※※※ 娼婦は失せる。
娼婦がひとり、行方不明となった。
人がひとり行方不明になる。などということは、さして珍しいことではない。それが娼婦であるなら猶更だ。引っ掛けた客がイカレていれば、それだけで人生が終わるのだから。
だが今回は違った。
行方知れずとなった娼婦は高級娼婦。主に貴族を客としていた娼婦であり、娼館ムスクローズの経営者でもあった。
ソフィア・メユール。
彼女が行方不明になったことにより、貴族間において酷い混乱が起きたのだ。
彼女が商品としていたのは、娼婦の多分に漏れずその躰だ。だが、高級娼婦ともなれば、躰だけでなく、美貌、知性、そして知識も求められるものだ。
夜は長い。事が終わっても、ベッドの上で会話を愉しむのも仕事のひとつだ。
そしてそれこそが、彼女の武器である付加価値であった。
ベッドの上では口は軽くなる。快楽に程よい疲労感があわさるのなら、それは猶更といえよう。もちろん、娼婦たちの話術に言葉を引き出されてもいる。
そして得られる情報。
敵対派閥の情報、貿易など商売の情報、隣国の軍事情報、労せずして機密情報がソフィアの下に集まるのである。
だが、それを扱うのはソフィアだけだ。彼女の下で働く娼婦たちは、そういった情報を集めるだけ。それらを客に流すことはしない。
娼婦は情報屋ではない。故に、それで商売はしない。そうしなければ、本職の情報屋と戦争状態になってしまう。
だから仕事の後、ほんのちょっと話をするのだ。そう、世間話を。
それはそれは、その客である貴族にとって、とてもとても有用なお話を。
断言するような言葉は使わず、何事もほのめかすかのように。
だが話す内容を正しく判断し、選べるのはソフィアだけだ。残念ながら頭が良いとはいっても、彼女の配下の娼婦たちは、そこまで賢くはなかった。
魔窟である貴族間抗争における、情報戦の要となっていたソフィア。
国王ですら、その正確な情報を頼りとしていた彼女が行方不明となった。
これが問題だった。
ソフィアが消えたことにより、これまで不思議と混乱なく動いていた貴族間抗争に、歪みが生まれたのだ。
誰が殺した。誰が軟禁した。誰が――。
対立している貴族間だけでなく、同じ派閥内であっても疑心暗鬼に陥っていく。
そして遂には、互いに暗殺者を差し向けはじめる事態にまで陥ったのだ。
この事態に国王は頭を抱えた。
たったひとり。たったひとりの女が行方不明になっただけで、表立ってはいないものの、ほぼ内戦状態と云っていい状況になったのだ。
国王は直ちに配下の密偵たちを、ソフィア・メユールの捜索、調査に向かわせた。
だが、彼女を発見するには至らなかった。
とはいえ、彼女が最後に向かった場所については、突き止めることができた。
アロンゾ・ガルバーニ。
貴族をはじめとする、金持ち連中に怪しげな薬を売っている錬金術師だ。
この男の売る美貌薬。不老の効果はないものの、若い姿を保つことのできる薬だ。アロンゾは不老の効果はないと触れ込んではいたが、実際には飲み続けることで十数年の延命効果が見込まれることが確認され、一部の貴族が購入の専属契約を結んでいた。
取引をしていた者たちとアロンゾとの関係は良好で、またアロンゾの評判もよかった。だが、彼の住む地域の一部からは不穏な通報が相次いでおり、近く警吏が治安維持隊を伴って、彼の館を家宅捜査することになっていた。
通報の内容は、夜な夜な彼がシャベルを片手に大きな荷物を担いで、近くの森へと足を運んでいるというものだった。通報者の中には『あの荷物には死体がはいっているんだ』と云い張るものもおり、その通報の多さから放置することができなくなったという。
行方不明となったその日。ソフィアはアロンゾの館にて、彼と会っていたというのだ。
国王はただちに部隊を編成し、警吏と共にアロンゾの館へと差し向けた。
