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ヴェスパー・マティーニの夜、命を一つ預ける契約を

作者: Nuit et Verre

夜の底、ひとつだけ灯りの残るバーがある。


そこでは、一杯のカクテルと引き換えに──

忘れたはずの記憶、選ばなかった過去、名前さえ呼ばれなかった愛が、

もう一度だけ、静かに姿を現す。


今夜、グラスの底に映るのは、

誰かの後悔か、それとも、やり直すための小さな奇跡か。


命を一つ預けて、あなたも覗いてみませんか。

「ヴェスパー・マティーニの夜」の、その深さを。

挿絵(By みてみん)

この街には、ひとつだけ時間が止まる場所がある。

 午後十時を境に、時計の針が動かなくなる――そう噂されるバー「クロノスタシス」。


 その夜、時任遼はひとり、いつもと変わらない所作でグラスを磨いていた。氷の音も、バーボンの香りも、いつものように静かに店内を満たしている。変わっていたのは、彼の目に宿る疲労と、数時間前から続く頭の奥のざわつきだけだった。


 カラン。入口のベルが控えめに鳴る。

 遼が目を向けると、そこには一人の女が立っていた。


 艶やかな黒髪を肩のあたりで切りそろえ、黒いコートを羽織っている。目元は涼しく、唇の色はグラスの縁のように淡い。だがその視線には、どこか懐かしさすら混じっていた。いや、それは彼の錯覚だったのかもしれない。


 女はカウンター席の中央へ、音もなく腰を下ろす。

「……注文、よろしいかしら」


 遼はうなずいた。女は少しだけ間を置き、ゆっくりと口を開く。


「ヴェスパー・マティーニを。一杯」


 遼の指先がわずかに止まった。ヴェスパー・マティーニ。それは滅多に頼まれることのないカクテルだった。ジンとウォッカ、そしてキナ・リレ。切れ味の鋭いその一杯は、強く、そして美しい――命を削るような飲み口の酒。


「……かしこまりました」


 彼女のグラスに、冷たく透き通った液体が注がれる。

 香りが立ちのぼると同時に、女が静かに言った。


「このカクテルを注文した人間は、“命を一つ預ける契約”を交わすことになる――そう聞いたの。あなたのバーでは」


 遼はグラスを拭く手を止めた。

 そして、ゆっくりとその瞳を細める。


「……その話、誰から聞きましたか」


「さあ……ただ、知っていただけ。たぶん、私も――前にこのカクテルを、ここで飲んだことがあるの」


 遼の胸に、かすかに疼くものが走った。

 それが記憶か、予感か、それとも何か別のものかは、まだ判別できなかった。


ヴェスパー・マティーニは、グラスの中でゆっくりと揺れていた。

 女はその揺れを見つめるようにしばらく沈黙し、やがて一口、冷たい液体を唇に含んだ。


 その仕草はあまりに自然で、まるで彼女にとって、それが“長年待ち望んでいた味”であるかのようだった。


「懐かしい味ね。……でも、こんなにも鋭かったかしら」


「それがヴェスパー・マティーニです。記憶の中の味よりも、現実のほうが容赦がない」


 遼の言葉に、女は微笑みを浮かべる。

 グラス越しにその瞳が見据えてくるものが、妙に真っ直ぐで、そしてどこか“こちらの内面”を覗こうとするようだった。


「時任さん、あなたは……この契約の意味を、信じているのかしら?」


 遼は即答しなかった。バースプーンを静かに片付け、客の少ない店内に耳を傾けるようにして、ゆっくりと答える。


「“信じている”というより……それが事実だったとしか言いようがない夜が、何度かありました」


 女の眉がわずかに動く。


「たとえば?」


「たとえば──そのカクテルを口にした客が、次の日には、過去に死んだはずの恋人と再会していたり。

 あるいは、自分の中の“最悪の選択”を帳消しにできると語っていたり。

 共通しているのは、どの客もその後、姿を消すことです。……まるで命の代償を払ったように」


「本当に“命を一つ預ける契約”だとしたら、何と引き換えに?」


 遼はカウンターに手を置いたまま、彼女をまっすぐ見つめた。


「“一度だけ出会うはずだった誰か”と、もう一度巡り会うために。あるいは、“選ばなかった未来”を一度だけ体験するために。──代償は、その人間の命の三分の一。寿命です」


