またねのブルー
水面がまるで鏡のように空を映している。何も遮るものはなく、どこまでも広がる青い空は突き抜けるように澄んでいた。
海の上に、一人立っているようだ。こんなにも浅い海などないことを僕は知っているけれど、そんなつまらない想像さえ真実だと言うように、波が押し寄せ、さーっと引いていく。
水平線上に人影はなく、物陰もない。
雲の隙間から差し込む陽光が僕の目をやわらかに刺す。
歩を進めるごとに、水面が揺れて、僕の像も揺れる。
世界は神様の中にあるのだろう。そう思えば思うほど、水平線の向こうまで続く僕の道に果てがないことを知る。
鏡に映る花に憧れて、水鏡の中の月を追いかけて、こんなところまで来てしまった。
手の届かないものに手をのばすな、と、神様は僕に言うのかも。顔も知らない神様のつまらないお説教を想像して、おかしくっておかしくって、笑えない。
一人で笑ったところで孤独なだけだ。
笑いというのは孤独とは正反対のものであるはずだというのは誰の言葉だったか。
僕のものではなかったはずだ。
僕だけの思いであるはずがない。そんなもの、僕のものであってほしくない。
わざとらしい作った笑い声が、響いて、シャボンのように儚く消えた。
一人で笑うというのも悪くない。
◇◇◇
一歩を数えて嫌になって。
ようやく会えた知り合いは、スカイブルーの目をした少女だった。
大鳥居を抜けた先、ポツリと佇む人影。それが彼女だった。
「久しぶり」
「久しぶり」
彼女は言う。
「昔よく行った、あそこ行こ」
「あそこ?」と、僕が訊ねる。
僕より大人びた横顔は昔よりも綺麗だ。そう思い知るたびに、あの時届かなかったのを思い出して口惜しくなる。
「思い出作りにさ、いいでしょ?」
「わかった」
歩く、歩く、歩く。二人きり。二人ぼっち。
誰もいない。道もない。ただの水面を僕らはただ行くだけ。
――あ、と声を漏らしたのはどちらだっただろう。
「懐かしい……」
ポツリと呟く彼女。
「うん」と僕は言うだけ。何も言えない。
届かない、届かなかったと、手を伸ばすこともせずに愚痴を心の中に募らせるだけ募らせて形にもしなかった。
彼女と言葉を交わしてさえいれば……。いや、空想はやめておこう。
「ごめん」
彼女は僕の手を握った。
小さくて青白い、人形みたいな手は、ひどく冷たい。
……空は夏の青さのままだというのにな。
「別に、気にしてない」
「ホント?」
別れ話もなしに別れたこと。
つまらないことで喧嘩別れしたこと。
離れ離れで二度と会えなくなったこと。
気にしていないわけがない。忘れているわけがない。
でも、僕は「うん」と答えるしかなかった。
「よかった」
彼女はシャボンが弾けるように笑う。
そういえば、彼女の笑いには孤独がない。僕のとは大違いだ。
「ありがとね」
しばしの沈黙の後、僕は彼女の手を握りしめて、囁いた。
「こちらこそ」
彼女は、やはり、笑う。
「また来るよ」と、僕が笑う。
「待ってる」と彼女が笑う。
「次はさ、お土産楽しみにしててよ!」
お土産なんか持ってこれるわけがないのに、とっさに口を出たのがこの言葉。
僕は彼女と約束がしたかった。叶えられるはずなんかないのに。
「どこ行くんだよ」
「内緒!」
「教えてくんねぇのな」
口が悪くて、ぶっきらぼうで、あからさまな田舎者。
――そんな彼女が好きだった。
「またな!」と彼女は言う。
このつまらない約束は、僕を縛って、導くだろう。
「うん。またね!」
僕はこのつまらない約束を愛おしく思うのだ。
水面は僕らを映す。ずっとずっと映している。
二人ぼっちが一人ぼっちになっても、水面の中にはいつも二人。
離れても別れても、ずっと二人。
夢幻か、現実か。それを映すのは神様の瞳。
僕にとっての神様は、スカイブルーの目をしていた。
◇◇◇
「変な嘘つきやがって……あのバカ」
最後に彼女が僕の背中に吐き捨てた言葉が忘れられない。
守れない約束だった。
目を覚まし、安堵する。
僕の身体に熱があることを。
この世界の水平線上に果てがあることを。
「あーあ。また行きたいなぁ」
これで何度目覚めたのだろう。
これが夢で、あちらが現実だったらよかったのになあ。
彼女と交わす会話はいつも同じ。
つまらない、守れない約束ばかり交わして、いつも僕は約束を破ってばかり。
あのスカイブルーの目をした彼女は、いつも死に目に現れて、そして、消える。夢となって。僕は彼女の夢が正夢になることを祈って、叶って、そして夢に敗れるのだ。
窓を開けて、一つ深呼吸。空を見上げると、今日も目が覚めるような青い空。
あのスカイブルーには手が届かない。