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アドラー心理学を勧めてみた

自分の胸に手を当てて自省しなければならない内容…。このエッセイは全部そう。っていうか、たぶんエッセイ的なものはわたしにとって、すべてブーメラン…。

『嫌われる勇気』2013年に発売。続巻『幸せになる勇気』が発売された2016年にベストセラーになっているので、ご存じの方は多いのではないかと。

 読書感想文は好きじゃないので、書評的なものではありませんけど、アドラー心理学について。


 何をしてもしなくても、十人中一人には嫌われ、二人には好かれる。七人は中庸。

 この、一人にはどうしたって嫌われる、って部分が、『嫌われる勇気』です。嫌われに行くって意味ではない。何をしてもしなくても嫌う人はいるから、嫌ってくる一人へ焦点を当てない。仕方ないと考える。それが嫌われる勇気。

 なんかそこを誤読して職場で嫌われた人がいたよ、とネットで読んだことがあります。百人いれば十人には嫌われるかもしれないってことは、もしかして周囲の人が偏っているのかもしれない。けれど、周りのみんながその人を嫌うのだとしたら、その人のやり方は間違っているのでしょう。自分の問題と他人の問題を分離するってどういうことか、かけらでも理解できていたら、わざわざ他人の問題に介入して嫌われるようなことは起こらないと思うんだけど……。

 意識高い系と嫌ってくる人は「十人の中の一人」だと思うことにしています。でも他者の課題に介入しないって部分を理解できなければ、そりゃあ嫌われるかもね。



 現実世界での話の流れから『嫌われる勇気』をおすすめしたら、この例を持ち出されました。あなたの悩みを解決する糸口になるかもしれないし、わたしの言っている意味が理解できるかもしれないよ、と提案してみたのですが。

「職場の知人がそれで同僚みんなに嫌われたことがあったよ。あなたみたいに××するのがアドラー心理学ではなかったはずだよ」みたいな返事でした。わたしの文章力がダメなのか、その人の読解力がアレなのか、知らんけど。キャッチボールのつもりで話していたら野球だった、みたいな。あるいは野球のつもりだったらハンドボールだった、みたいな? かみ合わねぇな……。

以前読んだから読まない、って答えならまだ受け取ることができたんだけどな……。


 わたしの欠点××については割愛します。(わたしの問題だから介入すんなボケェ、おまえといっしょにわたしの問題を解決する気など欠片もわいてこねぇわ。)水辺に連れて行った馬は水を飲みませんでした、しかたない。って話ですね。

 なんでこんな話になったかというと、この人の言った言葉に驚いたからです。

「それに、アドラー心理学はもう流行ってないよ」

(……はやり?)

 流行とは……? いや、哲学とか心理学とかの一分野ですよ? 流行なんてあったんだ……?


 とても驚いた……。でもまあ、『嫌われる勇気』は自己啓発本として売られたわけで、自己啓発本には流行があるから、なるほどそうかと思うことはできたのですが。とはいえ今も、どこの本屋でも表紙を見せて置いてあり、本体1500円の本がコンスタントに売れ続けているので、流行遅れという視点は的外れ。

 ちなみに現在の流行は、自己肯定感(落ち着いてきた)と繊細さん(これからさらに増えそう)です。心理学のような、自己啓発系のような。心理学というよりは自己啓発的な色が強いかな。


 自己肯定感はアドラー心理学に端を発しているような気がするのですが、使いかたが違うので考え違いかもしれません。アドラー心理学の言う『自己受容』が、いま流行の『自己肯定感』です。欠点のある自分をありのままで受けとめる。受けとめられない自分がいるならば、受けとめられない自分を受容する(受け入れる)ことをいいます。

「完璧な人間なんていない。60点の自分を受けとめて、100点を目指しましょう。ただし、目指すか目指さないか決めるのは当人で、60点で立ちどまることを選ぶなら、それも自分自身で決断したことだ。60点のままのあなたは、過去に起こった不幸な出来事が原因なのではなく、あなた自身の判断で(責任もあなたに)ある」(アドラー心理学の自己受容)

