17.失われた時間の帳尻合わせ
――21:35
「『ディーバ』さんのお手紙、続きます。『日本が誇る博物学者・生物学者・民俗学者の南方 熊楠の著書によりますと、江戸末期に探険家、最上 徳内がこのメノココタンに渡ったとされています。そこで女たちに会い、歯の生えた股を見せてもらったとか。試しに腰に差していた刀の鞘を咥えさせたところ、鞘に歯形が残るほど強く咬まれたらしいです……。』
「そんなことあったんか……。しかしなんでまた、北海道アイヌに伝わる島が、熊本の海にあるっての?」
「『実は誘惑した男を殺したり、シンボルを噛みちぎって去勢する民話は、世界各地に見られるそうです。ポリネシア神話にも似たような異様な話があります。夜と死を司る女神、ヒネ・ヌイ・テ・ポの外見も強烈なビジュアルで知られています。なにせ口には鋭い歯、股は黒曜石の歯を持つと言われていますから。』」
「やれやれ……。今夜は刺激の強い放送になっちゃったな」
大泉はため息を洩らすと、アクリル板の向こうの三村を見た。
まさに去勢された男の姿がそこにあった。心なしか、はじめてブースに入ってきたときより、縮んで見えた。
桐島アナはガラス壁の向こうに眼をやった。
大石ディレクターがしきりに腕時計を指さし、口をパクパクさせている。
『巻け!』と唇が動いた。
壁時計を見ると、番組終了まで残すところ16分。
ゲストの虚脱したような表情が気になりつつも、大泉は届いたばかりの投稿を読んだ。
「女性ロックマニアで知られる、ラジオネーム『壁に耳ありジョージにメアリー』さんよりメールをいただいています。なんと、リクエスト曲まで。『奇怪な村に迷い込み、不幸にも身体の一部を失ったM氏、および他の生還者さまはお気の毒です。いかに苦しまれたか、男の私には心中察するに余りあります。この謎の女たちについてですが、ある歌を紹介したい。と言いますのも、イギリスのミュージシャン、P.J.ハーヴェイに、奇しくもぴったりの楽曲があったりするのです。』」
「へえ」
「『それがシーラ・ナ・ギグ。余談ですが、シーラ・ナ・ギグってのは、イギリスやアイルランドの教会などに見られる女性器を強調した石像のことだそう。キリスト教に飲み込まれたイギリスで、ケルトの異端宗教の名残だとか、土俗信仰の豊穣の女神だとか、諸説あるみたいなんです。よろしければインターネットで画像検索してみてください。これが生放送で言っちゃうのも憚られるほどのデザインだったりします。』」
「リスナーさんの造詣の深さには、思わず唸りますね」
「ちゃんとウチの局にもCDがあるんです。では、さっそくお聴きください。P.J.ハーヴェイで、『シーラ・ナ・ギグ』」
◆◆◆◆◆
すかさず、カフボタンが切られた。
ギターの音色とともにP.J.ハーヴェイの囁くような歌がはじまると、ブース内は私語を交わせるようになった。
三村をはじめ、大泉と桐島アナは緊張を解いた。
番組終了まで残すところ14分。局の誰もが、きれいにまとめるべく頭をフル回転させていた。
「いやー、生放送中に三村君が出演してくれて、こんなうれしいサプライズは滅多にないって」と、大泉は立ちあがり、テーブルをまわり込んで三村と握手した。三村は疲れた様子だったが、薄く笑って応じた。「事件の真相を語ってくれてありがとう。あまりにも妙ちきりんで、ホラーじみた話だったけどさ、リアリティは伝わったと思うんだ。大なり小なり、リスナーさんはこれで納得してくれたじゃないかな。――ま、率直な感想を言えば、女性の敵になりかねないことをしてしまったかもしんない。けど、結果論じゃないの。今さら覆水盆に返らずなんだし」
「おっしゃるとおり、今さらどうしようもないです」
「同時に、君たち生還者が、こんなにも苦しんでいたなんて、僕たちメディア側の人間は襟を正さないといけないって考えさせられた。ずいぶんと傷つけてしまったと思う。ごめんな、今まで。――いやいや、三村君は人生の先輩なんだから、すみませんでした、ですね」
「こちらこそ、生意気なこと言ったりしてごめんなさい……」と、三村は白い顔で力なく言うと、手のひらをかざした。「話変わりますが、ちょっと水分摂りすぎたようです。さっきから、トイレ行きたくて我慢してたんだ。局の、貸りてもいいかな?」
「どうぞどうぞ! お気遣いできず、ごめんなさい」
桐島アナがあわてて立ちあがり、防音ブースから通路へ出る扉を開けた。
