ウギー湖の白い花
祖母はウギー湖の話をよくしてくれた。静まり返る草原、微かに聞こえてくる牛と羊の鳴き声、ウギー湖の透き通った湖水の上で泳ぐ白鳥、岸辺を歩き舞う鶴たち。祖母は微笑みながら、記憶を辿るように目を細めて言った。
「いつかウギーノール村へ帰って、もう一度あの綺麗な山野草を見たいな。地面がちょうど良い湿度と温度の時、ウギー湖の周りには白くて小さな花が咲くんだ。ウギーノール村を離れてから、あんな綺麗な花を見たことがないわ。」
しかし、祖母は故郷へ帰ることはなかった。
私はウギー湖の白い花の話を何度も聞かされたが、一度もその花を自分の目で見たいと思わなかった。
祖母が亡くなった年、私は何かから逃げるように、留学する道を選んだ。
祖母が生きていたら、私は留学しなかったのか。祖母が今の私を見たら、何を言うのか。あの山野草を見るために、祖母を故郷へ連れて行かなかったことを、私は後悔するのだろうか。ウギーノール村に行く日は来るのだろうか。
答えを見つかる日はきっと来るだろう。私はいつもこのように自分を慰めた。
日本留学が九年間経ち、私は中国に帰る飛行機の中にいた。九年というのは、長いと言えば長い、短いと言えば短い、中途半端な長さだ。
急激な変化を遂げる環境にいる人々は、適応するのに必死だ。
増えづつある高層ビル、億万長者、家庭用車と通帳のお金。繰り返しテレビニュースに映る「国家富強」、「国内総生産世界三位」のフレーズ。同胞達はようやく勝者の気持ちを味えるようになった。
大気汚染、貧富の差、就労問題、医療問題を放置する一方、拝金主義と利益主義を蔓延させた。帰国する度、人々の純朴さが減っていった。
親戚、友人から、知り合ったばかりの人まで、話をすると私はとことん苦痛に陥った。
「給料はいくらなのか。会社で昇進したのか。家を買ったのか。なぜ家を買わないのか。なぜ車を持たないのか」、こういうくだらない質問ばかりだ。
何時間後に、再びそのような質問に対面しなければならないと思うと、帰郷の嬉しい気持ちは少し曇ってしまった。
祖母のことを思い出して、恋しくなった。留学した後、祖母は私の心の拠りどころとなっていた。
何かで行き詰まると、私は祖母の人生と彼女という人間に思いを巡らせた。そうすると、不思議に心は落ち着き、平静を取り戻すことができる。
飛行機は穏やかな大気を通り抜け、悠々閑々と目的地へ近づいた。時計を見ると夕方五時を指していた。
窓の外を見ると、雲が夕焼けに照り映えて、飛行機までが輝かしいオレンジ色になっていた。
私は座席に背を持たれ、深呼吸をして、目を閉じて休んだ。
しばらくすると私は夢に陥った。
夢の中に小さなトマト畑が現れた。夕焼けの下にトマトの世話をしながら、談笑する若い男女がいた。近づいて見ると、それは若い私と大学時代の恋人チョクだった。
チョクは熟していない、青色がところどころ残っているトマトを一つ摘んで、蛇口の水で軽く洗った。
「食べて見て」と私に渡した。
「なんで?まだ青いよ。」
私は戸惑って彼に聞いた。
「見た目は可愛くないけど、美味しいよ。」
チョクは私の目を見つめ、暖かい太陽のような笑顔で言った。
この笑顔を見ると、彼を百パーセント信じることができる気がした。
私は恐る恐る青いトマトを口に入れて、少しかじって見た。想像していた苦い味がなかったので、もう一口大きくかじった。
「あー、酸っぱい。」
私は顔をくしゃくしゃにして言った。
「そのうち甘くなるよ、もう少し頑張って食べて。」
彼は自信満々に励ましてくれた。
酸っぱさを我慢して噛み続けると、本当に微かな甘みが出てきて、酸っぱさと甘さとのコントラストとが絶妙なバランスで、とても不思議な、今まで味わったことのない味に変わっていった。
「不思議な美味しさ。」
私は目を丸くして食べながら言った。
「僕がある手を加えたからだよ。」
チョクは天真爛漫な顔で言った。
「そのある手って何、教えて、チョク。」
私は本気で知りたくなった。
「それは秘密だよ、僕のお嫁さんになってくれたら教えてあげる」と彼は半分ふざけた感じで言った。
しかし、この言葉を聞いた私は、なぜか何も返事しなかった。
私は青いトマトを食べながら、彼を見つめると、その太陽のような笑顔に吸い込まれていった。いつの間にか、飛行機のエンジン音が大きく響き出して、私を無理やり現実に引き戻した。
目を開くと、不思議な青いトマトの味だけが口の中に残っていた。
当時の私は一九歳、チョクは二〇歳。同じ大学の二年生と三年生だった。
チョクは内モンゴル東部出身で、農民である両親の元で育った。家計は厳しく、奨学金と教授の助手としての収入で学費と生活を維持していた。
夏休み帰郷する度、チョクは黒く焼けて帰ってくる。実家の農作業の手伝いをしていたからだ。そして、大学での生活が始まると、段々元の白い肌に戻っていく。
百八十センチの身長に、農作業で鍛えられた筋肉質な体。そして色白な肌、思慮深い眼差しといつも口角に浮かぶ暖かい微笑。一見アンバランスに感じるチョクの風貌は、協調性の持った特別な魅力を漂っていた。
健康的で責任感が強いチョクは、都会育ちの男子が集まる学校では、貴重な存在だった。
チョクは農民の息子なので、小さい頃から植物に対して興味を示した。それ故に、チョクは大学で植物学を専攻した。
私と知り合った時、チョクは大学から実験畑を借りていた。彼は畑にトマト以外も沢山の植物を植え、育てた。勉強した通りに、植物達に刺激を与え、その変化を観察した。彼は研究生活を楽しんでいた。
「僕は将来故郷に帰って、大きな農場を持つのだ。そこで旱魃する我が故郷の土地に合う植物を研究開発して、故郷を豊かにする。」とチョクは時々私に夢を語った。
夢を語る時のチョクの瞳と生き生きとした表情に、私は深く惹かれた。
私達は図書館で勉強した時、偶然隣同士だったので、それがきっかけで付き合うようになった。
チョクは卒業する前に、私に卒業したら彼の故郷に来てほしいと誘ってきた。
よく考えた末、私はチョクの申し出を断った。
チョクと一緒に農作物の世話をして、故郷を建設する重荷を担う自信がなかったからだ。農作業の経験がほとんどない私にとって、余りにも大きな挑戦だった。
チョクは今何をしているのだろう。どこにいるのか。あの笑顔はそのままなのか。あの時彼と別れなかったら、二人は幸せに暮らしているのか?彼は青いトマトのことを覚えているのか。私は想像を無限に広げて、自由に想いを走らせた。
飛行機は降下し始め、アナウンスやらシートベルトを締める音、喋り声で、機内はざわざわと騒がしくなってきた。
北京上空で旋回し始めた頃、私は窓越しで外を見た。空からの北京は記憶通りの赤茶色だった。雑然とした街並みがより一層大地の広大さを際立たせた。
三十分後、飛行機は無事着陸した。荷物を纏め、私は入国審査の窓口に向かった。窓口前の列に並び、私は素早く「日本脳」を「中国脳」に変えた。
「値段を表記しないレストランに入らない、空港スタッフの悪い態度に腹を立てない」を頭の中で復唱した。帰国する度、必ず行う作業だ。
八月の北京は蒸し暑い。
八月に帰国なんかしたくはなかったが、会社を長く休めるのは八月のお盆だけだった。
入国の手続きは予想よりスムーズに終り、スタッフの態度も予想ほど酷くなかった。
国内線に乗り換えて、一時間後の夜九時、私はようやく目的地のフフホト白塔空港に到着した。
空港の出口で私はすぐ両親の姿を見つけた。
波のように寄せる人々の中から、両親は私を一生懸命探していた。
私は大きく手を振り、両親と一年ぶりの再会を果たした。
父は私を抱きしめ、おでこにキスをした。母の顔には娘に無事会えた安堵と喜びが浮んだ。
父が運転する車の中で、簡単な会話を交わしてたら、あっという間に実家に着いた。家の中を見渡すことなく、私はまっすぐ自分の部屋に入った。ベッドに倒れ込み、ヘトヘトな体を休ませた。
この部屋で私は青春時代、両親との衝突、忙しい受験勉強、淡い初恋を経験した。私の喜び、悲しみ、葛藤、信念がぎっしりこの部屋に詰まっている。
「できたよ」と母の声が聞こえた。重い体を起こして、私はリビングへ向かった。
母は私の大好物のチャンサンマハ(羊肉の塩煮込み。モンゴルの伝統料理)とスゥーテチェ(モンゴルミルクティー)を用意してくれた。
机にはボーブ(モンゴルの揚げパン)、ホルダ(モンゴルチーズ)、フレバダ(きびの加工食)と五、六個のトマトも置いてあった。どれも子供の頃からの大好物だ。
私はチャンサンマハを切り、スゥーテチェに入れて黙々と食べ始めた。両親は私を囲んで座り、笑顔を浮かびながら、しばらく私をじっと見つめた。母は微笑んで優しい声で私に言った。
「一杯食べてね、沢山作ったよ」。
「ママ、寝る前に食べ過ぎると太るよ!それにこの食事バランス悪すぎ!」
私は強い口調で言った。母の顔を見ることもしなかった。しかし、すぐひどい言い方をしてしまったことを後悔した。
母は必死にショックを隠しながら、引き摺った笑顔で言った。
「そうだよね、じゃ、明日起きたら食べようか」。
子供の頃から、母は私に野菜を食べさせようと、あの手この手を使った。しかし、結局私を野菜好きにすることができなかった。
不思議なことに、同じ環境で育った弟は、偏食は一切しない。
私がどうして野菜嫌いになったかというと、長い歴史を辿らないといけない。
私は内モンゴルの西部地方で育った。そこでの野菜と言えば、じゃが芋と長ネギ、トマトぐらいだった。
他の家と同じように、当時の我が家にも冷蔵庫がなかった。
解決策として、他の家庭と同じように、父は庭に七、八メートルの穴蔵を掘った。そこに野菜を保存した。何ヶ月も保存すると、新鮮みは失ってしまい、「旬の野菜」なんて言葉は、聞いたこともなかった。
毎年冬が来る前、両親は農家から、じゃが芋、長ネギ、トマトを手に入れた。穴蔵に保存して、冬の間の何ヶ月、我が家はその野菜だけに頼った。
父は寒くて深い穴に潜ることを、あまり好まなかった。母に「野菜を取りに行って欲しい」と頼まれる度、イライラして、私と弟をビクビクさせた。
こうして、野菜は幼い私にとって、両親の仲を悪くする存在となってしまった。その存在はいつの間にか、トラウマのような感情まで生じてしまった。
