エッセイと小説。作者より賢いキャラは書けるのか?
ダニングさんとクルーガーさんのブーメラン(ネットスラング)でへこたれていたあきのです。
うそです。
感想返信のための、論文やらなにやら閲覧と、小説(まだ途中)を書いてました。
奇しくも同じような主題で文章を書くことに。
まあその結果、やっぱり生身の自分がアホすぎてエッセイ書くのはつらい、みたいな結論に至る。(理想の自分になれないナルシシズムの話です)
自己肯定感削られているため、自分を主体にして書くと雑念がひどい。自分で自分に悪辣な突っ込みを入れているのに気づいて、二倍三倍ダメージを受けたりする。非常に疲れる。でもそれが自分なので、付き合っていくしかないのです。
妄想しても、生身の自分は理想に近づいたりしない。
一方、わたしの場合ですが小説執筆はですね、「筆に任せる」感じでキーボード打ってるんです。恣意的に動かすと行き詰まるので、小石を投げるようにイベント起こしたりはしますが、基本的に登場人物の思考任せです。プロット立ててもそのとおりにはならない。なにせわたしじゃない人たちなので。
自分の中から生まれているものではありますが、自分ではない人たちが主体なのです。
生身の自分がコミュニケーションの下手さで悶絶していたとしても、作中人物は細かいところに気配りできる人間を描けるのですよ。理想を詰め込んで小説を書く、っていうのは、わたしにとってはそういう感覚。理想的な受け答えをできたとき、という願望。
生身の自分の失敗をフィードバック。
たとえば、作者より頭のいい登場人物は書けないって言われますけど、まあそれはウソではないでしょう。『作者と作中人物が同じ時間を生きているなら』無理だと思う。
ですが、小説は時間をかけて、作中の一瞬を表現できるじゃないですか。作者が何日もこね回して手に入れたひらめきを、作中の五分で表現することは可能なんですよ。そういう意味では、作者より頭のいいキャラクターは生まれる可能性がある、と思います。
作者の勉強と努力の賜物だけどな……。ひとつのヒントから十の物事を思いつく天才は書けても、ゼロから一を作り出す天才は難しいけどな。
それでも、ここまではまあたぶん、努力できれば誰でもできる。
問題はその先だ。
自分だけじゃなく、他人がリアルであること。自分を投影したキャラだけじゃなく、その人物を否定するキャラも、相対する人の反応も、モブも、自分の想定の範囲を越えてくる。これは現実でコミュニケーションを繰り返さないと、素材が足りないんですよ。本当におもしろい、というか人気が出る作品って、人間観察に長けている作者さんのものだと思ってます。
こね回して絞り出した登場人物の言葉や行動への『反応がリアル』。大事なのはそこだと思うんですよね。同じ問いかけでも答えは千差万別。うまい人はこの書き分けが、現実にありそうと思わせる。
『少ない人生経験の中にいる』『自分が持っている要素』を切り取ってキャラを作るのには、残念ながら限界があるので。キャラは作れても、相手の受け答えがワンパターンになったりする。作者の潜在意識が求める答えを言わせてしまう。
人間を書いている以上、リアルの人間に勝るモデルはいないのです。(ホントの現実で生きている人間はそのままだと情報量多すぎて、物語のキャラとしてはなかなか成り立たないんですけどね。テーマやキャラがブレる)
つまり、多様なキャラ作りって、人間嫌いには難しいんだよね……。キャラクター小説とも言われるラノベ系なんて特に。
人間関係しんどいせいで、他人を観察するのもメンタル削れる。魅力的なキャラ造形は、あなたのキライな人の中にヒントがあるよ。ラノベ作家になりたい人、がんばって。
これはそれをがんばれない、商業作家になるほどの才能はない(と諦めた)自分の話だ。
小説の書き手として、多様なキャラを作り出せる人間になりたい。好きな人とは距離を詰めたい。でも距離感おかしくてムリ。嫌いな人と心理的距離を取りながら、興味深く観察できるようになりたい。でもわたしは嫌いな人を回避したいからムリ。どこを嫌いだと感じるのか、分析できたら小説の幅が広がると思う。でも生理的にきっつい……。
なので、「最近のハーレムもの薄っぺらい」とか言われているのを見ると、コミュ障作者(趣味の素人だけど)としてのメンタルがごりごり削れるんですよ……他人の話だけど。共感性羞恥。
わたしの愛は分配すると減るので、ハーレムは(逆ハーレムも)魅力的に書けないけれども。
わたしは子どものころ人間関係うまくこなせなくて本の世界に逃げて、今もまだリアルの人間関係より小説書いてる方が、比重が重い。小説書くのに資料を当たっていると、ほんと、興味ないドラマとか見る時間ないし、雑談のネタに困るわけですよ。そつなくこなせる人間に生まれたかったなぁ。そっち側に興味を持てる人間だったらよかったのになぁ。人間を好きでいたかったなぁ。
とはいえ、現実を生きるのがつらいから物語世界へ逃げるのも、ぜんぜん選択肢としてアリですよ? わたしは小説書いてなければいま生きてないと思っているので。
(とりあえず生き抜く。まずはそれからだ)
さて。
ところで賢い読者様ならお気づきかもしれませんが、この話自体が優越の錯覚である可能性。(という話の持って行き方をするとお気づきの方もおいでかと?)
「わたしはもうその境地は脱したけど、まだの人のために教えてあげるわ~」って立ち位置が優越の錯覚です。いや、教えてあげるとか思ってませんよ。わたしはこう思っているって発信しているだけですよ。もしかして誰かのヒントになるかもしれないとかは思っているが、それを傲慢だというならもう……。……(沈黙は金、雄弁は銀)。
――つまり優越の錯覚とか気にしてたら、鬱になるんですよ!(じゃあ言うなって言われそうだけど)
あと、筆を折るのも時期尚早! 小説の書き方なんて十人十色だから! 図書館の書籍の分類を考えてみてくださいよ、いっぱいジャンルがあるでしょ? それから、「それでもラノベが書きたいんだ!」って目標があるなら、わたしと同じ壁に阻まれていると思うなら、努力の方向性(選択肢)が見えたってことじゃないですか。人間観察、やってみませんか? ファストフード店で他人の話をそれとなく聞いておくとかから。駅前でもいい。いろんな場所だったらもっと幅が広がる。
わたしはネットスラングの『ブーメラン』をよく使いますが、改めて調べてみると、心理学用語のブーメラン効果は、「説得しようとすればするほど意固地になって聞かない」ことを言うようです。「自分の発した言葉(攻撃)を受け止め損ねて自爆」っていうネットスラングとは違う意味です。
日本語ネイティブの一人一人が、違う意味、違うニュアンスで同じ言葉を使っているかもしれないのです。不思議ですよね。
いろいろな人を知れば、学問ではなくコミュニケーションでそれを知ることができるのかもしれません。わたしは活字で学ぶ方を選んだけれど、たぶん人とかかわるほうが百倍速いです。
最後に。
いろいろ書きましたけれど、長年小説を書き続けてきた一人の物書きとしてこれだけは言いたい。
「勢いに任せて書きたいことを書いている間がいちばん楽しい!」
未熟なところが多かったとしても、勢い任せだからこそおもしろい作品だって、たくさんあるんだ。
あきのは回避型なので人間関係つらい、というだけの話。