 女は、再びグラスに目を落とした。

 その瞳には、どこか“すでにそれを知っていた”者の影があった。


「……それじゃあ、私、すでに契約を交わしてるのね。

 ヴェスパー・マティーニを選んだということは」


 静かな声が、空気の層を裂くように響いた。


「でも、困ったわね……。

 私、“あなたを一度、殺したことがある”の」


「あなたを一度、殺したことがあるの」


 朝霧澪の声は、静けさに満ちていた。罪悪感でも後悔でもない。

 まるで“ただの事実”を述べているかのように。


 時任遼は、カウンターの奥で無意識に手を止めていた。

 振り向くでも、驚くでもない。ただ心の奥底で、何かが音もなく崩れていくのを感じていた。


 「……冗談には聞こえませんね」


 ようやく声を発した遼に、澪はかすかに微笑を返した。


 「冗談じゃないわ。私自身も、その記憶が確かかどうかは、もう分からない。

  でも“あの時の夜”のことを思い出すたび、あなたの姿だけが、なぜか最後に浮かぶの」


 遼はグラスを拭く手を再開しながら、ゆっくりと訊ねた。


 「事故ですか? 事件? それとも──」


 「夢よ。でも、ねじれた夢じゃない。あれは……一度だけ、現実だったもの。

  あなたは、その夜、ヴェスパー・マティーニを作ってくれた。

  そして私に、ある選択を促した。

  私は……その選択で、あなたの“未来”を断ったの」


 店内の空気が、ほんの少しだけ冷たくなったような気がした。


 澪の言葉は断章のように、時間の切れ端を積み上げていく。

 それが夢なのか記憶なのか、あるいはまったくの虚構なのか、今はまだわからない。だが確かに、遼の胸の奥で何かが反応していた。


 「記憶には……あるんです、少しだけ」


 そう呟いたとき、遼の視界に、かすかに赤いライトのような残像がよぎった。

 フロントガラス、雨、夜の路地、誰かの白い指先。


 ──そして、衝突音。


 それは十年前、遼が美術教師をしていた時期の記憶。

 ある深夜、謎の事故に遭って一命を取り留め、職を辞し、今のこのバーを始めることになった──

 だが、それ以前の記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。


 「朝霧さん」


 「澪でいいわ」


 「澪さん。あなたが言っている“その夜”……

  もしかして、十年前の出来事ですか?」


 彼女はヴェスパー・マティーニの残りをゆっくりと口に運びながら、短くうなずいた。


 「ええ。でも、おかしいのよ。

  私、その時のあなたの名前も、顔も覚えていなかったはずなの。

  けど今日ここに来て、あなたを見た瞬間……“ああ、この人だ”って確信した。

  私の罪は、今もまだ、終わっていなかったのね」


 遼の前にある時計は、午後十時から針を進めていない。

 だが確かに、この夜だけは、過去が静かに息を吹き返していた。


その夜、時任遼はグラスを三つ磨いた。

 ひとつは空になったヴェスパー・マティーニのグラス。

 ひとつは、十年前に自分が割った記憶のないグラス。

 もうひとつは──まだ、誰のためでもないグラスだった。


 朝霧澪はカウンターに頬杖をつき、静かに言葉を探しているようだった。

 彼女の横顔はどこか既視感があって、遼の胸の奥をゆっくり締めつけていく。


 「私、たぶん……ずっとあなたを探してたのよ」

 「名前も知らない人間を、ですか」

 「名前って、そんなに重要かしら?」


 遼は、しばらく黙った。

 この十年、自分の過去を誰にも語らずに生きてきた。美術教師だったという経歴も、事故で失った記憶も、誰にも話さずにいた。

 むしろ、“名を捨てたまま生きる”ことで、自分を保っていたのかもしれない。