それに加え、煮込み料理、炒め料理の野菜の味を、どうしても好きになれなかった。前世は肉食動物だったのではないかと思うぐらい、私は野菜を好きになれなかった。
しかし、そんな私にでも、唯一食べられる野菜があった。生のまま限定だが、食べられる野菜があった。それがトマトだ。
対照的に肉、特に羊肉は楽しい思い出しかなかった。私が育った地方はモンゴル族の人口が多く、漢民族はモンゴル族に染められ、マトン(成羊肉)を日常的に食べていた。マトンはあらゆる家庭の常備品だった。
農家から野菜を入手するとほぼ同時期に、父は遊牧民から生きた羊も買い取った。
毎年五、六匹の羊がやってくる前、私と弟は待ち遠しかった。早く羊達と遊びたいからだ。
羊達が来て、二、三日経つと、父はお客さんを招いた。中には羊さばきの上手な青年達がいて、父は彼らに羊さばきを任せた。
羊の一匹は当日、羊パーティのために、細かく分解された。きれいに処理された羊は、母と他の女性達が調理した。
私達家族はお客さんとワイワイしながら、新鮮な羊肉を堪能した。私はチャンサンマハを一番好きで、次に大好きなのはゲデス(羊の血を腸に詰めた茹でて食べるモンゴル伝統料理)だった。
残りの何匹かの羊は、分解せずに倉庫の屋根に吊るして、冬と来年春夏のために蓄えた。
私と弟は、モンゴル人が羊を苦しまさずに、血を体外に流れさせない殺し技をよく聞いた。その技を見たいがために、何度も「羊が殺される瞬間を見たい」と母にお願いした。しかし、母は私と弟が成人するまで、決して許してくれなかった。
好奇心が満たされないまま、私は大人になった。不思議に、あの瞬間を見てみたいという衝動に、大人になった私は二度と駆られなかった。
日本での九年間、私の食生活はほぼ自然に変わった。母はそのことを知っていたが、あえて毎年、実家でしか食べられないものを用意てくれた。
日本で忙しい一日を終え、疲れ果てた体を引きずって帰宅した時、この国に、私のことを誰一人気にかけてくれないと悲観的になった時、私は何度も「今すぐ両親のそばに飛んで行きたい」と思った。
しかし、再会を果たすと、全員が不穏な空気に陥り、大喧嘩で終わることが多かった。
食生活だけではなく私の心までが変わったのか。人情味の少ない大都会での生活、効率を求められる会社勤めは私の性格をきつくしたのか。それとも、ストレスに強くなった代わりに、冷酷になったのか。或いは単純に、父と母が私の変化を受け入れたくないだけか。私にはわからない。そして、どうすれば両親と分かり合えるのかについて、沢山試みたけど、答えは見つからなかった。
しかし、どんなに母とぎくしゃくしても、私はある真実を知っていた。それは、数え切れない私の無礼を耐えた母は、けっして私から離れようとしなかったことだ。
翌朝、私は母が料理する懐かしい香りの中で目が覚めた。しばらくボーとすると、ようやく自分がいる場所は、夢の中で何度も帰りたかった故郷だと思い出した。
リビングルームへ行った時、テーブルには沢山の食べ物が用意されていた。中には作り慣れていないけど、頑張って作った感がじんわり伝わってくる不器用なサラダもあった。レタス、人参とトマトのスライス。そして、黒っぽい見た目から、味付けは胡椒と醤油だとすぐわかった。
キッチンで忙しそうにしている母を見て、昨日のことを謝りたかった。でも、結局言えなかった。
サラダを美味しそうに食べるふりをして、私は黙々と食事を続けた。食べ終わった頃、母は私の顔色を伺いながら、小声で言った。
「おばさん達、後一時間ぐらいで来るわ」。
「はい、わかった。」
私は反射的に即答した。
そうすると父はいつものように、皮肉って母に言った。
「本当に人をそっとしてあげられない人達だね」。
「そっとしてあげるってなによ?アロナが帰って来ても会いにこない方がいいの?私の家族は、あなたの家族みたいに冷たくないわよ!」と母は自分の家族のことになると、いつも急に激高してしまう。
「見に来ても今日じゃなくて、何日か休ませてからの方がいいじゃないの?」
父があきれた顔で言った。
「そういう事、私には言えないわ!それに、アロナに会いに来ることは悪いことなの?何で文句しか言わないの?感謝したらどう?」
よく見たこの光景を目の当たりにして、私は黙ってそっと自分の部屋に戻った。両親の口論はそれ以上続かなかった。
ベッドの上で、私は両親のあれこれを思い出した。不思議なことに、日本では一度も思い出したことがなかった。
父は「黄金の氏族ボルジギン氏」の子孫だった。ボルジギンはモンゴル帝国のハーンとなった家系の氏族であり、チンギス・ハーンもこの氏族出身だった。
父一族はモンゴルの貴族家系ではあったが、清王朝の滅亡と共に没落し始め、中華人民共和国以降、父一族は農民まで落ちぶれていた。
身分が落ちぶれたことを本来喜ぶべきではないが、実質、父一族はこの身分により助けられた。
中華人民共和国が成立した後の三〇年の間に、行った一連の有産階級を対象にした革命と運動の中で、無産階級の父一族はその身分に守られ、一切巻き込まれなかった。
身分にまつわる栄光と没落の歴史は、父一族に矛盾だらけなアイデンティティをもたらした。
貴族の後裔であるプライドにより、純血なモンゴル人を誇る傲慢さを持つ。しかし、中華人民共和国の階級区分により、父一族は「貧農」に分類された。これによって、貧しい家庭出身であるコンプレックスも同時に持っている。貧農であることで、迫害を全く受けなかったのは事実だが、改革開放後、コネクション社会の中国で生きて行くのに、コネクションを全く持たない父一族は沢山苦労を経験した。
幸い、父一族は勤勉だった。皆勉強が得意で、学業に励んだ。そして、優秀な成績で次々と貧困な村から出て行き、都会で仕事に就いた。大学の先生、外科医、作家、テレビ局のカメラマンなど。父一族は社会に尊敬される勝ち組となった。
母一族はその反対だ。
母の出身のトメィトモンゴルジン(漢字は土默特蒙古貞)部は、数多くのモンゴル部族の一つで、古くからの部族だった。
母の先祖はモンゴル部族戦争で遼寧省に逃亡したと言われている。遼寧省は、満州族、漢族、モンゴル族など多民族が雑居する地域であったが、清朝が滅亡した後、様々な原因で満州族とモンゴル族の漢化は加速された。母一族もモンゴル人でありながら、漢人の文化と言葉を身につけるようになった。
母方の先祖は社会地位が低く、半農半牧式の生活を送る貧しい平民だった。先祖達は勤勉に働き、所得を有効に活用して、後に地域でも有名な金持ちになった。曽祖父の代になると、多くの畑や森などの土地、羊、牛、馬などの家畜を何十万頭も所有する大金持ちになった。また、先祖代々北京の清王室に家畜と乳製品を定期的に貢いてきたので、母一族は地元のザッサク王(注①)も一目を置く存在となった。
しかし、中華人民共和国以降、母一族の運命は一転した。「地主階級」に区分され、様々な迫害を受けた。先祖から受け継いた財産や土地を全て失った。また、混乱な環境の中で、母三人兄弟はまともに教育受ける機会も失い、後の人生に悪い影響を及した。
母は小中学校には行ったが、フフホト市内の学校だったため、先生は闘争の対象となり、授業を受けられない時が多かった。その後、母は高校に行かずに、軍人になった。
文化大革命と共に、中国の大学は閉鎖され、一九八〇年代まで、教育システムは完全に崩壊していた。
母が軍を退役する頃、大学制度は再開されていた。しかし、入試制度はすぐには回復しなかった。若者達は試験を通過せずに大学に入学した。母も上司の推薦で大学に入った。
母が軍にいた頃、父は内モンゴル東部の片田舎で生活していた。都市部から離れていたため、文化大革命の影響は少なかった。しかし、高校卒業した直後、上山下郷運動(注②)の最終の便に載せられ、内モンゴル西部の田舎、後に私が生まれた地で二年間肉体労働をして過した。父は高校時代の成績が優れていたので、二年間の下放生活を終えた後、高校の恩師の推薦で母と同じ大学に入学した。
試験を通過していないため、どの大学の学生も学力はバラバラだった。両親の大学も例外ではなかった。
その後、同級生になった父と母は恋に落ちた。母は父の文才に惚れ、父は母の無邪気さに惚れた。
大学卒業後、兄の関係で、母はフフホト市内の就職が決まった。しかし、父は強いコネクションがなかったため、内モンゴルの西部にある小さな町に行かなければならなかった。
母は愛する男のために、就職先を諦め、父と小さな町に赴いた。そこで結婚して、私と弟を生み、育った。
しかし、深く愛し合ったはずの二人は、一旦結婚生活が始まると、互いの価値観の相違に徐々に気づき、喧嘩が止まらなくなった。
私の記憶の両親は各自の仕事で忙しく、家にいると責め合い始めるのだ。
そんな中で、私は臆病な子供に成長した。
幼い私にとって、フフホトにいる祖母と再会するのは、唯一喜びと安心感が与えられる時だった。
「いつかこの家から出て、遠くへ逃げたい。」
私はいつもこのように思っていた。
「黄金の氏族」の子孫であることを私は最初は誇りに思っていた。母の出身についてはなぜか同じように誇れなかった。
私の記憶の中で、母がトメィトモンゴルジン部出身ということで、周りのモンゴル人に何度もからかわれた。その経験は母だけではなく、私の心にまで影を落とした。この経験によって、私はトメィトモンゴルジン部族の子孫であることを恥じるようになったのかもしれない。
両親はホームパーティーをよく開いた。最初の二、三時間は食事と会話で穏やかに過ぎて行く。やがて男達は酔い始め、一人か二人の男は酒気を吐きかけながら、母に向かってこう言い始める。
「サイハンナ(母の名前)はモンゴルジン出身だってさ、モンゴルジンの女は最低だぞ。」
この言葉を聞いた他の男達は真っ赤な顔に悪ふざけな表情を浮かばせて、下品に笑い出す。
しかし、私にとって、きっと母にとっても同じだろう。肝心なのはこの男達ではなかった。父だった。からかわれる妻を守るかと思ったら、母を馬鹿にする男達の仲間に加わって一緒に母を茶化した。
母はいつも無表情だった。言い返したり、怒ったりはしなかった。あまりにも母の反応が薄いので、私は母の耳が悪いのではないかと思ったこともあった。
でも、母は耳が悪いなんかではなかった。父と喧嘩すると、この事を持ち出して父を攻め、半泣きで叫ぶ。
