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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

荒野の狼たち

作者: 森 彗子



 目覚めるとそこには、見渡す限りの荒野が広がっていた。


 手を見つめ、指を確かめ、擦りきれた傷から滲む血と、殴打した時の打撲痛と、汚れ具合や痛みを確認する。どうやら昨夜の狂気の余興は、総て現実だったことを思い知るに至る。


 体に力を漲らせて起き上がろうとすると、左側の肋骨から脇腹に激痛を覚え、眉をひそめた。喉の奥で声を止めて、一気に身を起こす。首だけを動かして周囲を見渡すと、男が傍らでうつ伏せになり、寝ていた。息を止めてじっとりと観察するが、呼吸する肺の僅かな上下運動さえも見て取れず、私を不安にさせた。


 チカッと、ほんの一瞬だけ映像が脳裏に過る。


 見ず知らずの私達がしでかした得体の知れない儀式を思い出すだけで、ぶるぶるっと震えが駆け上っていく。だが、どうしても男の顔を思い出せない。顔を確かめようにも、長く伸びた乱れ髪が覆い隠している。そのせいで、目を開けているのか閉じているのかもわからない。草むらを分け入るようにして、生い茂る前髪を指でほどくと、出てきた顔は血の気のない赤褐色の肌に青みがさしたような、やつれた中年男の髭面だった。眉間に深い皺を寄せて、窪んだ両目の周りには夥しい小じわがある。苦悶を浮かべた男の乾いた唇の真ん中に、針で刺せそうなほどの小さな空気穴が開いて、徐々に亀裂が伸びていくようにして口を開けた。その時、微かに呻き声に似た吐息が耳に届いた。大丈夫、生きている。良かった、と一気に緊張が緩んで、溶けた。


 なぜ今、ここにこうして生かされているのか不思議だった。再び仰向けに寝転がり、まだ夜明けには遠い白んだ空にうかぶ雲を見つめる。群青色を水で薄めた光を境界線に、夜と朝が陣取り合戦を繰り広げている。それが希望と絶望のせめぎ合いのようで、涙が溢れた。


 母も兄も弟も、皆仲良くあの世に逝ったのに、私だけが生き延びた。家族の命日を思い出そうとすると、頭の中が霞に閉ざされてしまい、怠さが混じったような寂しさが押し寄せてきて、おもりになる。

 

 気を取り直して、男の頬に手の甲を叩きつけた。目を覚ませ、いつまで寝てやがるんだ。起きろ、目を開けて私を見ろ、干からびてくたばりたくないなら、今すぐ起きろ。


 喉がカラカラに乾いて、声を出すのも惜しくて、ひたすら手の甲で頬を打った。二打、三打と回を重ねると、男は急に身構えて、細目を開けてこちらを睨みつけた。片目だけ大きく開いた瞳の色が青く澄んでいて、西洋人形のようだ。私の顔を見ると、男は眉間に深い皺を寄せた。


「…っくっそう。先を越された」しゃがれ声が喉から絞り出される。


「ねぇ、どうしてこんな辺鄙へんぴな場所にいるの?」


 男は両目を閉じると、弛緩したように皺を全部まっすぐに伸ばした。血色の悪い顔色もすぅと健康そうな色味に変化する。不思議な気分でそれを眺めていたら。


「…そんなことはどうでもいい」と、今度は落ち着いた耳触りのいい澄んだ声で喋った。


 男は手足や体の傷を確認し始めた。ボサボサの髪を後ろに撫でつけ、現れたその顔にざわざわとした胸騒ぎを覚えた。


 昨夜、私が敵に回した男は四人いた。二人は手練てだれで、残りは雑魚ざこ。その男達に守られている標的は、剣を抜くこともなく私を見下ろす。その瞳には、一切の動揺も哀れみなかった。私が誰かもわかっていないようだ。でも、それも最早どうでもいい。こんな身勝手な男に捨てられた家族の顛末など知らせたところで、死者は蘇らないのだ。せめて、愛する母にこの男を差し出してやりたかった。それが弔いになるのか、はっきり言って全くそうとも思えないけれど、他に良い考えが浮かばなかったのだからしょうがない。

 立ちはだかる五人の男を前に、私は先に抜いた細い剣の切っ先を、一番奥に立つ黒服の男に向け威嚇の怒声を振り絞る。それを合図と言わんばかりに、連中は私に向かって剣を抜いた。


 この修羅の道を突き進む直前、私に残された道はふたつあった。男に媚を売り虐げられる女の道と、仇討ちといういばらの道。迷わず後者を選んだのは死ぬためだ。大義をかざして堂々と郷を出る理由に使ったまで。そんな嘘から始まった旅の終わりは、死だ。死に方を選ぶことこそが、生きる道。