三村は泳ぐような手つきで歩いた。
大泉が鼻の頭を掻きながら、三村の背中に向って、
「曲が終わるまでには、戻ってきてくれたらありがたいんけど。……ダメなら、おれたちのトークで繋ぐけどさ。歌のあとは番組終了まで、あらためて三村君にお礼の言葉で締めくくりたいのよ」
「努力します。なにせ欠損があるんで、立ったまま放ることができない」
三村はそう言うと、ふらふらした足どりでブースを出ていった。
通路の向こうにトイレのマークが見える。
そこのドアを開け、三村の姿は消えた。
スタジオの中の人間は待つしかなかった。
P.J.ハーヴェイの歌は3分弱で終わった。
なのに、三村はトイレから帰ってこない。
カフボタンはすでに切り替えられている。
大石ディレクターがブースの二人に指示した。
「えらく長くかからないか。トイレを汚してしまって、律儀に掃除してくれてるのかもしれん。大泉さん、すまんが様子を見にいってくれ」
「三村君、わりと世話が焼けるね……。どれ、カナン、連れ戻してくるから、トークで繋いどいてくれ」
大泉がイヤホンを外して立ちあがり、そそくさとブースを出ていった。
桐島アナはとっさに機転を利かせた。リスナーの反応を簡単に紹介していく。
◆◆◆◆◆
大泉は男子トイレに入るなり、2つの個室の扉が開けられていることに気づいた。
どんな武骨な男でも、トイレをするときは扉を閉めるものである。
扉が開いているということは、済ませたあとにちがいあるまい。
もちろん小便器は無人だし、手洗い場にも三村の姿はない。
「おい、どこ行っちまったんだ。まさか黙って帰ったんじゃなかろうな?」
大泉は念のため、個室の狭い洋式トイレをのぞいてみた。
1つ目はもぬけの殻。
2つ目は……便器のふたが開けられ、床には脱ぎ捨てられたかのようなジーンズとジャケットやらインナーが落ちていた。ジーンズの内側にはトランクスまであった。
さっきまで三村が身につけていた衣服に他ならない。
「なんなの、これ。もしや、ここで素っ裸になって外へ出ていったんじゃ……」
大声で大石ディレクターを呼んだ。
なにごとかと、スタッフたちは通路を走ってきた。
端的に事情を説明した。すぐにアシスタントディレクターを正面玄関へとやった。
非常口も調べさせたが、内側からロックがかかっている。少なくともここから出たわけではない。
とっさに大泉の頭に、ある予感がよぎった。
断じて三村は衣服を脱ぎ捨て、ラジオ局から立ち去ったわけではない。
役目を終え、消えてしまったのだ。失踪事件から還ってきたあと、その真実を明らかにした。それを説明することで流れ星のように燃え尽きたのだ。
すなわち、失われた時間の帳尻合わせが行われたのではないか。
てんやわんやの騒ぎとなった。
A・Dは走って戻ってくると、やはり玄関から外へ出ていった形跡はないと報告した。
「玉手箱を開けたんだ、彼は」大石ディレクターは頭を掻きながら言った。腕時計を見て、「どうする、大泉さん? 番組終了まで残り3分」
「3分あれば、なんとかしてみせるって!」
大泉は言うと、防音ブースへ走った。
◆◆◆◆◆
屋外駐車場の片隅だった。
フェンス沿いには電柱があり、真上の街灯からスポットライトのように駐車スペースを照らしていた。
真下にはアイドリングしたままのレンタカーがあった。
助手席で真智子は、桐島アナのトークを耳にしていた。さまざまなリスナーの感想が伝えられた。辛辣な意見もあれば、擁護する声もあり、真智子は頬に手を当て、我がことのように傷ついたり、救われたりした。
今や遅しと三村の次の言葉を待っていたが、一向に声を聞けずにいた。
いったいスタジオでは今、どんなやりとりがされているのだろうか? 早く彼の声を聞きたいと思った。
たしかに30年前、三村があの島で異世界へと迷い込み、そこで受けた罰とやらは真智子には衝撃が大きすぎた。
裏切られたというより、男ってそんなもんなんだという諦めの気持ちの方が勝った。
女はしたたかに成長するが、男はいつまで経っても子どもっぽい部分を引きずる。当の真智子の亭主だってそうだった。だから男は時代遅れになるのだと思った。
とはいえ、もう済んでしまったことはどうしようもない。
反省しているのなら、一度ぐらい許してやるべきだ。――むしろ真智子は寛容に構えていた。伊達にあれから30年、人生の荒波を泳いできたわけではない。
