8-8 エア湖
また空港に戻って、三ラウンド目の得点計算をする。
スローカードは『1』でキャッチカードは『2』なので、まずは一点。緑のマークのコレクションは、『貝殻』が一つと『葉っぱ』が二つで五、それを倍にして十点。
そして動物は、『カモノハシ』の九点、『カンガルー』の三点、そして『ウォンバット』の五点。合わせて十七点だ。
アクティビティは、『ブーメラン』が三枚だったので四点。途中で『カモノハシ』と『ウォンバット』のことばかり考えていて、正直こっちのことはちょっと忘れていたので、点数になっただけ良かったと思うことにした。
コンプリートした地域が二箇所になった。けど、他のまだだった地域も全部、他のプレイヤーがコンプリートしてしまった。次のラウンドではもう、コンプリートボーナスはもらえない。
バツ印で埋まってきた地図と書き出した点数を眺めて、いろんな場所に行ったなと思い返す。特に、動物の欄の「17」の数字。これはただの数字だけど、それを見ると『カモノハシ』や『ウォンバット』や『カンガルー』の姿を思い出す。
地図だって、そこに並んでいるのはただのアルファベットだけど、ここで滝を見たとか、大きな岩を見たとか、砂浜が白かったとか、全部思い出せる。
角くんも、同じように地図を見ていた。名残惜しそうに、その指先がアルファベットの上をなぞる。
「もうすぐ終わっちゃうね、旅行」
わたしの言葉に、角くんが顔を上げて、何か言いかけるように口を開いた。でもすぐに口を閉じて、結局ちょっと微笑んだだけで、何も言わなかった。
それでわたしも、急に、何を言えば良いのかわからなくなってしまった。
四ラウンド目ともなると、チケットの行き先も見知った場所が多くなってくる。集めて点数になるアクティビティは『ハイキング』だけだし、地域コンプリートのボーナスもない。得点できる行き先が限られてきて、判断に困る。
「ここで一つ、残念なことに気付いたんだけど」
角くんが眉を寄せて、なんだか悔しそうな顔で地図の余白──他のプレイヤーの状況を指差した。
「大須さんを含めて三人が、『ハイキング』狙い」
「え、じゃあ……三人で取り合いってこと?」
「そうなるね、多分」
わたしは溜息をついて、手元のチケットを見る。取り合いになるとしても、諦める選択肢は選べない。わたしが『ハイキング』を諦めても、他の二人の点数になるだけだ。
最初の七枚のチケットの中に『ハイキング』は一枚だけだった。行き先は『メルボルン』。
「一度行った場所だけど、そこで良い?」
角くんに聞かれて、わたしは頷く。
「これをそのままにしておいたら、次に回ってくるまでに他のプレイヤーが取っちゃうよね?」
「まあ、多分ね」
「だったら、ここにする。それとも」
わたしは急に不安になって、そっと角くんの表情を伺った。
「角くんは、一度行ったところは嫌?」
「え」
角くんは、びっくりしたように目を見開いて、慌てたように喋り出した。
「そんなことないよ。『メルボルン』を一緒に歩くのは楽しかったし、『ウォンバット』だって可愛かったし、また一緒に見れるなら……あ、その」
不意に言い淀んだ角くんが、目を伏せて、チケットを見る。その頬が、わずかに赤い。
「そういうことじゃなくて。点数、行ったことない場所なら一点だけど」
つられて、頬がかあっと熱くなったのがわかった。
「それはわかってるけど、その……角くんはもっとあちこち見に行きたいのかと思って」
「いや、だから、それは……大須さんがプレイヤーなんだから、俺は……」
わたしは麦わら帽子を被ってリュックを持って、チケットをまとめて掴んで立ち上がった。
「とにかく、次は『メルボルン』にする」
そうやって、オーストラリア旅行の最後のラウンドは始まった。
『メルボルン』の次に受け取った六枚のチケット。その中に『ハイキング』が三枚もある。六枚のうち半分。
わたしがこの中の一枚を選んで、それでまた戻ってくるときには、残りの二枚ももうなくなっているんだろうなって思った。
三枚のうち、行ったことがなかったのは『ハンターバレー』だけだったので、それを選んだ。確か、前のラウンドで他の場所と悩んで結局行かなかったところ。
『ハンターバレー』には葡萄畑が広がっていた。
朝早くに熱気球に乗って、広がる葡萄畑を空から眺める。高いところから見ると、本当に、世界が広いって思う。こんなにどこまでも広いなんて。
そのあと、どこまでも続きそうな葡萄畑の道を『ハイキング』する。前に行った『バロッサ・バレー』の葡萄畑は夕方だったけど、今は朝。空の青い色がまだ淡い。
「気球、まだ飛んでる」
空に浮かぶオレンジ色の縞模様を指差して、角くんと笑い合う。ただ歩いているだけなのに、楽しい。
それから、ハンター・バレー動物園という場所に行って、そこで『エミュー』を見た。