 「……名前を知っていれば、記憶は確かになる気がする。

  でも、名前を知らなければ──それは幻想のままにしておける」


 「幻想のままでいたいの?」

 「今はまだ、判断がつかないんです」


 澪はグラスの縁に指を滑らせた。まるで、記憶の輪郭をなぞるように。


 「私が契約した理由、知りたい?」


 「ええ。……知るべきことだと思います」


 カウンターの上にあったコースターが、わずかに揺れた。

 店内の空調が少しだけ風を送ったのか、それとも彼女の言葉が空気を震わせたのか──。


 「十年前、私はある選択を迫られたの。

  ひとりの命を救うか、あるいは自分の人生を守るか。

  私は……後者を選んだ。そして、その命は失われた」


 「それが、俺……なんですか?」


 「わからない。でも、ヴェスパー・マティーニがそう言ったのよ。

  “過去に選ばなかった命”と再会するためには、

  “今の命を三分の一、置いていけ”って」


 遼の背筋を冷たい感覚が這った。

 このバーで、彼自身が“契約”の話を誰かにしたことは何度もある。けれど、いざ自分がその渦中にあると知ったとき、言葉は意味を失っていく。


 澪は、ポケットから小さな紙切れを取り出して差し出した。

 それは、彼女が契約を交わした夜に書いた「選択の記録」だった。


 ──選ばなかった命:不明

 ──希望する再会:真実の夜


 「私は、本当はあなたを救うつもりだったの。

  でも、あのとき私は、あなたの名前も、未来も、信じられなかった。

  だから選ばなかったの。……そのことが、ずっと私を呪っていた」


 遼はその紙をそっと受け取った。


 「……俺の記憶が正しければ、あなたは“選ばなかったこと”を後悔している。

  でも俺は、選ばれなかったことを覚えていない。

  だから、今ここで再会したあなたの言葉が、唯一の手がかりなんです」


 澪は目を伏せ、かすかに微笑んだ。


 「じゃあ、次のヴェスパー・マティーニは、あなたの番ね」


 そう言って、彼女は新たなグラスを指さした。

 “名前のない再会”が、ようやくひとつの呼吸を取り戻しはじめていた。


時任遼は、背後の棚から冷えたボトルを取り出すと、無言のままジガーで計量し、グラスへ注ぎ入れた。ジン、ウォッカ、そして今では希少になったリレ・ブラン。

 グラスの中に静かに揺れる液体は、まるで十年前の記憶そのもののようだった。


 ──透明で、冷たく、触れようとすると輪郭を消す。


 「ほんとに作るのね。ヴェスパー・マティーニを、自分のために」


 カウンター越しの朝霧澪が、どこか寂しげな声で言う。


 「俺も確かめたいんです。何を失って、何を取り戻そうとしているのか」


 氷を使わずステアした液体は、すぐにカクテルグラスへと注がれた。

 細身のV字型グラスに映り込んだ照明が、わずかに揺れる。


 遼はそのグラスを手に取ると、澪の視線を受け止めたまま、静かに口をつけた。


 ──次の瞬間、世界が傾いた。


 視界が歪み、重力が反転するような感覚。

 香りが過去の景色に結びつき、味覚が感情を剥き出しにする。


 脳裏に浮かんだのは、夜の交差点、ブレーキの利かない車。

 割れたガラス。血の気配。泣き叫ぶ誰かの声。

 そして──白い傘。ひどく冷たい雨。


 「っ──!」


 グラスを置いた遼は、思わず片膝をついた。

 澪がカウンターを回り、彼の肩に手を添える。


 「ごめんなさい、無理をさせるつもりじゃ……」

 「大丈夫です。……でも、少しだけ、何かが繋がった」


 彼の声はかすれていた。けれどその瞳には、確かに“自分の中にある空白”を埋めにいこうとする強さが灯っていた。


 「十年前、あなたは俺に何を伝えようとしていたんですか?」