「よくも他人と一緒に自分の妻をからかうよね!」
しかし父はそれでも止めなかった。モンゴルジンの話になると、まるで母を自分の妻ではないかのように振る舞った。母を守ろうとしなかった。
私は何度か母に「どうしてモンゴルジンはこんな目に合うのか」と訪ねたが、母からの答えはなかった。
私は母が馬鹿にされる理由は漢化されたこと、母の祖先は商人であったこと、清政府に貢いた歴史があったからではないかと一方的に推測した。
そして、この推測はいつの間にか固定観念になり、私の民族に対する感情を大きく左右する要素となった。つまり、どんな場面でも、私は自分の民族、即ちモンゴル人は血統、家柄、肩書など表面的な物で人を判断する民族であるという先入観が常に頭に過って、私の民族に対する評価を影響した。
母がからかわれる度、私の胸には強い怒りが燃え上がった。この怒りは、からかう者へよりも、反抗しない母の軟弱さに対する方が大きかった。父への尊敬もこの時から少なくなり、蔑む感情の方が大きくなった。
くだらない理由で同民族であり、弱者でもある女性を傷つけるモンゴル人男性への不信感は、この時から深く私の心に根付いた。。
「黄金の氏族」の子孫であることへの誇りは次第に消えた。現代モンゴル人が先祖の栄光に縋り付く姿と傷つけ合う光景は、私のこの民族に対する印象に致命的なダメージを与えた。「民族の誇り」も私の中で段々ぼんやりとなっていった。
私がベッドであれこれ深刻に考えていると、家の外から大きな音が静かな空気を突き破った。玄関に近づくと、それは複数人の足音と女性の喋り声だった
「アロナ、元気そうでよかったわ!」
ツァガンファールおばさんは私を見つけると、手を振りながら叫んだ。
ダリテおじさんが五年前に心筋梗塞で亡くなった後、母の兄弟はゴンチグおじさんとツァガンファールおばさんだけになった。
ゴンチグおじさんは妻のグルロとの間に、二人の子供がいる。長男のナリンと長女のソルナだ。
ナリンは深センで働いて、結婚して子供もいる。妹のソルナは、北京にある医科大の修士課程に在籍している。
そして、母の妹ツァガンファールおばさんと夫テムルの間には一人娘のヘールがいる。
テムルおじさんは長年モンゴル国のウランバートルで働いているため、内モンゴルにいないことが多い。一人娘のヘールは音楽大学の三年生だ。
私はソルナとヘールを、子供の頃から可愛がっていた。ソルナは私より六歳年下で、ヘールは八歳年下だった。
今日訪ねて来たのは、ゴンチグおじさんの妻グルロと娘ソルナ、ツァガンファールおばさんと娘のヘールだった。
「アロナの大好きなマーファー(漢民族の伝統料理。小麦粉の揚げパン。形は女性の編み髪に似ている)を持ってきたわ。」
そう言いながら、ツァガンファールおばさんはしゃがんで、地面においてあったビニール袋を私に渡した。この一連の動作は小太りの体型のため、全てが大変そうに見えた。
袋はマーファーがたっぷり溢れるほど詰められていて、重かった。
ツァガンファールおばさんは体型と髪型以外祖母によく似ている。ショートパーマの髪は整髪剤のつけすぎでいつもベタベタしている。彼女は美しくない、優雅でもない。素朴で、穏やかな、芯の強い人だ。
祖母みたいに器用で、兄弟一番の働き者だった。どんなボロい布でも、ツァガンファールおばさんに渡ると、バッグやら、パッチワークの布団カバーやら、子供の可愛い服に変身した。彼女自身、欲求というものがないと思うぐらい、限りなく人のために尽して、働くのだ。
ツァガンファールおばさんが私にマーファを渡したのを見て、グルロおばさんは無表情で娘のソルナに言った。
「ソルナ、持ってきた物をお姉ちゃんに渡して。」
ソルナは椅子から素早く立ち上がって、地面に置いてあったもう一つの袋を机に置いた。
「お姉ちゃん、ビーフジャーキー、チーズ、ひまわりの種とか色々入っているよ。食べてね。」
「ありがとうね。」と私は答えた。心の隅には、なぜか素直に喜べなかった。
母とツァガンファールおばさんは昼ごはんを用意していた。父は書斎からずっと出てこなかった。私はグルロおばさん、二人の従姉妹とリビングルームにいた。ヘールはみんなのお椀にミルクティーを注いで、私の横に座った。
「お姉ちゃん、日本での仕事は忙しい?日本人は毎日四時間しか寝なくても平気って本当?」
ヘールは私の目を見つめて、心配そうな顔で聞いてきた。
「忙しいよ、夜は零時以降帰宅する時もあるよ。日本人の睡眠時間は確かに短いかもしれない、全員ではないけど。」
「じゃ、お姉ちゃんも四時間しか寝られない時あるの?」
「そんな時もあるよ。次の日はフラフラで頭が回らないけど。」
「お姉ちゃんのこと心配だわ。だってお姉ちゃんが中学生の時に、うちに泊まりに来たのを覚えている?私が七時に起きたのに、お姉ちゃんは十時になっても起きなかった。結局ママに怒られて起きてしまったけど。そんなお姉ちゃんが四時間しか寝られないなんて、心配だわ。」
ヘールは深刻そうな顔で言った。
ヘールはいつもベリーショートヘアで、それが子供のごろから変っていない。日焼けで肌が小麦色になっていた。全く化粧をしない丸顔にちょっと潰れた小さな団子鼻、大きな目とさくらんぼのような小さい口はヘールの無邪気さを際立たせた。
ボロボロのジンズにTシャツと古ぼけたスニーカー、それがヘールの定番の格好だ。寒くなるとジンズの上に長袖Tシャツやジャケットを合わせた。
今日のヘールはいつものボロボロなジンズの上に、白いTシャツを着ていた。Tシャツの上には「I LOVE PIZZA」の文字が書かれていた。スニーカーはTシャツと同じ色の白だった。ヘルシーな小麦色の肌、程よい肉付きの長い手足、ヘールはこのボーイシュでシンプルな格好に良く似合っていた。
スカートやハイヒールを履くヘールを一度も見たことがなかったので、私はなぜ髪を伸ばしたり、スカートやハイヒールを履かないのかを聞いたことがあった。そしたら、彼女は髪が長いと洗うのが面倒だし、スカートとハイヒールを履くと動きにくいと答えた。私はすぐ納得した。ヘールは行動派で、なんでも思いつくとすぐ実行に移すタイプだった。そんなヘールにはハイヒールとスカート、長い髪は確かに合わないと思って、それ以上この話題を続かなかった。
「ありがとう、ヘール。お姉ちゃんは大丈夫だよ、なんとかなる。ヘールがいると、心強いよ。」
ヘールの優しさが変わらないことを願いながら私は答えた。
私はヘールに大学でのでき事、勉強や寮生活について質問した。ヘールは私の質問に対して、丁寧に一つ一つ答えてくれた。
その間、グルロおばさんとソルナは熱心にテレビの見合い番組を観ていた。中国で今最も流行っている番組だ。
私も何度か観たことがあったが、これほど拝金主義、利己主義を揚げる番組は、生まれて初めてだというのが唯一の感想だった。
女性のキャストは必ず金持ち且つかっこいい男を選んだ。それ以外の男性キャストはどんなに魅力的であっても、ほとんどの女性キャストに選ばれなかった。
グルロおばさんとソルナは番組に出てくるキャスト達について、熱く語っていた。
あの男、顔はいいけど、一般社員だから、頼りにならないなとか。この男は顔も金もないのに、よくも番組に出る度胸があったとか。
グルロおばさんは娘のファッションを真似しているかのように同じ格好をしていた。ミニ丈ワンピースにハイヒールのパンプス、ワンピースのピンクの花柄まで娘と似ていた。
ソルナは母のグロルと似て、小柄で痩せていた。ウエーブをかけた茶髪は腰の上まで垂れ下がって、細いウエストと露出したつややかな足は良いバランスをとれていて、美しいそのものだった。只、濃すぎたアイラインとまつげのせいで本来の顔を思い出すのに一苦労した。飾りすぎたせいか、若さ故の美は台無しにされていた。
最もひどいのはグロルおばさんだ。弱点のO脚は短すぎたワンピースで強調され、年齢と合わないワンピースのデザインは彼女を滑稽にさえ見せた。たるんだ皮膚と崩れた化粧はその滑稽さをさらに強調して、彼女をみっともない姿に仕上げた。
私は来年卒業するヘールに、就職についてどう考えているのかと聞いた。彼女は子供が好きだから、小学校の音楽の先生になりたいと教えてくれた。
この時、グルロおばさんは急に私とヘールの話に割り込んだ。
グルロおばさんは冷ややかな目つきでヘールを一瞬ちらっと見て、あの尖った高い声で言った。
「ヘールは小学校の先生にぴったりだわ。今の時代は出身大が一流じゃないといい仕事に就けないのよ。でも、いいじゃない。小学校の先生って、楽そうだし。」
私はテレビを観るのと同時に、実は人の話も聞いていたと言う驚きの技を持つグロルおばさんに感心した時、ヘールはすでにテレビの画面を注視して静かに座っていた。まるでグルロおばさんの話を何も聞こえなかったようだった。
グルロおばさんの言うことに対して、私は何かと言い返そうとしたが、適切な言葉を見つける前に、グルロおばさんはまた言い始めた。
「ところでアロナって今、年収いくらだっけ?」
私は去年帰国した時も、グロルおばさんから同じ質問を受けたと思い出した。「きた」と思いながら、飛行機の中で用意していたこの質問への巧妙な回答を高速に頭の中で探した。しかし、何も見つからなかった。
「人民元で言うと二〇万元ぐらい。」
私は結局去年と同じ答えをしてしまった。
「多くないわね。年収二〇万だと、北京上海で暮らせないわ。」とグルロおばさんは見下す口調でほくそ笑いながら去年と同じ返事をした。
私はこの状況に何度も遭遇してきた。すでに免疫ができて、何も感じないと思っていたが、それとは真逆にショックを受けた。最初は唖然として言葉を失い、やがて怒りが湧いてきてしまった。
グルロおばさんは言い続けた。
「留学する時にかかったお金、いつになったら元を取れるのかな。こういう風に考えると、海外に行くより、国内にいた方がずっと得だわ。差別も受けないし。ソルナは修士課程を卒業したら、フフホトに帰って来て大学病院の医者になるのよ。結婚する家も買ってあげているわ。余計な苦労をかけたくないから。」
ソルナの在籍している大学は北京にある一流医科大だったが、彼女は裏口入学であったことを親戚全員が知っていた。というか、グルロおばさんとソルナはこの事を自慢に思っていたらしく、あちらこちらで話していた。修士入学も賄賂が絡んでいた。恐らく、医者になることも賄賂に頼るだろう。