 どの道、誰もが死ぬ運命さだめにある。早いか遅いか、意味があるのか、ないのか。欲を言えば、生まれてきた意味を見出したい。


 ゴホゴホと咳をした男は、私の頬に指先で触れてきた。嫌ではなかった。


「…気分は? どこか痛みはないのか?」

「ない。助けてくれたお礼なんて言わないよ。私は、…死にたかったんだから」


「震えて泣いてたくせに、良く言うぜ」と、男は呆れた様子で苦笑いを浮かべた。


 朝日が今まさに顔を出し始め、急速に辺り一面に光線がまき散らされていく。乾いた砂塵に熱が灯され、今すぐ日陰に逃げなければならないと、どちらともなく立ち上がる。


「水の匂いがする。こっちに行こう。歩けるな?」


 軋む身体を引きずるように荒野の中を先導する男の肩は、想像以上に広く見えた。光が当たると、首や腕に無数の刀傷が浮かんで見える。短いが深手を負ったと思わしき爪痕が、右腕の上腕二頭筋を横断していた。細い割に筋肉質で、無駄なぜい肉のない肢体が妙にアンバランスに見えるのは、長過ぎる腕のせい。肩幅が広く腰回りが細い。それでいて太ももが太く、膝から下が細長くしなっている。四つ足の獣を彷彿とさせる骨格。ふと、とある噂を思い出した。


「さっきからジロジロと、俺のケツばかり見やがって。なんか文句あんのか?」


 半分振り向いた男の顔は、その口ぶりとは裏腹にはにかんでいて、なんだか可笑しかった。


「…あんた、この大陸の人間じゃないな。どこから来たの?」

「知らねぇよ」

「なんで知らなんだよ。自分の事なのに」

「知らねぇもんは知らねぇんだよ。俺の事より、お前の方が心配だ。命を投げ出すほど、あの男に恨みでもあんのか?」


 遠慮のない質問に、ため息を吐く。


「だとしたらなに? あんたに関係ないでしょ」


 灼熱が這い上がって来て、喉の奥まで乾くのに、お喋りが止まらないのはこの男のせい。


「関係しちまったじゃねぇか。お前、死ぬところだったんだぞ? それを助けたのは、俺だ。お前の体には俺の血が混じってる。お前は、半分俺になったんだ」


 ―――なんだって?


 男は顔だけこちらに向けて、切れ長の大きな瞳で私をまじまじと眺めた。


「そうそう、断っておくが物忘れが酷くなる一方だぞ。嫌なことから忘れていく。自分がどこの誰とか、ろくでなしの親の顔も声もな。急ごう。とにかく今は日陰に逃げる」


 そう言った男は、それきり喋るのを止めた。地平線に蜃気楼が浮かびあがり、太陽はじっくりと、それでいて素早く天道を駆け上がっていく。気温と共に体温が上昇し、身体中の毛穴から汗が噴き出し始めた。


   *


 ――― 参ったな、こりゃ。


 勢いを増す熱量に押しやられるように日陰を求めて、街道にほど近い緑地に向かって直線に進むことにした俺は、後ろをついてくる少女に気を配りながら歩調を合わせる。狼狽えていたとはいえ、とんでもないことをしでかした気分だった。彼女は死ぬ運命だった。それなのに、俺が気まぐれにそれを変えてしまったのだから。


 本来、そこに居てはいけない存在などこの世にはいない。だが、自然の法則を無視した存在ならここにいる。

 それが俺。我に返った時、このくたびれた顔と身体に宿っていた。そこで親切な誰かが傍へ来て壱から十まで説明してくれるなら良いが、そんなわけもなく。突然、この荒み切った世界に放たれ、荒野を彷徨う羽目になっちまった。俺を知る人が誰もいない世界で、名前も国籍も年齢にも縛られない自由な人生。だが、しばらく放蕩すると、運悪く厄介事に巻き込まれて俺は切られた。女の旦那は隠し持っていた刃渡りの長い剣を、情事の真っ最中に背中から突き立てた。腹上死なんて大歓迎だ、なんてことを思いながら昏倒して、次に目覚めたら女の裸の死体と共に土の中に埋められていた。まだ柔らかい被せた土をかき分けて這い上がると、雨季の大雨が降り出した。黒雲に稲妻の閃光が美しく、傷も血も元通り。そんなあほみたいな日々を俺は何度も繰り返した。