 澪は、少しだけ目を伏せた。


 「あなたは私に“逃げるな”と言ったの。

  責任からも、後悔からも、選ばなかった過去からも。

  でも私は──あなたを置いて逃げた。

  助けられたのに、それが怖くて、あなたの存在ごと閉じ込めてしまったのよ」


 「……それを、また思い出すために?」


 「ううん。もう一度、“ちゃんと向き合いたい”と思った。

  あなたに、“選ばなかった理由”を説明したいと思った。

  そして……もし許されるなら、今度は“あなたを選びたい”って」


 遼はゆっくりと立ち上がった。まだ視界はぼやけている。けれど、彼女の言葉だけは鮮明に響いた。


 「じゃあ、次は俺の番ですね。

  あなたに“選ばれなかった”理由を、俺自身の言葉で知りたい」


 カウンターに置かれたヴェスパー・マティーニのグラスには、もう中身は残っていなかった。

 だがその代わりに、遼の中には確かに“空白ではない何か”が生まれつつあった。


 それが記憶なのか、赦しなのか、それとも恋なのか──

 まだ定かではなかった。


夜は深まり、外の街灯が雨粒に反射して、店の窓ガラスにゆらぎを投げていた。

 その光の揺らめきは、まるでふたりの記憶の残響のように、静かに室内を漂っている。


 遼は棚から別のグラスを取り出し、無言で手のひらの中で転がした。

 まだ使われていない、冷たいガラス。

 そして、これから命の上に置かれるかもしれない器。


 「……契約は、書き換えられるんですか?」


 朝霧澪の問いに、遼は頷いた。


 「正確には、“上書き”です。新たな選択を行えば、過去の契約内容に上塗りされる。ただし、その代償は──」


 「さらに重くなるのね」


 澪の言葉は迷いなく、まるでそれをすでに受け入れていたかのようだった。


 「命の残り時間だけでは足りない場合……誰かの寿命を、代理支払いに使う」


 「誰の?」


 「“いちばん大切に思っている人”の、だそうです」


 澪はかすかに眉を寄せた。

 けれど、その目には怯えではなく、どこか懐かしい諦念のようなものがあった。


 「それでも、上書きしたいと思ったの。

  あなたに“過去の全部”を渡せるなら、それでやっと私は……」


 「贖罪ができる、と?」


 「ちがうの。もう“赦される”ことを求めてるわけじゃない。

  私はただ、“あなたの過去にちゃんと存在していたかった”だけ」


 遼は息を呑んだ。

 それは、彼の中の“誰にも知られなかった空白の十年”が、ようやく意味を持ち始めた瞬間だった。


 「それじゃあ……もう一杯、作りましょうか。

  あなたと俺、どちらの命が支払われるのかは、グラスの中身が決める」


 澪は頷き、グラスの前に座った。


 遼が作ったそのヴェスパー・マティーニは、ほんのわずかに色が違っていた。

 キナ・リレの代わりに、特別に手に入れたリレ・ブランの古酒。

 香りは深く、わずかな苦味が輪郭を強く浮かび上がらせる。


 「……この一杯を飲んだら、私たちはもう、元には戻れないのよね」


 「もともと、戻れる過去なんてなかったでしょう」


 遼がグラスを差し出し、澪がそれを手に取る。


 「ありがとう。……あなたのいない十年分の私を、これでやっと終わらせられる気がする」


 その言葉を合図に、澪はゆっくりとヴェスパー・マティーニを飲み干した。

 その瞳の奥で、何かが崩れていくのではなく、整っていくような静けさがあった。


 ──契約は成立した。


 グラスがカウンターに静かに戻されたとき、ふたりの間に流れていた“選ばなかった夜”の空気が、確かに形を変えていた。


それは静かな変化だった。

 契約が完了した瞬間、店の空気が確かに変わったのに、音も光も匂いも、何ひとつ変わっていないように感じられた。


