131 ハイエルフ語
月は真夜中の銀色の太陽のように、大地へ淡い光を降り注いでいた。
大聖堂の外では月光がひときわ柔らかく、静まり返った小さな村に青い調べを添える。小橋に流れる水、銀月と白花。そこはまるで桃源郷のように、プレイヤーの心を潤した。
銃弾と剣戟が飛び交う戦場を生き延びた彼らは、この穏やかな光景をいっそう尊く感じている。
Kanatheon部隊は大聖堂外の野原に陣を敷き、銀龍の刻印の到着を待った。
まつみとかみこは時間を見つけて湖畔へ向かい、語り合っている。二人は影のように寄り添い、もはや離れがたい存在だった。
「起こしたら殺すわよ」かなはバッグから魔法ローブを取り出し、柔らかな草の上に敷いて横になった。
「ヴィニフ宮殿を本当に落とせると思うか?」ニフェトがむぐち やよいに尋ねる。
「わからない。クローズドβでは神族は見かけなかった。新種族だろう。ハイエルフは魔法兵種が多いはずだ。Kanatheonは魔法系が多く、相性は良くない。ただ銀龍の刻印は戦士系が中心だ。ハイエルフの遠距離部隊を抑えられる。アンドリアは強襲型ギルドを目指しているようだな。贅沢な話だ」むぐち やよいは苦笑し、そばの緑の草をそっと撫でた。
「贅沢だと?」
「彼女のギルドは、もう選別できるほど成熟しているということだ。対して私たちは、まだ来る者拒まずだ。ヴィニフ宮殿が精霊評議会の管理下にあるのは幸いだ。他のプレイヤーに押さえられていたら厄介だった」
「むぐち やよい、ニフェト……ちょっと来て」まつみが二人の耳元でささやいた。
「なぜ隠れ身している?」むぐち やよいは小声で問い返す。
「目立たないで……来ればわかる……」
二人は姿を消したまつみに導かれ、人混みを離れて大聖堂の湖畔へ向かう。湖面には満月がくっきりと映っていた。
かみこは湖畔の大樹を見下ろす――そこにはハイエルフが一人、厳重に縛り上げられている。
「どういうことだ?」むぐち やよいとニフェトが同時に問う。
「さっき、かみこと話していたら、森からこそこそ近づいてきた。だから生け捕りにした」まつみは縛られた美しいハイエルフを厳しい目で見つめる。
「▓邏ー閭櫁ェ・・蛟倶ソ晏ュ倥 ▓ !」ハイエルフは罵声を浴びせた。
「なぜ殺さなかった?」むぐち やよいが眉をひそめる。
「“お前たちのような愚か者は、幽語の森すら越えられない”と言っている」かみこはハイエルフを見たまま答えた。
「何だと?! ハイエルフ語がわかるのか?!」むぐち やよいとニフェトは驚く。
むぐち やよいは一瞬考える。かみこは元よりゲームAIだ。理解できても不思議ではない。
「理解しているかどうかはわからない。ただ、意味はわかる」かみこは振り返り、冷たい瞳でハイエルフを見据えた。
「▒∬∴∮―ΞΔ縺縺薙・縲ッア§ッア§」ハイエルフはぶつぶつとまくしたて、大声で笑う。
「“お前たちは卑しい愚か者だ。わが同胞は必ず勝利する。はははは!”――以上」かみこは誇張した口調で完璧に通訳し、笑い声まで再現したあと、再び無表情に戻った。
「何か情報は引き出せるか?」むぐち やよいは挑発を意に介さず問う。
「隠しイベントを発動させることは可能かもしれない。ただし鍵となるまこが不在だ。ほぼ無駄だろう」かみこは淡々と答えた。
「なら、始末しろ」むぐち やよいはカタールを抜き、雪よりも白いその身体に、静かに刃を突き立てた。
「ζηθ―░▒………」ハイエルフはかすかな呻きを残し、頭を垂れて絶命する。
「こちらの動きは把握されている。警戒は強まるだろう」ニフェトは眉を寄せた。
「前回、アンドリアが奇襲したときも……」むぐち やよいが言いかけた瞬間、遠方から整然とした足音が響き、地面がわずかに震えた。
荒野脇の泥道の地平線に銀色の輝きが地平線を駆ける――銀龍の刻印の部隊が整然と進軍してくる。