私は怒りに煽られ、この事を使ってグロルおばさんを反発しよううと思ったが、母との約束を思い出して、自分を止めた。斜め向かい側に座るソルナに目をやると、ちょうど彼女も私を見ていた。その目は優越感で満ちていた。
その日、私と両親、四人のお客さんは一緒に昼ごはんを食べ、夕方までの時間を過ごした。何を話していたのか、不思議に、私は覚えていなかった。唯一覚えていることは、ソルナとヘールに日本の土産を渡したことだ。
母はよくこの言葉を私に言った。
「おじさん、おばさんを大切にしないとだめよ」と。
私はいつもこういう風に答えた。
「絶対そうするよ、ママ。約束する。」
そして私は今でもこの約束を守った。母の兄弟姉妹にいやな思いをさせないように長く努力してきた。
母は私に我慢をさせ、自分の兄弟姉妹とその子供に良い気分でいさせようとしてきた。
母は兄弟姉妹の中で唯一大学教育を受けたことがあった。それによって、罪悪感と引け目を感じていた。また、文化大革命などで迫害を数多く受けた母家族は異常に団結心があって、結束力があった。その家族の団結は排他的で、時には是非を無視することもありえた。家族を傷つける者は正当な理由があるかどうか関係なしに、敵に回された。
この団結心は動乱な年代に自然に身につけたものであって、自覚しない限り変わることは不可能だ。特に兄弟の中の母は軍にいて、大学教育も受けたので、家族を守る責任感を強く感じていた。そして、その責任感を娘の私にまで押し付けようとした。
年齢と共に私は母のことを理解するだろうと思った。女性として成熟していくうちに、母と感情を共にできると考えた。しかし、考えは甘かったようだ。
その夜、案の定私は母と口論の挙句大喧嘩になった。グルロおばさんの言葉と表情を思い出すと、どうしても母を責めずにいられなかった。
「お母さんが、私にずっと我慢させてきたから、あの人達が平気で傷つけてくるんだよ!」と私は泣きながら叫んだ。
「気にしすぎよ!グルロおばさんとソルナは、わざとあなたを傷つけたりしないわよ!勘違いじゃない?」
母はいつもと変わらない返事をした。
「なんで、他人をかばうの?私の気持ちはお母さんにとってどうでも良いの?」
私は叫び続けた。
「あなたはいちいち小さい事を気にしすぎよ!そんな風に生きてて疲れないの?その性格直した方がいいわ!」
父は私達の戦争を止めようと、何度か言葉を発したが、いずれも私と母の叫び声、怒鳴り声に埋もれて、消えてしまった。
私と母の争いはいつまでも続いた。
*
一九三七年、二五歳の祖母は四二歳の祖父と結婚した。祖父にとって二番目の妻だ。村人は祖母の本当の身分を知ることなく、誰もが祖母は貧しい遊牧民モンクとサロル夫婦の娘だと信じていた。
しかし、真実は違っていた。
祖母がトゥメト サヨクキ(注③)に逃げて来るまで、ウランバートルから四〇〇キロ離れたウギーノール村で、貴族の少女として生活していた。
一九二〇年、ロシア白軍のウンゲルン男爵(注④)がモンゴル(現在のモンゴル国)に対する耐え難い、残虐な支配を受け、祖母一家はウギーノール村を余儀なく離れることになった。
家族はバラバラになり、それぞれ違う方向へ逃げた。祖母の父は祖母を信頼できる使用人のモンクとサロル夫婦に託した。祖母はこの夫婦と転々として、二年後に、祖母が一〇歳の時にトゥメト サヨクキに辿り着いた。
二年間の逃亡生活と転落な人生は、世間知らずの貴族少女を世間の厳しさを知る遊牧民少女に変えた。
祖母はウギーノール村で一度も体験しなかった事を沢山覚えた。料理、放牧、洗濯、掃除。周りにいる同年代の誰よりも仕事をこなせた。
また、勇敢な祖母は意地悪な子供に、体を張って立ち向かった。その子供達が祖母の家の庭に来ていたずらを働くと、祖母は全員が逃げるまで石を投げ続けた。そのために、祖母は常に石を拾って溜めた。
モンクとサロルの元で、祖母の身に貴族の傲慢、自負は全く残らず、素朴で、意志の強い、勇敢な女性に成長した。
私の記憶の中で、祖母は感情的になったり、絶望的になることはなかった。私に見せなかっただけかもしれないが、ネガティブな祖母を私は一度も見たことがなかった。祖母は常にと言っていいぐらい、笑顔を絶やさなかった。
小柄な祖母はいつも銀色の長い髪を丁寧に梳かして、一本残らずに綺麗に後に纏めて、銀のかんざしでとめていた。日に日に髪の量は減っていくが、髪を短く切ることはなかった。
祖母の性格はサロルによく似た。さらに、モンクとサロル夫婦は敬虔なキリスト教徒だった。祖母は必然的にその影響も受けた。
祖母は何度か私に信仰を伝える試みをした。しかし、私は拒んだ。幼い私にとって、信仰とは全く意味のわからない物だったし、なんとなく重かった。その頃から、私は祖母から避けるようになった。
「ばあちゃんが怒ったのを見たことないな」と穏やか過ぎる祖母を不思議に思い、幼い私は言った。
「怒ることは神様が喜ぶことじゃないよ。神様は常に喜んでいなさいと言ったのよ。」と祖母は答えた。
「常に喜ぶなんて、無理だよ。パパとママが喧嘩すると、どうやって喜ぶっていうの?」
私はすぐに言い返した。
「アロナ、人間は肉を着ていて、自分の力ではなんにもできないよ。だから、先に救い主のキリストを受け入れて、祈って頼っていかなければならない。そうしていくうちに愛と力が与えられるよ。」
「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイによる福音書五章)」。
祖母はこの言葉どおりにできる人間だった。敵を愛せる人だった。祖父、祖父の兄夫婦、そして迫害を加えた者達を許した。それほど広い心は私にはない。今はない、今後もないと私は確信していた。
祖母は幸せを憧憬して、祖父家に嫁いた。ウギーノール村から逃げた後、十数年の間、両親や弟達に会うことはなかった。生存を確認する術もなかった。
家族に会えない寂しさと郷愁を和らげるため、祖母は家庭を作って、家族を持つことに目を向けた。祖母は一度も会ったことのない結婚相手に、ぼんやりと強い期待を抱いた。
しかし、現実は想像と大きく違った。祖父は前妻を病気で亡くし、新妻の祖母を受け入れる準備はまだできていなかった。再婚を望まない祖父に対し、祖父の兄は祖父の一人息子ダリテに継母が必要として、後妻をもらうことを押し付けた。
いつか祖父は祖母を受け入れるだろうと周りは安易に思っていたが、そんな日は来なかった。祖父は亡くなるまで、祖母に心を許さなかった。
無関心な夫だけではなく、祖母は祖父の兄の妻、つまり義姉から長く虐げられた。その理由は後妻という身分と貧しい家柄だった。
義姉は祖母のことを名前ではなく、「貧乏な家の人」だと呼んでいだ。
当時、社会地位が高い或いは金持ちの家の娘は、後妻になることはまずなかった。
祖母が貧しい遊牧民の娘として嫁ぎ先を探していた時、候補者になったのは病気持ちの人、妻はいるけど妾をもらいたい人、又は子持ちの人だった。どの候補者も何らかの事情で、良い条件の娘と結婚できなかった。
結婚後、祖父の兄家族は祖母を使用人のようにこき使ったり、つねったり、蹴ったりすることは日常茶飯事だった。
義姉からのいじめはトゥメト サヨクキ(土默特左翼旗)から離れるまで続いた。祖父は何度も妻が不当な扱いを受けるのを目撃したが、妻を庇うことはなかった。
身内の人だけではなく、祖父の後妻になった理由について噂を立てられ、祖母は村人からも孤立されるようになった。
残酷な現実に、祖母は落胆した。
「どうしてここまで翻弄されるのか。家族が奪われ、故郷を離れたのに、まだ足りないのか?神様、あなたは私を愛していないのか。どうしてこんな仕打ちを私に受けさせるのか」と祖母は心の中で叫んだ。
死ぬか、家を出るか、それとも耐え続けるか、祖母はこの先の人生に、初めて絶望感を感じた。
しかし、絶望感の中でもがき苦んだ末、祖母は置かれた環境は天の御心であると心を改めた。祖母は神様に従った。残りの人生を惜しまず主人になった男とその家族に捧げた。
祖母を思うと、見たことのない「ウギー湖の白い花」が頭に浮かぶ。湖の周りの湿地に生息して、白くて小さい。
祖母はなぜその花にそれほど思い入りがあるのかは私は知らない。しかし、重い泥が被せる湿地から生える小さくて白い花は祖母の人生そのものだと私は思う。
寒冷なモンゴル高原に咲くこの花は小さいけど、力強い。泥から出るけど、泥に染まらない。素朴だけど、清らかな美しさを放つ。
祖母はどんなに辛く、劣悪な環境にいても、清く正しく生きようとした。ウギー湖の白い花は祖母であり、祖母はウギー湖の白い花である。そして、どんなに時代が変わっても、祖母のこの性質は変わらなかった。
経済発展の促進だけを追求するアンバランスな政策によって、人々の欲望は沸き立たされ、本来素朴な人間関係は競争し合う人間関係に変わった。異物が入りすぎる人間関係に囲まれ、私は居心地が悪かった。
しかし、祖母の私に対する愛は、時と場合によって変わることなく、一貫した。祖母の愛は私に絶対的な安心感をもたらした。祖母の愛は私の成長の源となり、困難を乗り越える力となった。
常に争う両親を持つ混乱な子供時代に、臆病な私を慰め、勇気つけ、抱きしめたのは祖母だった。
祖母がいなくなった現在、私は祖母に対する思いを、只数々の思い出に寄せるしかない。祖母の温もりを、私は只目を閉じて、記憶の中の匂いを抱きしめるしかない。そして、祖母の精神と笑顔は拭い去られることなく、永遠に私の心に刻むだろう。
中華民国以降、中央政権の統治は地方まで十分に及ばなかった。様々な目的で形成された武装集団が中国全土で横行するようになった。これらの武装集団のことを地元の人たちは「匪賊」と呼んだ。
祖父の出身地であるトゥメト サヨクキ(土默特左翼旗)も劫掠の対象になった。人々は匪賊に襲撃されることを恐れる日々を過ごしていた。
身代金目的の誘拐により、帰らぬ人となったのもいれば、匪賊の首領の妻にするために、レイプされ無理やり連れ去られる娘もいた。
