195 世界の果てにて
暁の光が蒼い夜空の一角を仄白くへと染め、新たな始まりを告げていた。
二百を超えるハイエンジェルの守護兵たちは、まるで街灯のように陣営をぐるりと囲んで警戒に立っている。彼女たちの放つ聖光が薄暗い早朝の森を照らし出し、人々に大きな安心感を与えていた。蕾は巨大な白銀の花へと姿を変えて休息している。しなやかな肢体の影が白い花弁に映り込み、見る者の想像をかき立てた。
臨戦態勢は万端。三百人を超えるプレイヤーが定刻どおりログインする。
彼らはそれぞれ小隊に分かれて戦術を詰めていた。治療のタイミング、重装歩兵ユニットの進路取り、遠距離火力の配置、魔導士と弓使いの相互援護……どの細部も徹底的に検討されている。
アンドリアは陣営の簡素な木柵の上に立ち、北方の山脈を遠望していた。凍てつく風の中で白い吐息を漏らし、両手を擦り合わせて暖を取る。
嘆きの山脈は名のとおり、雲を突くほど高い稜線が見る者の足をすくませる。四匙地図が示していなければ、その背後に魔の都があるなど、誰がこの巨大な壁を越えようと思うだろうか。
「おはよう」ニフェトは木製の梯子を上り、柵の上へと姿を現した。
「よく眠れた?」アンドリアは軽く横目でニフェトに視線を送り、うなずいて挨拶を返すと、再び山脈を見据える。
「普通かな」ニフェトはアンドリアの隣に並び、共にその巨壁を見上げた。
二人の表情に笑みはない。半分――いや、もしかすると全員が、鳥のさえずりと花の香りに満ちたヴィニフ宮殿にも、活気あふれるプラムスにも、思い出の詰まったハゲグにも戻れないかもしれないと、分かっているからだ。
「怖い?」アンドリアはぼんやりと、寒風が雪原の上で積雪を巻き上げる様子を眺めながら問いかけた。それは同時に、自身の胸の奥にある不安の吐露でもあった。
「うん。たとえゲームでも、この大陸での思い出や出会った人たちを手放すのは惜しいなって……」ニフェトは柔らかく笑い、ため息混じりに首を振る。
決戦前夜。二人のギルマスの心は重い。責任から生まれる重圧は、他人には理解できないものだ。それこそが、むぐちがギルマス就任を断固として拒んだ理由でもある。ギルド運営に時間や労力を割くこと自体は厭わない。だが、他者の運命に責任を負うことだけは恐れていた。その心理的な欠落を埋めるように、ニフェトは前に出てギルマスの役目を引き受けたのだ。
……
「連絡先、交換しておく?」アンドリアは冗談めかして笑いながら尋ねた。
「それ死亡フラグじゃない? 本気? ははは」ニフェトはふっと肩の力が抜けたように笑った。
「ふん、生きて帰ろうなんてただの掛け声よ。士気を上げるためのね。魔王についての情報もほとんどないし、賢い人なら今回の遠征が万に一つだって分かってる。あなたたちって面白いわ。もし……戻れなかったら、次のゲームでまた一緒に遊びましょう」アンドリアは小さく息をつき、どこか吹っ切れたように微笑んだ。
二人はすぐに連絡先を交換する。ニフェトは小さな黒い石を取り出し、アンドリアの前に差し出した。
「護心石!?」アンドリアは驚きと戸惑いに目を見開き、受け取るのをためらう。
「黒真珠を倒したときに少しだけ手に入ったの。あなたのために一つ残しておいた。むぐちには内緒よ」ニフェトは優しくそう言って、護心石を彼女の手のひらに乗せた。
「ありがとう……」
「両ギルマスに報告します。全員ログイン済みです」カンドウが梯子の途中で敬礼しながら告げる。
アンドリアとニフェトは互いにうなずき、それぞれの軍団へと戻っていった。
……
「衛兵長!」
「ここに!」
「シモン!」
「はっ!」
「透明人間!」
「ここに!」。
「電波少女!」
「なに~?」
「麻子!」
「よっ~」
アンドリアは軍団の前へ歩み出て大声で点呼を始めた。すると隊列のあちこちから朗々とした返答が次々に響き渡る。そこにいるのはすべて銀龍の刻印の古参メンバーたちだった。