アロンゾの館は街はずれに建てられており、そこは件の森の外縁部に隣接していた。警吏がドアノッカーを乱暴に叩くと、小太りの中年女が扉を開け、警吏たちを目にするや小さく悲鳴をあげた。
女は通いの家政婦で、週に二度、玄関周りと台所、便所の掃除、そして食料品の買い出しを行っているとのことだった。主に蕪と肉を。そして、台所と便所以外の部屋には入ったことがないという。
もっとも、入ろうとしても、しっかりと施錠されているため、入ることなどできなかったらしいが。
そして当のアロンゾは留守であるらしい。らしい、というのは、家政婦がアロンゾに会うことは稀で、また玄関と台所以外を確認できなかったからだ。
だが、いつもは用意されている食料補充のための金銭と日当が、今日は用意されていなかった。そのことから、アロンゾは留守であると思われた。
引き続き台所で警吏が、家政婦から事情聴取をすることになり、同行した兵士四名はふたり一組となって、家宅捜査を開始した。
施錠されたドアは破壊することになるが、問題はない。もしアロンゾが潔白であったなら、弁償すればいいだけのことだ。
一組が二階を、もう一組が一階を調べる。そして、すぐに異常は見つかった。
一階応接室。このところの暑さで、すっかり乾きり、カップの底に茶色い染みを残したティーカップが二組乗ったテーブル。そしてすっかり湿気った茶菓子。倒れた椅子。
そしてなによりも、石の床にこびりついた、赤黒いなにかを引きずったような跡。
明らかに、血塗れた何かを引きずった跡。
兵士ふたりは互いに顔を見合わせ頷き会うと、抜剣し、血の跡を辿る。
血の跡は、隣室へと続いていた。隣室の扉は施錠されておらず、簡単に開いた。人の気配はまるで感じなかったものの、ふたりは十分に警戒しながら隣室へと入った。
そこは書斎だった。
しっかりとした作りの机には、無造作に書物が積まれており、壁に作り付けの本棚には、いくつか抜けはあるものの、ほぼびっしりと書物が詰まっている。
血の跡は右側の引き戸へ、クローゼットへと続いていた。
死体がある。恐らくは探している女、ソフィアの。
そんな予感がし、ふたりの兵士は覚悟してクローゼットを開いた。
なにもなかった。
クローゼットの中には何もなかった。
あるであろうと予想した死体はもとより、あってしかるべき衣類の類も一切なかった。
あるのは壁に続き消えている、赤黒い引きずった跡のみ。あまりにも不自然に。
そして、微か鼻につく異臭。
ふたりはほぼ同時に、ゴクリと唾を呑み込んだ。
ひとりが剣を収め、裏板を調べ始めた。そしてほどなくして、裏板をスライドさせ、隠し階段を見つけることに成功した。
成功した、が、途端に異様な臭気がそこからあふれ出た。ふたりの兵士は咳き込み、嘔吐きながら書斎から逃げ出した。
その騒ぎを聞きつけ、二階を捜索していたふたりと、警吏、家政婦が駆け付け、そのあまりの臭気に、慌てて館中の窓を開け放った。
臭気が薄れ、そしてそれに慣れた後、警吏と兵士のひとりが、まるで覆面のように口元にしっかりと、二重に手ぬぐいを巻き隠し通路へと入った。
警吏が【光球】の魔法を使う。掌サイズの光の球が先導するように浮遊する。
裏板を通り抜けたすぐ先には下り階段。血の跡は当然のように続いている。
幅の狭い通路を、警吏、兵士の順で進む。じっとりとした不快な空気の中、階段を下る。
階段を下りきった先、左側に扉がひとつ。どうやらここが臭いの元のようだ。警吏は扉を素通りし、奥の、行き止まりとなっているわずかなスペースに入ると、兵士に扉を開けるよう促した。
危険を鑑みれば、戦闘能力の高い兵士が適任だ。
兵士は剣ではなく、狭い空間でも取り回しのしやすい短剣を抜いた。
そして扉を開く。
たちまちさらに酷い臭気が噴出し、それに加え数匹の蠅が飛び出してきた。
二重の手ぬぐい越しでも気分の悪くなる異臭に、涙が滲み出る。
警吏が光の球を扉の向こうへと送り込む。
扉の向こうは、異様な部屋だった。