祖母は祖父の勇ましいエピソードを自ら体験したわけではなかった。と言うのは、あの時、祖父と祖母はまだ出会ってなく、祖父は資産家の息子として、祖母は遥かに遠く離れたウギーノール村の貴族少女として悠々自適な生活を送っていた。
祖母が祖父と結婚した後、使用人から初めてあのエピソードを聞いた時、歓喜と誇らしさで胸いっぱいになった。祖父はカリスマ性が溢れる映画スターのように祖母の目に映った。祖母はこの人と結婚した自分自身を幸運に思わずにはいられなかった。
祖母は良く祖父のエピソードを話してくれた。話す時の瞳は輝いて、憧れと愛で満ちていた。
一九二〇年夏、三、四人の匪賊が祖父宅の門を壊して、侵入した。
匪賊達は部屋の中に入り、全員を中庭に追い出した。曽祖父は杖で体を支え、下半身不随の曽祖母は簡易ベッドに乗せられ、使用人達に中庭に運ばれた。祖父、祖父の兄とその妻と二人の息子も中庭に立たされた。
「長男は何奴だ?」
匪賊のリーダー格らしい一人が銃を振り回しながら荒々しい声で叫んだ。
祖父の兄は一歩前に踏み出して、長男だと名乗ろうとしたその時、彼の妻は彼の袖を強く引っ張って、小声で言った。
「あなた!息子達のことを考えて!」
妻の言葉を聞き、祖父の兄は躊躇した。
緊張と不穏が漂う空気の中で、震えながらも強い意志を感じさせる声で「私だ」と祖父は名乗り出た。
「お前が?」
リーダ格の匪賊は又しても荒々しい声で言った。
「はい、そうです。」
祖父は声を震わして言った。
「お前嘘つくんじゃない!どう見てもあいつの方が年上だ!」
リーダ格の匪賊は祖父の兄を指差して、苛立ちを見せながら怒鳴った。
「その方は従兄弟で、偶々家に泊まりに来ているだけです。」
「本当か?」
リーダ格の匪賊が銃を曽祖父の顔に付けて言った。
「え、そうです。私の兄の息子です。」
曽祖父はこう言うしかなかった。祖父を守りたかったが、孫たちの方をもっと守りたかった。
「よし!連れて行け!」
リーダ格の匪賊が部下に指示した。
「こいつの命が惜しいなら、一〇〇個の大洋(ダーヤン。当時お金の単位)を用意しろ!」
リーダ格の匪賊は祖父の手を結んだ紐を前に引っ張りながら言った。
「父上、これ以上お金をかけないでください。」
引きづられて歩く祖父は曽祖父に向かって言った。
匪賊は黒い布袋を祖父の頭に被せ、馬に乗せて連れ去った。
その晩、曽祖母は亡くなった。
祖父は一八九五年の冬、当時清政府が管轄するトゥメト サヨクキで生まれた。
祖父の生家は町の中心市街に位置し、ザッサク王府から西へ二・三百メートル離れた場所にあった。家屋は中国によくある建築形式の「四合院(注⑤)」だった。「正房」一部屋と「廂房」二部屋、他にいくつもの部屋があった。
規模は王府ほど大きくはないが、町の中では一番面積の大きい民家だった。門の前には貴族の象徴である獅子型の門墩はなかった。でも、裕福であることを象徴する太鼓型の門墩は置いてあった。
曽祖父にとって、二人目の男子を迎えるほど嬉しいことはなかった。何しろ曽祖父は五〇歳手前で、祖父の前に三人もの女の子をもうけていた。
しかし、祖父の誕生にまつわるある事柄が曾祖母を悩ませていた。それは祖父の生まれ年の干支だった。
祖父は一八九六年春に生まれる予定だったが、早産で一八九五年大晦日に生まれた。一八九五は未年で、モンゴル人は冬生まれの羊は不幸な運命を送ると信じていた。
「あなた、この子は未年の子になってしまったから、喇嘛さんを呼んできて、お経を読ませて、厄を追い出してちょうだい。」とベッドに横たわっている曾祖母は弱々しい声で曽祖父に頼んだ。
曽祖父はしばらく考えて答えた。
「正月に喇嘛を呼ぶのは縁起が悪い。これは天の意志だろう。逆らえない。」
曾祖母は諦めるしかなかった。曽祖父の決まったことを一度も反対したことがなかった。反対の仕方すら忘れていた。
こうして、祖父の干支の呪いに対する迷信的な思い込みから、曾祖母は祖父の外出をほとんど禁止して、過保護に育った。
祖父はよく中庭にある銀杏の木の下に座り込んでボーとした。そよ風は優しく祖父の頬を撫で、スズメ達は壁の上に止まって、祖父を眺めながらかわいらしく囀っていた。祖父はスズメ達を見上げ、彼らのように自由に飛び回れない自分を惨めに思った。しかし、このような思いはいつもぼんやりと始まりぼんやりと終わった。未年なので、外に出たらきっと何らかの理由で死んでしまうと思ったからだ。
死ぬことを祖父は密かに恐れていた。考えるだけで、頭皮から足の爪先まで一瞬にして凍りついてしまう。
外の世界と隔離して育った祖父はあらゆる能力を鍛える機会を失い、臆病で、気弱い、神経質な子供になった。
祖父は十一歳年上の兄を憧れていた。曽祖父の代わりに北京に行き、旗(注⑥)の会議に曽祖父と参加することも度々あった。とにかく、祖父にとって兄はかっこよく、頼もしかった。けっして自分が及ぶような人物ではなかった。
そして、祖父が二十歳の時、曽祖父は家業の手伝いを許してくれるようになった。曽祖父は年をとり、家業の管理を二人の息子に任せなければならなかった。
しかし、祖父は仕事になると失敗の連続だった。その上、吃音症持ちで、人前に出ると、症状はとことん酷くなった。
挫折が続く中、祖父はある時点で生きる意味を失ってしまった。必要とされない人生を送るより、意味のある死を遂げた方がよっぽど無駄ではないと考えるようになった。
祖父は「有意義な死」という大義名分のもとで自殺行為のベストタイミングを狙い始めた。
こういう経緯で、祖父は自分が長男だと名乗り出た。家族のリーダーである兄は生きる価値がある。しかし、役たたずな自分は死んで当然だ。
祖父は匪賊の怒鳴声の中でひたすら道を急がせられた。昼は馬に乗り、夕方は宿を見つけて泊まった。宿に辿り着かない時は野宿をした。
祖父は匪賊に殺されることを望んた。しかし、匪賊達は祖父を人質としてお金を脅しとるのが目的だったので、殺しはしなかった。
八日目の朝、運命の転機が訪れた。祖父は匪賊のいびきと鳥の鳴き声の中で目が覚めた。
周りには寝ている匪賊一人しかいなかった。祖父は寝たふりをして、他の匪賊が現れるのを暫らく待った。しかし、誰も現れなかった。
祖父はそっとつま先で寝ている匪賊の膝を触れてみた。匪賊はびくともせずにいびきをかき続けた。
頭が真っ白になった祖父は、次の瞬間立ち上がって、走り出した。匪賊と辿った道の反対方向にひたすら走った。林の中は鳥の鳴き声以外、祖父の足音と呼吸しか聞こえなかった。
どれぐらい走ったのかわからなかったが、祖父は林を通り抜けた。目の前に広さ100メートルぐらいの平原が現れ、その先には端の見えない高粱(コーリャン モロコシの中国での呼称)畑が広がっていた。
祖父は平原を走り通って、高粱畑の前に来た。
高粱達は勢いよく生え茂って、伸び伸びと風の動きに身を委ねて、優雅に体をくねって踊っていた。強い陽射しは揺れ動く高粱と高粱の間に射し込んで、祖父の頬に当たった。
高粱達が九死に一生を得た自分を歓迎しているように見えて、祖父はこれ以上に体験したことのない生への渇きを感じた。
高粱畑に入り込み、祖父は再び走り出した。おでこからしたたり落ちる汗は何度も目を曇らせたが走り続けた。
ぎっしり生えた高粱に足元を取られそうになると、祖父は兔のように敏捷に飛び超えた。風で揺れ動く高粱に視線を遮られそうになると、祖父は振り払って走り続けた。祖父はとにかく、後ろを見ないで、前に向かって走った。
太陽が空の真ん中に来る頃、祖父は高粱畑を走り抜いた。
目の前に人通りの多そうな細い道が現れ、道の向こう側に野菜畑と小さい土壁の家があった。
祖父は高粱畑に隠れ、土壁家の動きをしばらく観察した。畑仕事をする六十前後の男しか土壁家に出入りしていないことを確認すると、祖父は近づいた。男は深くしゃがみ、うつむき状態で懸命にジャガイモの世話をしていた。
「すみません。」
祖父は男の背中に向かって言った。
男はびっくりして飛び上がって、「まさかまた匪賊か」と叫んだ。
「いい人なら、こんなところに一人で来ない。きっと悪い人だ」と男は考えながら、振り向いて祖父を見た。
しかし、目の前の男は荒っぽさ全くなく、礼儀正しい上に弱々しく、かわいそうにさえ見えた。
「はいー。なんですか。」
男は恐る恐る答えた。
「少しお水を、いっ、いっただけますか。」
祖父は吃ってしまった。
「はい、少しお待ちください。」
男は不思議な顔で祖父を眺めながら、部屋に入った。しばらくすると男は水一杯入ったひょうたんひしゃくを持って歩いて来た。
祖父は何も言わずに、ひしゃくの水を一気にごくごくと飲み干した。
男は只目を丸く開き、口をポカンと開けて祖父をじっと見た。
「ここはどこですか。」
祖父は水を飲むと、吃りが少し良くなった。
「え?ここは朝陽県ですが。」
男はますます祖父を不審に思った。
「町の方向はどちらですか。」
朝陽県にいると聞いた祖父の心に喜びが湧き上がった。
「そっちです。」
男は指で細い道の右の方向を指した。
「わかりました。ありがとうございました。」
祖父はお礼を言って、男が指した方向へ進んだ。
人通りが段々多くなり、午後二時頃祖父は朝陽市市内に着いた。
祖父の一番上の姉が朝陽市に嫁いていた。何度も姉宅に来たことがあるので、祖父はあっという間に姉宅に辿り着いた。姉は死んだかもしれない弟がこんな形で家の庭に現れるのをを思いもしなかった。
こうして祖父は一命を取り留めることができた。
祖父を拉致した匪賊達がなぜその朝一人しか残らなかったについて、諸説あった。一番有力な説は次の通りだ。当時中国の東北を実質支配する軍閥張作霖の部隊が匪賊のとりでを襲撃した。その消息を知った匪賊達はとりでを支援するため、祖父と一人の仲間を置いて、一時的にとりでに戻らなくてはならなかった。
張作霖勢力の拡大と共に、小規模の武装集団は徐々に減り、祖父の実家は二度と襲われなかった。
祖父が匪賊の拉致から死を免れたストーリーは忽ち誇張され、広く伝えられた。気がつくと祖父は辺りの有名人になっていた。今までなかった縁談話が一気に舞い込んできた。
一九二一年春、祖父は結婚した。相手は曽祖父の古くからの友人の娘だった。彼女は瀋陽にあるイギリス人教会学校卒の才女であり、誰も彼女が祖父と結婚すると思わなかった。彼女は祖父のハンサムな顔と弱々しげな風貌に一目惚れして、ナイーブな性格と勇敢なエピソードとのギャップに惹かれた。
