を見て、察して、隙間を埋めるために抱こうとしてきた異常者よりマシ。
それにしても。
首筋を伝う血に触れながら思う。
「はぁ……。暴走した悠太に殺される前に、閑に会いたい」
殺したいほど嫌いなのに、会いたい。
この矛盾する思いの責任を負って欲しかった。
☆
私──水無瀬凛々子が彼の要望で病院に行ってから数日後。
「あ、おはよう水無瀬さん。この間は本当にありがとう。月もすごく喜んでたよ」
「っ……!!」
朝の教室。
私は、あれから一度も顔を見ていない砂見閑のもとへ訪れていた。
──理由は、ある。
目の前で、砂見閑がふんわりと柔らかい笑顔を向けてきている。
病院での、あの心底安堵したような涙ぐんだ顔と、今の屈託のない笑顔が重なり、顔の温度が一気に急上昇していくのが自分でも分かった。
自分の切れ長の目尻が下がらないように注意する。
「お、おはよう……。月ちゃんが喜んでたなら良かったわ」
「うん。それで、今日はFクラスまでわざわざどうしたんですか?」
この人、何でこんなに目が透き通ってるの……?
「えっと、あの……。その……」
「……凛々子様。随分と顔が赤いようですが、霊脈の異常ですか?」
「へ?」
振り返ると、そこにはビシッとした黒のパンツスーツを着こなした、クールビューティとしか形容できない女子生徒が立っていた。
不動院灯の側近であり、常に彼女の影として動く、鋭鈴だ。
ただ、今日の彼女はいつもと少し違った。
その整った顔立ちの目の下には、くっきりと濃いクマが刻まれており、纏っているオーラが限界のそれだったのだ。
「鋭鈴さん。おはようございます。大丈夫ですか、なんかすごく疲れてるみたいだけど……」
砂見閑が純粋な心配を口にすると、鋭鈴はなぜか彼のすぐ隣に椅子を起き、黙ってそこに座った。
なぜか身体がぴたっとくっついている。
「単純に寝てないんです。だから、砂見殿……少しだけこのままで」
「? あ、なるほど。授業が始まったら起こすので眠ってください」
「……すーすー」
な。な。何をしてるのこの人。
なぜその細くて綺麗な指を彼の太腿に……??
もっとお堅い人だった気がするけど……!?
そして、眠った筈の鋭鈴の冷徹な瞳が、私をジトッと睨みつける。
「こわっ! 目開いてるから!!」
きょとんとしている砂見閑は気づいていない。
どうやってこの人を引き離そうか考えていると、教室の扉が勢いよく開く。
「だから、兄貴の一番の良さは何も恐れない精神力なんだよ」
「いーえ、一番は天より高くマリアナ海溝より深い優しさよ」
坊主頭の不良と、不動院灯が口論を交わしながらこっちに向かってきた。
「あら、凛々子。何してるのこんなところで」
「何してるのって……というかこれ見てよ! 鋭鈴さんを!」
砂見閑と不埒なことをしている! と伝えたかったのだが。
「鋭鈴がどうしたの?」
「おはようございます、お嬢様」
気づいたら鋭鈴はスッと立ち上がっていた。な、なんて変わり身の早さ……!
灯は何でもないように砂見閑の隣、鋭鈴と反対側の席に座る。
──そう、理由はこれだ。
ここ数日灯はAクラスに来ていなかった。連れ戻しに来たのだ。
理由は、それだけ。
「な、何で自分の席みたいに座ってるの……? 教室にこないと思ったらやっぱりここで授業受けてたのね……」
「許可は取ったわ。ね、閑様」
「あはは……良いのかなぁ」
少し気まずそうな砂見閑。
そりゃ灯が交渉したら先生は何も言えないだろうけど……。
「凛々子もそこらへんに座ったら良いじゃない」
「前はおれが座るからな。兄貴の壁になるんだおれは」
振り返る釈迦虎が何か言ってる……。
こいつら、頭がおかしい。
☆
──十分後。
「それではHRを始めますっ。今日は周知事項がありますっ。……ってあれ。水無瀬直系の……凛々子さんがいる。Aクラスなのでは? な、何て堂々とした顔をして座ってるの。灯さんに加えてまた増えた……。もう私はついていけません……」
「おい、チビ先生! 周知事項って何だ!?」
「釈迦虎くん……君が真面目になってくれただけ、マシか……。えーとね、来週、実地訓練があるのですが、ついにFクラスにも機会が回ってきました。今回のうちの枠は三名です。本物の怪異と戦える覚悟がある方、立候補してください。進級時の査定に大きな加点がありますよ」
「おれだ」
「はい、釈迦虎くんはいきますよね」
「私も」
「はい、鋭鈴さんもこのクラスでダントツの成績ですからね」
「閑様も行きます」
「はい、灯さん。本人は驚いた顔をしていますが……。ああ、Aクラスも行きますもんね。受理します」




