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アリス・ロシュフォール ~砂漠に咲く花~

作者: 犬塚ゆき

 赤土と岩の広がる荒野だった。太陽は高くから照り付け、大地と大気を容赦なく灼く。

 風も無く、草木も無い死の世界の中、ゆっくりと動く影が二つあった。その内の一つは、身の丈百五十センチ程。纏ったローブの背中はその内側に背負われた鞄によって不自然に盛り上がっていた。時折立ち止まり、ズボンのポケットからコンパスを取り出すと、方角を確かめてまた歩き出す。

 フードの下、細い顎を汗が滴り、「彼女」は搾り出すように呻く。

「……暑いわ」

 彼女の名は、アリス・ロシュフォールといった。年齢は十九。どこかあどけなさの残る顔の肌は白く、今は辛そうに眉を顰め、ローブの裾で頬の汗を拭う。

「そりゃそうよ」

 応えたのは、アリスよりもいくらか大人びて聞こえる、どこか艶のある声だった。

「何でそんなの着て来るのか、理解に苦しむわ」

 声の主は、アリスの斜め後ろを歩いていた。透き通る程白い毛皮に尖った耳、体高はアリスの膝程で、大きな尻尾を優雅に揺らす。

「日に焼けるのは……嫌だもの。ルーのその毛皮こそ暑苦しいわ」

 ルーと呼ばれた白い狐、正しくはその名をルースといった。ルースは尾をふわりと揺らし、

「残念ながらあなたのローブみたいに脱ぐことはできないし、そもそもあたしには質量自体が無いし、あたし自身は暑くないの」

「……知ってるわ」

 アリスは忌々しい、というように吐き捨て、再びただ黙々と歩を進める。そんなやりとりを数回繰り返して、

「アリス、見えてきたわよ」

 ルースが鼻先を上げて告げる。

 なだらかな丘の向こうから姿を現したそれは、アリス達の居る荒涼とした砂漠にはおよそ似つかわしくない高層建造物群だった。色は土煙と大気によって薄く、根元付近は熱された大地により歪んで見えた。中心には中でも一際高く、空を突き刺すようなビルが一本、真昼の太陽を鋭く反射させて聳え立つ。

「やっと見えた……。でもまだまだ遠いわね」

 立ち止まったアリスは口許に笑みを浮かべ、鞄の脇のポケットに入れていた水筒を取って喉を潤す。

「もうすぐじゃない。もうすぐ手紙の主にも会えるわ」

 ルースのその言葉に、ポケットの中の封筒を握り締めた。それは今から六日程前、隣の大陸に住むアリスが偶然手に入れたものだった。



 その日アリスは、お気に入りの紅茶を片手にご機嫌だった。近頃品切れが続いていたその茶葉を、ようやく市場で見付けて買ってきたのだった。

「やっぱりいいわね」

 サンルームに置かれたテーブルセットに着いたアリスは、羽織ったニットケープの端から覗く細い指先でガラスのカップを持ち、茶褐色の液体を揺らす。薄い唇をカップに寄せて、恍惚とした表情を浮かべた。陽光はガラスの天井を通り抜け、開け放たれた窓を風が吹き抜ける。ストロベリーブロンドと呼ばれる、やや赤みがかった金髪が揺れ、きらきらと輝いた。

 アリスにとって、このひとときが何よりも至福だった。

 しかしその至福は、あっけなく崩れ去ることになる。

「アリス! アリス・ロシュフォール!」

 突如自分を呼ぶ青年の声に、アリスは紅茶を吹き、危うくカップを落としそうになった。テーブルにカップを置き、大きく、それは盛大な溜め息を吐くと、

「……ルー、お願い」

 心底面倒臭そうに頭を抱え、立てた人差し指を床に向けて振り下ろす。

「やれやれだわ」

 そこに、光が生まれた。白銀という形容がぴったりの毛皮が、降り注ぐ陽を浴びて輝いていた。ぴんと耳を尖らせて、長く大きい尾を揺らしながら歩き出す。

 その白銀の狐は、この世界において魔獣と呼ばれる存在だった。魔獣と契約を交わした者は魔獣士と呼ばれ、呼び出された魔獣は主である魔獣士に使役される。ルースの場合は、アリスが主だった。

 ルースはサンルームからリビング、そしてホールへ。玄関に着き、空中に作り出した衝撃波で鍵を開ける。それを待っていたかのように扉は跳ね開けられ、外に居たアリスと同じ年頃の青年が姿を見せた。ワックスで癖を付けたブロンドの髪に、やや堀の深い顔立ち。蒼い瞳と、嫌味な程に白い歯が輝く。

「やあルース! アリスは居るかい?」

「あらフローデル。アリスなら昨日の夜から一糸も纏わずにソファで寝てるけれど、会っていく? キスくらいなら黙っててあげるわよ? 流石にその先は自己責任でってところかしらね」

 言ったルースがからからと笑い、フローデルと呼ばれた青年――フローデル・オスカーの顔はみるみるうちに紅に染まる。

「いいいいや、俺は……」

 あたふたと両手を振りながら不思議なジェスチャーをするフローデルに、

「なにやってんのよ、あんた達」

 奥から現れたアリスが、その蒼い目で冷たい眼差しを向けていた。からからと笑い入れ替わりに中へと戻っていくルースが、

「残念だったわね」

 艶やかに言った。


「で、一体何だっていうのよ」

 リビングには年季の入った黒檀のローテーブルと、それを挟むようにアンティーク調のソファが二脚置かれていた。その一つにアリスが腰を沈め、向かいのソファに座ったフローデルに訊ねる。

「いや、すごく訊き辛いんだけど……」

 玄関先ではフランクな笑顔を見せていたフローデルが、弱々しく言い淀む。

「フローデルにしては珍しいわね」

 二人から少し離れ、床に横たわっていたルースが横槍を入れた。フローデルはズボンのポケットをごそごそと探り、皺だらけになった小ぶりの封筒を取り出してテーブルに置くと、そのままアリスに差し出しながらこう訊ねた。

「アリスってその、ええと、……処女だったり、する?」

 その場の時間が止まり、空間が凍りつく。数秒、数十秒。

 ――アリスの怒号、そしてフローデルの悲鳴が聞こえた。アリスの家の向かい、青果店の店主が差し出したレモンは老婦人の手を掠めて落ち、電線で羽を休めていた鳥達は一斉に飛び去っていく。

「いや、違っ……! 違うんだよアリス!」

「何が違うのよこの変態! そこに直りなさい! 骨の一、二本で許してやるわ!」

「し、死ぬから! 骨じゃ済まないから!」

 ソファから転げ落ちたフローデルが、黒く磨かれたローテーブルを両手で振り上げるアリスに向けて訴える。白く細いその腕のどこにそんな力があるのか、フローデルには全く理解ができなかった。ルースのみが、傍から二人を見て笑い転げていた。

 フローデルはなんとか床に落ちた封筒を拾い、

「僕が悪かったから! アリス! 取り敢えずこれ読んで!」

 所々薄汚れ、傷んだそれをアリスの前に掲げた。

「…………」

 アリスは逡巡したのち、テーブルをどすんと床に降ろすと、フローデルの手から封筒をひったくって中の紙片を取り出す。


『ラハブの地・ウロボロスの住処にて、生娘の生き血を待つ。やがて蛇使いの夢は終え、少女の歌は砂漠に花を咲かせるだろう』


 やはり経年を感じさせる黄ばんだ紙には、それだけが書かれていた。それを読んだアリスの表情に、喜びとも、畏れともつかない感情が滲み出す。

「そこに生娘って書いてあるから、それで――」

「あんた、これをどこで!」

 目の色を変えたアリスがフローデルの言葉を遮り、胸倉を掴んで引き起こす。

「け、今朝方家の前を掃除してたら、小さな子どもに渡されたんだよ!」

 フード付きのローブを纏うその子どもの顔はよく見えなかったと彼は言い、

「やっぱりその、あの人……と、関係あるのかい?」

 心なしか表情を引き締めて訊ねた。

「関係あるなんてもんじゃないわ!」

 アリスは歩き出す。ルースもその後ろを追い、フローデルが乱れた襟と髪を直して彼女達に続いた。


「いい? これは久々に来た手掛かりよ」

 アリスの家の地下。そこは地上階以上に広い空間になっていた。レンガを積んで作られた壁や床、所狭しと置かれた怪しげな器具や什器を、天井に吊るされたいくつかの電球が照らす。土と、薬品の匂いがした。

 アリスは錬金術の研究者だった。錬金術とは、鉄や鉛や銅という卑金属を黄金に変え、或いはどんな病気でも治すことができるという万能薬を作り出し、最たるは人間を生き返らせ、または不老不死にすることさえできるという、神の御業とも言われるものである。両親の教育方針から、幼い頃より書物に慣れ親しみ育っていたアリスは、いつしか錬金術というものに心を奪われ、その研究に没頭するようになっていた。

 十四歳の冬、アリスは両親の反対を押し切り、一人の錬金術師に弟子入りをして数年間を過ごしたのち、あることをきっかけに単身この街に移り住み、論文の発表や錬金術の知識や技術を生かしたアルバイトをして生計を立てていた。

