6.異界
「ですよね、やっぱり」
「いずれにせよ、そのあと56名は、熊本県警の取り調べを受けたと思う。警視庁からも大勢署員が派遣されたらしい。2カ月をかけて、みっちり聞き取り調査をしたんだ。――ところがだ。この生還者たちもまた、妣島でなにがあったか、そしてなぜ30年の歳月をおいて還ってきたのか、誰一人として憶えていない、説明できないと言うんだよ。こんなことってアリなの?」
「やきもきしちゃいますね。雲をつかむって感じです」と、桐島アナが声のトーンを落として唸った。「ますます宇宙人の仕業じゃないかって噂されてますよね。頭にチップを埋め込まれ、洗脳されたんじゃないかって、SNSを中心に広がってます。憶測が憶測を呼んでるありさまですよ。Twitterで、『生還者の側頭部 傷』がバズってたりして。じっさいはそんな傷、見当たらないんですが」
「バズってんのかい……。おれ、Twitterしないから、知らね。しかしねぇ、記憶がない? しかも30年の歳月、年を取らないって……。どうよ、カナン。生物学的に、こんなことってあり得ると思うか?」
「私は思うにですね」桐島アナは、急にしゃちほこばった口調であらたまった。もしもメガネをかけた人物なら、中指でメガネの位置を正しているにちがいない。「問題の事件が起きた妣島。熊本県天草諸島、八代海にある無人島を貸しきって行われた研修なんですが、わずか面積4.97km2の島から、56人もの腕力や体力もある男性たちが、そっくり連れ去られるとは考えにくい。だとすれば、やっぱりUFOによる一斉誘拐。いわゆる宇宙人拉致事件! そして地球時間とは異なる世界に連れていかれ、なんらかの施術を受け、ようやく解放された説に一票を投じます!」
「カナン、おまっ、ぜったい月刊『ムー』の愛読者だろ!」
「『ムー』は高校生のころ、定期購読してました!」
ラジオは暢気な男女の笑いを伝えた。
真智子がうんざりした様子で助手席の窓に眼をそらす。
三村はステアリングを操りながら歯噛みした。
あまりの無責任ぶりに、苛立ちを憶えずにはいられない。
――どいつもこいつも、心配したふりしやがって! しょせん当事者じゃないから、適当な推測で酒の肴にしてるにすぎないんだ! おれたちの苦悩がわかってたまるか!
「とにかく、ありとあらゆる調査は2カ月をかけた。警察だけじゃない。日本政府による事実調査チームが生還者56名と面会し、事細かな聴取がなされた。事故調査委員会が再発防止と真相究明に奔走したが、前例のない事案であり、芳しい結果は得られなかったんだ」
「56名もの人がいるならば、ひとつぐらい、ヒントも出そうなものですが」
「56名の男たちは揃いも揃って頑固者なのか、それともよほど怖い思いをしたんで、記憶を封印してしまったのかもしんないな」と、大泉はお手上げだと言わんばかりに呆れた口調で言った。「結局、謎は解明されないまま、生還者はもといた実家や故郷に帰された。なかには監視者がついたとの噂もあったが、取り越し苦労だろう。誰かに洗脳されている疑いは晴れたらしいからね」
「あの、大泉さん。某週刊誌の件なんですが」
「さすが目ざといね。ある週刊誌がすっぱ抜いたスクープがひそかに話題となってるよね。政府が公にしていない、生還者の共通点があるとか。失踪前と生還後では、程度の差こそあれ、異なる身体的特徴があるというから、オカルト好きは色めき立った」
「異なる身体的特徴。まさに宇宙人拉致事件を裏付けることになるかもしれませんね。いったい、どこがどうちがうのでしょうか?」
「これについては、おれも週刊誌を読んでみたんだが、なんだかお茶を濁した記事なんだよな。どうも次号を購読させるために、引き伸ばしてる感が見え見えなんだ。つまり具体性に欠けるわけ」
「なんとか知りたいです。次号はなんとしても購入すべきです」
「結局、なんの成果も引き出せないまま、56名の男たちは3カ月目にして調査から解放された。ちょうど今月から、この時代の空気を満喫していることになる。早くも以前の職場に戻った者や、新たに社会復帰した人もいるという。しかしながら、せっかくこちら側に還ってきたのに、世界になじめず、自ら命を絶ってしまったり、新型コロナウイルスに感染し、死亡した例も含めて7名が犠牲となった。これはカナンも知ってのとおりだな」
「誠に残念なことに、ですね」
「なじめないのも無理はない。なぜ30年の時を経て生還したのに、56名は年を取っていなかったのか? まるで浦島太郎のように、時間の進み方が異なる世界に彷徨い込んでいたのではないか?――学者たちはこぞって、この現象をウラシマ現象と命名し、あちらの世界を『異界』と呼んだ。彼らは異界に迷い込み、異なる時間軸ですごし、そしてなんらかの方法で奇蹟的に還ってこれたと結論付けられた。そうとしか言いようがなかったんだ。そりゃ、世間に溶け込みたくても、周囲から浮いた存在になってしまうかもしれない」
ディスクジョッキーが言及した異界とはそもそも何か?
『異界』という言葉が広く流通するようになったのは、最近のことである。一般的な国語辞典に載ったのが、ほんの30年ほど前あたりだとされている。
それまではむしろ、『他界』という言葉が、同様の意味をもつ語として使われていた。
とはいえ、『異界』と『他界』には微妙な違いがある。
『他界』が『死後の世界』、『あの世』という性格を強く帯びているのに対し、『異界』の方はもっと空間的で、かつ身近な世界、というニュアンスが含まれているという。
『異界』や『他界』の対義語とは、『この世』であり『現世』、あるいは『人間の世界』、『生者の世界』などであろう。
人間は自分たちの世界を、慣れ親しんでいる既知の領域と、そうではない未知の領域に分けて考えるようになる。慣れ親しんでいる領域こそ、秩序ある友好的な世界、つまり『我々』として分類できる者たちの住む世界である。
反対に、そうでない領域とは――危険に満ちたカオスの世界、つまり『彼ら』として分類できるような者の住む世界と見做されることになる。
『我々の世界』と『彼らの世界』の対立は、別の言葉で表現すれば、『人間世界』と『異界』ということになるわけである。
また空間的にいえば、付き合いの少ない人々の住居や見知らぬ人々が住む異郷、未知の部分が多い山や森、水界などが『異界』ないし、『異界』の入り口とされる。――これが現代民俗学の考えである。