次の行き先も、やっぱり『ハイキング』で選んだ。『カルバリ国立公園』。
ネイチャーズ・ウィンドウという大きな岩を見るのも二度目。でも、岩が折り重なってできたアーチは、何度見てもやっぱり大きい。そのアーチから覗いた向こうの景色は、なんだか別の世界みたいに見える。
あのアーチを潜ったら、どこかに行ってしまえそうな気分になる。本物も、見たらそんな気分になるだろうか。
頭の中で『ハイキング』の残り枚数を考えて、きっともうこれ以上は集められないと気付いた。実際に、次に回ってきたチケットの中には、もう『ハイキング』はなかった。
だから次は、『ウォンバット』で選んだ。二度目の『ブルー・マウンテンズ』。これで五点。
今度はスリー・シスターズ・ウォークという遊歩道を歩いて、三姉妹の岩を見に行った。木立に覆われた遊歩道を進んで、時折見晴らしが良い場所があると、角くんと二人で三姉妹を指差す。
歩きながら、角くんが三姉妹の別の物語を教えてくれた。
その話では、三姉妹が別の部族の三兄弟に恋をするところから始まる。三兄弟は部族を超えて三姉妹を迎えに来る。でも、それは部族の掟を破るものだから、部族の長老は怒って三姉妹を岩に変えて隠してしまう。長老は、三兄弟がいなくなったら三姉妹を戻すつもりだったのに、そのまま死んでしまう。だから三姉妹は戻れないまま。
展望台から見たときとは、三姉妹の表情も変わって見えた。この三姉妹は、恋をした相手が迎えに来ることを今も待ってるのかもしれない。
でもそれは、聞いた物語が違うせいで、そう見えるだけなのかも。
次は『エミュー』が見れる場所を選んだ。これで四点。
『エア湖』という、オーストラリアで一番大きな湖らしい。
「湖なんだけどね、何年かに一度水が溜まることがあるって」
「普段はどうなってるの?」
「水が干上がって、地面みたいになってるらしいよ。一応、水が流れ込む川があるけど、平らな場所だからほとんど溜まらないらしくって」
「それって湖って言うの?」
「基準はわからないけど、湖って名前だから湖なんじゃないかな」
角くんにそんなふうに聞いていたものだから、きっと水がない乾いた地面が現れるんだろうって思っていた。けど。
「水がある!」
車から降りた角くんが、わたしの方を見てはしゃいだ声を出したかと思うと、駆け出した。わたしも後を追って、角くんの隣に立って湖面を眺めた。
濃い青い色、淡い水色、それから少し紫がかってピンクへのグラデーション。この色はなんの色だろう、水の色なのに不思議だ。
エンジンの音がして、空を白い飛行機が横切る。その姿がピンク色の湖面に映る。それを見て、これは本当に水なんだって思う。そのくらい、現実感のないような、不思議な色の湖面だった。
隣を見上げたら、角くんはぼんやりとその景色を見ていた。
「『エア湖』に水があるのもゲームの都合なのかな?」
「そうかも。『水泳』のマークがあるから、泳ぐ必要があるし。それに、ピンクの水に白い飛行機が映ってるのって、カードの絵になってるんだよね……だから多分これは、その光景の再現なんだと思う」
「ひょっとして、この景色って実際にオーストラリアに行っても、見れるかわからなかったりする?」
「そうだね、次にいつ水が溜まるかはわからないらしいから」
角くんは、湖面に映る飛行機の姿を視線で追いかけている。その横顔を見上げて、そんな景色が見られるなら、わたしのこの体質もそう悪いものでもないのかもしれない、なんて思った。
「良かったね、見れて」
エンジン音が聞こえなくなってからそう声をかけたら、角くんは瞬きをしてわたしを見下ろした。ちょっとぼんやりとした表情だった角くんは、わたしと目が合うとキャップを脱いで、急に真面目な顔をして──。
多分、五秒くらい。
沈黙に耐えられなくて、わたしは小さく「角くん?」と呼びかけた。角くんははっとしたように横を向いて、脱いだキャップで口元を覆った。
「ごめん、行こうか」
そう言ってわたしの返事も待たずに歩き出してしまった。
ただの沈黙だったのに、なんだか落ち着かない。ただの沈黙だったのに、角くんが謝ったりするものだから。ただの沈黙だったのに──ただの沈黙だったよね?
角くんの背中を追いかけながら、わたしは麦わら帽子のツバをぎゅっと引っ張って、深く被りなおした。
それから『サラマンカ・マーケット』で買い物をして、最後の行き先は『バングル・バングル』。
そのどちらも一度行った場所。それでも、時間をかけて見てまわる。何度見ても面白い。けど、それだけじゃなくて、もうこれが最後だってわかっていたから、名残を惜しむように。
最初は、二十八箇所も見てまわるなんて数が多いって思っていたけど、なんだかあっという間だった気がする。今更だけど、もっとゆっくり見ておけば良かったなんてことまで思ってしまう。
それでも、旅行は終わってしまった。