 部屋の片隅には作業机が置かれていたが、積み上げられた膨大な量の文献と散乱する様々な器具で、とても机として使える状態ではなかった。それをアリスは右腕一本でリセットする。大量の紙片や本、器具、小物、文房具などが交ざり合い、滝となって机から落ちていった。一体誰が片付けるんだろう、とフローデルがぼんやりと思っていると、

「あんたにこの手紙を渡した子ども。ホムンクルスの可能性があるわね」

 封筒の上に置いたスタンド型の拡大鏡に目を近づけたアリスが言った。

「ホムンクルス……?」

「錬金術によって作り出される人工生命体のことよ。アリスの助手ならそれくらい覚えてなさい」

 反芻したフローデルにルースが応え、

「「助手じゃない!」」

 二人が異口同音で発した。そしてフローデルが続ける。

「いや、まあそれは知ってるけど、普通の子どもくらいの大きさだったよ? ホムンクルスって確かもっと小さくて、しかもフラスコの中でしか生きられないんじゃなかったっけ?」

「そうね。だからどっちかというと、ゴーレムに近いのかもしれない。ホムンクルスが錬金術による人造人間だとすると、ゴーレムは魔術による人造人間よ」

 アリスが脇にある棚から小瓶を一つ取り出して蓋を開け、代わりにチューブとトリガー、噴霧口の付いた蓋を閉める。小瓶に入った薬品を封筒へと丁寧に吹き付けていく。

「ゴーレムなら、大きさもフラスコも関係ないわ。ただし、人に手紙を渡すなんて器用な芸当はできやしないし、その姿は到底人のようには見えない」

 アリスは手を休めずに、土くれで作られた人形のようなゴーレムの姿を思い浮かべて言う。

「……確認するけど、その子どもって手袋なんかしてた?」

 フローデルが記憶を辿り、

「いいや、素手だったよ」

「おめでとう。あんたが今朝会った子どもは少なくとも人間ではないわ」

 アリスが特殊な加工をしたランプを手紙に近付けていた。本来なら三種類以上の指紋が現れるはずのその手紙には、アリスとフローデル、二種類の指紋のみが紫色に光り浮かび上がっていた。

 アリスはランプと封筒を置き、今度は視線を机の上に広げられた手紙へ。

「生娘の血。これはそのままの意味ではないわね。ルー!」

 ルースが本棚から一冊の本を引き出し、銜え、自らの主人へと運んでくる。

「ありがと。ええと、錬金術師の間では色々な暗号があってね、字面通りに読んだだけじゃゴールにたどり着けないようにできてるのよ」

 下手をすると装丁ごと崩れ去ってしまうのではないかという程に読み込まれ、古めかしく変色した本のページを手繰りながらアリスは言った。

「読め、読め、もっと読め、祈れ、働け、されば見出ださん。ってね」

 部屋の端に横たわり直したルースが歌うように口にしたそれは、錬金術師にとっては有名な、そして基本的な教えだった。

「これよ」

 机に置かれた書物の中、指し示された部分にフローデルは目を寄せる。

「私の師匠は、“娘”という言葉を銀を指す言葉として使っていたわ。それが生娘で、純粋な銀――純銀てことでいいと思うわ。で、血液だけど……」

 そこでアリスは眉根を寄せ、ぱたんと本を閉じた。ルースが横から、

「大体の察しは付くわね」

「ええ。まあ、詳しくは直接訊ねればいいか……」

 アリスが手紙を封筒に戻す。封筒に吹き付けた薬品はもうすっかり乾いていた。実験室を出ようとするアリスに、

「ちょ……、アリス! 本人って、差出人が判ったのかい?」

 驚いた様子でフローデルが訊き、

「判るわけないじゃない」

「でも、場所は書いてあるものね」

 アリス、そしてルースが素っ気なく答えた。手紙にあるラハブという街は、海を隔てた隣の大陸にある街の名だった。

「留守番よろしく。ついでに掃除もしておいて」

 机の下にできた書類や器具などの山を横目で見て、アリスは笑顔で命令を下した。

 フローデルの不満をよそに、その日のうちに家を出たアリスは一晩を列車で過ごし、二日を船で、そして三日を列車と徒歩での移動に費やした。

そして今、アリス達は砂漠の上、ついに遠くに霞む街――ラハブを肉眼で捉えていた。ポケットの中の封筒を確かめたアリスは、フードを被り直し、灼熱の砂地を踏みしめる。

 ラハブという街は、近代になって急速に発展した都市の一つだった。砂漠の中に突如として現れるその街は、地形的には窪地になっており、元々はオアシスだったとされる。歴史書によると数百年程前に旅人が偶然そこを発見し、以来旅の拠点として発展。その後数キロ離れた場所で燃油資源が発見され、街は爆発的に成長を遂げた。今では高層ビルが次々と建造され、世界的に有名なオアシス都市となっていた。

 やがて舗装された道路に出たアリス達は、その日の太陽が砂の海へと沈んでいく中、ラハブの街へと辿り着く。長く砂漠を歩き続けていたアリス達にとって、近代的なビルや道路、店や人々によって潤うその街のインパクトは大きかった。

「これはちょっと凄いわね」

 ルースが、空を支えるかのように並び立つビル群を見上げる。それらは夕日を浴び、黄昏に染まっていた。眩しさに目を細めたアリスが、

「取り敢えず宿探しね。観光はそれから」

 疲れと安堵を浮かべて言った。



 アリス達がラハブに到着したその日の晩。

 夜中にも関わらず広告塔や街灯に明々と照らされ、人々が行き交う街の中を、少年は走っていた。

「――っ!」

 走る目線の先に何かを見付け、反射的に路地へと曲がる。その際、角に置かれたブリキ製のゴミ箱にぶつかり、倒れたそれは中身を盛大にぶちまけながらけたたましい音を立てた。足を止めた通行人が一斉に音のした方を見やる中、

「居たぞ!」

 黒いスーツを着た男が叫び、追いかける。男は無線機に繋がれたイヤホンマイクを着けており、走りながらマイクを掴んで口許へ引き寄せると、

「“杖”を発見した。タルハ地区の路地を逃走中。応援を要請する」

 冷静な声でそう報告した。スーツの下から自動式の拳銃を抜き、遊底を引いて銃弾を装填する。

『殺すなよ? “笛”を手に入れられなくなる』

 抑揚の無い声が、男のイヤホンから聞こえた。夜空の中に光る二つの白い月が、一部始終を静かに見ていた。


 次の日、空の色が薄青色に落ち着いた頃、宿の食堂で遅めの朝食を取っていたアリスの耳に、他の宿泊客の会話は聞こえた。

「昨日の夜、眠れなくて散歩してたんだけど、そしたら黒服の男がそこらに居てさ。何だろうと思ったら男の子が追いかけられてたんだよ」

「へえ。事件ですかねえ。そんな様子は無いですけど」

「なんか、杖がどうとか、笛がどうとか言ってたな。盗難かもな」

 杖と笛。その単語に、パンに豆のペーストを塗っていたアリスは手を止める。意識下でルースに呼びかけ、

(どう思う?)

 訊ねた。

(ええ。関係者と見て間違いないわ)

 ルースの声はアリスのみに届き、誰にも知られず会話と食事を続ける。

(じゃあやっぱり、あの人もここに?)

(判らないけど、はるばる来た甲斐はありそうね)

 アリスは食事を平らげ、食堂を出る。部屋に戻って身支度を済ませると、早々に宿をチェックアウトすることにした。

「どうするの? アリス」

 綺麗に舗装された道を歩きながら、ルースは訊ねる。並んで歩くアリスが、

「取り敢えず、街を散策しながら聞き込むしかないか」

 そう答えた。眼前にはビヴロストと名付けられた、この世界で一番の高さを誇るとされるガラス張りの塔が、その身を天に向けて伸ばしていた。地上百二十階、地下六階からなるその塔の中には、高級ホテルや住居、オフィスがひしめき合う。

「ビヴロストとはまた大層な名前を付けたものね」

 ルースが息を吐き、アリスがフードを持ち上げてその塔を見据えた。ビヴロストとは、かつて魔界と人間界とを繋いだとされる伝説の橋の名前だった。勿論今は存在せず、過去に実在したのかどうかも定かではない。

「大体、魔界の存在だって証明されてないじゃない」

 白い狐の姿をした魔獣が吐き捨てるように言った。


 アリス達が聞き込みを始めると、その情報はすぐに手に入れることができた。

「……アル・フルム?」

「そう。ビヴロストの資本企業で、三十フロアくらいはそこのオフィスになってるはずよ」

 ビヴロストのすぐ足許で商店を営む中年の女性が、リンゴを袋に入れながら答えた。その袋をアリスに渡し、代わりに小銭を受け取る。

「昨日わたしが見たのは、そこの警備員に間違いないわ」

 まるで探偵にでもなったかのように、女性は鼻息を荒くした。

 礼を言って商店を出たアリスは、袋から取り出したリンゴをそのまま一口かじる。

「追われてたっていう男の子を探すわよ。ルー」

 外で待っていたルースが立ち上がり、

「捕まってないといいけどね」

「多分、まだ捕まってないわ」

 アリスが応える。その根拠は? と訊いたルースに、

「勘よ! 捕まってもらっちゃ困るのよ!」

 フードを被り、リンゴを片手にアリスは歩き出した。


 そこは小さな橋の下だった。遠くからは人々の靴音や車の音。近くからは時折聞こえる水滴の音。

「シフラ……」

 それらの音に混ざり、少年の小さな声が呟く。

「シフラ、無事でいて……」

 祈る声は僅かに反響して、消えた。

 壁にもたれるようにして座り込んでいた彼の意識が途絶える。力の抜けた手から、銀色のペンダントがこぼれ落ちた。装飾の無いシンプルなペンダントヘッドが衝撃で開き、露になった親指大の白黒写真の中では、少年と同じ年頃の少女が一人、屈託の無い笑顔を咲かせていた。

