8.ラジオネーム『静けさの海』と『明石のディーバ』
三村は運転しながら聴き入っていた。
どうせ国道161号線はカーブが多くなったとはいえ、単調なコースである。
知らぬ間に喉がカラカラに干上がっていた。ドリンクホルダーの缶コーヒーに手を伸ばしたが、空であったことを思い出した。
むしょうにラジオを切りたい衝動にかられる。
島での胸糞悪い出来事を思い出そうとするだけで、頭が割れんばかりに痛むのは嘘ではなかった。現実から眼を背けたくて、左手がカーステレオのあたりを彷徨う。
助手席の真智子は、心ここにあらずの顔で夜の向こうを見つめているだけだったが、ラジオを切るのを躊躇わせた。気にしていないそぶりながら、やはり彼女だって真実を知りたいにちがいないのだ。
桐島アナが生真面目な声で続けた。静かなBGMがバックで流れる。
「私こと『静けさの海』の父が、3カ月前、ひょっこり帰ってきました。なんてひどい現実だろう!と思ったのが率直な気持ちです。11歳の娘の前から突如消えてしまい、寂しい思いをしたのは母も同じでした。子どものころには感情をさらけ出しませんでしたが、夫を失った悲しみ、さぞかし深かったものと察します。しばらくは立ちあがれなかったほどですから」
「そりゃそうだわな」
「1年経ち、父の死亡届が受理され、多額の保険金も入りました。とはいえ一家の大黒柱を失い、将来の展望も暗澹としたさなかでした。くわえて30代半ばの母が、独り身のまま埋もれるのは惜しい。そばでサポートし続けてくれた男性と、いつしかいい仲になりました。さらに1年後、2人は再婚することに決めたのです」
「キタ~~~ッ!」
「この男性こそ、父の職場の先輩にあたる人物で、当時37歳。私のことを実の娘のように可愛がってくれ、私も彼の人柄に心開きました。ふたたび平穏な生活を取り戻したかに見えたのです……。そして四半世紀以上の時が流れました。現在、アラフォーの私は独身を貫き、アート系の仕事に打ち込んでいます。他に代えのきかない天職だと思うし、それなりに幸福を楽しんでいるつもりだったのですが」
「ふむふむ」
「そして先日のこと。64になった母のもとに、30歳も若い父――つまり、実父ですね――が、当時失踪した姿のまま帰ってきたのですから、戸惑わずにはいられません。母はもちろん、生きて帰ってきてくれたことには素直に喜びました。実父は行く当てがないのだと訴えるのです。驚いたことに、実父はこんなおばちゃんを捕まえて、また一緒に暮らしたいと申し出たのでした。さすがの母や私は、困り果ててしまったのは言うまでもありません」
「やりきれないね……」
「母にしてみれば、つい先日まで、彼を死んだものと見做し、人生を送ってきたのです。すでに再婚しているから、それはできないと若い実父に伝えるのですが、納得してくれない。彼はこう言うのです。『おれには帰るところがない。いくら年が離れてしまったとしても、頼れるのはおまえと娘しかいないんだ』と、涙ながらに訴えるのでした」
「なんともはや」
「今年67になる再婚相手の義父にしても、いい気がするはずもありません。ましてやかつての職場の先輩。気まずかったでしょう。『悪いが妻のことは忘れてくれ』と言い渡しました。そばで私もそのやり取りを見ていましたが、あのときの実父のがっくりした姿は切なかった。悄然と肩を落として去っていく後ろ姿は、とても34歳のものとは思えなかったです。まるで玉手箱を開け、一瞬にして老いてしまったかのようでした……」
「そう」
「なぜ今になって、こんな残酷な仕打ちがあるかと思いました。30年ぶりに帰ってきた実父の身の、これからを案じると同時に、そっとしておいて欲しいという気持ちがせめぎ合っています。以上、『静けさの海』でした」
桐島アナがしゃべり終わると、ラジオは黙り込んだ。時間にしてわずかにすぎなかったが、投稿を読んでいる間、バックで流れていたBGMだけが白々と流れた。
真智子はうつむいている。三村はまっすぐフロントガラスの向こうを睨んだままだ。
ラジオネーム『静けさの海』や、その実父を代弁するかのように、空だけが泣いていた。
三村には心当たりがあった。
たしかに、家具メーカーの幹部候補社員だという男たち4人も研修に参加していた。そのメンバーのうちの誰かのことを指すのだろう。
スピーカーから大泉の盛大なため息が洩れた。
「……いやー。なんとも切ないね。まさかあの失踪事件から、こんなドラマが生まれちゃうなんて。それも毎回『ミュージックG-LOC』を聴いててくれる常連さんの肉親だったんでしょ? 世間は狭いもんだ。いずれにせよ、貴重なお手紙、ありがとうございます」
大泉はしゃがれた声を洩らした。
「ですよね」と、桐島アナは涙ぐんだ声で言った。「時の移ろいって残酷かもしれません」
「では、あらためまして――」
「続きまして、ラジオネームは『明石のディーバ』さんからメールをいただいております。――来ました、博学『ディーバ』さんお得意の薀蓄です。とくに『明石のディーバ』さんは世界の昔話マニアとして知られてるんですよね」
「いつもながら、頭がさがります。頭がさがりすぎて、地面にめり込みそう! たしか『ディーバ』さんはカラオケが趣味なんだよね。地元で定期的に開催されてるのど自慢大会では、賞を総なめするほどなんだとか。伊達に『歌姫』ではない」
「メール読みます。『日本にはお伽噺、浦島太郎があるように、アメリカじゃ、リップ・ヴァン・ウィンクルってタイトルの、これまた不思議な物語があるそうです。先ほど大泉さんがご指摘されたように、日本にはSF用語にウラシマ効果という言葉があります。同じくアメリカの場合だと、リップ・ヴァン・ウィンクル効果と呼ぶそうです。』」
「おれ、知ってる。リップ・ヴァン・ウィンクルって、英語じゃ、『時代遅れの人』を意味する慣用句で使われるほど知られてるんだよね」
「『ディーバ』さんのお手紙、続きます。『他方、中国には『桃花源記』という時間異常を描いた物語があります。それはこんなお話――東晋の太元年間に、武陵の漁師が桃の花が咲き乱れる林に迷い込んだそうです。途中見つけた洞穴を抜けていくと、奇妙な村里に足を踏み入れました。そこで出会った人たちは、先祖が秦の始皇帝の圧政を逃れてここに村を築いたというのです。この隔絶した村は平和そのものでした。とにかく、漁師はいったん帰ることにしました。印をつけながらもと来た道を戻り、太守――いわゆる郡の長官のことです――に伝えました。後日、太守は漁師に案内させて調べさせましたが、印は消えていて、ついに探し当てることができませんでした、という筋。これに似た話は他にもあって、当時このような説話が流行したのだと思います。以来、ユートピアを称して『桃源郷』とする言葉が生まれたといいます。』
「『明石のディーバ』さんのことだから、てっきり『遠野物語』の『サムトの婆』かと思ったが、そっち」
「以上、『ディーバ』さんからのメールでした。ありがとうございます」