「見慣れた顔ばかりね、点呼なんてもう省略するわ! ここまで私を見捨てずについてきてくれて感謝してる。どんな激戦でも迷わず一緒に突撃してくれた。今回の遠征がどれほど危険かは、みんな分かってるはずよ。この森を出たら、もう引き返せない。今が最後の離脱のチャンスだ。止めはしない。でも前へ進むと決めたなら――私の背中はあんたたちに預けるわ! 弱者はいらない。臆病者が隣に立つのも許さない! 欲しいのは精鋭中の精鋭だけ。ここに残る者は皆、英雄だ!」アンドリアは挑発するように叫んだ。
軍団はすぐさま旗を振り、腕を振り上げて雄叫びを上げる。その気勢は圧倒的だった。
一方、右側のニフェト軍団―—
「勇者のみなさん。皆さんと共に、歴史に新たな一ページを刻めることを誇りに思います。私たちの名はムー大陸に語り継がれ、私たちの戦いはネットの話題になるでしょう。でも、どうか何よりも慎重に行動してください。戦闘では必ず隊長の指示に従ってくださいね。どうか無事に帰ってきてください」ニフェトは感慨を込めた声で真剣に語った。
その潤んだ大きな瞳に心を動かされ、兵たちの闘志が燃え上がる。
「聞いて! 職業ごとに指定位置へ。陣形を整えて出発準備! 重装職は前列へ……それから……」むぐちは布陣の指示を出し始めた。
ニフェト軍団は長方形の陣を形作る。重装職が前方に一直線で並び、両翼を騎兵が支え、中央には支援職と遠距離火力職が配置される。攻防一体の陣形だった。
対してアンドリア軍団は魚鱗の陣を組む。騎兵が中央で楔形に並び、重装職が両翼に展開し、遠距離部隊は中央に配置される。敵陣を貫くための強攻陣形だ。
蕾と、その輝く聖天使軍団はニフェト軍団の後方についた。連合軍の中でも最精鋭の強襲戦力である。
号角が鳴り響き、二つの軍団は正式に進軍を開始し、氷原へと足を踏み入れ嘆きの山脈を目指した。
……
膝まで埋まる積雪を踏みしめ、険しい山道を登る。連合軍は骨身にしみる寒風に耐えながら、二時間をかけて山頂へ到達した。
蒼と灰。嘆きの山脈は境界のように空を二つに分けている。
振り返れば、緑に満ちたムー大陸は陽光に包まれ、空はどこまでも青く澄み渡っていた。前方を見据えれば、極北の空は灰色に濁り、吹雪の向こうに巨大な黒い影が潜んで彼らを待ち構えている。
連合軍は一歩一歩慎重に山を下り、全員が極度の緊張を保っていた。視線は獲物を狙う鷹のように鋭く、周囲を警戒している。
冷たい風に歯が震え、吐いた息はすぐ雪の粉となって舞い散る。鼻先は凍りつき、砕けそうなほどだった。翼騎兵の騎獣さえ低体温状態に陥り、司教が治療できるよう地面すれすれを低空飛行せざるを得ない。
彼らは吹雪の中の黒影へ向かって進み続け、やがて一本の赤い境界線の前に辿り着いた。
翼騎兵が即座に号令旗を切り替え、全軍に停止を命じる。
「この赤い線は……」幹部がしゃがみ込み、じっと観察する。
「越えたら魔都の国境に入るって意味かな?」むぐちが推測した。
「どうでもいいわ。どうせ進むしかないんだから」アンドリアは赤線を意にも介さず、耐寒仕様の氷竜に跨ってそのまま越えていった。
両軍はそのまま進軍を続けることを決め、赤い境界線を越えた。
吹雪の中に潜んでいた黒い影が、突如として小さな赤い光を灯す。カンドウは即座に黒の号令旗へ持ち替えた――危険の合図だ。
「バフ展開!!」むぐちは黒旗を見た瞬間、全身の血が沸き立つように叫び、全員に強化を命じた。
軍団は一斉に色とりどりの光に包まれ、戦闘態勢へ移行する。
異変はない――赤い光ははるか彼方で瞬いただけで、罠も発動しなかったため、部隊は進軍を継続した。
むぐちはその赤い光点をじっと見据え続け、まつみたちは周囲の警戒に集中する。
赤い光はまるで宙に浮かぶ信号灯のように地平線に掛かり、連合軍を魔都へと誘導しているかのようだった。
カンドウが光点を凝視した瞬間、両手が震え出し、黒旗に持ち替える暇もなかった。
「まずい――」
ズドォォォォン!!!
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