 少年が眠る丁度真上を、黒いスーツの男が歩いていた。男はふと足を止め、暫く何かを考える様子でじっと欄干を見つめると、

「…………」

 身を乗り出して橋の下を覗き見た。そして開かれたペンダントヘッドと、投げ出された少年の腕をその視界に捉えた。男は無表情のまま、無線機で仲間に連絡を取る。

「西ナジム地区にて、“杖”を発見。場所は――」


 一方、少年を探すアリスは、

「――!」

 脇を猛スピードで通り抜けていった一台の車に表情を変えた。黒塗りの小さな乗用車の運転席とその隣には、昨晩少年を追いかけていたというスーツの男がそれぞれ座る。黒いフィルムが貼られた後列の窓からは、中の様子を確認することはできなかった。

 立ち止まるアリス。突風にはためくローブ。アリスはフードを押さえ、

「ルー! 案内してくれるみたいよ!」

 嬉々とした顔で車を指差し、自らの魔獣に命じる。

 この世界に存在する魔獣にはそれぞれ、火や水、太陽や月などの象徴――モチーフが存在する。そのモチーフが魔獣としての生命を与え、主人の魔力を媒介にしてこの世界に現れると言われていた。魔獣の能力はモチーフに由来するものが殆どで、それによって攻撃方法や相性なども変わる。

 純白をした狐の魔獣――ルースの象徴は、光。瞬時に走り出し、光の帯と化して車を追走し始める。最高速度は秒速約三十万キロに達するルースにとって、乗用車を追尾するのは遊びにすらならない。ルースは付かず離れず、光の帯を引き続ける。

 アリスはリンゴの芯を街角に置かれたゴミ箱に放ると、光る帯を辿って走り出した。


*  *  *


 フラスコの中からの歪曲した薄桃色の視界。人影が、目の前に居た。

「目覚めたか?」

 優しい声だった。初めて聞く言葉だったが、不思議と意味は理解できた。返事をしようとしても、ごぽっ、という音と共に気泡が上るだけだったが、目の前の人影にとってはそれだけで充分のようだった。

「そうか」

 人影は近付き、面立ちが鮮明になる。眼鏡を掛けた、二十代後半に見える青年だった。

 ――視界が暗転する。

 次に広がったのは明るい世界だった。薄青色の空と、駱駝色の地面。視界は一点に向けて固定されていた。

「やあ、トゥーラ。そんなところで何をしているんだい?」

 傍に建つ小屋から、眼鏡を掛けた一人の青年が出てきて訊ねる。振り向いて目にしたのは、フラスコの中から見たあの顔だった。もう歪んではいなかった。そして思い出す。自分がトゥーラと呼ばれていたこと。彼をマスターと呼んでいたこと。

「マスター。これ」

 トゥーラは地面の上、ずっと自分が凝視していたものを指差す。それは仰向けになって横たわる一羽の鳥だった。その小さな体の中に、もう命は無かった。

「死んでいるね」

「……死んで、いる」

 マスターの言葉を、トゥーラが繰り返す。

「死は、誰にでも訪れるんだ」

 悲しさと優しさを宿す表情で言いながら、トゥーラの頭をくしゃりと撫でた。

「マスターにもか!」

 トゥーラが、振り向きながら大きな声を上げる。マスターは戸惑った表情を見せ、

「ああ。私にもだ。生きていれば、誰にでも」

 応えた。トゥーラは思い至った表情を見せ、

「俺にも、シフラにもだな……」

 弱々しく言った。視線は再び地面の鳥へ。それを聞いたマスターは一瞬迷ったが、

「ああ。君達は生きているからな」

 彼らは生きている。それは無から彼らを生み出したマスターの、誇りに満ちた言葉だった。

「マスター! トゥーラ! ご飯できたよー!」

 シフラと名付けられた少女の澄んだ声が、小屋の中から二人を呼んだ。


*  *  *


「……このまま連れて行くぞ」

 ラハブの街の橋の下、スーツの男は低い声で仲間に言った。傍に居た、同じ格好をした男四人が頷く。目の前で眠る少年を軽々と持ち上げると、肩に担ぐ。その際、すぐ傍に銀のペンダントが落ちているのを見付け、

「…………」

 拾おうとしゃがんだ男の頭上から、

「チェストぉおおぉ!」

 アリスが振ってきた。

 ローブの裾をはためかせながら、自らの背丈の三倍程の高さにある欄干から飛び降りたアリスの踵が、少年を肩に担いだ男の頭を捉えた。直撃を受けた男はあっけなく倒れ、少年が地面に投げ出される。橋の上に置かれたアリスの鞄に並ぶように座って見ていたルースが、

「……傍から見るとただの加害者だわね」

 ひとりごちた。

「奇襲とはいい趣味してるじゃない?」

 地面に見事着地したアリスは自分を棚に上げた台詞を口にして、改めてスーツの男達に向き直る。スーツの男達四人は一瞬互いに顔を見合わせると、突如舞い降りた邪魔者に向かい走り出した。

 一人目は、やや体格の良い男だった。背を屈めたアリスは難なく懐に入り込み、

「――っ!」

 まず体重を乗せた掌底を一発。それは丁度男の胸に当たり、心臓を揺さぶる。そしてすかさずしゃがみ込み、その細い足で足払いを決めた。立ち上がりながら、仰向けに倒れる男の向こうから二人目が走ってくるのを確認する。今度はアリスと変わらない背格好だったが、右手には伸ばした警棒を持っていた。

「目には、目を!」

 言いながらアリスはローブの内側から小さな青い小瓶を取り出すと、コルクの栓をその口で抜いて吐き捨てる。そして、

「武器には、武器をっ!」

 迫り来る男に、小瓶を勢い良く投げ付けた。こぼれた透明の液体は、瞬時に炎となって男のスーツを舐め尽くす。

「う……うわあぁあ」

 一瞬で賑やかな火だるまへと変わった仲間を見てたじろぐスーツの男二人に、

「錬金術師ナメんじゃないわよ!」

 アリスが吼えた。

「貴様!」

 男二人が右手をスーツの中、左腋へ。抜いたその手には、黒光りする鉄の凶器が握られていた。スライドを引き、その自動式拳銃の弾丸を装填。親指で安全装置を解除する。

「ルー!」

 アリスが魔獣の名を呼びながら走り出し、彼女に銃口を向けていた男達は反射的に引き金を絞った。響く二発分の発砲音。

 しかし、アリスの足は止まらなかった。銃弾は発射されているはずにも関わらず、アリスに当たっていないどころか、どこにも着弾した様子は無い。何が起こったのかを理解できていない男達を、アリスの猛攻が襲う。飛び上がっての回し蹴りで一人の延髄を捉えて沈めると、もう一人の手を銃ごと掴み、見事な一本背負いで地面へ叩き付けた。

「これでよし!」

 部屋の掃除でもしたかのような軽さでアリスが言い、その後ろではルースが、空中で回収した二発の鉛をその口から吐き出していた。

 アリスは倒れている黒服の男を踏みながら少年へと歩み寄ると、先程男に投げ付けたものと同じデザインの小瓶を取り出す。黄色く着色された瓶の蓋を取り、少年の鼻先に近付けた。途端、

「う、うわっ!」

 少年が飛び起きた。

「おはよう、少年」

 アリスはにこりともせず挨拶をすると、気付け薬の入った瓶に蓋をしてローブの下へとしまう。代わりに取り出した封筒を少年に差し出した。

「郵便屋さん、か?」

 地面に座ったまま、きょとんとして訊ねる少年に、

「こんなに地味で怪しい郵便屋さん居ないわよ」

 ルースがアリスを舐めるように見ながら応えた。一瞬ムッとしたアリスが、

「この手紙の内容が気になってこの町に来たの。私は錬金術を研究してる、アリス・ロシュフォール。こっちの派手でうるさい狐はルース。あなたは?」

「トゥーラ」

 あどけなさの残る顔立ちでアリスを見つめながら、少年は短く自分の名を告げた。やや長く伸ばしたダークブラウンの髪に、同じ色の瞳。レースアップシャツの襟元からは浅黒く健康的な鎖骨が覗く。