 だが、時任遼の胸の内側では、何かが大きく動いていた。

 失われていた記憶の一部が、まるで紙の切れ端のように次々とめくれ、形を成しはじめていたのだ。


 ──十年前のあの夜。

 バーの外で偶然に出会った女。雨の夜道、車のヘッドライト、白い傘。

 そして、自分が彼女に手を差し伸べたこと。

 名前も、動機も、交わした言葉すら思い出せないのに、

 なぜか“助けようとした”という感情だけが、鮮やかに蘇ってくる。


 遼はふと、腕時計に目をやった。

 十時で止まっていたはずの針が、いま確かに、二分だけ進んでいた。


 「……始まってるんですね。命の代償」


 カウンター越しの朝霧澪は、どこか穏やかな顔で頷いた。


 「ええ。私たち、もう後戻りできない場所に足を踏み入れたのよ」


 「今、俺の寿命はどれくらいです?」


 「わたしにも分からない。でも──」


 澪はポケットから、あの“契約の写し”を取り出すと、そっと目の前に置いた。


 「この書類が“赤く染まったら”、命の代償が支払われた証。

  ただし、“誰の命が支払われたか”までは、分からない」


 遼は一瞬、言葉を失った。

 彼自身か、あるいは──澪か。あるいは、どこかで無関係な誰かが、ふたりの願いのために命を落とすのかもしれない。


 「……この契約、誰が作ったんでしょうね」


 「わからないわ。ずっと前から存在していて、

  ただ、それを選ぶか選ばないかだけが自由なのよ」


 澪の声は、どこか達観していた。

 それは“諦め”ではなく、“覚悟”に近い響きを持っていた。


 遼は目を閉じて、自分の胸の中を探るようにゆっくり息を吐いた。

 脈拍が微かに早くなっている。けれど、それは恐怖からではなかった。


 「朝霧さん。……いえ、澪さん。

  あなたがこの契約を交わす前に、もし俺の名前を覚えていたとしたら──それでも選んだと思いますか?」


 澪はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに遼の目を見た。


 「正直に言えば、きっと選ばなかった。

  それはあなたのためじゃなくて、私自身の弱さから」


 「……じゃあ、今は?」


 「今は──選んでよかったと思ってる。

  もう逃げずにいられるから。

  自分の過去と、あなたの未来の両方に」


 彼女の言葉には、確かな熱があった。

 それはヴェスパー・マティーニの冷たさとは対照的に、体の奥底からじわりと滲み出すような、静かな熱だった。


 ふたりの間に、新たな沈黙が訪れた。

 けれどそれは、言葉にできない想いを共有できる者同士の、深くあたたかな間だった。


夜が、深く、沈んでいく。

 店内はいつしか完全な静寂に包まれ、グラスの触れ合う音すら、過剰に響くように感じられた。


 時任遼は、新たなグラスを手に取っていた。

 それはさっき澪が飲み干したものと同じ、けれど微かに色味の違う特注のカクテルグラス。底にほんのわずかに刻まれた「R」の文字。

 ──Retake(やり直し)を意味する印。


 「……もう一杯、作ってもいいですか?」


 遼の言葉に、朝霧澪はそっと頷いた。


 「ええ。でもそれは、あなたの記憶のため? それとも、私のため?」


 遼は少し考えて、口元にだけ微笑を浮かべた。


 「たぶん──両方です」


 再びシェイカーを使うことなく、遼は静かな手つきでジン、ウォッカ、リレ・ブランを計量し、氷のないミキシンググラスで慎重にステアする。

 冷やしたグラスに注がれるその一杯は、今夜のどのカクテルよりも透明だった。

 そして、どこか祈りのような香りがした。


 遼はそのヴェスパー・マティーニを自ら口に運んだ。

 すると、再び過去の記憶が、波紋のように広がっていった。