三村がラジオでの飛び入りゲストを終え、帰ってきたら笑顔で迎えてやろう。真智子は少なくとも26のころより、逞しくなったのだ。無駄に年をとったわけではない。
――そんなときだった。
カーラジオがノイズ混じりになった。
真智子はチューナーを操作しようとして、手を伸ばし、はたと思いとどまった。
桐島アナの声ではなく、さっきまで聞き慣れた男の声が流れてきたのだ。
まちがいない、三村のそれだった。雑音混じりだったが、なんとか聞き取れた。
「……マチ、聞いてのとおりだ。おれはすべてさらけ出した。もっと早く白状していれば、こんなに長く引っ張ることはなかったのに……。ごめん」
真智子はシートから身を乗り出し、スピーカーを見つめた。
「……君を含め、世間から非難されても仕方ないな。さすがにマチに合わせる顔がない……」
「そんなことない!」思わず真智子は叫んだ。今ここで引き留めなければ、三村は遠いところへ行ってしまうと本能的に察知した。それも永遠に手の届かない場所へ……。「三村君、私は大丈夫だから! だから考え直してったら!」
「……どっちにしたって、島での秘密を話したら、上がりになっちまったらしい。残念だけど、これでお別れだ」
「そんな!」
真智子はアームレストにつかまり、声を嗄らした。
「……ホントに自分勝手でごめん。悪いが君を家まで送り届けることができそうもない。きっとおれがいなくなって、スタジオは大騒ぎしてるはずだ。スタッフに言えば、代わりに送ってくれると思う。ラジオ局の人たちはみんな親切だ。レンタカー会社にも迷惑かけるな。戸籍だって、せっかく昔の会社だって、復帰したばかりだったのに。……なにからなにまで世話、かけっぱなしか。情けないったらない」
「三村君――。行っちゃうの?」
「うん、もう会うこともない」と、ラジオは言った。どこか吹っ切れた口調だった。「さよなら、マチ――」
そう言ったきり、三村はうんともすんとも言わなくなった。ノイズだけが車内に響きわたる。
ドアを開け、外へ出た。
FM香川の建物を見やった。それから背後のフェンスをふり返り、夜空を見あげた。
いつの間にか雨はやみ、雲のすき間からいくつもの星がのぞいていた。
星のひとつが、なにかのシグナルを送るかのように輝いていた。
◆◆◆◆◆
大泉がブース内へ飛び込んだ。
桐島アナがマイクの前で頑張っていた。大泉がテーブルにつくと、親指と人差し指でつまむ仕草をし、ひねりをくわえた。代わってくれというわけだ。桐島アナはこくんと頷いた。
「さーて、そろそろ終わりの時間だ。今夜は飛び入りゲストがいたりして、びっくり仰天のハプニングの回になっちゃったね。あいにくM君は行っちゃった。せっかく30年ぶりに帰ってきたのに、居場所がないって? そんなこと言いなさんな。生きてりゃ、誰にだって、もうダメだと思うこともあるかもしんない。歯を食いしばって耐えてたら、そのうちいいことあるって。いつかの日か絶望したことも笑い飛ばすときが訪れるさ。なにはともあれ君に幸あれ。そしてあるがままに生きなさい。番組最後に、すてきなゲストに送ります。――ビートルズで、『Let It Be』」
了
※参考文献・参考サイト
『本当は怖い! 日本むかし話』深層心理研究会[編] 竹書房文庫
『異界と日本人 絵物語の想像力』小松 和彦 角川選書
『異人論 民俗社会の心性』小松 和彦 ちくま学芸文庫 ※作中にVagina dentataに関する論文がある。
PDF 浦島太郎の時間感覚 近藤良樹
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/14862/20141016122349849734/04375564_60_75_kondo.pdf
PDF 陰部に歯のある女性の伝承 ―サハリンの伝承を中心に― 阪口 諒 エフゲーニー ウジーニン
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/105928/S21857148-20-P169-SAK.pdf
PDF 見るなの禁止 ―説話における禁忌の役割について― 景山 史織(山 愛美ゼミ)
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2014/p2014_03.pdf