「トゥーラ、この手紙に心当たりはあるかしら?」

 封筒から紙片を取り出したトゥーラが、目を近付けては離し、指でなぞり、何度も読む。やがて手紙をアリスに返しながら、

「……わからない」

 首を横に振った。

「そう」

 アリスが若干残念そうな顔をして、手にした手紙を睨む。そして、

「でも、ウロボロスの住処は知ってる。こいつら、僕をそこに連れて行こうとしてた」

 トゥーラが、地面に横たわるスーツの男を見て言う。

「こいつら、ビヴロストの地下にある研究施設のことを、ウロボロスの住処って呼んでる」

「なるほどね」

 アリスが口許を綻ばせて呟いた。

「――それより僕、シフラを探さないといけない」

 突然思い出したようにトゥーラは立ち上がり、胸元に手を持っていくが、そこにペンダントが無いことを思い出す。地面に落ちたままだった銀のペンダントを拾ったアリスが、

「これ?」

 差し出すと、トゥーラは安堵の表情を浮かべて受け取った。

「可愛い子ね。その子がシフラ?」

 開いていたロケットの中、笑う少女の写真を見たアリスが訊ね、

「そうだ。僕が護らなきゃいけない。マスターと約束した」

 トゥーラは強い調子で答える。マスターという呼び名に鋭く反応したアリスが、

「ルー、私達も一緒に探すわよ」

 脇に座るルースに告げた。


「マスターとシフラと僕は、ここから離れた町外れの小屋で暮らしてた。マスターはシフラと僕の親みたいな人で、色々なことを知っていて、僕が訊けば何でも教えてくれた。シフラは料理と歌が上手で、お嫁さんになるのが夢だって言ってた」

 アリスと並んで歩くトゥーラは、とつとつと語る。ルースは二人の前を、周囲を警戒しながら歩いていた。

「僕はマスターに頼まれて、塩を買いに町へ出た。お使いは好きだった。いつもの店で塩を買って、小屋に戻ったら、マスターとシフラは居なくなってた」

 そしてトゥーラは今から数日前、二人を探しに街へ下り、それからスーツの男達に追われていたのだと言った。

「……小屋、か」

 アリスが呟き、

「一度、トゥーラ達が暮らしていた小屋に行ってもいいかしら? 手掛かりが見付かるかも」

 そう訊ねる。トゥーラは一度驚きを顔に表して、

「わかった」

 承諾して案内を始めた。二人と一体は路地に入り、街を抜けていく。トゥーラを追う男達の姿は見えなかった。

 やがて、ビヴロストと呼ばれる尖塔が砂と大気に霞み始めた頃、その小屋はアリス達の前に姿を現した。この地方の一般住居としては珍しくない、土壁造りの平屋建て。外見はシンプルなもので、花や装飾などは一切無かった。

 トゥーラが施錠されていないドアを開け、中へと足を踏み入れる。後ろを歩くアリスが辿り着いたのは、椅子やテーブルがきちんと並べられ、綺麗に片付いたダイニングだった。争った形跡は見られず、まるですぐにでも誰かが帰ってくるかのようだった。

 トゥーラがダイニングから廊下へと出て行くのを確認すると、

「ルー、ちょっと」

 アリスは小声でルースを呼んだ。

「この家の造り……、多分あれがあるわ」

「そのようね」

 アリスの言う意味を瞬時に解すと、姿勢良く座ったルースは意識を集中し、透き通ったグレーの瞳を閉じる。

 一方アリスは手に持っていた鞄を床に置くと、ローブが床に着くのも構わず床に伏せ、床をほぼ水平の角度からつくづくと見ていた。いくらか砂埃の積もる土造りの床に、アリスはあるものを見付けた。風で飛ばしてしまわないようにゆっくりと近付き、そっとつまみ上げる。アリスが手の上に乗せたそれは、一見ただの赤土のようだった。そして、

「あったわ、アリス。しかもあなたが考えてる通りみたい」

 目を開けたルースがアリスに告げ、立ち上がる。

「こっちもヒントを見付けたわ」

 アリスは拾った赤土を手に握り、歩き出すルースの後に続いた。廊下の突き当たりで立ち止まるルースが、

「ここよ。この下」

 そう告げて前脚で床を器用に叩いた。

「了解」

 廊下に膝を着いたアリスは僅かに開いた床板の隙間に指を入れ、一気に引き上げる。地下から噴出した冷たい風が、アリスの薄く桃色掛かった金髪を揺らした。

 現れたのは、闇へと続く階段。やはりそれも固めた土でできており、地下の湿気によって所々濡れて光っていた。

「行くわよ、ルー」

 階段を早足で下りていく。

「え? ちょっと、アリス!」

 ルースが叫んだときには、既にアリスの姿は地階へと消えていた。

「もう!」

 そしてルースも暗闇へと身を投じる。

 暗く狭い地下の廊下をルースは歩き進む。光を象徴とする魔獣――ルースが扱えるのは可視光だけではなく、不可視光を含めたあらゆる光を自在に操り感知することができた。先程この地下室を見付けたのも、その能力を駆使した結果だった。

 行く手に緑色の強い光を確認したルースは目に入る光量を調節。可視光を基準に視界を調整すると、その光の前に立つアリスへと近付いた。

「これは……」

 ルースが自らの純白の体毛を緑に染めて驚愕の表情を浮かべる。その横で、

「ルー、やっぱりあの人はここに居たわ」

 アリスは呟いた。どこか、泣きそうな声だった。

 差出人不明の手紙を読んだアリスがこの街に来た一番の理由。それはこの数年間探し続けている人物の存在を、その手紙から感じたからだった。

「こんな技術……、あの人以外無理よ」

 部屋に入ったアリスは、子どもの背丈程のアタノールと呼ばれる反射炉や、水晶で作られたフラスコ、巨大な水槽を前にして、懐かしむように言った。

「……ヘルメス・トリスメギストス」

 三重にも偉大な者。ルースがその名を口にして、アリスの脳裏にある姿が輪郭を強める。数年前まで師と仰いだ人物。本名は当時のアリスの周囲でも誰一人として知らされてはおらず、彼は自らのことをマスターと呼ばせていた。ヘルメスという名も、名が無いのも不便だからという理由だけで名乗っていたに過ぎなかった。

 アリスが緑の光を発する水槽に手を当てると、それは仄かに熱を帯びていた。ルースが地上に残してきた少年の話を思い出し、

「つまりトゥーラも、シフラって子も……」

「あの人が造ったってわけね」

 アリスが机の上に置かれた水晶のフラスコを手に取り眺める。内容物は、アリスがダイニングで拾った赤土に良く似ていた。その赤土がホムンクルスの肉体となることを、アリスは知っていた。

「彼なら、ホムンクルスとゴーレムの技術を掛け合わせることも可能だわ」

 それで全てが解決した。ホムンクルスのように高い知性を持ち、ゴーレムのようにフラスコの外でも生きられる人間大の肉体を持つ存在。都合よくアリスの手に渡った手紙。

「あの手紙の差出人も、ヘルメスと見て良さそうね」

 ルースが言い、確かにそうだとアリスは思い至る。事実フローデルに封筒を渡したのも、人間大の人工生命だった。

「でも、何のためにこんな――」

 アリスの言葉半ばで、真上から物騒な、そして大きな物音が立て続けに響いた。

 アリスとルースが地上に戻ると、あれ程までに片付いていたダイニングの様子は一変していた。ガラス窓は割れ、椅子やテーブルは倒れ、様々な物が散乱する。そして、トゥーラは忽然と姿を消していた。

「やられたわね」

 ルースが嘆息した。が、

「行くわよ!」

 不謹慎にもアリスの目は逆に輝いていた。


 陽は大きく傾き、街は朱を帯び始めていた。石造りのビル群、そして一際高く天を射る高層建造物――ビヴロストが茜色に輝く。気温が下がり、通りの人影も僅かに増えていた。そんな中を突如として現れたローブ姿の女性に、

「失礼ですが、お約束でしょうか?」

 ビヴロストの前に立つ警備員が声を掛ける。トゥーラを追いかけていた男達と同じ、黒いスーツ姿だった。女性は答えようとせず歩を進める。

「おい!」

 肩に手を掛ける警備員。ローブの女性――アリス・ロシュフォールは手にしていた大きな鞄を地面に落とし、両手で相手の腕を掴むと、

「せいっ!」

 そのまま肩越しに前へと引いた。右腕で相手の腕をロックして、まるで歯車のように相手を巻き込んで浮かせる。体格差のある男を背中に乗せた後は、重力に任せて地面に打ち付けた。

 大きな音を立てて背中から石造りの床に激突した男は、そのまま気を失い静かになった。目深に被っていたフードは急な動作によって脱げ、ストロベリーブロンドの髪は夕日のオレンジに染まっていた。フードを被り直したアリスは足許の鞄を拾う。

「……少しやりすぎたかしら」

「考えるまでもないわね」

 そんなやり取りをしながら、アリスとルースが回転扉をくぐった。

 エントランスは、やはり豪奢な造りになっていた。色違いの大理石が複雑に組み合わされた床には、十メートル以上の高さの天井が映り込む。壁らしい壁は殆どと言っていい程無く、緻密な計算の基に配置されたガラスから取り込まれた光が解放感と清潔感を与え、建物を支える黒い石柱は空間を引き締めるアクセントとしても機能していた。入ってすぐの場所に設けられたカウンターでは、小綺麗な制服を着た女性が案内業務に従事する。

「どうやって行くかが問題ね」

 当然ながらビル入り口の案内板には地下六階までの記載しか無く、アリスの目指す“ウロボロスの住処”はそれよりも下にあると思えた。

「ルー、探れない?」

 アリスが訊くが、

「無理ね。木造ならともかく、こんな石の塊みたいなビルに光の通る隙間は無いわ」

 ルースはきっぱりと答えた。

 ここまで来て手詰まりかと考えあぐねて辺りを見回したアリスは、奥のエレベーターホールにそれを見付ける。アリスよりも低い、子ども程の背丈。黒に近い深緑色のローブを纏い、深く被ったフードの奥からアリス達をじっと見つめていた。