二人は意気投合して、幸せな結婚生活を送った。祖父の吃り癖も改善されていった。
祖父にとって、結婚した一九二一年から、妻が亡くなった一九三四年までの一三年間は、人生一番幸せな時期だった。
妻から沢山の事を教わった。西洋人の生活習慣、民主主義思想、ポジティブな人生観。祖父にとって、妻は生きる実感をもたらす源となった。祖父は徐々に周りに認められるようになり、結婚の翌年、長男のダリテが誕生した。
祖父は人生がこのまま続いて欲しかった。匪賊から逃げた過去は未年の呪い、人生の全ての苦難を解消したように思えた。
しかし、ダリテが十二歳の時、妻は病死した。
祖父は酷く落ち込み、何年経っても妻を失った悲しみから立ち直らなかった。
中華民国、軍閥混戦、満州国、抗日戦争、国共内戦、どの時代も混乱と恐怖で満ちた。人々は常にパニックと戦わなけれなならなかった。誰もが平和を望んでいた。
祖父母は、命の危険と家財を失う危機に何度も晒された。幸いなことに、取り返しのつかない結果にはならなかった。
内戦が終わり、一九四九年中華人民共和国が成立した時、祖父母は「人民のために尽くす」というスローガンに感銘を受け、「太平の世がやっと来た」と喜んだ。しかし、皮肉に祖父母の期待はどの乱世よりも大きく裏切られた。
一九五〇年、中国政府は「土地改革」(注⑦)と「公私合営」(注⑧)と言う名の「階級闘争」(注⑨)を始めた。
有産階級だった祖父母は全ての土地と財産を失い、一家は政府から配給された小さな家で生活するように命じられた。
一九五八年、「大躍進運動」(注⑩)が始まった。三〇〇〇万人の餓死者をもたらしたとされる「大躍進運動」から、祖父一家も免れることなく、餓死する寸前までにきた。
生と死の瀬戸際から一家を救出したのがダリテだった。
ダリテは瀋陽にある日本人学校を卒業した後、中国共産党に加入していた。
国民党と共産党における内戦での貢献が評価され、ダリテは後に中国共産党人民解放軍内モンゴル支部の「政治部主任」まで上り詰めた。
ダリテは一家を自分が住むフフホト市に迎え、住むところと食物を与え、面倒を見た。
こうして、祖父一家は全員餓死する最悪な運命を辿らなかった。しかし、祖父だけはフフホトに来た直後、重度な栄養失調で亡くなった。
祖父が亡くなった後、祖母は三人の子供の世話と生計を一人で担うようになった。三人の子供を養うために、祖母は必死に働いた。
祖父母には七人の子供がいたけど、四人は幼少の時に夭折してしまい、残りの三人だけが大人まで育った。その三人とはゴンチグ、サイハンナ(私の母)、ツァガンファールだ。
祖父が亡くなった当時、ゴンチグおじさんは一三歳、母は八歳、ツァガンファールおばさんは二歳だった。
私は一度も祖父に会ったことがなかった。祖母の断片的な記憶から、なんとなく祖父の姿を推測できた。しかし、もっと知りたかった。
祖父は死際に何を考えたのか。様々な乱世を生き抜いて、勇ましい伝説を持つ男が空腹で死を迎える時、生きる尊厳が徹底的に奪われた時、どのような心構だっだのか。
祖父が死ぬ前の様子を、祖母はそれほど多く語らなかった。只、食べ物を要求することは一度もなかったと言った。
祖父の心は憎しみで満ちていたのか。もし憎しみがあったら、運命をここまで追いやった物を思索したことがあったのか。戦おうと思わなかったのか。もし憎しみではなかったら、どのような感情だったのか。偶々運が悪く、生きた時代を間違ったと運命に屈服したのか。或いは考えても無駄だと思い、考えることすら諦めていたのか。
三〇〇〇万の餓死者は皆、祖父と同じ気持ちだったのか。誰一人声を上げなかったのか。誰一人戦おうとしなかったのか。
沈黙のまま命を落とした三〇〇〇万の同胞を思うと、なぜか魯迅が頭に浮ぶ。
魯迅は日本留学して、仙台で医学を学んでいた。ある日、日露戦争に関するドキュメンタリー映画が上映された。スパイ容疑でロシア側に銃殺される中国人のことを他の中国人達が喝采するシーンに魯迅は衝撃を受け、中国国民の無知と無自覚という現実を痛感した。
体を健康にするよりも、国民の精神の「病」、即ち無知と無自覚を先に取り除くべきと考えた。この事を機に魯迅は医学の勉強を辞め、文筆を通じて同胞の精神を啓発する道に入った。
魯迅の小説「阿Q正伝注⑪」の主人公阿Qはこのような無知と無自覚な愚民の姿を凝縮した人物だ。現実の惨めさを口先で誤魔化し、思考で逆転させるという自己欺瞞の方法で自分を納得させた。最後に、真実に目を向けようとしない阿Qは全くの無実で処刑され、そして、その死刑を観賞する人々は阿Qの死にざまの見栄えのなさに不満を言った。
魯迅はこの世を去って八十年もなる。彼に衝撃を与えた同胞の死刑を喝采する者、嘲笑う者、不満を言う者は、今の時代にまだ存在するのか。結論はそのような者はいなくなったところか、むしろ姿を変え、巧みに増殖しているように感じる。
他人の死刑という極端な例ではなく、ほとんどの人は自分の「正当な権利」にさえ関心がない。
人々は権利が奪われたこと、踏みにじられたことすら自覚していない。そんな人が他人の辛み苦しみに同情して、助け手を差し伸べるはずがない。
八十年も時代は前進した。科学技術は言うまでもなく、人の心の変化は八十年前と比べて一目瞭然だ。しかし、どうして「無知と無自覚」の病は治らない上に、悪化したのか。どうしてこの現象を問い質す人や変える人は少ないのか。
その原因は歪曲された歴史観と世界観だと私は思う。歪曲された歴史観と世界観は人々に曲がった価値観をもたらして、社会に拝金主義、利益主義、利己主義を蔓延させた。それによって、誠実、真実への追究、弱者への同情を失った。
悲しいことに、人々は真実だと信じていた物が、実は嘘だということを知らない。彼らは真実を知る機能を失っていた。そして、彼らは失った物も失った理由も知らないまま死んでいく。
最も皮肉なのは、彼らの「知らない」を招いた要因は、彼らが知る術もない「真実」に隠されている。そして、彼らは子供を育てる。親の曲がった価値観は子供に伝え、子供はまたその子供に伝える。
八十年もの間、人々は自ら催眠をかけたように、眠ったままだった。見えない牢獄に監禁されていることに気づいても、牢獄を破らなかった。打ちのめされ、戦うことをやめ、希望を捨てて、只死を待つ者。監獄のルールに馴染み、臭味を香りだと思い込み、その生活を満喫する者。ベテラン囚人になると、弱者の自由を完全に剥奪して、少数の脱獄者を許さなかった。少数派を徹底的に破滅させ、牢獄が破壊されないように働いた。彼らは牢獄に留まることを自ら選んだ。
世界史の中で、多くの国や人は自らの権利のために激しい戦いをしてきた。四千年の長い歴史を誇るこの国はなぜそうはならなかったのか。
歴史、文化、或いは国民性がその理由なのか。それとも、人間が生まれ持つ利己的な性質のせいなのか。
ダリテはフフホトに来た三人の弟、妹達を学校に通わせ、彼らが成人すると、それぞれに良い進路や職業を与えた。
兄弟の中で、一番運がよかったのは私の母だ。中学校卒業した後、十六歳で軍人になつて、退役後は大学にも入れた。
ゴンチグおじさんは、高校卒業した後、工場の職員になった。無産階級を象徴する仕事で、誰もが羨ましかった。その後、ゴンチグおじさんは、ダリテおじさんの友人であるフフホト市長の甥グルロと結婚した。
ツァガンファールおばさんは中学校卒業した後、ホテルのフロントスタッフになった。
フフホトに来て五年後、「文化大革命注⑫」が始まった。一九六六年、全国が「破四旧注⑬」を呼びかける中、地主の妻だった祖母は拘束され、「牛棚注⑭」に入れられた。祖母は高い帽子をかぶせられ、見せしめられた。公衆の前で祖母は「批闘注⑮」され、「認罪注⑯」を強られた。
その後、一九七二年からの「内モンゴル人民革命党粛清事件注⑰」で、祖母の出身が調査され、「外国と密通した」と言う罪で逮捕された。同年、ダリテおじさんも「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」の濡れ衣を着せられ、投獄された。
「内モンゴル人民革命党粛清事件」で多くの人が無実の罪で投獄され、五万人から一〇万人ものモンゴル人が殺害された。
ダリテおじさんが逮捕される前の一九七一年、母は人民解放軍に入隊していた。母の上司はダリテおじさんの友人だったため、軍にいた七年間、母は露骨な迫害を受けなかった。しかし、「階級闘争」が激しい中、地主の娘と分裂主義者の妹として、様々な形の差別と侮辱を受けた。
モンゴル民族も漢民族も、十年間もの文化大革命の間に、大勢命を落とした。
ダリテおじさんの友人の一人は虐待に耐えられず、飛び降り自殺をした。
もう一人の友人の女性は、拷問を受けた際、膣に鉄棒を挿し込まれ、鉄棒が腹部を貫通した末亡くなった。
文化大革命の十年を通して、モンゴルの旧貴族や指導階級はほとんど殺戮された。内モンゴル独立運動の微かな炎もこの時から完全に撲滅される形になった。
文化大革命が終焉を迎えると、中国は改革開放政策を始まり、国の扉を開いた。人々は「階級闘争」の時代から開放され、「経済建設」に集中するようになった。
子供達がそれぞれ独立した後、祖母はようやく平穏な生活を手に入れた。次々と誕生する孫達の世話をして、満足に日々を過ごした。
*
翌朝、両親が起きる前に私は家を後にした。卒業した大学の創立記念パーティーに参加するためだ。
卒業した直後に留学した私にとって、初めての参加だった。
私はフフホト在住の同級生雲とランチをして、その後一緒にパーティーへ向かった。
ユンは国家公務員で、結婚相手も同じだった。彼女は何気なく自分のこと、結婚相手のこと、結婚相手の家族のことを自慢していた。
私はユンのアウディに乗って、夕方頃に目的地に着いた。
ユンは、パーティーを開くホテルはフフホト一番の高級ホテルだと教えてくれた。私は故郷に関する知識の乏しさを覚えながら、パーティー会場に入った。
会場の中は騒がしかった。叫ばないと声が相手に届かないほど賑やかだった。
近くにいる同級生の何人かに声かけられたが、賑やか過ぎてスムーズに会話ができなかった。
「アロナ、久しぶり!」
