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最終章
気が付くとタイマはコンクリートの道路の真ん中に突っ立っていた。
見覚えのない場所だ。
ここはどこだろうか。確か自分は水爆を受けて――それからどうなった?
きょろきょろと見回して、辺りの様子を伺う。前方には交差点。向かって右側には十二、三階建てのビルが建っていた。雰囲気からしてマンションだろうと考えられる。左側には妙な店があった。入り口とみられる扉の上に、オレンジと赤の「7」という数字に、ELEVENという英単語が乗っかっているロゴが見えた。
「はて、ここの店主はよっぽどのバカのようだな。7なら普通、SEVENだろうに」
独り言を言うと、その声がひどく響いてタイマは思わず自分の耳を押さえた。耳朶と手のひらが触れ合うがさがさという音さえも、ひどくうるさく聞こえる。何故か? 周囲が無音だからだ。音を立てるものは、自分の他誰もいない。タイマは嫌な予感を確かめるようにもう一度辺りを見回した。道路に車はない。店に客はいない。店員もいない。単に人気がないというのではない。誰もいないのだ。空では死んだような太陽が薄ぼんやりとした光を放っている。
タイマは助けを求めるように左手の甲を見た。だがそこにPDAはなかった。
「誰か。誰かいないのか」
囁くような声を投げかけてみる。それから急に心細くなり、タイマは大声で叫んだ。
「誰か!」
ただ山彦が返ってくるばかりで、答えはやはりなかった。タイマは深呼吸をひとつすると、不安を振り払うように走り出した。
交差点に出る。そこで再び周囲の様子を確かめる。左右に広い道路が走っており、その周囲にはマンションやオフィスビルが建ち並んでいた。その景色はまるで二十世紀のようだった。映像資料やゲームの中で見たような世界が、今まさに目の前に広がっているのだ。それにしても、いったいどんな因果でこんな場所に立っているのだろうか。考えてもわかりそうにないので、周囲の景色の観察を続ける。左奥に見えるのは高速道路の陸橋だろうか。反対の右奥には……。
目をこらすと、誰かの背中が見えた。
途端にタイマは夢中で駆け出した。やはり誰もいないわけではなかったのだ。とっ捕まえて、どんな情報であれ聞き出さなければ。
近づいてみてわかった。それは《灰色之者》だった。
《灰色之者》はゆっくりと歩いていた。
「おい、ここはいったい何なんだ。気が付いたらここにいたんだ。何か知ってることがあるんだろう?」
タイマは《灰色之者》のローブの肩の部分を掴んで問いかけた。だが、《灰色之者》は彼を無視し、目線をこちらに向けることすらしなかった。その者の目は特定の目的地を見据えているように見えた。だがその目線を追っても、遠く遠く道路が続くばかりだった。
「何故俺とあんたはここにいるんだ。答えてくれよ」
《灰色之者》の肩を掴んで揺さぶったが、やはり何の反応もなかった。前に立ち塞がって、その歩みを妨害しようとしたが、《灰色之者》は歩みを止めようとせず、タイマはまるで発泡スチロールの箱のように容易に、その動線から押しのけられてしまった。
「どこへ向かっているんだ。何を求めているんだ」
《灰色之者》はまた一歩、歩みを進める。歩みはのろいが、着実に前へ進んでいる。
「答えろよ!」タイマは叫ぶ。「俺は……俺はここにいるんだぞ! なあったら!」
またも、無視。
タイマは力なく笑い始めた。それから、《灰色之者》を含め誰も聞いていないのだから、何をするにしろ気兼ねする必要はないということに思い至り、タイマは喉を震わせて笑った。ひとしきり笑った後、タイマは寂しげに呟いた。
「いいさ。おまえにどこか行きたいところがあるのなら、俺が送っていってやるよ」
それからというもの、タイマは《灰色之者》の隣に並んで、ゆっくりと歩を進めるようになった。