「ルー! あいつ!」

 アリスとルースはマーブル模様の石床を蹴って走り出す。驚く人々を避けながらエントランスを駆け抜け、エレベーターホールへ。更にその先の扉へと入っていった目標を追う。

 ルースを行かせれば簡単に捕らえられるはずだったが、アリスは後を追うことを選んでいた。どこかで、目的地へと案内してくれている気がしたからだった。フローデルに手紙を渡した存在と同一だと、アリスは半ば確信していた。

 扉をいくつか抜け、階段を何フロアか下りる。それを何度か繰り返し、

「……っ!」

 角を曲がったアリスが急停止する。白く無機質な廊下の中程で、それは立ち止まっていた。そしてアリスの方を向いたまま、細い指で何も無い壁を指す。フードの下で、口許が綻ぶのが見えた。

 ――直後、その存在は再び廊下を走り出すと、角を曲がり姿を消した。ルースが慌てて追うが、角の向こうに動くものは無く、同じように白色の廊下が続いているだけだった。

 ルースがアリスの許へと戻ると、アリスは指し示された壁の前に立ち、一見何の変哲も無い白い壁を緩く結んだ拳で軽く叩いていた。そこから返る硬く冷たい音を聞き、一度深く息を吐くと、

「ルー。この壁の編成は?」

 訊ねる。傍らの魔獣は造作も無く、

「Eの二十六ね」

 あらゆる光の透過率、反射率などから導き出した壁の素材を、予め決めてあったコードで答えた。それを聞いたアリスは小さなフラスコと簡素な意匠の木箱を鞄から取り出して床に置き、蓋を開ける。中には薬品の入った瓶の数々が、きっちりと区分けされて詰められていた。

 通常薬品の調合は書物やメモを見ながら慎重にするものとされていたが、そのパターンの全てを暗記しているアリスは、木箱から選び出した数本の瓶の中身を、目分量で次々とフラスコへ入れていく。そして最後に、コルクで蓋をして一振り。

「できた!」

 あっという間に調合を完了した。フラスコの中、蛍光灯の光を浴びて輝く液体を、アリスは壁へと零し、満遍なく染み渡らせていく。薬品に触れて反応を起こした壁が、じわじわと変質する。アリスはその様子を眺めながらときを待ち、

「そろそろか。――せーのっ」

 脆くなった壁を簡単に蹴破る。まるで湿ったウエハースのように、それはめりめりと音を立てて崩れ落ちた。その向こうに現れた空間は、今までアリス達が居たそれとは趣の違う、コンクリートの壁に囲まれた薄暗い廊下が続いていた。光源は、等間隔で壁に吊るされたカンテラ。その光だけを頼りに、アリスはその奥を目指して進み出した。

 緩やかな下り坂になっている廊下を、コツン、コツンという小気味の良い足音を響かせて歩く。乾き冷えた空気に、アリスの肌はちりちりとした感触を覚えた。

「……もしも、よ?」

 狭い廊下、アリスの後ろを歩くルースが口を開く。

「もしもこの先にヘルメスが居るとして、アリスはどうするつもりなの?」

 僅かながら憂いを帯びた声での質問に、

「……正直、わかんないのよね。言いたいことがあるわけでもないし。急に姿を消した理由は気になるけど、訊いても多分答えてくれないし」

 壁に手を這わせて進むアリスの表情は、言葉とは裏腹に澄んだものだった。アリスの追う元師匠ヘルメスは、数年前に行方をくらましていた。理由も告げず、突然の失踪だった。その後もアリスを含む彼の弟子達は変わらず集まり錬金術の研究を続けていたが、アリスは師の不在で変わってしまった空気を好きにはなれず、そこを去ったのだった。

「まあ、研究は続けていたみたいだけどね」

「うん。それは少し嬉しかった」

 一人と一体の声は薄暗い地下道に反響し、余韻を残して消えた。コンクリートの床と壁はやがて大きく弧を描き、 穏やかな螺旋になる。

 スロープは延々と続き、アリスの方向感覚が麻痺しかけた頃、ルースが、

「ウロボロスの住処、ね」

 ぼそりと言った。ウロボロスとは自らの尾を銜えた円盤状の姿で知られる、伝説上の蛇。それは螺旋状の廊下には相応しい名だった。更にウロボロスは錬金術師の間ではその円が金属の移り変わり――即ち錬金術そのものを表すとされ、信仰する者は多かった。

「本物が居るんじゃない?」

 続けてルースがそう口にしたのは、前方に鈍く輝く鉄格子が現れたからだった。天井から床まで、子どもの腕程の太さの鉄柱が縦横に空間を貫いていた。それはまさしく猛獣の檻を想起させる。

「確かめるわよ、ルー」

 鞄を片手にアリスが鉄格子に走り寄り、その距離を縮めたその時だった。突如として地面は揺れる。

 コンクリートの小さな欠片が頭上からぱらぱらと降り注ぎ、鉄が軋み、擦れ合う耳障りな音と共に、鉄の檻は上方へと引き上げられていた。見上げながらルースが、

「……開いちゃったわね」

 半笑いで言った。そして、

『また蹴破られてしまったら困るのでね』

 くぐもる、年老いた男性の声。どこかにあるらしいスピーカーから発せられた声のようだった。声は続ける。

『奥へどうぞ、アリス・ロシュフォール』

「ご丁寧に、名前まで知ってるわけか」

 アリスが臆面も無く、上がり切った鉄格子の奥へと足を踏み入れた。

 前室を抜けると、そこには眩い光で照らされた広大な空間があった。四角く並べられた床石に、金属のパネルで覆われた無機質な壁。天井までは二、三十メートル程の高さがあった。正面の壁の上方には横長のガラスがはめ込まれ、その中からアリス、そしてルースを見つめる一人の初老の男の上半身が見えた。長く伸ばしたグレーの顎鬚を蓄え、白い布地のゆったりとした服を着ていた。深い皺が刻まれながらもふっくらとした顔立ちは、どことなく裕福な印象を与える。背後にはスーツの男が二人、姿勢良く立っていた。

『初めまして』

 先程廊下で聞いたものと同じ声が室内に響く。ガラス窓の中の男の口が動いていた。

『私の名は、ハイダル・アル・アトラシュ。このビルの持ち主だ』

 ハイダルと名乗った髭の男は、ビヴロストの資本企業であるアル・フルムの創始者だった。

『君達が何の目的でここへ来たかは知らないが、これは立派な不法侵入だ。それは、理解しているかね?』

 穏やかな声で諭すように発せられたその言葉に、アリスは手紙の主が彼でないことを知った。そしてフードを取ったアリスが、

「あんた達だって、立派な誘拐犯じゃない」

 ハイダルを見上げて吼えた。

『誘拐? ああ、“杖”――いや、トゥーラ君のことか。あれは我が社の所有物だ。回収したに過ぎんよ』

 巨大企業の社長が笑い混じりに応えると、

「所有物ですって?」

 今度はルースが息巻いた。隣ではアリスが小さく溜め息をつき、

「なんか、いちいち癇に障るわね、あのじいさん」

 呟いた。

『まあいい。ここは我が社の製品試験場だ。素晴らしいものだろう。君達にはここで我が社の新製品のテストに協力してもらう。後で感想を聴かせてくれ』

 そこまで言ったハイダルは、手元のボタンを押す。そして、

『生きていればな』

 金属製の壁の一部がスライドする轟音に被せるようにして、物騒な言葉を付け加えた。

「……ちょ、あのジジイ!」

 悪態をつくアリスの目の前、口を開けた壁の中から、獣の唸り声がのようなものが聞こえた。それは一歩一歩石の床を踏みしめ、光は徐々にその身を照らす。まず出てきたのは、ライオンの頭部だった。顔だけでもアリスの身長と変わらぬ程の大きさがあり、牙を剥く表情は凶悪そのものだった。そしてライオンの胴体、その背中には、畳まれた巨大な蝙蝠の羽が生える。別の生き物のようにうねる尻尾の端部には、何本もの鋭い針がびっしりと生えていた。

 壁に開いた穴が再び轟音を上げて閉じ、

「マンティコアだわ……。あの社長さん、新製品て言ってたわよね?」

 目の前の巨大な魔物に対して構えるように姿勢を下げたルースが言う。

『その通りだ。我が社は、君達錬金術師が培ったホムンクルスやゴーレムの技術を使い、ついに魔物を生産することに成功したのだ。ゆくゆくはこれを紛争地帯には兵器として売り、平和な土地ではペットとして売るつもりだ。これは莫大な利益を生む。まさに錬金術だ』

