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4.ウラシマ効果

「修一さんと結婚し、子どもが生まれると、子育てに夢中になった。下の子は元気な子だったけど、上の男の子は生まれつきハンデキャップがあったの。口には表せないほど苦労したよ。自営業の夫の仕事だって、けっして順風満帆ではなく、時には荒波に揉まれ、難破しかかったことさえある。家計を支えるため、私も必死で働いた」


「そうか」


「無我夢中で生きていくうちに、私はこうして年を取っていった。それが私の30年。あっという間だった。ごめんね、三村君のこと、よく憶えていなくて。あけすけなこと言えば、私、三村君と交際するまで、他に二人の男性と交際したことがあった。あくまでそのうちの一人って感覚なの。ましてや結婚しちゃえば、その他大勢の一人にすぎないってこと。すごく酷いこと言ってるのはわかってる」


「子育てが始まれば、女性って、そんなものかもしれない」


 三村は平静を装うので精一杯だった。

 みじめな気持ちがみぞおちのあたりで蜷局とぐろを巻く。このまま現実の厳しさで打ちのめされるのも悪くないと、自虐的に思った。


「時間って残酷よね。ううん、ちゃんと90年の9月30日、あなたとのはじめてデートで、どんな映画観たか――忘れもしない。あれはデミ・ムーアの、『ゴースト ニューヨークの幻』だった――、そのあとに入った雑貨屋さんや喫茶店のことも微かに憶えてる。91年のゴールデンウィークで北海道へ旅行に行ったのだって、ちゃんと記憶はある。小樽おたるのガラス館で買ったおしゃれなグラスは、今でも家のどこかにあるはずよ」


「切子模様の入った青い奴か。あれはびっくりするくらい高かった」


「……でもね、それだけなの(、、、、、、)最中もなかの外側だけ。あんが入っていない。こんなこと言ったら、薄情かもしれないけど、肝心の三村君の人となりがおぼろげなの。まるで霞に包まれたみたい」


「うん」


「あなたがいなくなって、時間が経てば経つほど、どんな顔をして、どんな身体つきだったか、人物像までがぼやけちゃって。写真はあるにはあったけど、できるだけ見ないようにしてたほどなの。事件が事件だけに、受け容れられなかった。三村君がこうして帰ってきてくれたおかげで、『ああ、三村君ってこんな顔してたんだっけ』って、あらためてハッとしたぐらい」


「はっきり言ってくれて、むしろありがたいね」


「正直ね、こんなおばちゃんになった私に、頼られるのもしんどい。あなたは若いままなのに、なにしろこっちは56なのよ。ううん、誤解しないで。迷惑ってわけじゃない。きっとあなたは、浦島太郎の状態なんだから、途方に暮れてる。当然、30年前をよく知る誰かに頼りたいよね。けどね、私にはなんだか荷が重すぎて。こんな私に、あなたを支えることができるのかなって、ちょっと自信がないの」


「悪かった。マチに期待しすぎた、おれが馬鹿だった」


「あなたが悪いわけじゃないでしょ。こんなふうに巻き込んでしまった運命の悪戯いたずらがいけないの」


「運命の悪戯」


「どしたの? あんまりそんな眼で見つめないで」


「なんで」


「こんな暗いところでも粗が目立つ。それだけ私の方が年を取ってるのよ。なんだか恥ずかしい」


「おれのこと憶えていないわりには、恥ずかしがるもんなんだな」


「当てつけはよして。まるで私だけが老化してるみたいで、三村君に対して申し訳ない気持ちでいっぱいなの」


「それだって、マチが悪いわけじゃないさ」


 坂出市の青海町おうみちょうを通過した。

 左右にはのどかな農園が広がっている。いつの間にか一車線に幅員が狭まっていた。雨は相変わらずだ。

 三村はいたたまれなくなり、救いを求めるようにカーラジオをつけた。


◆◆◆◆◆


「……いかがでしたでしょうか、クイーンの『'39』をお届けしました」ラジオがクイーンの歌を流し終えたあと、ディスクジョッキーの大泉 仁志が言った。「いやはや、この歌詞が、いま話題になってる失踪事件から帰還した人たちに、ぴったりなんだよね」


「と、言いますと?」


 桐島 佳南はさえずるような声で尋ねる。


「クイーンと言えばさ、『ボヘミアン・ラプソディ』をはじめ、『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』と、テレビCMに起用されたりして、いろんな代表曲がある伝説的なバンドだけど、今回はギタリストであるブライアン・メイに注目したいのよ」


「はい」


「ブライアン・メイはバンドが軌道に乗るまで、天体物理学の学者も志してて、なんと博士課程まで進んでいた経歴がある人物として知られてるの。理科教員の非常勤講師もしたことがあるぐらいだから驚きだね。それだけじゃない。彼の知的探求心には頭が下がるんだ。中断して取得していなかった博士号を、60歳になって、天文台に泊まり込んで観測・研究し、ついに悲願の博士号を取ったって人なんだから、まさに天は二物を与えちゃったと言っても過言ではないわけ。今紹介したブラインアン・メイによる作詞作曲の『'39』という曲は、あのアインシュタインの相対性理論によるウラシマ効果を歌ってるとか。SFの世界観なのに、カントリーミュージックっぽい曲調ってのが、センスいい」


「ウラシマ効果、ですか」


「カナン、ついてこれる? 女の子って、大抵この手の話、苦手じゃないの? たとえば地球から光速に近い速さで、ロケットが出発して戻ってくると、地球では何百年も経っているのに、ロケット内の人間にとっちゃ、数年しかすぎていない、みたいな現象のことをいうそうな。……あ、今おれ、カンペ読んでるだけだから。――ちなみに、この現象をウラシマ効果と呼ぶのは日本だけだそう」


「はい」


「まさに『'39』の歌詞の世界観なんだけど、ざっくり説明するとこんな感じ。――西暦xx39年の世界が舞台。新天地を求めて宇宙へと旅立った選ばれし乗組員たち。宇宙船に乗っての、時空を超える旅だった。その1年後、移住できる星を見つけ、成果を手に地球に還ってきた。にもかかわらず、心は重く沈んでいた。というのも、愛する人はすでにこの世にはいなかったんだ。恐らく地球時間で100年が経過していたんだろうとされている。地球はすっかり年老いてしまっていた。自分の孫に、愛しい人の面影を重ね、悲しむしかない。それでも人生はずっと続いていく……」


「大泉さん、めずらしくしんみりした口調でした」


「いやさ。おれ、原稿読んでて泣けてきちゃったよ」と、大泉は演技なのかどうか、はなをすする音を立てたあと、声のトーンを変えて、「ほんじゃま、さっきの続き。――今でこそ民間企業主催による、サバイバル研修ってめずらしくないけどさ、30年前だからね。かなり時代を先取りしてた団体だったんだと思う。某カップ麺で有名な大手食品メーカーも、毎年、無人島研修を実施していることで知られてるんだよね。あちらは瀬戸内海に浮かぶ無人島が舞台なんだとか。もっともエリート社員限定なんだってさ。なんでも、『若手管理職の心身を鍛える』のが最大の名目なんだって」


 雨の音に負けじと、真智子はラジオのボリュームをあげた。

 大泉の声が大きくなった。

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