 退屈は人を殺す。それを聞いた時は笑い転げたものだったが、時間が経つにつれて全く持って面白くもなんともなことに気付いた。俺は不死身。腕を切ろうが、心臓を抉り出されよううが、ミンチにされて湖に蒔かれようが、翌朝は全部元通りになる。 どんな力が働いて、そうなるのか俺自身にもわからない。夫婦になろうと誓い合った女も、俺の隣で枯れ枝のように老いていった。いつまでも変わらない俺を、当時の近所連中は恐れるようになった。妻は死に、墓を守ろうとも思ったが、百年に一度の大洪水に流されて村も人も墓も消えてしまった。それでも俺だけはこうして残ってしまった。


 そこで俺はありとあらゆる死に自ら飛び込んでみた。思いつく限りの死を体験した。身体を損傷させるような、残酷な死だ。そして朝になると決まって何事もなく目覚めてしまう。全てが夢だったかのように、現実味を失って記憶の海に撹拌されてしまう。俺はある時、小さい脳みそで必死に考えた。二度と復活できない死を探し求めて、活火山の火口に身投げを決行したこともある。赤々と燃える溶岩の川に飛び込む時には、かなりの勇気が必要だった。世界に別れを告げ、熱風が吹き上がる巨大な穴に降りていく。熱を浴びているだけでも皮膚が乾いてペラペラの紙のように剥がれ出し、風に飛ばされて塵に還っていくような壮絶な死に舞台で、俺はとうとう死ねるのだと確信したのに。せり出す岩場で両手を離して赤いマグマに堕ちたのに。無情にも俺は、朝日の中で目覚めた。火山の火口の前で。

 そうまでして死ねないのだから、俺は不老不死、不死身なのだと、漸く悟りに至った。


 生命の死という法則から自由なのだと知った後で、忘れっぽくなっていることに気付いた。朝が来て目が覚める度に、自分が何者だったかを考えることもなくなって、ただその日その日を生きる獣になり果てた。生きる場所も街ではなく、荒野へと移り変わった。人間達の中にいると、気付く奴が絶対にいる。ベッドも屋根もいらない、焚火と枕があればどこだって快適だ。時々、道に迷って飢え死にした命を頂きながら、俺の魂は満たされることのない三日月のように飢えて、突っ立っているしかなくなっていた。


 そんな俺が、不思議な予感に誘われて、久しぶりに街へと足を向けた―――。


 男装の少女は、あまりにも無防備で向こう見ずだった。大人の男相手に喧嘩を売り、剣を構え、聴き取れない叫びを狂ったようにまき散らしながら、あっけなくはじき返された。俺の身体は勝手に動いていた。


 素手で剣を受け、薙ぎ払い、血まみれの少女を抱き起す。まだ命は消えていないことを確かめた後、俺は久しぶりに本気を出して連中の喉笛を掻き切った。三人殺して、二人取り逃がした。奴らは物珍しい生き物を見るように、遠巻きに俺達を眺めていた。でも、俺はそれよりも少女の容態が気になった。抱き上げた身体は冷たくなっていく。どうにも見過ごせなくて、俺は夢中になって少女から溢れ出る血を飲んだ。


 血を飲めば、記憶の川が見えてくる。少女の思い出が、生々しく俺の中に沁み込んで、いちいち感情を揺さぶられた。


 死が迫っていた。俺には手に入らない死が、少女の命をもみ消そうと迫っていた。俺は死神を払い除けようと、自らの手首を食いちぎって大量の血を口に含んだ。そして、少女の唇から直接俺の血を飲ませたのだ。なぜそうしたのかは、よくわからない。そんなことを思いついたものやってみたのも、今この時が初めてのことだった。


 不死の力を受け入れた少女の傷は、みるみるうちに塞がっていく。俺が殺した三人の死体からまだ生ぬるい血を少しだけ分けて貰い、俺達は血まみれのなかで初めての契りを交わした。変身による苦痛から救ってやらなきゃならない。血肉を交換した俺達はどちらかが死ねば共に死ぬ。だが、それを知るのは途方もなくずっと後の話だ。

 まだ男を知らないと言って良い彼女の身体は、俺が与える刺激によって柔らかいもちのように蕩け、幸福をもたらした。その一部始終を、生き残った男達は最後まで、遠巻きに傍観していた。


 蜃気楼が揺らぐ。俺達を惑わそうと、不思議な風が奇妙な音を届けるように、一気に吹き抜けていく。太陽を覆う程の雲は殆どなく、容赦なく照り付ける熱と地面から這い上がってくる熱で、今にも溶けてしまいそうな暑さにこれ以上ない程うんざりした。


 緑地帯が見えてくる。歩く速度を落とさずとも、背後の少女は生真面目な顔をして黙ってついてきてくれている。いいぞ、その調子だ。前だけを見ろ。余計なことは何も考えるな。知らず知らず俺は、心の中で少女を励まし続けていた。


 この言いようのない感情は、何だろうか?