 スピーカーから品の無い笑い声が響く。

「知ったことじゃないわよ! 私はただの学者であって――」

 うねりを見せていたマンティコアの尻尾が一度ゆっくりとしなった直後、それは鞭のように鋭く振るわれ、

「こんなのは専門外なんだってば!」

 叫びながら、アリスが思い切り横へと飛ぶ。その瞬間、直前までアリスが立っていた石の地面に、毒針が勢い良く突き刺さった。

「アリス、気を付けて! あの針、刺さったらタダじゃ済まないわよ!」

 ルースが声を上げ、

「そんなこと、見たら判るわよ!」

 アリスも大声で返す。抱えていた鞄を適当に床に置くと、

「なんで私がこんな……」

 羽織っていたローブを脱ぎ去り、細身のシャツとパンツ姿になる。腰元にはいくつかのポーチを携え、前垂は簡単に開けられるようスナップで留められていた。その中の一つから、片手で小瓶を三つ程取り出す。橋の下でトゥーラをスーツの男から助けた際に使ったものと同じ、液体火薬が入った瓶だった。

「ルー。即効で片を付けるわよ! あいつぶん殴ってやらなきゃ気が済まない!」

「同感だわ!」

 アリスとルースが言い、それを合図にしたかのようにマンティコアが床を蹴る。アリス達も真正面から同時に駆け出し、迫り来る巨大なライオンの顔に対峙する。マンティコアがその勢いに体重を乗せて腕を振り上げた瞬間、アリスは腰を落としマンティコアの体躯の下に滑り込んだ。反対にルースは上方へと飛び、マンティコアの背中へと見事に着地。

 マンティコアの足許をすり抜けたアリスは、振り向きざまにその手の瓶を放る。それは背中を向ける魔物の手前に落ち、地面に炎の壁を発生させた。獲物を仕留め損ねたマンティコアが炎の向こうでゆっくりとアリスに向き直り、再び突進しようと機を窺う。

「ルー! やって!」

 ルースに指示を出しながら、同時にアリスはポーチから新たに小瓶を取り出し、炎の中へと投げくべる。床に当たった瓶が弾け、炎は更にその背丈を増す。

 炎の壁に阻まれ身じろぎする魔物の背中で、ルースは優しげに口を開き、

「恨むならあの社長さんを恨みなさい」

 マンティコアの首を一周するように、白い光の線が生じた。マンティコアの動きがぴたりと止まる。巨大な首が重力に従っておもむろにスライドし、やがて黒く焼け焦げた断面を見せながら音を立てて床へと落ちた。高熱を帯びた光を発生させ、一瞬で対象を切断するルースの術式。アリスとルースはその光の刃を屠殺者――アラドヴァルと呼ぶ。

 分厚いガラス越しにそれを見ていたハイダルは苛立ちを隠さずに舌打ちし、

「炎に恐怖する兵器などいらん。改良させろ」

 後ろに立っていた部下に命じた。


「――そろそろそっちへ行ってもいいかしら?」

 崩れ落ちたマンティコアの身体を背に、アリスがハイダルを見上げて言う。

『一つ、いいものを見せてやろう』

 ハイダルが再びボタンを押すと、またも壁がスライドし、

「……っ!」

 中から現れたのは巨大な水槽だった。二、三メートルの高さの分厚いガラスの内側を、透明の液体が満たす。中心には一糸纏わぬ少女が一人、立ち上る気泡と共に揺れていた。

『どうだ? 美しいだろう。一点の曇りもない、完璧な生命だ』

 ハイダルのその言葉の通り、目を閉じて眠っているかのような表情で漂う少女の身体には、くすみはおろか一つのホクロさえも無い。白くきめ細かい肌は、緩やかな膨らみと自然なくびれを描き、不自然な程の美しさを体現していた。

『先程のがらくたとは違うぞ。純粋なホムンクルスだ。これの為に随分な金と時間を使ったが、やっと手に入れることができた。あの錬金術師には礼を言わねばならんな』

「なんてこと……!」

 声を上げるルースの隣ではアリスが、

「あの子がシフラか……。するとフローデルに手紙を渡したのも、さっきあたし達を案内したのも、彼女で間違い無さそうね」

 親指の爪を噛みながら静かに呟いた。

『“杖”が手に入ったお陰で、行方の判らなくなっていた“笛”も案の定手に入った』

 そして、仰々しい音と共に床の一部がせり上がり現れたのは、頑丈そうな黒鉄の檻。中にはアリスが探していた浅黒い肌の少年が力無く横たわっていた。

「ルー!」

 アリスが名を呼ぶのと同時に白色の狐が檻へ向けて走り出すが、

『おっと』

 がしゃんという音を立てて、天井に据え付けられた投光器から床へと、紫色をした八本の光が落とされる。それらはトゥーラが捕らわれる檻の周りを囲うように配置され、

「――くっ!」

 咄嗟に飛び退くルース。紫の光は微かに触れた白の毛皮を焦がした。

『それは魔術障壁を分析、研究して開発した我が社の大ヒット商品の最新版だ。それを使えば、魔術師でない私でも、こうしてその力を簡単に手にすることができるのだ』

 スピーカー越しのハイダルは自慢げに言い、

『魔獣相手の実証実験はしていなかったが、どうやら効果があるようだ。犠牲になった何人かの魔術師達も喜ぶことだろう』

 笑う。

 その笑い声を浴びるアリスは俯き、ルースからもその表情は窺い知ることはできなかったが、

「……ルー。あのジジイのところまで跳べる?」

 両拳が強く、硬く握られていた。

「あたしを誰だと思ってるの?」

 余裕の表情で答えるルースに、アリスは腰のポーチから今までより一回り大きい瓶を取り出す。ほっそりとして背が高く、尖ったガラスの蓋。それはまるで、香水の瓶のようだった。

「じゃあ、頼んだわよ」

 手にした瓶をルースに銜えさせたアリスは、視線を紫色の光線に護られた檻へと戻す。

「待ってて、トゥーラ。あなた達二人は必ずここから助け出すから」

 決意を秘めた目で言うアリスの横で、大きく助走を付けたルースが壁に向かって跳躍する。ハイダルの居るガラス窓まで半分程の高さで一度壁を蹴ると、

「――なっ!」

 驚きを顕にするハイダルと目が合った。口に銜えた瓶を振りかぶり、投げる。瓶は回転しながら宙を舞い、強化ガラスにぶつかって粉々に砕けた。中からこぼれ出た液体が触れた場所から、ガラスが瞬時にその質を変えていく。

 そこへ、白い狐が飛び込む。変質したガラスは簡単に砕け、ルースは柔らかな絨毯の敷かれた狭い空間に、たおやかに着地した。

「邪魔するわよ」

 言ったルースに、黒いスーツを着た男二人の拳銃が向けられていた。驚きと警戒からすぐには動かない男達に、

「何をしている! 撃てっ!」

 ハイダルの命令が飛び、弾かれたように絞られる引き金。アリスの居る円筒形の試験場を反響管にして、発砲音が鳴り響く。

「悪いけど――」

 銃声の余韻の中、艶のある声を残してルースの姿は消えていた。そして、

「無駄なのよね」

 その声は男達の背後から聞こえた。

「――っ!」

 振り向くスーツ姿の二人は、ルースの作り出す白い光球が自分へと迫り来るのを見た。視界が白一色に染まり、やがて破裂音と、吹き飛ばされた身体が壁に叩き付けられる感覚と共に意識は途絶える。

「さて、社長さん?」

 ルースは優雅さを感じさせる所作でゆっくりと歩きながら、ハイダルへと告げる。

「あの忌々しい魔術の偽物を解除して、あの子達を解放しなさい」

 口調こそ優しげだったが、頂点に達していたルースの怒りはいくつもの小さな白い火花となり、彼女の体毛や周囲、床に敷かれた絨毯の上を走っては消える。

「お前達の目的は何だ? 金か? それとも技術か? 誰かに雇われたのか?」

 ハイダルの問いに、

「そんなんじゃないわ。アリスはあの子達――トゥーラとシフラを助けたいだけよ」

 やはりどこか緊張感に欠ける声でルースが返した。

「助ける、だと? あいつらはもともと人間の造ったものじゃないか。それを人間がどうしようと、特に魔獣のお前には関係無いだろう」

 笑い混じりにハイダルが言って、

「あたしにはね。でもあの子の半分にとっては、きょうだいみたいなものだから」

 ルースが目を細めた。そして、意味を汲み取りかねるハイダルに、

「普通に考えて、学者を生業とするただの小娘に、あんたの部下を軽く伸して、マンティコアと渡り合えるだけの身体能力があると思うの? ――あの子は昔、一度死んでるのよ。炉の爆発に巻き込まれてね。そしてそれを救ったのが、錬金術師ヘルメス・トリスメギストス。彼は自らの持つあらゆる知識や技術を使い、彼女を蘇らせたってわけ」

「…………!」

 ルースの言葉に、ハイダルは言葉を失う。例え錬金術を以ってしても、死んだ人間を、ましてや人格や外見を生前そのままに呼び戻した事例など聞いたことが無かった。

「あいつも、化け物ってことか……」

 ハイダルからこぼしたそんな言葉に、

「そう呼ぶ人間もいるわね」

 別段感情を見せずにそう返して、ルースは窓枠の傍まで歩く。

「とにかく、その直後に行方をくらましたヘルメスを、アリスはずっと探しているわ。その手掛かりの為なら何でもするわよ、彼女は」

 円筒状の試験場を見下ろしながら言った。


「取り敢えず……、『生娘の生き血』ね」

 ラハブに来る発端となった手紙の一文を口にして、ポーチの中から鉄製の容器を取り出す。映写機用のフィルムケースを掌程の大きさまで小さくしたような形のそれは、実際のフィルムケースの何倍も重い。蓋の隙間を封じるように幾重にも巻かれた黒いテープを、アリスは丁寧に剥がしていく。