その先頭を率いるのは黒き飛竜、紛れもなくアンドリアだ。
ニフェトたちは道の中央へ歩み出て、同盟軍を迎えた。
「遅いぞ」むぐち やよいが皮肉る。
黒飛竜は目の前に降り立ち、強烈な風圧が砂塵を巻き上げる。背後の銀の軍勢も即座に停止した。
「はは、補給品の回収に手間取ってね」アンドリアは深淵竜の背から軽やかに飛び降りる。
「グズは落としたのか?」ニフェトが笑みを浮かべて尋ねる。
「楽勝さ~ははは! ハググは守れたのか?」アンドリアはすぐに問い返す。
ニフェトは微笑み、うなずいた。
「よし、急ごう。準備はいいか!」アンドリアは黒騎士の魔紋槍を高く掲げ、北の森を指して叫ぶ。
「Kanatheon、装備と補給品の最終確認だ!」むぐち やよいは部隊の前に立ち、号令をかけた。
「おおおおおっ!」銀龍の刻印とKanatheon、百を超える連合軍が一斉に腕を振り上げて雄叫びを上げる。
むぐち やよいとアンドリアは静かにうなずき合った。
「出発!」二人は同時に命じる。
巨大な連合軍は北の幽語の森へと進軍を開始した。
Kanatheonと銀龍の刻印の連合は荒野を踏みしめ、未踏の北境へと続く道を切り開く。
やがて、海のように広大な幽語の森の境界線が地平線に現れた。
グズの黒い森よりもはるかに濃密で生い茂り、淡い茶色のマユノキが一面を覆っている。
「今日は森の中で安全な場所を見つけて野営しよう。メンバーには早朝五時までにログアウトするよう伝えてある。明日の十五時に再出発だ。遅刻は自己責任でいいな?」アンドリアはむぐち やよいに言う。
むぐち やよいが振り向いた瞬間、アンドリアはぎょっとした。
目は細く閉じかけ、目の下には濃い隈。薄れゆく意識を繋ぎ止めるため、最後の気力を振り絞っている。
アンドリアは吹き出し、唾が飛んで、むぐち やよいの顔にかかったが反応はない。
背後の部隊を見渡すと、大半の意志力は静かな長距離行軍で燃え尽きていた。涼風に乗った眠気が優しく彼らを夢へと誘っていく。
「ノクス、森まではあとどれくらいだ?」アンドリアが問う。
「行軍速度が落ちている……あと一時間弱だ」ノクスも疲労困憊している。
「みんな限界ね~」アンドリアは終始元気なまま、あえて騎乗せず徒歩で歩いていた。
「初日の攻城戦が激しすぎた……こちらも消耗している」ノクスは大きなあくびをする。
「今日の森突入は少し急ぎすぎたか。森の外縁でログアウトしよう」アンドリアはむぐち やよいに提案した。
半分眠りかけたむぐち やよいは無言でうなずき、夢遊病者のように歩き続ける。
アンドリアは急いでスクリーンショット機能を起動し、百年に一度級のむぐち やよいの間抜け顔を撮影した。成功した瞬間、腹を抱えて笑い出す。
「ほら、起きろ!」アンドリアはむぐち やよいの頬を軽く叩いた。
「ん? どうした?」むぐち やよいは瞬時にいつもの冷ややかな表情へ戻り、警戒の目でアンドリアを見る――頬が半分赤くなっていることには気づいていない。
アンドリアは顔を歪めて笑い、笑いすぎて体を折り曲げる。
むぐち やよいは苛立ちながら周囲を確認し、すでに幽語の森の縁に到達していることに気づいた。
かつてアンドリアが攻め落としたハイエルフの木砦跡が遠方に見える。
「今日はあの城跡でログアウトしよう。あなたたちのかみこのおかげで、人形システムが更新された。ログアウトしてもキャラはゲーム内に残る。駐屯地の選択はより重要になる。双方二十名ずつ夜警を出せば、ログアウト中にハイエルフに奇襲される心配はない」アンドリアは前方の木砦を指差した。
むぐちは「ログアウトして寝られる」と聞いた瞬間、迷いなくうなずいて同意した。
百人の連合軍が崩れかけた木の砦へ黙って近づくと、鼻を突くような、むせ返るほど濃い血の臭いが漂ってきた。