  振り向いて彼女の表情から読み取る感情は、俺とそう変わらないものにさえ思える。不貞腐れているようで、まんざらでもない。


 ご機嫌取りなどしてやるものか。

 

 そう思ったのもつかの間、やっと見つけた木陰に俺は自分の短くなった外套を被せて即席の屋根にして、彼女を手招きで呼び寄せた。少女は、どこか無気力な態度で小さな影の下に入ると、うずくまるようにして膝を抱えて落ち着いた。狭い場所に野良犬のような俺達が収まるには、身体をくっつけるしかない。彼女を囲い込むようにして俺は横になってみたものの、脚だけは日向にはみ出てしまう。


 すると少女は自分の外套を脱いで日陰を増やした。すぐに座り直したとき、わずかな隙間を開けて俺に背を向ける。昨夜の熱い営みをすっかり忘れた俺の女は、よそよそしく明後日ばかりを睨んでいる。意地らしい横顔を益々気に入った俺は、彼女を下から眺めた。


「さっきのあれって、どういう意味?」


 少女は凛とした声で、尋ねた。


「…それより、お前の名前は?」

「あんたが付ければ良いだろ? 私はもうあんたの女だ」


 こいつは驚いた。


「…あの噂は本当なの?」

「どの噂だ? 何をどこまで知ってる?」


 少女はこちらを向いて、大きな目を開けて近付いてきた。昨夜の濃密な感触が疼くけれど、俺はぐっと堪えた。是非とも自力で思い出して頂かねばならない気がしたからだ。


「お前、俺が怖くないのか?」

「怖いのは、…あんたじゃない」


 奈落みたいに真っ黒い瞳を、俺は覗いている。本来ならば俺の顔が映ってもおかしくないのに、何も映し出さない虚ろな闇だけが、そこにはあった。


「私が怖いのは、この世の中の全てさ」


 少女は唾を吐き捨てるように、憎々し気につぶやいた。


「こんな世界、とっとと滅びちまえばいいんだ」


 少女は細い肩を持ち上げて、自分の両膝を抱き寄せた。酷く不安そうに顔を曇らせ膝に顎を乗せた。


「そのうち皆、勝手に死ぬから安心しろ」

「………」

「お前が殺したい男のはらわたは邪鬼が入り込んでる。内側から喰われて瀕死の面してただろ? 死臭も漂い始めてた。もう長くはない」


 それに、あいつは俺達夫婦の大事な見届け役なのだ。花嫁の父ならば、言うことはない。


    *


 ガキン!


 振りかぶった刃はいともたやすくはじき返された。反動でしりもちをついた途端に、もう一人が抜いた剣先が横払いの弧を描いて、私の前髪の先を削って行った。ビュンと空を切る音と共に両目を固く閉じたとき、その闇の中で白い髑髏どくろが私を見て微笑んだ。


 お前が、死か―――。 やっと、会えた。亡き母の顔が鮮やかに蘇る。

 

 でも、次に気付いた時、焼けるように熱くなった身体は揺れていた。

 大きな獣が私の喉を噛みちぎろうとしていた。でも、不思議と恐怖は感じられない。霞んだ視界の中に黒い影法師が立っているのが見える。瞬きしたら消えてしまった。死は、私の前から姿を消したのだろうと、思った。


 口いっぱいに熱い液体が流れ込んでくる。その勢いに溺れそうになりながらも、身体はそれを欲していた。自分の意思とは違う強い力が私をコントロールする。ざわざわと肌が泡立ち、心臓が暴れているように激しく身悶える。

 手を伸ばそうとしたら、掴まれた。長く鋭い爪が私の肌に食い込むけれど、傷付けられることはなかった。獣の長い舌が皮膚の汚れを舐めとるように、何度も擦られると大人しくできない。割れそうな身体から何かが生まれようとしていた。まるで、もう一人の自分が胸を裂いて内側から誕生するようだった。

 終わりの見えない朝と夜の狭間で、果てしなく広がる荒野の中を、私はただまっすぐに歩いた。朝日が昇る場所を目指して、でも、どこへ向かっているのかも、本当は知らずに。


 狼の噂を耳にしたのは、一年前。髪を切り男に変装した私に、酔っぱらいの神父が唐突に語りだした。百年より永く生きている狼がいる。東に広がる荒野に行けば、奴は旅人を襲って食らうから命はないぞ。怖いもの見たさに行った者も、狼狩りに行った者も、二度と戻らなかった。その狼を見た者は、誰も生きて帰らない運命なのだ、と。


