弐ノ四 娘子は証言する。
エレンは汗のベタつく不快さに目を覚ました。
体がだるい。口の中が粘っこい。頭がギシギシする。
不快さに辟易としながらもベッドに身を起こし、サイドテーブルに水差しからコップに水を注ぐと、口へと運ぶ。
半分ほど飲み干し、エレンはほっと息をついた。
少なくとも口の中はマシになった。
頭痛は、夕べよりは大分良い。まだじんわりと痛み続けているけれど。
吐き気も納まってはいるが、気分がいいとは到底云えない。
あぁ、薬を飲まないと。
溢さないように紙の梱包を丁寧に解き、粉薬を口に流し込む。
苦い。
その苦みに顔を顰めつつ、残った水で薬を胃に流し込んだ。
ふぅ。ともう一度息をつく。
薄暗い部屋。だが灯りを点けているわけでもないのに、しっかりとあたりを見て取れる。壁の隙間から漏れ入る光が、わずかながらに部屋を明るくしている。
あぁ、もう朝か。
お母さんはもう仕事に行ってるみたい。でも、静かだ。
エレンはぼんやりと考える。
きっとまだ母は仕事にでたばかりに違いない。農場で一番朝早く起き、仕事を開始するのは台所の女衆だ。次に仕事に出るのは、豚舎の豚たち世話しているアントニー親子。彼らの早朝の仕事が終える頃に朝食ができあがり、その頃に他の皆が起きだし農場は本格的に一日の始まりとなるのだ。
エレンはベッドから降り、立ち上がる。ふらりと軽く立ち眩みを起こしたが、転倒することはなく、サイドテーブルに手をつき体を支えた。
季節外れの風邪は、彼女を酷く弱らせていた。
微妙に云うことを利かない体に、エレンはげんなりとする。
もう少しまともに動けば、台所仕事に行けたのに。いつもみたいには動けないけれど、野菜の皮むきくらいは出来たはずだ。あぁ、でも、帰って寝て、風邪をとっとと治せとみんなに云われるかな。
よくよく考えたら、母のエミリアが私に付き添って部屋まで送り届けるだろうから、返って迷惑になるか。
台所を取り仕切っているエミリアが抜けると、途端にいままで円滑に回っていた台所はガタガタになるのだ。司令塔のいなくなった台所は、まさに混乱の極みだ。
よろよろとした足取りでと箪笥へと向かう。
寝汗で躰と顔のべたつきが気持ち悪い。顔と体を洗いたい。いや、洗うのは無理か。下手をすると風邪を悪化させる。でも、せめて濡らした手ぬぐいで体を拭いたい。
箪笥から手ぬぐいを出すと、今度は扉へと向かう。
井戸まで行って、手ぬぐいを濡らして、あぁ、そうだ、催してはいないけど、用も済ませてしまおう。
そんなことを考えながら、エレンは部屋の扉を開けた。
早朝の、まだ肌寒い空気が体を包む。一瞬ブルっと震え、エレンはぎゅっと目を瞑った。
寒い。
フラフラと部屋から出、目の前の手摺に掴まる。ここ母屋の二階から井戸にまでいくには、少しばかり歩く。いまの状態を考えると少しばかり憂鬱だが、このまま不快な気分のままでいるのはもっと嫌だ。
ひとつ息をついて、正面の広場に目を向ける。
え?
広場のほぼ中央に、人がふたり倒れていた。
それは、遠目にも誰であるのかがわかった。
エレンは慌てて階段を降りると、そこへと向かった。
倒れていたふたり。
それは見間違いではなかった。
それは弟のように可愛がっていたアレン少年と、大好きな母。
「嘘、お母さん? なんで……」
半ば放心したように、エレンはペタンとその場にへたり込んでしまった。
服を真っ赤に染め上げ、仰向けに倒れている母親。
開いたままの目は虚ろで、呼吸はしていない。
死。
それを理解し、エレンの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
五年前、ミラクスへと引っ越す途中、魔物に襲われ、自分たちを護るために父は命を落としてしまった。あの、大きな犬の魔物を道連れにして。あれからずっとふたり切り。そしてやっとこのボルトン農場で、幸せになれると思っていたのに。
あぁ、自分はもう、ひとりぼっちだ。
もうひとり、母の傍で倒れている少年に目を向ける。
自分に懐いている、まるで本当の弟のように思っている男の子。
エレンはぶるぶると頭を振り、気持ちをしっかりと奮い立たせた。
逃げなきゃ。
エレンはノロノロと立ち上がると、アレン少年の状態を確かめた。
よかった。息はある。気を失ってるだけみたい。
エレンは決意し、表情をを引き締めると、変わり果てた母親に向き直った。
「お母さん、ごめんね」
母に、弔うことができないことを詫び、エレンはアレン少年を担ぎ上げると、厩に向かって歩き始めた。
体調は悪い。だがそんなことは構っていられない。無理矢理にでも脚を動かす。
母を殺した奴が農場にいる。騒ぎになっていないのもおかしい。犯人は誰? 昨日、ふらりとやってきたあの旅人?
ううん、そんなのはどうでもいい。逃げるんだ。街まで逃げて、助けを求めよう。
大好きだったお父さんが、自分の命を引き換えにして助けてくれた命だ。
簡単に殺されてなるものか。
ふらりと挫けそうになる足を、気持ちで無理矢理奮い立たせ、エレンは厩へと急いだ。
なんとか厩にまで辿り着くと、エレンはアレン少年をその場に寝かせ、隣接する物置へと入った。
物置には馬の世話に必要な各種道具に馬具が置かれており、奥には飼葉も積まれていた。
鞍に鐙に手綱。必要なものを用意――
「あぁ、エレン、ここにいたのか」
聞きなれた声に安堵し振り向き、そして顔を引き攣らせた。
そこには、アレン少年の父親であるアントニーが立っていた。
ぽたり、ぽたりと血を滴らせる大振りの牛刀を手にして。
全身を返り血で朱に染めて。
「お、小父さん?」
エレンの声が震える。
な、なんで? アントニー小父さんが殺したの? なんで? どうして?
なにが小父さんを狂わせたの?
あの男のせい?
あまりのことに、エレンは尻餅をつくように、その場に座り込んでしまった。
足が竦んで云うことを利いてくれない。
なんとか、両手を使ってじりじりと後退る。
だが、逃げ場なんてどこにもない。
「あぁ、エレン、怖がることはないよ。大丈夫、君が最後だ」
普段のような調子で云い、アントニーが歩いてくる。
ゆっくりと、その手の牛刀を振り上げながら。
エレンは尻餅をついたままズリズリと後退る。
後退さり、そして何かが手に当たった。
エレンは確かめもせず、手に当たったそれを掴むと、目をぎゅっと瞑って正面に突き出した。
力の限りに突き出した。
直後、両手に感じる、鈍い感触と重み。
そして振り下ろされない、アントニーの牛刀。
エレンは恐る恐る目を開けた。
エレンが手に取ったのは、飼葉を馬たちにやるときに使うピッチフォーク。その四本の鋭い爪がアントニーの胸を、その爪の一本は心臓を貫いていた。
アントニーは振り上げていた牛刀を落とすと、がくりと膝をつき、ピッチフォークを突き立てたまま仰向けに倒れた。
「ひ……」
アントニーが倒れるに合わせて、手からピッチフォークが離れる。
そのあまりのことに、痙攣したような笑い声がでそうになったエレンは慌てて口元を抑えた。
だが初めて人を、それも親しい人物をその手で殺めた少女は我慢できず――
吐いた。