 捻って開けられた容器の半分程を満たしているのは、メタリックレッドの液体だった。アリスは必要以上に周囲の光を反射するそれを素手で軽く掬うと、地面へと振り払う。水銀の特性として、全く手に纏わり付くことなく、綺麗な滑らかさで肌の上を滑り、アリスの手を離れた。

 ぼん。

 飛沫が石の床に触れた瞬間、それは白煙と音を立てて、爆発を生んだ。砕かれた石が飛び散り、

「相変わらず恐ろしいわね」

 アリスが満足げに感想を述べる。そして、

「さて、どう使うのが正解か」

 大きく息を吐いた。


「あ……あれは――!」

 アリスを見下ろして狼狽するハイダルに、

「赤色水銀。個体の状態では“賢者の石”とも呼ばれ、液状ならばとてつもないエネルギーを生む、とても貴重な素材よ」

 何食わぬ顔ですらすらと説明するルース。

「貴重? 貴重どころか幻、いや、伝説とまで言われる物質だぞ! あれさえあれば、何だって手に入るし、この世界の支配者にだってなれる!」

「この世界に支配者の存在できる余裕なんて無いわ。仮になれるとしても、あの子はただの学者、ただの錬金術師でいることを選ぶでしょうね」

 興奮を抑えることなく熱弁を振るったハイダルに、ルースは冷たく言い放ち、続ける。

「それに、赤色水銀は普通の人間には猛毒よ。“化け物”じゃないあなた達みたいな、ただの人間が扱える代物じゃないわ」

「…………くそっ!」

 悪態をついて立ち上がるハイダルが、踵を返して走り出す。倒れたままの部下を跨ぎ、ガラス製のドアを押し退けるように抜けて部屋の外へ出ると、そのままエレベーターへと乗り込んだ。


「アリス!」

 ハイダルの居た部屋から一跳びで降りてきたルースが、軽やかに着地する。

「どう? あのジジイは反省してた?」

「それはもう、涙を流してね。アリスの赤色水銀にいたく感動して、それを使って世界を支配するって息巻いていたわ」

「なるほど。全くもって懲りてないわけね」

 ここに来てから何度目かの嘆息をするアリスに、

「いいや、反省なら充分しているさ。初めからあの錬金術師に頼るのではなく、君を捕らえて研究すべきだった」

 スピーカー越しではないその声は、背後から聞こえた。アリスがストロベリーブロンドの髪を揺らして振り向く。

「やっと、同じ目線で会話ができるわね。ハイダル・アル・アトラシュ」

「アリス君、君は決して私と同じ高みには立てんよ」

 ハイダルは言いながら歩を進め、壁面に埋め込まれた巨大な水槽に手を添えた。太い指に嵌めた豪奢な金色の指輪でかつり、かつりと表面を叩き、

「――これの利用価値とその素晴らしさが解らぬようではな」

 中に揺蕩う少女を見上げて目を細める。

「素晴らしさなら理解してるわ。少なくともあんたよりはね」

「学者と経営者の価値観は違う。私なら、歳を取らず食事の必要も無いこれらを存分に活用することができる」

 ハイダルの言葉を、

「兵隊として、ね。確かに申し分無いわ」

 ルースが補足した。ハイダルが大きく頷く。

「そうだ。今、我社の者にこれを隅々まで分析、研究させている。いずれは量産体制を取り、戦闘教育を施したのちに新たな兵器として売り込むつもりだ」

「……そんな目的の為に錬金術を?」

 眉を顰め、嫌悪感たっぷりにアリスが言った。ハイダルが静かながらも耳障りな声で笑い、乾いたその唇を舐めて湿らせる。

「技術の発展をリードするのは常に戦争であり欲望なのだよ、アリス君。やがてそれをきっかけに錬金術の研究は爆発的に進むだろう。さすれば君も化け物などと呼ばれはせず、それどころかその身体を元に戻す手段が見付かる可能性すら出てくるのではないかね?」

「あら、それならアリスも大歓迎なんじゃない? ヘルメスも探しやすくなるかも知れないし」

 呑気な声で茶化すルースを無視して、アリスはハイダルへと吐き捨てるように告げる。

「そんな世界、私はお断りだわ。別にあんたの理屈は間違っちゃいない。錬金術だって、成り立ちは人の欲望からよ。……けど私は、できればのんびりと、平穏無事に暮らしたいわね。この身体にも不満は無いわ」

「そうか、ならば――」

 ハイダルがポケットから右手を出し、真っ直ぐにアリスへと向けた。その先端では、直径五センチ程の口を持つ異様な形状の拳銃が、禍々しさと共にアリスへと狙いを定めており、

「――君は我が社、アル・フルムの敵ということだな。友好関係を築けず非常に残念だが、君のことは研究材料として厚待遇で歓迎してやろう!」

 ハイダルは引き金に掛けた太い指へと力を込めた。銃身後部、本来ならば撃鉄のあるはずの場所に開けられた排気孔から漏れ聞こえる微かなモーター音。そして異型の銃口から、

「――っ!」

 一直線に伸びる紫色の光を、アリスは石の床を強く蹴り、飛び退いて避ける。光はそのまま背後の壁へと当たり、一瞬にして高温に熱された金属パネルが赤を帯びる。

 ハイダルが満足そうな表情で引き金から指を離すと、人工的な魔力の光が音も無く消え失せた。

「未発表の新商品だ。まだ試作品だが、威力はなかなかのものだろう?」

 自慢げに言って再び銃を構えるハイダルに向き合い、

「ルー、先にあのおっさんの目を覚まさせるわよ」

「仕方無いわね……」

 アリスと会話を交わしたルースが走り出した。

 正面に迫る白い狐へと、ハイダルが銃口を合わせ、引き金を絞る。放たれる紫の閃光を平然と避けるルースだったが、

「五の六!」

 突如発せられたハイダルの声を合図に、檻に捕われたトゥーラを取り囲んでいるものと同じ光が、まるで霹靂のように天井からルースの着地点へと降り注ぐ。

「ルー!」

 名を呼ぶアリスの眼前で、火花と共に吹き飛ぶ魔獣。ハイダルの嘲笑う声が響く。

「床の石がマス目になっているだろう。この試験場が巨大なチェス盤になっていると思ってくれていい。私がそのマス目を声一つで指定するだけで、好きな場所に障壁を発現できるようになっているというわけだ。――つまり、この場において私は本物の魔術師に等しい」

 にやりと口を歪めたハイダルが再度銃口をアリスへと向けて言う。

「大人しく我が社の研究素材となれ! アリス・ロシュフォール!」

「っ!」

 ハイダルが引き金を引くのと同じタイミングで、勢い良く走り出したアリスは身体を後ろへと倒す。殆ど床と水平になりながらスライディングをするアリスの直上を、紫の光が通過していく。そして、

「四の六!」

 魔術障壁を呼ぶハイダルの声。床に手を着き横へと飛び退いたアリスが、天井から降りる紫色の柱を間一髪で避けた。

「四の七! 四の八!」

 続けざまに叫ぶハイダルによって次々と発現される障壁を、アリスは走り、跳び、転がりながら掻いくぐり、じりじりとその距離を縮めていく。ハイダルまでは三メートル程。顎を伝う汗を手の甲で拭い、アリスは向けられた銃、そしてハイダルの口許を睨む。

 その口が開かれ、アリスが動く。

「三の七っ!」

 ハイダルの声と同時、手の中で銃口が光っていた。

「くっ……!」

 光の柱から逃れたアリスが、苦しげな表情を浮かべる。その眼前、銃身脇に取り付けられた出力調整用のレバーを親指で動かし、

「これから宜しくな。アリス君」

 野卑た笑みを浮かべたハイダルの放つ光の銃撃が、石の床に跪くアリスを一直線に捉える。着弾の寸前、ハイダルは伸ばされたアリスの手が光に触れ、爆ぜるのを見た。

 生じた爆風は周囲の床に積もっていた粉塵をも巻き上げ、視界を塞ぐ。

 できれば無傷のままで回収したかったが仕方が無い。胸の内でそう呟きながら、自らが仕留めた獲物へと近付くが、

「――?」

 引いていく煙の中、床の上にアリスの姿は無かった。顔色を変えたハイダルの耳に、ぎいぎいという耳障りな音が届き、視線を音の発生源――ホムンクルスの少年を捕らえた檻の上へ。それは、破壊され、紫の光を発することを辞めたライトが、数本のケーブルのみでぶら下がって揺れる音だった。これ以上無い程に目と口を開くハイダル。こめかみを伝い落ちた一筋の汗が、自慢の顎鬚へと吸い込まれて消える。

 ぶつり。

 荷重に耐えかねたケーブルが切れ、ゆっくりと落下する。やがて石の床へと激突し、ガラスが割れ、金属がひしゃげ擦れ合う凄まじい音と衝撃が、狼狽するハイダルへと伝わった。