 その夜。私は、思い立った。

 その狼こそが、私の願いを叶える神なんじゃないのか。


 復讐など、本当はどうでも良かった。生きるための理由が欲しかっただけ。強盗に殺された母は、悲惨な最後を遂げた。抵抗した兄と弟は首を跳ねられ、意気地なしの私は戸棚の奥に身を隠したおかげで運良く見過ごされた。自分だけ安全な場所に隠れ助かった私は、心ない人々の口から信じられない言葉が飛び出したことで、混乱した。私が強盗を招き入れたのだ、と。


 家族を守るべき父は、知らせが届いた筈なのに、いつまで経っても帰らなかった。

 町の役人や教師や薬師は父のことを良く知っている。一国の政に関わる大事な仕事を預かる官僚という職務で、一年のうち僅か数日のみ帰宅するだけ。しかも父は私が生まれてから滅多に帰って来なくなっていた。ある日、不機嫌な兄が教えてくれた話では、私が父の子ではないと疑っているせいだ。だから早く嫁に行け、と言った。不確かな話だと否定すると、兄は馬を打つ鞭で私を叩いた。理由を知らない弟は一生懸命私を庇ってくれた。でも、数日後には向こう側に鞍替えして、私を打つようになっていた。


 だから、復讐したのだと。まるで皆、見てきたかのようによく知っていた。他人の家庭の内輪揉めを盗み見て、楽しんでいるようだった。


 ―――私は町を出た。生きる場所を失い、死に場所を探して。思えば私は、何度殺されただろう。加虐性が高まっていった兄に凌辱されたこの身では、嫁に行くこともできない。


 私だけ顔も体格も父に似てないことで、母は裏切り者にされた。私を産んだばかりに不幸になり、あげくには見知らぬ男二人に屈辱の中、命を奪われた。


 この国で女は家畜とそう変わらぬ扱いをされている。男に逆らえば、力でねじ伏せられる。生死を賭けた選択を迫られ、辱めも甘んじて受けなければ生き残れない。そんな人間の男こそ獣以下ではないのか?

 小さい頃に貰った異国の書物には、狼はこうと決めた伴侶を一生大事にすると書かれていた。狼は不誠実な人間よりも、正直で優しい。祈るなら神ではなく、狼が良い。どうせ死ぬなら、身も心も狼に捧げ命を奪われたい。叶うなら、生まれ変わって狼の妻になりたい。


 そんな荒唐無稽な願いが叶うなんて、嘘のようで、まだ信じられないでいる。


 小さな頭部に細長い首、そしてやたらと長い腕と広い肩幅。背の高さも、薄い唇も、乾いた褐色の肌も、青い瞳も。噂通りの狼男。夢にまで見た、狼男と交わした契りを思い出す。まるで遠い昔から知ってるような不思議な安心感に包まれて、幸せだった。それで死ねるなら本望だったのに、私は今生かされている。


 ―――どうして私を選んだの?


 声にならない声で、昼寝を決め込む男に何度も尋ねようとした。舌が縺れて、上手く言葉にできない。代わりに涙が溢れ、止め処なく頬を伝って落ちていく。


 ふいに顔を上げ、涙で睨んだ顔が近付いてきて、その異様に長い舌で私の涙を舐め取った。


「お前は俺のものだ」


 微かな声でそう言った男は、何事もなかったように頭を地面に降ろして、そっと目を閉じた。


 終わり


『荒野の狼たち』を改稿しました。


 詩的表現が煩いということで、なめしたつもりなんですけど、どうでしょうか?

 肝心の少女の気持ちが曖昧だったので、ちゃんと「妻になりたい」と加筆しました。

 この世界観が好きとおっしゃって下さる人がいてくれるので、心救われます。


 ヒロインは狼男と末永く幸せに生きて欲しいと、個人的には思います。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みました! 読みましたぞ! 面白い表現沢山ありました。 森さんらしさ、自分らしさのある個性豊かな表現が沢山出ていました。作品から溢れる作者の何気ないにおいみたいなのがあります。好きです…
[良い点] >群青色を水で薄めた光を境界線に、夜と朝が陣取り合戦を繰り広げている という部分の表現が気に入りました。 [気になる点] 描写に力が入っていて、情景を思い起こされる水準だと思うのですが、…
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