第18話
昨夜の閑様は、尊くて可愛かった。
思えば長い一日だったな。
閑様に料理をつくって、それを食べられないと言われて、鏡介を殴りに行って。
別邸のリビング。
私が手作りした、少し不格好な料理が並ぶローテーブルの前。
彼はついに、その胸の奥底に隠していた過去の絶望を、私に打ち明けてくれたし、私も始まり日の話をした。
彼の父親が犯した罪、そしておそらく彼自身が井ノ原グループの被害者であったという、あまりにも残酷な真実。
閑様は泣いていた。
普段は大人びていて、誰に対しても優しくて、自分のことなんてちっとも大切にしない彼が、子どものように私の肩に顔を埋めて、声を上げて泣いてくれたのだ。
──『大丈夫。大丈夫ですよ』
かつて彼が私を救ってくれた時の言葉を返すと、彼はさらに強く私にしがみついてくれた。
彼が流す涙が、私の服越しに肌へと染み込んでいく感覚。
彼のお母様譲りだという、長く美しい黒髪を撫でた時の、指に絡みつくような柔らかさ。
私たちはそのまま、ソファの上で初めて抱き合って眠りに落ちた。
ソファに座ったままだったから、私が常日頃から思い描いていたような「大人な雰囲気」の夜にはならなかったけれど、それでも良かった。
あの時、彼の心は間違いなく私だけのものだったと思うから。
彼がどれほどの絶望と悲しみを抱え、それでもなお、全てを飲み込んで私を救ってくれたのか。
それを知った今、私の中で燻っていた愛情は、もはや後戻りできないほどの業火となって燃え盛っている。
ああ、閑様。私の愛しい神様。
さらに一層、貴方への愛が深まりました。
もう絶対に離さない。
一生、私の腕の中で、甘やかして、溶かして、幸せにしてあげますからね。
☆
翌日。
私は、珍しく朝から咲雲日之出学園のAクラスの教室に登校していた。
普段は授業など出ないし、学園の取るに足らない生徒たちと関わる気など微塵もないのだが、今日は特別だ。
何かを吹っ切ったような、さっぱりとした閑様が「今日は休まずに学校に行く」と言ったからだ。
彼が学園にいるのなら、私もいる。当然の理屈である。
「……ちょっと、灯! アンタ、聞いてるの!?」
そんな幸せな余韻に浸りながら、自分の席でうっとりと頬杖をついていた私の傍らで、キャンキャンとうるさく吠える声があった。
水無瀬凛々子だ。
「昨日、不動院の総力を挙げて天ツ風の本邸に乗り込んだって本当!? 四家の間で戦争でも起こす気だったわけ!?」
周囲のAクラスの生徒たちが、ヒソヒソと怯えたようにこちらを見ている。
気になるのね。
昨夜の天ツ風への襲撃の噂は、すでに学園中の知るところとなっているのだろう。
「……うん。ちょっとね」
「『ちょっとね』じゃないわよ! どうして!? ねぇ、どうしてそんな無茶を!?」
あぁ、うるさい。
私が今どれほど崇高な思考の海に沈んでいるのか理解できないらしい。
私の頭の中は、今日の夜、どうやって昨日みたいに密着するかでいっぱいなのだ。
「……ねぇ、凛々子」
「なに」
私は、凛々子のうるさい口を塞ぐために、今一番深刻な悩みを打ち明けることにした。
「男の人から、手を出してもらうためには……どうすればいいと思う?」
「はぁ!?」
凛々子が目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。
その顔は瞬く間に真っ赤に染まり、わなわなと震え始める。
「な、ななな、何を言い出すのよアンタは! いきなり破廉恥な……っ!」
「だって、襲うより襲われたいじゃないの。分かるでしょ、貴方も」
あー、早く閑様の顔が見たい。声が聞きたい。私を呼んでほしい。
会いたい会いたい会いたい。
──と、強く念じていた、その時だった。
ひょこっ、と。
Aクラスの教室の入り口に、見慣れた顔が覗いた。
紛れもなく、私の愛しい神様だった。
「閑様!?」
私は弾かれたように立ち上がりかけた。
だが、教室に入ってくる閑様の後ろには、Aクラスの洗練された空間には全く似つかわしくない、巨躯の男が続いていた。
制服を着崩し、筋骨隆々で、鋭い眼光を放つ坊主頭のヤンキー。
あいつ……一年生の時に『はぐれ』として有名だった、釈迦虎だ。
戦闘になれば相手のあらゆる霊輪を垂れ流しの霊脈でぶん殴るとかいうとんでもないやつで、四家出身でもあいつに実技でやられてる人を何人も見た。
素行の悪さで今年はFクラスだと聞いてたけど、そうか、閑様と同じなのか……。
それにしても、なぜ彼が、閑様の後ろに飼い犬のようについてきているのだろうか。
「釈迦虎、助かったよ。本当に教室の前に門番みたいなのがいるとはね」
閑様が、苦笑しながら後ろを振り返る。
「ああ。こいつらAクラスはメンツが何よりも大事なんだ。底辺のFクラスのおれ達が、勝手に敷居を跨ぐのを許さねぇ。……ま、おれに喧嘩で勝てるやつはそういねぇからな」
釈迦虎は、ボキボキと拳を鳴らしながら凶悪な笑みを浮かべた。
「用事が終わるまで、入口で突っかかってきたやつらをもう一回ボコっとくわ」
「あはは、ほどほどに。……ありがとう、釈迦虎」
「おう! これからも、あのスーツ女よりおれを使ってくれや、兄貴!」
スーツ女って鋭鈴のこと?