自分たち二人を除いて何も動くもののない、太陽すら静止しているこの世界では、時間の感覚が麻痺してしまう。
さて、二人で何日歩いた頃だろうか。タイマは空から落ちてくる何かを発見した。それは黒くてDゲートのように薄い、十センチ四方程度の黒い板だった。
「おい相棒、あれを見てみろよ」
タイマは《灰色之者》の肩を揺さぶって、それを指さしてみせた。板は花びらのようにひらひらと舞いながら、ゆっくりと降りてきた。タイマがそっと手で掴むと、それはたちまち雪のように溶けて消えてしまった。
「溶けてしまったぞ。こりゃあ愉快爽快奇々怪々だな。おい、おいったら」
タイマは反応を示さない《灰色之者》に何度も呼びかける。その途中で、タイマは急に真顔に戻った。
「そっか、そういやおまえ、こういう冗談は好きじゃなかったんだっけ」《灰色之者》の横に立って頭を下げる。「悪かった。この通りだ。許してくれ」
《灰色之者》は許してくれたように見えたので、タイマはおおむね満足して再び元の位置に戻った。
「あー、さっきのもう一度降ってきてくれないもんかなあ」
それからやがて一年が経過した。
二人は相も変わらず歩いていた。
タイマの祈りが叶ったのか、黒い板の数は日が経つごとに次第にその量を増してきた。黒い板はタイマの手に触れるとたちまち溶けてしまうのだった。その儚さがタイマにある種の笑いをもたらした。その気になればタイマは黒い板を捕まえることでいくらでも退屈を凌ぐことができた。
行程はといえば一年も歩いたというのにあまり進んでいなかった。せいぜい百メートルといったところだろう。
原因は《灰色之者》にある。《灰色之者》が一歩歩くたびに、歩幅が少しずつ少しずつ短くなっていっているのだ。《灰色之者》は確かに足を上げ、前に踏み出している。それなのに、道路が延々と引き延ばされているかのように、前へと進めない。
それでも、足を踏み出し続けるのをやめない限りは、どこまでだって行けるはずだと信じて、タイマは《灰色之者》の一挙手一投足を見守り続ける。
そうしていつの間にか一万年が経っていた。
黒い板がそこらじゅうを飛び交い、そのせいで数歩先すらよく見えない。左右にどんな建物が建っているのかすら、ぼんやりとしていて判別がつかなくなっていた。こうなるともう、手に取って溶かして遊んでいる場合ではなかった。
それでも……何も見えないとしても、きっと今頃は、自分たちは見たこともないような場所を歩いているのだろう。これだけ長いこと歩いているのだから。タイマはそう思って微笑んだ。
「そういえば、結局おまえ、どこに向かってるんだ?」タイマは無聊を紛らすため、相棒に気さくに話しかけた。「いい加減、教えてくれたっていいじゃないか」
返事を期待して訊いたわけではなかった。
それなのに、若々しい声で、返答があった。
「……お母さんのところ」
それを聞いてタイマは危うく飛び上がりかけた。
「げ、幻聴か。いや、違う。今の、おまえが言ったんだよな」
「バカじゃないの」
「やっぱり、そうか」
一万年の歳月すら報われるような、静かな幸福が心の奥底から湧き上がってくるのをタイマは感じていた。涙さえ浮かべて、タイマはそっと《灰色之者》に声をかけた。
「こうして話すのは初めてだよな、確か。俺はタイマ。おまえは?」
「名前? ……名前なんてどうでもいいじゃないか」
「なるほど、それもそうか」にっこり笑って、タイマは手を差し出した。「ほれ、握手だ」
《灰色之者》は手を差し伸べかけて、それからすぐに引っ込めた。見渡す限り漆黒の世界の中で、しわひとつない、死体のように白い中性的な手が、タイマの視界に一瞬だけ映った。
「お母さん、早く会えるといいな」
「……うん」
「おまえのお母さんって、いったいどんな人なんだろう。俺も会ってみたいな。それでもいいか?」
「……まあ、構わないけど……タイマなら」




