水の番
私の家系には、多分、他にはない風習がある。
通夜では、杯に入れた水から一晩中目を離してはならない、というものだ。ある一人が、亡くなった親族と二人きりになり、夜が明けるまでひたすら水を見続けなければならない。
親族の間では「水の番」と呼ばれ、任されるのは亡くなった人と同じ干支の人だ。同じ干支の人がいなかった場合はどうするのか、と父に聞いたことがあるけど、そんなことはない、と一蹴された。いくら親戚が多いと言っても、そんな訳はないと思うけど。
とにかく、そんな水の番に私が選ばれてしまった。亡くなりそうなのは、少し前から入院しているらしい遠縁のおじいさんで、私には会った記憶もない。
せめてスマホを、と冗談半分に言ったら、普段は温厚な父にこれまでにないほど怒られ、絶対に水から目を離すな、としつこいくらいに言い聞かされた。よっぽど大事な儀式なんだろうけど、そこまで真剣になるようなことかな。ちょっと理解できない。
とうとう水の番をする夜を迎えた。不謹慎だけど、夏休みでなければまだよかったのに。
古く大きな本家の、ロウソクだけが灯る暗い和室で、鈍い金色の小さな杯の前に座る。冷房が利きすぎているのか寒いくらいだ。暑いよりは全然マシだけど。
すぐ後ろの襖の向こうには、やっぱり顔も知らないおじいさんが横たわっていた。干支が同じというだけでは親近感はわかず、正直怖さの方が強い。
杯を前にして、そこに満たされた水をひたすらに眺める。
座るのに疲れてしまった。時計もないので、どれだけ時間が経ったかも、あとどれだけこうしていなければいけないのかも分からない。姿勢は崩してもいいということだったけど、退屈はどうしようもない。
畳に寝転がる。当たり前だけど、目の前の水にはなんの変化もない。あまりの退屈さに、眠たくなってきた。
そういえば、明日、もう今日かな、プールに行く約束をしていたんだった。
キャンセルの連絡を忘れていた。
マンガも返さなきゃ。
課題もそろそろ始めないと。
夏休みはあと何日だっけ。
冷房が低い音を鳴らしながら風を吹き出している。
私が眠ったと父が知ったら、また怒られてしまうかな。
トン、トンと何かを叩くような音が聞こえた気がした。
目の前には水の入った金の杯。やっぱり眠ってしまったみたいだ。ロウソクの灯が消えてしまっている。冷房のせいかとも思ったけど、冷房も消えているみたいだ。寒いくらいなのは変わらないけど、何の音もしなくなっている。
トン、トンと小さな音が後ろから聞こえた。
心臓が高鳴り、思わず飛び跳ねるように正座をする。
また、トン、トン。襖を叩く音に聞こえる。おじいさん以外には誰もいなかったはず。振り返りたい気もするけど、振り返ってはいけない気もする。
冷や汗が吹き出すのを感じながら、杯の水をじっと見つめる。何の変化もないけど、水さえ見ていればいいんだ。
必死で水を見つめる。
どのくらい時間が経ったのかも分からないけど、音は止んだみたいだ。心臓は落ち着かないままだけど、もう大丈夫なんだろうか。
水を見続ける。音は聞こえない。
大きく息を吐いた。ようやく落ち着いた気がする。
水の番とはこういうことなのかもしれない。きっと、水を見続けることで何かを鎮めている、みたいなことなんだ。
深呼吸をする。明かりがなくなってしまったのもあって、恐怖は消えないけど、水さえ見ていれば何も問題はないんだ。
どれだけ見続けただろう。もうすぐ夜が明けるくらいにも思えるけど、本当は全然時間は経っていないのかもしれない。
スッと何かが擦れる音。襖が開かれているように聴こえる。心臓の鼓動がまた早くなった。
スッ、スッと途切れ途切れに、少しずつ、襖が開かれていく。
手を合わせ、祈るような気持ちで水を見つめる。
襖の開く音は止まった。鎮まってくれたのか。それとも開ききってしまったのか。体の震えが止まらない。
水を見つめる。水面には波紋一つない。
ヒタリ、と、背後で畳を踏む音が聞こえた。
震える手を握り合わせて、水を見つめる。
お願いします。鎮まってください。
ヒタリ、ヒタリと足音がこちらに近付いてくる。
心臓がうるさい。ずっと開いたままの目から涙が零れた。
ヒタリ、ヒタリ。足音が止まった。背中に生ぬるい空気を感じる。水さえ見ていればいいんだ。水さえ見ていれば。
背後の気配から少しでも離れようと、杯を覗き込むように水を見る。
水面には、恐怖に引きつった私の顔と
「ようようにして、大事なく朝を迎えられたか」
「当主。此度の策の故か、故人と生肖を同じくする者にも障りはありませぬ」
「うむ。策を講ずるまで長くかかったが、我ら一族の忘るべからざる儀としようぞ」
「承知。故人にまみえざるは不義理やもしれませぬが」
「然れども、生ある者の今が肝要ぞ。皆も理解してくれよう」
「仰せの通り。然らば、此度の策を『見ずの晩』と号し、違うことなきよう子々孫々に伝えましょうぞ」