壱ノ七 少女は落涙する。
マリアマリアとバルトロメは、遂に竈の前にまで辿り着いた。
この台所に足を踏み入れ、全体を見回した時に、もっとも違和感を覚えた場所。
もっとも、異常を感じた場所だ。
周囲には大きな寸胴鍋が転がり、中身がぶちまけられていた。転がる刻まれた各種野菜に肉。ボルトン農場の食事は、随分としっかりとしていたようだ。
ここにこうして鍋が転がり、ぶちまけられているということは、ここでも争いがあったという証拠だ。その際に、竈から落とされたのだろうから。
それとも、料理女の誰かが、犯人に煮えたスープを浴びせようとでもしたのだろうか?
とにかく、これらのことからも、竈の上にはもはやなにも載っていないのが当然のハズだ。にも関わらず、竈の上にはよく磨かれた、綺麗な寸胴鍋が載っていた。
しっかりと閉じられた蓋。そしてその蓋のつまみの上に、絶妙のバランスで載せられたお玉。
ここで暴れていたのなら、絶対に落とされているハズなのだ。だがお玉はそこに載っていた。
まるで、そここそが、自分の正しい居場所であると主張しているかのように。
「……男爵様、やっぱりおかしいわよね、これ」
マリアマリアがお玉を睨みつけながら云った。
「えぇ、無事であること自体がおかしいです。おそらくは調理台と同じ、ということでしょう」
バルトロメが答えた。それは、マリアマリアが考えていることと一致する。
だが、これは鍋だ。
鍋がなんに使われるかなど、決まりきっている。調理に使うか、子供が兜代わりに被るかのどちらかだ。そしてこのような巨大な鍋は、兜代わりにするには不向きである。
マリアマリアは大きく息をついた。
ロクなことが頭に浮かばない。そしてそれは、おそらく真実なのであろう。
もう一度辺りを見回し、マリアマリアは足元に転がっている踏み台ではなく、少し先に倒れている椅子を運んできた。
バルトロメが慌てたが、この酷い足元の有様に、マリアマリアが手伝おうとする男爵を押しとどめた。
竈の前に、背もたれを鍋の側に向けて椅子を置くと、マリアマリアは椅子の上に登った。靴のまま登るのは気が引けたが、この状態の場所で靴を脱ぐ気にはさすがになれなかった。
踏み台の高さでは届かなかったであろう鍋の高さに、なんとか届く。これで、鍋の中身をのぞき込むことはできるだろう。
少女はそっとお玉を手に取ると、それを男爵に渡した。
男爵はお玉を恭しく受け取った。その光景は、傍から見ればひどく滑稽にみえる。
なにしろ、渡しているモノはただのお玉なのだから。
ふっと息を短く吐くと、マリアマリアは意を決した。
手を伸ばして鍋の蓋をとり、中を覗き込んだ。覗き込み、まるで仰け反るように慌てて鍋から身を起こすと、手にしていた蓋を戻した。
がちゃん! と、音を立てて蓋をしたことから、この状況に一切動じていなかった少女がどれだけ慌てているのかが伺えた。
その少女の様子に、バルトロメには察しがついた。ついてしまった。
その鍋の中身が、いったいなんであるのかを。
男爵の口元が知らずに引き攣れた。
「男爵様」
抑揚のない声で少女が呼んだ。
「なんでしょう? 使徒様」
「被害者たちの身元確認って、どうするのかな? ボルトンさんはロンバルテスの街にいるんでしょう?」
鍋をぼんやりと見つめたまま、少女が問うた。
「昨年、臨時雇いとして作付けに来ていた農夫が、我々と共に来ています。いまは馬車で待機させていますが。なんでも、料理女のロレーナと仲が良いとか」
男爵の答えに、少女は額に手を当て俯いた。
「あぁ、結果は最悪でしかないわね……。男爵様、確認と記録の取れた遺体を一ヵ所に集めてください。鎮魂の儀を行ったあと、荼毘に付します」
急に丁寧な口調となった少女に、男爵は戸惑いをみせた。
「使徒様?」
「なに?」
「遺体を焼くので?」
男爵の問いに、マリアマリアは振り向いた。
「えぇ、理由はあるわよ。不死の怪物化の予防、及び疫病発生の予防。遺骨を納めるための壺は沢山もってきたから、問題はないわ。
できるだけ急いで」
そういって、再び鍋へと向き直る。