「なっ……何が…………」

 絞り出すように、掠れた声でそれだけを口にしたハイダルに、

「……まったく。そんなおもちゃでアリスを仕留められるわけないじゃない」

 白い狐の呆れ声。ルースは水槽の前に四つ脚で立ち、依然その中で揺蕩うシフラをじっと見つめる。

「そ、そんな馬鹿な! 最大出力だったんだぞ! それもあの至近距離で……!」

 泡を飛ばすハイダルの脳裏に、アリスを撃つ瞬間の光景が蘇る。確かにあのとき、目の前で跪くアリスへと照準を合わせ、しっかりと引き金を引いた。そして直後に伸ばされ吹き飛んだアリスの手の中に、一際きらりと光るものがあったことへと思い至る。

「特殊なコーティングを施し、どんな物質にも勝る硬度、どんな光でさえも撥ね返す性質を持たせた鏡よ。そうね……、一部の地域では八咫鏡という名前で知られているわ」

 ルースは何食わぬ顔で告げ、その前肢を水槽のガラス面へ。

「……あの瞬間に、光を反射させたというのか。偶然とはいえあのライトを破壊するとは……」

 そしてハイダルは、

「偶然とは失礼ね! ちゃんと計算してるわよ!」

 そんな声を聞いた。数分前までは二度と聞くことはないと思っていた、できることならもう聞きたくはなかった、アリス・ロシュフォールの声だった。

 錆び付いたかのような動きでハイダルが振り向くと、試験場中央の檻の上に、傍らにトゥーラを抱えた彼女は立っていた。そして自らの魔獣の名を呼ぶ。

「ルー!」

「Iの六! あとCの九もよ!」

 水槽の表面の編成を聞き、トゥーラを足許に下ろしたアリスが準備を始める。

「や、やめろ!」

 ハイダルが叫び、おぼつかない足取りで走り出す。先のアリスとマンティコアの戦闘によってできた窪みや亀裂に時折躓きながら、

「金ならいくらでも出す! 研究施設を貸して――いや、くれてやってもいい! だからそれらは、そいつらだけは!」

 ハイダルは調合を進めるアリスへと訴える。やがて檻のすぐ側まで辿り着いたハイダルは、潰れて横たわる巨大なライトをよじ登り始める。

「金や設備じゃないわ、アル・アトラシュ。錬金術師――少なくとも私は、世界の発展と自らの平穏の為に探究しているの。そこに富や名声は必要無いのよ」

 手許に目を落としたまま応えるアリス。

 必死にライトの部品を掴むハイダルが檻の上を見上げると、

「…………」

 そこには目を覚まして立ち上がり、ハイダルをじっと見つめるトゥーラの姿があった。少年は何も言わず、ハイダルとただ視線を交える。それを断ち切るようにして、

「できたわよ! ルー!」

 叫んだアリスが、振りかぶった二つの小瓶を思い切り、水槽の前に待つルースへと投げやった。ハイダルの頭上を越えて飛ぶそれを、跳躍した狐が見事に銜え、受け取る。着地したルースがハイダルを一瞥し、

「悪いわね、蛇使いさん」

 水槽に向けて、小瓶を放った。

 ばん、という音を立てて割れる小瓶。同時に水槽が轟音と同時に粉々に砕ける。一瞬水槽の形を保っていた中の液体が崩れ、そして一気に流れ出す様を、ハイダルは呆然と見ていた。

 水の中へ飛び込んだルースは少女を器用に背中へと背負い、アリスとトゥーラの居る檻の上へ。

「シフラ! シフラ!」

 少女へ必死に呼び掛けるトゥーラ。シフラの反応は無く、呼吸をしている様子も無い。一糸纏わずに横たえられた、白く瑞々しい肢体。アリスはいつの間にか回収していた自分のローブをシフラの身体に優しく掛け、息を吐く。

「……ここからが本番ね」

 ポケットにしまっていた赤色水銀の容器を出し、その蓋を開ける。中では相変わらずメタリックレッドの水面が揺れていた。それを掬って掌へ。容器を置き、空いた手でシフラの頭を支えて起こすと、

「さて、これで正解かどうか」

 呟いて、赤色水銀をシフラのその小さな口へと流し込む。

「なっ……! そんなもの!」

 見かねたハイダルが身を乗り出して声を上げ、

「うわっ!」

 その拍子に足許のバランスを崩す。乗っかっていた部材が折れ、そこから転げ落ちたハイダルの片腕が、依然として降り注いでいた光の柱へとぶつかり、鮮やかな赤となって散る。そのまま石の床へと激しく後頭部を打ち付け、そして沈黙した。

 その様子を辛そうに見ていたトゥーラの足許から、

「……トゥーラ、悲しいの?」

 優しく、温かな声が聞こえた。驚きと共に目を向けた先に、弱々しく差し出された細く綺麗な手。トゥーラはそれを、力強く掴む。

「歌、歌おうか? マスターが教えてくれた、あの歌」

 微笑むシフラが、なだらかなメロディを口ずさみ始める。

「あら、懐かしいわね」

 ルースが眉を上げ、アリスは自らもよく知るその歌に、ただ目を細めていた。

 床の上、仰向けになったハイダルが、僅かに残っていた意識の下、ぼんやりと少女の紡ぐ歌を聴く。とても穏やかな表情で閉じられたハイダルの眦から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。

 シフラの素朴で透き通った歌声が、ビヴロストの地下試験場を満たしていく。



 それから七日が経ち、

「やっぱりこの茶葉は最高だわ」

 アリスはラハブの街へと出発する前と同じように、自宅のサンルームで至福のときを過ごしていた。

「でも結局、あの人に会うことはできなかったわね」

 リビングのソファから、ルースの声。アリスは紅茶を一口啜ると、

「……まあ、会えればいいとは思ってたけど、そう簡単に見付かるなら苦労はしてないわ」

 そう言って微笑み、ガラスのカップを置いた。

「それもそうね。それより――」

「ん?」

「いい加減、何とかならないかしら」

 苦しげな声を出し、ルースがもぞもぞと動く。背もたれの向こうに居るルースの姿は見えなかったが、

「いいじゃない。彼も疲れてるのよ、きっと」

 アリスは応える。昨晩自宅に戻ってきてすぐに彼――トゥーラはルースに抱きついたまま眠ってしまい、それからずっと、ルースはソファから動けずにいた。もちろん魔獣であるルースにとって、姿を消すことや無理やり抜け出すことは造作も無かったが、そうしようとはしなかった。

「大体、ホムンクルスは眠る必要が無いんじゃなかったの?」

 尻尾でぱたぱたソファを叩きながらのルースの問い。

「眠らなくてもいいってだけで、眠れないわけじゃないみたいね。睡眠はいい習慣よ」

 アリスが答える。確かに、自分が眠っている間も彼らが起きていると思うと気が気でない。睡眠時間は合わさせよう。アリスはそう決めた。

「――あら、うるさいのが来そうよ?」

 拘束されたまま、玄関へと向けた鼻の頭を器用に動かしてルースが言う。それが誰かを理解したアリスが、

「適当に追い返して、ルー」

 いつものように言って、

「…………」

 身動きの取れないルースが無言で視線を返す。一瞬ばつの悪そうな顔をしたアリスが、

「解ったわよ」

 サンルームの特等席を立ち、玄関へと向かった。


「アリス! この新聞! 新聞読んだ?」

 二週間以上ぶりに会ったフローデル・オスカーの第一声はそれだった。嫌いな香草を口にしたときと同じ顔をしたアリスが、

「うちは留守にしがちだから新聞は取らないの。ごめんなさい」

 それだけ言って扉を閉める。鍵も掛ける。

「ちょ……! アリス! アリスってば! 錬金術師のアリス・ロシュフォールさん!」

 扉越しのくぐもった声で喧しく叫び続けるフローデル。放っておけば半日はアリスの名を呼び続けるだろうことは、既に何度か実証済みだった。

 頭を振り、溜め息を吐き、鍵を解いて再び扉を開ける。

「……何よ」

 仏頂面を見せるアリスに、

「これ! ラハブの大手企業アル・フルムの本社ビルが襲撃に遭って社長が緊急入院って! アリス達が行ったのってラハブだよね!」

 そこまでを洪水のように喋り、フローデルは手にした新聞を突き付ける。そこには犯人に一本背負いを食らわされたという警備員のインタビューや、白い狐の魔獣に関する多数の目撃情報が載ってはいたが、

「流石に試験場やあの子達のことは書かれていないようね……」

 安堵とも呆れともつかない声でアリスは呟いた。

「え? アリス、どういうこと? やっぱりここに書かれてる犯人って――」

 更に詰め寄るフローデルを、

「ただいま戻りました! マスター!」

 幼いながらも凛とした声が遮る。果物や雑貨の入った紙袋を両手に抱えた、ベージュのワンピースの似合う白い肌の少女が、そこに立っていた。アリスが応じる。

「あら。早かったわね、シフラ。でもマスターって呼ばれるのは、なんかこう……むず痒いわ」

「ご、ごめんなさい」

 小さな身体を更に縮こまらせて謝るシフラだったが、

「――マスター・アリス」

 あまり解決しておらず、アリスは頭を抱える。

「……まあいいわ。入りなさい」

 促されたシフラが家の中へ入り、アリスがその扉を閉める。

「ただいま、トゥーラ! ご飯作るから起きて!」

「ん……。おはよう、シフラ」

「ほら、いい加減離れなさいよ! ――ちょっ……! 尻尾! 尻尾踏んでる!」

 静かな朝の沿道に取り残されたフローデルが一人、家の中から漏れる声を聞いた。

<了>

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