 ──白い傘。

 ──赤信号。

 ──澪が立ちすくんでいた路地。

 ──遼が彼女を突き飛ばした瞬間。

 ──代わりに、轢かれたのは──自分だった。


 そして気を失う寸前、確かに澪が涙を流しながら自分の名前を呼んでいたこと。

 その声がどこかで、脳裏の奥に残っていた。


 遼はそっとグラスを置いた。


 「──思い出しました。

  あの夜、あなたは俺を助けに戻ろうとしていた。

  でも、“もう間に合わない”って、誰かに引き止められた。

  俺は……あなたを、責めるつもりはなかったのに」


 澪の肩がわずかに震えた。

 彼女は声を出さずに目を伏せ、そのままグラスの底に視線を落とした。


 「……怖かったの。あなたが自分を責めないことで、余計に苦しくなるのが。

  だから、私の中であなたを“加害者”にしていたのかもしれない。

  “私を助けようとして巻き込まれた人”だって思えば、まだ、自分が壊れなくて済んだから」


 遼は言葉を挟まず、ただその告白を受け止めた。

 それは、過去の夜を閉じる鍵であり、同時に今を繋ぎとめる言葉でもあったから。


 「……この契約って、やっぱり不思議ですね。

  命を削ってまで、誰かと再会する意味があるのか、正直分からなかった。

  でも今は、あの夜の続きを、ようやくちゃんと迎えられた気がします」


 「ええ。私も同じ。……でも、遼さん」


 「はい」


 「このまま、またあなたの命が削られていくなら──私は、次の一杯を止める役になりたい」


 遼は静かに笑った。それは十年前の自分にはなかった、少しだけ成熟した笑みだった。


 「たぶんもう、俺は“次の一杯”は作らないですよ。

  この一杯で、十分ですから」


 ふたりの前に、空になったグラスが二つ、並んでいた。

 そこにもう何も注がれることはなかったが、確かに何かが注ぎ込まれていた。


 ──後悔ではなく、選択という名の静かな答えが。


店内は、静かに時計の針を進めていた。

 止まっていた時間が、ようやく動き出したかのように。


 ヴェスパー・マティーニのグラスはすでに空で、音もなく片づけられていた。

 時任遼は、冷えたタオルで手を拭いながら、そっと呼吸を整えていた。

 それは感情の高ぶりではなく、“空白だった時間が満ちていく感覚”への順応だった。


 「……思い出したんですね」


 カウンター越しの朝霧澪が、低い声で尋ねる。


 遼はうなずいた。


 「ええ。事故の夜、あなたの声が最後に聞こえた。

  それだけはずっと“幻聴”だと思っていたけれど、あれは本物だった」


 「私は、逃げたの。あなたが助けてくれたのに。

  あのときの自分を、私は一生赦せないと思っていた」


 「……でも、今こうして話している。

  契約を交わしてまで、あなたがここに来てくれたことが、すべての答えかもしれません」


 澪は視線を落とし、小さく息を吐いた。


 「ねえ、遼さん。

  もしあの夜、私があなたを見殺しにしなかったら──

  私たちは、こうして出会うことはなかったかもしれない。

  それでも、やっぱり私は、“別の選択”をすべきだったと思う」


 「その“別の選択”が、どれだけの意味を持つかなんて、きっと今になっても分かりません。

  でも……あなたが後悔してることも、こうして戻ってきたことも、俺にはすべて“真実”です」


 ふたりの間に、長い沈黙が落ちた。

 その沈黙は、言葉を尽くした後にだけ訪れる、静かな呼吸だった。


 遼はふと、カウンターの端に置いてあった契約用紙を手に取った。

 その紙は、ほんのわずかに赤く滲んでいた。


 「これ……もう、代償が支払われたってことですよね?」


 澪はうなずいた。