「最悪よ。これを引き起こした犯人はとんでもない化け物へと変貌しているわ。ここまで派手に、隠すことなくやっているのよ。きっとこれからはさらに大胆に人を殺す。早急に後を追わなくてはいけない。でも、その前に被害者たちを弔わないと」
被害者を調理して食うとか、巫山戯ないでよ。なんでなんの兆候もなしに、ここまでイカレタ方向に成長しているのよ。いくらなんでも早すぎるわよ。
歯を食いしばり、ブツブツと呟く少女の声が聞こえた。
「直ぐに準備いたします」
男爵は、慌てて姿勢を正し敬礼すると、即座に台所から出ていった。
お玉を手にしたままであることからも、男爵も相当に動揺していることが伺えた。
異常な殺人。もたげる嫌悪感。認識の改変。男爵の精神へのストレスも相当なものであったに違いない。これが魔物による犯行であれば、割り切れたであろう。或いは、犯罪組織による見せしめの遺体であったなら。
魔物の本能、人に悪意には、男爵も仕事柄慣れている筈だ。
だが、ここで行われたのは、単なる個人的趣味嗜好によって引き起こされたものだ。
理解の範疇に無いものに長時間触れることは、じわりじわりと自身の常識を殺すのだ。
そろそろ男爵は、このイカレタ場所から、まともな世界へと帰る頃合いだ。
深くため息をひとつつくと、マリアマリアはノロノロと椅子から降りた。そしてその途中にそれに気が付いた。
竈の端に置かれた、匙の乗った皿。
犯人の、食事の跡。
鍋の中はロクでもなかった。乱雑に刻んだ野菜が浮かぶスープの中に、ぶつ切りにされた、見つからなかった最後の脚に、心臓と肺臓。そして脳が放り込まれてあった。
犯人は農場の人間を皆殺し、解体し、調理し、そして食った。
あぁ、そういえば、いつもいつもひとりは連れ去っているのだ。そのひとりの目の前でその工程を行ったのか? まさか食べさせたりしたのだろうか?
ロクな考えが浮かばない。
男爵様を戻したのは正解だったかしらね。あまりに自身の常識から外れたモノは、精神に悪影響でしかないもの。
人間という生き物に、幻想を持ってはいけない。
それは使徒となって、もっとも思い知ってきたことだ。人がどれだけ醜く、浅ましく、そして身勝手であるのかは嫌という程見てきたのだ。そしてそのことを自覚していない人が皆、酷く善良であることも知っている。
だからこそ、知る必要のないことは、知るべきではないのだ。
平穏であるために。
マリアマリアは頭を振った。
余計なことは考えない。逃避は無駄でしかないし許されない。
ぎしりと音が鳴る程に歯を食いしばると、少女は台所の最後の場所へと進んだ。
食糧庫の扉。
恐らくはきっと、ここがそうなのであろう。
両開きの引き戸の前にたつと、取っ手を掴み勢いよく開けた。
明り取りの窓からの光の中、チラチラと輝くように埃が舞う中、彼女たちはいた。
正面に設えらた棚に、逆光の中、彼女たちは並んでいた。
ひとつはしっかりと正面を向き、ひとつは傾き、隣の、同じく傾いたそれと支えあうように、そして四つ目はやや俯き加減に置かれていた。
四人の、この台所で働いていた女たちの首が並び置かれていた。
そして最後のひとりは足元に転がっていた。
右頬に酷い刀傷があった。恐らくは、仕損じ、顔面に刃物が当たったためだろう。そのため、廃棄されたのだ。作品にならないと。
だから、頭を割り、中身を取り出したのだろう。
食材とするために。
涙が零れた。
少女はきっと口元を引き結んだまま、辺りを見回す。
無造作に投げ出された小麦や豆の袋。調味料の壺。保存食である各種瓶詰。籠に詰め込まれた野菜。肉関連は、きっと氷室にでも保存してあるのだろう、ここには見当たらない。
ここでは争いはなかったようだ。犯人は邪魔な袋を棚から放り出しただけなのだろう。
ただ、首を並べるためだけに。
最後に、少女は振り向き、それに気が付いた。
引き戸に血文字で記されたそれが、否が応にも気が付いた。
『実験』
これまでの殺人事件と同様に、その単語が血で記されていた。
ただ、その赤黒い文字だけが、酷く丁寧に、記されていた。