聞き覚えのある声が耳元で響いた。振り向いて見ると、大きなお腹を抱える中年男が立っていた。面影に見覚えがある男の正体を私は必死に思い出そうとした。
「チョクだよ。」
男は体を前かがみにして、蛙のように大きなお腹を持って言った。
脂ぎった顔の隅に隠れた一筋の笑顔はあのよく見たことのある笑顔だった。その笑顔から、彼は大学時代の恋人のチョクだとわかった。
チョクは声と笑顔以外、ほとんどが変わってしまった。
引き締まった体はたるんだ巨体になり、鋭い眼差しは色褪せ、誠実さと生命力が溢れたオーラは惨めさが漂う狡猾なオーラに変わっていた。チョクは全くの別人となった。私は彼の変わり果てた姿を見て、残念な気持ちで一杯だった。
「久しぶり。あまりにも変わってしまって、すぐにはわからなかったよ。」
私は淡々と言った。
「中はうるさいから、外行こう。」
チョクは油でテカテカになった顔を私に近づいて、大きい声で言った。
会場を出て、私はチョクと入口近くで立ち話をし始めた。
「まだ日本にいるの?」
チョクは単刀直入で聞いてきた。
「え。そうです。まだ日本にいる。」
「仕事とかしてるの?」
「もちろんしているよ。あなたは?地元で農場を開いた?農作物の研究をしているの?」
「農作物の研究なんかやってないよ。僕は地元の大学で働いている。准教授をやってるさ。」
太っているせいか、チョクは荒い鼻息を私の頬に吹きかけながら自慢げに言った。。
「へー。凄いですね。植物学を教えてるの?農作物の研究はなんで辞めたの?」。
「うん、植物を教えてる。専攻は捨てられないよ。大学卒業した後、南京農学院で修士と博士学位をとったんだ。その後今の職場に就いた。田舎で農作物の研究をして生計を立てるのは、只の非現実な夢だった。僕は卒業した後、農場を開く資金を集めたかった。地元政府は大学卒業生の創業を支援する基金があると聞いて、地元政府に相談してみた。そしたら、そのまま追い出されて、担当の偉い人にも会えなかった。その後も何度か市役所に行ってみたけど、誰もまともに相談に乗ってくれなかった。後で聞いた話だけど、大学生創業基金は全部政府のお偉いさんの子供や親戚に与えたとか。それを聞いて、僕は自分の考えの甘さに気付いた。僕みたいな一般人は誰も相手にしてくれない。まずは偉い人のネットワークに入らないと行けないと思った。」
「じゃ、資金を集めたら、またやるつもりなの?」
私は聞き続けた。
「そんなこともうやらないよ。今の生活には満足している。わざわざ苦労するようなバカなことはしないよ。」
チョクは軽んじた感じで言った。
「ところで君はなんの仕事しているの?」
チョクは話題を変えた。
「IT企業でソフトウェア開発の仕事をしているよ。」
「君がソフトウェア開発?文系じゃなかったの?作家になりたいって言わなかった?」
チョクは笑いながら言った。
「IT関係の仕事の方が給料が良いからだよ。作家の夢はまだ捨ててないよ。それにあなたと関係ないでしょ?」
私は少しイラついた。
「日本で辛かったら、国に戻って来いよ。僕が面倒見てあげるからさ。中国はコネの社会だから、コネさえあればなんとかなる。」
美しい幻が急に消えてしまったかのように、私はショックで一瞬何を言ったらいいかわからなかった。
「結構コネ持ってるの?」
チョクとの会話を早く終わらしたかったが、失礼に当たらないように、平常を装って返事した。
「それなりにね。僕みたいな農民の子供は特にお偉いさんと仲良くさせて貰わないと、仕事さえ手に入らないよ。どのお偉いさんを選んで近づくかは一つの学問だ。今後偉くなっていく人は誰か、どの人が僕自身の昇進に役立つかを察知するには、かなりの洞察力が必要だ。これは能力だよ。」
チョクは調子に乗って、語り続けた。
チョクは外見だけが変わったのではなく、心まで変わってしまった。その変わり果てた容姿は心の現れと言った方がいいかもしれない。チョクの曲がった価値観に驚きながら、私は自分がそのような社会にいないことを幸運に思った。
「そろそろ中に入ろうか。」
私はチョクとの会話を切り上げようとした。無愛想な口調で言いながら、体を移動した。
そしたら、チョクは急に強く私の手を取って、怒ったように言った。
「僕と話すのが嫌なの?」
「あの…違う、そろそろパーティー始まるかなと思って。」
私は戸惑いながら答えた。
「僕のことを知りたくないの?僕は結婚した。三歳の子供がいる。」
チョクは私の手を強く掴んで、眉間に力を入れて言った。
「そうなんだ。おめでとう。」
「君は結婚した?」
「いや、まだです。」
私は正直に答えた。
「恋人はいるの?」
「はい、います。」
「日本人?」
「え、そうです。」
「どうして日本人なの?日本人と結婚すると不幸になる。ニュースによく出ている。家事は全部女がやるし、風呂水も毎日入れてあげないといけない。食事する時跪いてご主人に仕えないといけないだろう?」
チョクはしつこく言い続けた。
「それはどこの情報だよ。」
私はあきれた。
「それに、中国と日本が戦争になったら、どうやって君を助けるの?帰れなかったらどうするの?」
「もしそうなったら仕方がないです。あなたとなんの関係あるの?」
私は手をチョクの手から離そうとした。
「中国に戻って。僕と付き合って。仕事も生活も面倒見てやるから。だめ?」
チョクは切実に訴えている顔で言った。その顔はかわいそうに見えたが、気持ち悪かった。
「何を言ってるの?奥さんも子供もいるでしょう?手を離して!」
私は思わず大声で言って、チョクの手を振り払った。
「皆愛人がいるよ、普通の事だよ。日本だってそうでしょう?」
チョクは止まらなかった。
これ以上チョクとの会話に耐えられない私は逃げるしかなかった。席に置いた荷物を取り、慌てふためき会場を後にした。
どんな物が人をここまで変えられるのかを、私はとてつもなく不思議に思った。
チョクもグロルおばさんもソルナも、九年前の記憶の中の姿とかけ離れすぎた。
彼らは変わったのではなく、時代と共に本来の姿が大きく膨み、はっきりした形で現れ出ただけかもしれない。
また、祖母とツァガンファールおばさん、ヘールはどんな力で変わらないままでいられたのか。
祖父、ダリテおじさん、又は逝去した人々は、もしこの時代に生きていたら、変わるのか。
父と母はどうだろう?
一週間の中国での滞在を終え、私は日本に戻った。
飛行機は夕焼けに照り映えて、帰国の時と同じように、輝かしいオレンジ色になっていた。しかし、私の心は違った。
グルロおばさん、ソルナとの会話、チョクとの再会は私の中の何かを徹底的に撃砕した。
それは家族や友人への愛かもしれない。或いは祖国に対する期待かもしれない。人間に対して残った最後の信頼かもしれない。一体何が完全に壊れたのかははっきりわからないが、夕焼け雲に直視できないように、私は甘い初恋の思い出を直視できなくなった。青いトマトの秘密を知る気持ちも完全に消えた。
もちろんグロルおばさん、ソルナとの会話も二度と繰り返したくない思った。
*
日本に帰った後、私は会社通いの日常に戻った。
朝早く起床して、一時間半電車に乗って、会社につく。定時の五時半に帰宅する日もあれば、終点まで働く日もあった。
忙しい日々の中で、私は中国であったあれこれを思い出すことはなかった。何ヶ月か立つと、中国のでき事の細かい部分も忘れていった。残ったのは薄っすらとした嫌悪感だけだった。
パソコン専門ではなかった私にとって、ソフトウエア開発の仕事は苦痛だった。大学院を卒業した後、文系出身の私はIT業界で働く道を選んだ。事務関連の仕事、総務職、出版社の仕事より給料が良かったからだ。当時の私は、日本社会に対する理解は浅かった。自分の能力を過大評価して、潜在力を信じ過ぎていた。総合的に職業を選んだのではなく、払われる給料の良さで職業を選んだ。暫く働くと、私はこの仕事には不向きであることに気づいた。
幸いなことに、上司と同僚達はいい人ばかりで、気長くサポートしてくれた。しかし、感謝の反面、私は複雑な気持ちでいた。情けない気持ち、申し訳ない気持ち、目先の利益で就職先を選んだ後悔、そして実力のなさ。こんな葛藤の中で、この仕事を長く続くことはできないと私は思った。
そんな苦悩の日々の中で、唯一私が楽しみにしていることがあった。それは、土曜日「けん」とのデートだった。
私には四年間付き合っているボーイフレンド「けん」がいた。大学院の一年間と就職した後の三年間、けんは私と共に歩んできた。
「けん」は女性としての虚栄心を全て満足してくれる理想なボーイフレンドだった。
けんと知り合った時、私はまだ学生だった。
当時、留学生の私は勉強以外の時間で、調布の商店街に開く居酒屋「夢うらら」でバイトをしていた。
ある初冬の日の夕方、店舗の外にビールの空ビンを出しに行った時、私はけんと出会った。
けんは片手をコートのポケットに入れて、片手でタバコを吸い、商店街の反対側に立っていた。黒いミリタリーブーツに茶色のズボン。ズボンはさり気なくブーツインされていた。上半身は同じくミリタリー風の、カーキ色、太ももの上の方までの長さの、重そうなコートを着ていた。がっしりした上半身と長い足はこの重みのある、今時らしくない格好を違和感なく着こなしてていた。
本番になる前の商店街は人通りが少なく、静かだった。この男の存在は目立っていた。
どこか独特な雰囲気を漂う男の顔を私は思わず好奇心で見てしまった。黒いショートヘアの下には黒くて太い眉毛、そして黒い瞳は炯々とした眼差しを放っていた。その眼差しには生気と揶揄する両方の感情が混じり合っていた。筋の通った鼻の下にはスマートに結ぶ唇。男の顔と雰囲気は私に昭和時代の日本映画の主人公を思い起こさせた。今時の細くて弱々しい男ではなく、ハンサムと野性両方を持ち合わせていた。
男を見入り過ぎた自分に気づき、私は急いで店の中に逃げん込んで、開店前の準備に戻った。
皿を収納する棚の拭き掃除をしていた最中に、店のドアが開かれた。
「いらっしゃいませ」と言いながら、こんなに早く来る客は誰だろうと頭の中で探った。
首を伸ばして見て見ると、先ほど商店街の向うに立っていたあの男だった。
私は一瞬唖然とした。
「まだ開店してないです」と思わず言った。
「宴会はできますか。」
男はからかうような笑顔で私に聞いた。
「はい、二階でできます。」