もう初夏だというのに、温度は実に快適だ。廊下は蒸し暑かったというのに。なにかしら、魔法的措置がとられているのかもしれない。
正面を見る。そこには得体のしれないものが浮かんでいる巨大な水槽。
右手には簡素なテーブル。なにか、恐らくは肉塊に貫き突き立てられたナイフ。
左手には檻。鉄格子に持たれるように男の首無し死体が転がっている。
肉塊も、死体も、蛆が湧き、這いまわっていた。もちろん、部屋の中は蠅が飛び回っている。
右奥上方に、換気口と思われる、格子の嵌った四角い穴が見える。そこからこの蠅は入り込み、死体を餌に増殖したのだろう。
目に入ったなかで、最も気になったもの。奥の水槽に浮かぶ得体のしれない生物。
胸に大振りな刃物を突き立てられたそれは、人の形をした人でないもの。
半ば腐れ、本来の外見がどんなものだったのかは分からない。
だが頭部は蛇か蜥蜴のようにみえた。蜥蜴人だろうか? だが蜥蜴人は遥か南方、【竜の楽園】か、その近くの島にしか住んでいないハズだ。
次いで、テーブルの上の肉塊。それは心臓であった。すでに蛆に貪られ、原型をほぼ留めてはいないが、それは心臓だった。これを行った者は、よほど恨んでいたに違いない。抉り出した心臓にナイフを突き立て、テーブルに縛り付けたのだから。
そして、檻の中の死体。これも酷い有様だった。
胸を割られ、腹を割かれ、内臓は引きずり出され檻の端に投げ捨ててある。そして空いた腹腔には、切断された首と陰部が放り込まれていた。
眼は抉られ、鼻は削がれ、顔面は酷く切り付けられている。
いったい、どれだけの恨みを買っていたのか。
馬蹄型の髭面。聞いた特徴と一致している。
恐らくは、これがアロンゾだ。
だが、家政婦は週に二度通っていると云った。
そして三日前に訪れた時には、日当と買い出し用の金は用意してあったとのことだ。
だがこの死体の様子からして、殺されたのそれ以前のハズだ。
つまり、三日前まで、何者かがここにいたのだ。殺したこの家の主とともに、何食わぬ顔で。
警吏はこのことに気付き、寒気がした。
誰が殺した相手と、何日も同じ家で過ごそうと思うだろうか?
そんなことをする奴は、頭のイカレタ奴だけだ。
警吏と兵士は地下室を後にした。
ソフィアの捜索に来て、別の事件にぶち当たった。
唯一の手がかりであったアロンゾは殺された。もしや、ソフィアが殺したのだろうか? いや、とてもそうは思えない。殺害後、ここに居続けた意味が不明だ。
ならば、犯人であろう第三者に連れ去られたか。
いずれにしろ、異常な殺人者がいることは確かだ。
自分ひとりでは手に負えない。上の支持を仰がなくては。
だが、賄賂で動く上役連中が、まともに仕事をするのだろうか?
まぁいい。自分の仕事は、王の勅命であるソフィアの捜索だ。
ここの件は、別の連中が担当するだろう。自分の知ったことではない。
警吏は書斎にまでもどると、兵士のひとりを治安維持隊の詰め所へと走らせた。
とにかく現場の引継ぎをし、この場から早く離れたかった。
アロンゾの館の家宅捜索から二週間後。
エレミア王国へとつながる街道沿いの宿屋で、殺人事件が起きた。
そこは国境にほど近い、いわゆる【追剥宿】。
被害者はその宿の主人とその妻。そして客の女、ソフィア・メユール。
そう、ソフィアが死体死体となって見つかったのだ。
それは、あまりにも異常な状況だった。
宿へ入り、まっさきに目に留まる真正面に置かれたテーブル。食堂に並べられた、六卓のうちのひとつ。
その上に、彼女は置かれていた。
洗濯されたばかりのような、真っ白なテーブルクロスの上に、周囲を花で飾られた中に。その中央に彼女の首が置かれていた。
その顔は生前と変わらず美しく、ほほ笑んでいるように見えた。
口元から一筋流れた、血の跡を除いては。
そしてテーブルクロスには、彼女の血で文字が記されていた。
『実験』
ただそれだけが記されていた。