今日は昨日の後始末で登校してないはずだ。
やたらと嬉しそうな顔で、尻尾を振る大型犬のように廊下に戻っていく坊主ヤンキーは置いておいて。
閑様は、私に何の用だろう。
わざわざFクラスから、校舎の違うAクラスの教室まで足を運んでくれたのだ。
あ、こっちを見た。
私と目が合った瞬間、閑様はふわりと、あの極上の、にこっとした微笑みを浮かべてくれた。
(ずきゅん……っ!)
私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
きゃー……! と、心の中で黄色い悲鳴を上げた。
間違いない、私に会いに来てくれたのだ。
当たり前だ。
昨夜のことで、完全に私にでれでれになって、一時も離れたくなくなったに違いない。
私は両手を広げ、彼が飛び込んでくるのを待つ態勢に入ろうとした。
しかし。
私が幸せな勘違いで立ち上がりかけたのをよそに、隣にいた凛々子が、すごい速さで閑様の方へ寄っていくのが見えた。
あのねぇ、凛々子。閑様は私に会いに来たのっ。
私が不快感であからさまに眉をひそめた、次の瞬間。
聞こえてきた言葉に、私は自分の耳を疑った。
「こんにちは、水無瀬さん。ちょうどよかった」
「あ……あ、あの。この前は、屋上で、す、少しだけ失礼なことを言って……って、へ?」
「この前は、こちらこそすみませんでした。ところで、今日、放課後って時間ありますか? 良かったら、俺に付き合ってください」
……は?
「え? 放課後? 私に?」
「はい、水無瀬さんと。行きたいところがあるんです」
「え? え? こ、これって……もしかして、お誘い……?」
凛々子の顔が、完全にフリーズしている。
閑様は、真剣な眼差しで、真っ直ぐに凛々子を見つめている。
「はい。水無瀬さんしかいなくて。……あ、スマホ、ありますか?」
「え、ええ……っ」
二人は、私の目の前で、あまりにも自然に連絡先を交換し始めた。
「じゃあ、また放課後に連絡しますね」
「ほぇぇ……」
用件だけを済ませ、閑様は満足そうに微笑んだ。
そして、帰り際に私の方を振り返り、小さく手を振ってくれた。
教室後方の席に座る私は、身動きが取れなかった。
昨夜、私の腕の中で見せてくれた、あの愛らしくて庇護欲をそそる顔。
そして今、私ではなく、目の前の水無瀬凛々子に向けられた、爽やかな笑顔。
二つの顔が脳内で重なり合い、処理が追いつかない。
私は、閑様に向けて、まるで錆びついたロボットダンスでもしているかのように、ギクシャクと不自然に手を振り返すことしかできなかった。
え、どういうこと?
連絡先を交換したスマホを両手で握りしめ、時間差で顔を真っ赤にして今まで見たことのない顔になっている凛々子。
私は、彼女を見つめる。
今すぐこのAクラスの教室ごと、この水芸女を塵一つ残さず丸焦げに燃やしてしまおうかどうかを、極めて真剣に、冷静に考え始めていた。
冷静に。