 「誰の命が、っていうのは分からない。でも、終わったの。

  契約は、もう成立してる。

  私たちは、やっと“選び直せた”のよ」


 遼はその紙を静かに二つ折りにして、古いレシピノートの間に挟んだ。


 「“過去はやり直せない”って、ずっと思ってたけど……

  ほんの少しだけ、“選び直せる夜”があるのかもしれませんね」


 澪は微笑み、ゆっくりと立ち上がった。


 「遼さん。……ありがとう。

  私、あなたに名前を呼んでもらえたこと、きっと一生忘れない」


 その言葉に、遼もまた、わずかに笑った。


 「朝霧澪さん。……今夜、来てくれてありがとう」


 彼女はグラスに触れることなく、そっと扉の前へと歩いていく。

 入口のベルが鳴る──はずだった。

 だがその音は鳴らなかった。彼女の姿が、ゆっくりと消えていく。


 それはまるで、夜が夢をひとつ手放すような静けさだった。


 遼はしばらく、ただそこに立ち尽くしていた。

 手の中には、わずかに温もりの残るクロス。

 そして心の中には、ようやく埋まったひとつの記憶。


時任遼は、ヴェスパー・マティーニを作ったグラスを丁寧に洗い終え、カウンターの上に並べた。

 どれも曇りひとつない、美しく磨かれたガラス。

 けれど、その中の一つだけは、まるで“使われたことのないような空白”を抱えていた。


 彼女のグラスだった。

 朝霧澪が最後に触れずに去っていった、もう一杯分のグラス。


 それはまるで、彼女の存在が“ここにいたこと”の証であると同時に、

 “もうここにはいない”ことの確かな痕跡だった。


 遼はクロスでグラスを拭きながら、ぼそりと呟いた。


 「……命を賭けてまで、誰かに再会する夜があるなんて、思いもしなかった」


 時計の針は、午前零時をすでに超えていた。

 バー「クロノスタシス」は、またいつも通りの静けさを取り戻している。

 音楽もなく、客もいない。ただ、カクテルと記憶だけが、この場所には残っていた。


 遼は棚の奥に、古びたレシピノートをそっと戻した。

 その間にはさまれた一枚の紙――赤く滲んだ契約書だけが、今夜の“現実”だった。


 「やり直すことはできない。けれど、選び直すことはできる。

  それが、このバーの唯一のルール……か」


 そう言って笑った自分の声が、意外とよく響いた。

 誰もいない店内で、彼自身の声が孤独を吸い込み、やがて溶けていった。


 遼はバーカウンターの明かりを一つずつ落とし、最後にグラスを一つ、中央に置いた。

 そして、ほんのわずかにステアされたジンとウォッカの香りが残る空気の中、彼は一言だけ、静かに呟いた。


 「……次の客は、誰の命を預けに来るだろう」


 その声に、応える者はいない。


 けれど、この夜のどこかで──誰かが、ヴェスパー・マティーニを飲み干す準備をしているかもしれない。

 人生をやり直したいと願う誰かが、過去と向き合うための扉を、いま開けようとしているかもしれない。


 夜の帳が降りきった街で、またひとつの物語が、静かに始まる。


 ──グラスの底に、まだ言葉にならない未来を残したまま。



最後まで、この静かな夜に付き合ってくださり、ありがとうございます。


命の代わりに差し出されるカクテル。

グラスの中で揺れるのは、ただの液体ではなく、選択されなかった言葉、

伝えられなかった想い、そして名前のない記憶たちです。


過去は変えられないけれど、

それを“選び直す”ことはできる。


そんな希望を、カウンターの片隅にそっと置いて、

今夜はここでグラスを伏せましょう。


きっとまたどこかの夜で、

あなたと再会できるその時まで。

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