 ってことになる、はず。たぶん。様々な分野で「自己責任」って非難する言葉を聞くけれど、他人を批判するために使うのは論外だよね。「自分の責任である」とは、自分がかみしめるためにある言葉だと思う。もちろん、他人の課題を自分のせいだと考えない。「あの人の不機嫌はわたしが原因?」みたいなやつ。あの人の不機嫌はあの人の課題なので、あなたが『あの人の不機嫌』について自分を責めても仕方ないです。たとえあなたが原因だったとしても、自分の機嫌を取るのは自分なので、あの人の不機嫌はあの人の課題です。あなたは自分の人生、自分の課題に向き合ってください。欠点克服の努力でもいいし、お付き合いに距離を取るのでもいい。方法はいろいろある。


 繊細さん。Highly Sensitive Person(ハイリ―・センシティブ・パーソン)のことです。病気じゃなくて、そういう性質であるってこと。自分の性質を知って、対処法を自分で見つけ出すための本がたくさん出版されている。

 これも「わたしHSPなので配慮してくれます~?!」って周りの人に訴えるのは、使いかたが違う。自分が繊細さんかもと思うなら、繊細な自分でも今の社会で生きていけるような方法を考えなきゃいけないでしょう。他人を思うように動かせるはずがないんだし。「わたしは○○って刺激が苦手なので、そこ()()手助けしてもらえませんか?」という要望なら構わないと思う。


 自分の取扱説明書を作るための足掛かり、です。自己肯定感(自己受容)もアドラー心理学も、ほかのあらゆる心理学も哲学も、そういう面があると思います。「60点の自分でも生きていていいと思いながら生きていく」ため。少しでも生きやすくなるためのヒント。


 だから手に取ることは、流行(はやり)(すた)りは関係ない、と思うんですよね……。流行っていないから無価値であるって理屈もおかしいし、流行が終わったからって思想まで終わったわけじゃないし。まあ余計なお世話だったのでしょう。もう流行ってない、って言葉で他人の提案を断る価値観は、わたしとは違うので仕方ない。同じように、ちょいちょい話が通じないところがあったので、その人との縁は切りました。わたしにはちょっと無理だった。きっとあの人と相性のいい人がどこかにいるでしょう。わたし以外のだれかと幸せに暮らしてください。その人と話している間、わたしはストレスMAXでした、ムリ。



 あ、自己啓発本の流行、発達障害もあったな……。

 日本人、型に嵌めるのも型に嵌まるのも大好き過ぎません……? 鋳型の歯車は資本主義社会の利益追求に使いやすいですよ、社会がそれを求めるのは仕方ないんでしょう。でもその歯車は、人間だよ……。同じ人間なんて世界に誰一人存在していない。

 発達障害も繊細さんも、長い間社会の中の一員だったはずです。他人を非難すれば自分の首が絞まる。巡り巡ってその人も非難される立場になる可能性があります。

 自己肯定感もアドラー心理学も、他人を声高に非難する声が極めて小さかったなら、取り沙汰されることのない考え方かもしれない。「あなたの××って欠点のせいでわたしが迷惑を被った~!」って叫ぶ人、自分は100点のつもりなんでしょうか。同じ共同体の中で息をしているのだから、行動してもしなくても、誰かの迷惑になっているかもしれないし、誰かしらのフォローで気持ちよく生きているって想像しないんでしょうか。完全自給自足の日本人なんていないよ。


「他人に非難され、虐げられ、苦しい思いをしてきた。だから他人を苦しませたい」

 それは詭弁です。「あなたはいつでもその悪癖をやめることができる」というのが、アドラー心理学の考え方です。まあ究極的にはという意味であり、理想です。最初の一歩はなかなか踏み出せないし、究極の理想へたどり着く道のりも遠い。自己弁護して「他人を非難せざるを得ない、不幸な自分」であり続ける方が楽です。しあわせになる勇気を振り絞るよりも、ずっと楽です。

 だから、アドラー心理学の実践はとても難しい。理解するのも難しい。

 けれど、価値はあると思う。


 よくわからんと思った方は、ご自身で本を手に取ってみてください。


「わたしは受けつけない」と「だからあなたが変わるべき」は、わたしの中ではつながるものじゃないんだけど、世の中では割とこれ、つながってます…?


「わたしはわたしであることをやめられないので、あなたはあなたのモットーで生きればいいじゃない?」と思っています。つまり「あなたはあなたのモットーで生きればいいけど、わたしにあなたの価値観を強要してくるな、さよなら」っていうのが本音なわけです…。

自分の世話で精一杯なんだよ、他人を傷つけないですむように距離を取らせてくれよ…。(←アドラー心理学どこ行った)

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