私は機械的に答えた。
「何時からできるの?」
「六時からできます。」
「じゃ、六時にまた来る。七八人いるけど、大丈夫?」
「はい、大丈夫だと思います。お待ちしております。」
その日、けんは仲間達と「夢うらら」で宴会を開いた。
けんは九年ぶりにアメリカから日本に帰ってきて、道場の仲間と再会を祝う店を探していた。私がビールのビンを出していた時、けんは仲間と待ち合わせをしていた。
けんは元柔道選手で、後にK-1選手に転身していた。アメリカでの選手生活を終え、日本に戻ってきたのだ。二回離婚を経験した。二十三歳の時に、幼馴染の女性と結婚して、渡米した後に離婚した。二番目の妻はアメリカ人で、結婚一年足らずで離婚した。子供はいない。
帰国した後、けんはボクシングジムの経営を始めた。
けんと知り合った時、彼は三六歳、私より十二歳年上だった。
あの後、けんはよく私のバイト先に尋ねて来るようになった。店で食事をしたり、酒を飲んだ。酒を飲んでいない日は、私を家まで送った。
感動的な告白もなく、非現実な誓いと約束もなく、私達は淡々と付き合い始めた。
勉強とバイトだけの単調的な悪戦苦闘の毎日を送る私にとって、けんの出現は暗闇の中の一線の光のようだった。けんは暇があると私をあちらこちらへ連れて行き、勉強しか知らない私に今まで経験する機会のない世界を見せてくれた。
私達はゴッホ、レンブラントの絵を見に行ったり、クラシックコンサートを聞き、オペラを鑑賞したり、ジャズを聞きながら食事をした。どれも貧乏な留学生で有る私にとって贅沢過ぎていた。けんはいつも私の希望を聞き、それを叶えようとしてくれた。
けんはボクシングの試合に私をよく連れて行った。そこで彼の仲間と沢山知り合った。湘南の海で、私にサーフィンを覚えさせようとしたが、泳げない私は決してサーフィンを身につけることはなかった。
私達は互いに多く求め過ぎないことを暗黙に合意していた。けんの仕事やプライベートに私は口を出さない。けんも同じようにしてきた。
只、時々、けんは内気な私を変えようとした。
「もっと人とかかわらないと。」
「アロナ、自分の殻に閉じ込めたままじゃだめだよ。」
しかし、私の答えはいつも同じだった。
「けんと関係ないでしょ?」
けんのこのような口出しは私にとって、ありのままの私を受け入れないことを意味していた。これ故に、私はけんに心を許さなかった。
けんには沢山の友人がいた。男、女、年上の人、年下の人。皆、彼を慕って、彼を愛した。
しかし、彼の友達がいると、私は何故か歓楽な雰囲気に馴染めず、いつも疎外感を感じていた。
私達はどっちも結婚する願望はなかった。彼は二度の離婚を経験して、三度目の結婚を成功させる自信はなかった。一方の私は少女の頃から不婚主義者だった。
日本での生活は中国と大きく違っていた。人間同士は互いのプライベートに踏み入り過ぎないところは、私にとって心地がよかった。
皮肉なことに、人の心に踏み入り過ぎる行為を毛嫌いしていた私は、なぜか心を通わす人間関係を求めるようになった。しかし、祖母以外、そんな人は現れなかった。けんでさえ、私にとって全てを分かち合える相手ではなかった。
私とけんはドライな恋愛関係を続けた。私達の二人の誰かが別れを告げないと、この関係は永遠に続くだろうと私は思っていた。
今日も私はいつものようにデートの準備をしていた。
軽く朝食をとり、けんが誕生日にくれたイギリス歌手アデルのアルバムを聞きながら、デートの服を選び、化粧をした。
昼十一時はけんが寮まで迎えに来てくれる時間だ。
寮の入口を出たら、けんの車は既にあった。私は素早く車に乗り込み、「こんにちは」といつものように挨拶した。しかし、けんは返事をしなかった。唇をきつく締め、眉間にしわを寄せていた。サングラスをかけていたので、目は見えないが、固くて暗い表情は明らかだった。
「どうしたの?なんかあった?」
様子がいつもと違うけんを見て、私は少し心配になった。
「後で話す。まずは食事行こう。」
よく行くイタリアンでパスタ、サラダと飲み物を頼んで、私達は沈黙の中で食事を終えた。けんはほとんど食べなかった。
黙って座り込むけんを見ると、その炯々とする目線は色褪せ、独特な揶揄な笑顔も消えていた。何か大事があると私は感じた。
けんは何度か口を動かそうとしたが、結局何も言い出さなかった。
「一体どうしたの?ジムが上手く行ってない?昨夜長澤君の試合は上手く行かなかった?」
私の気持ちは少し焦ってきた。
「違う。俺だよ。……俺、がんになったんだ。胃がんなんだ。」
私はこれはけんのいたずらな嘘だと信じたかった。しかし、けんの表情は明らかにそうではなかった。真剣さと悲しさの裏に恐れのような気持ちも隠れていた。
「うそでしょ?」
結局この言葉を発してしまった。
「本当だ。後半年から一年と言われた。」
私の頭は真っ白になって、思考が止まったかのように混乱に陥った。最後に、私の胸に深い悲しみと怒りが沸いて来た。
「なんで私に言うの?」
流れ出そうな涙を飲み込んで、私は言った。
「アロナを悲しませるつもりはないけど、言った方がいいかなと思って。別に何もしなくていいよ。只、知らせたかっただけだ。」
けんは私の目を避けて、彼らしくない小声で言った。
この言葉を聞いて、私の涙はせきを切ったようにどっと目から溢れ出て、止まらなくなってしまった。
あの日、寮に戻った後、私は泣き続けた。けんとドライな恋愛関係を維持して来たつもりだったが、なぜここまで悲しむのか、自分にも理解できなかった。気付かない間に、私とけんの関係は変わっていたのか。それとも、親しい人を失ったことに対する単純なショックと悲しみなのか。
結局、私はドライな関係を貫くことができなかった。けんを見捨てることもできなかった。最後に、私はけんと共に病魔と戦うことを選んだ。
最初の頃、けんは周りの励ましで「生」への希望が強かった。しかし、体調が悪くなるに連れ、好転する期待を諦めた。けんは冷静に身辺整理を始めた。
ライオンのように強かったけん、どんなことでも叶えてくれるスーパーマンのけん、段々痩せていき、いつも輝いていた目は深く黒い二つの空洞となった。けんは私の中のけんではなくなった。
一年後、けんは四十一歳の若さで亡くなった。
「作家になる道に心はある?もしあれば、楽しく旅に出ればいい。何を躊躇しているんだ?人生は心の旅、欲や恐れに左右されてはいけない。心の道に目を見張り、心の道を慎重に行くだけさ。」
これがけんの私に残った最後の言葉だった。
けんが亡くなった後、私の涙は乾いたかのように一滴も流れなかった。
病とその治療で伴った苦痛を受けたけんを思うと、心はいつも震えた。最後の最後のけんの変わり果てた姿に、今も触れることができない。
けんの死は私に今までの人生を見直す機会を与えてくれた。しかし、考えれば考えるほど虚しさと無力感に陥った。
両親との関係、アイデンティティ、キャリア、中国とこの国にいる人々への様々な思い。
私はこの九年間泥沼に落ちてしまい、懸命にもがいた。けんは溺れる私の最後の希望だったかもしれない。けんがいなくなって、私は今にも泥沼に飲まれそうだ。
私は全てに対して、方向を失ってしまった。その方向というのは、けんの死への悲しみよりも生きることへの絶望感の方が強かった。
私は両親と疎遠になり、友達との連絡もほとんど断った。私は自分の殻に完全に閉じこもってしまった。けんに言われた通りに、楽しく堂々と心の旅に出たかった。しかし、全ての道は塞がったように感じて、前に進めなくなった。
時々、祖母の言葉を思い出した。
「ウギー湖の周りの湿地に咲くあの綺麗な花のように、アロナも湿度と温度がぴったり合う居場所をきっと見つかる。そうすればアロナも綺麗な花を咲くよ」と。
祖母のこの言葉は私の慰めだった。私はこの言葉を疑わずに信じて、その日が来るのを待ち望んでいた。しかし、今はこの言葉を嘘のようにしか思えない。私の短い人生は、私にこの言葉を信じてはいけないと警鐘を鳴らしているようにさえ聞こえた。
神様はなぜ私をこのような境地に置いたのか。神様は私を憎んでいるのか。私は心の中で叫んだ。泥沼から抜け出すように必死にもがいた。しかし、もがけばもがくほど、沈んで行った。
三ヶ月後、私は職場に辞表を提出して、けんとよく行った湘南海岸の近くに引越した。「海が答えてくれるかもしれない。答えを教えてくれなくても、死ぬ勇気をくれるかもしれない」と思ったからだ。
私は毎日砂浜に座り、海を眺めた。
続く
注釈
①ザッサク王 清政府が旗ごとに牧地を指定した世襲制の旗長のこと。
②上山下郷運動とは、文化大革命期の中華人民共和国において、毛沢東の指導によって行われたた青少年の地方での微農(下放)を進める運動のこと。
③トゥメト サヨクキ 漢字は土默特左翼旗。今の中国遼寧省阜新モンゴル自治県。
④ウンゲルン男爵 ロシアの軍人、貴族(男爵)白軍の首領の一人。
⑤四合院 方形の中庭を囲んで、一棟三室、東西南北四棟を単位とする北方中国伝統的家屋建築である。四合院の「院」とは中庭(院子)のことで、中庭を中央に設け、中庭の中央に「十」文字の通路を作り、その東西南北の突き当たりに、それぞれ一棟ずつ建物を配置する。そのため四合院と呼ばれるようになった。北側に設けられるのが、「正房」であり、表座敷にあたり、主人夫婦が住む。そのため屋根も他の棟より高い。東側に設けられるのが、「東廂房」である。東のわきの間であり、主人の両親や長男が住む。西側に設けられるのが、「西廂房」である。西のわきの間であり、次男が住む。(ウィキペディア)
⑥旗清代以降におけるモンゴル民族を組織する行政単位の一種。現代の中国・モンゴル国の両国においても現行の地方行政単位となっている。
⑦「土地改革」一九四九年中華人民共和国が建国後、最初に発動された全国的運動である。土地改革の目的と任務は、「地主階級による土地所有制を廃除し、農民による土地所有制を実施、以て農村の生産力を解放し農業生産を発展させ、新中国の工業化の道を開く」だった。
⑧「公私合営」急激な社会主義化を実現するために、中華人民共和国が行った経済政策。私有企業を公私合営化し(事実上の国有化)、地主から没収して農民に配分した土地を農業集団化によって、再び農民から取り上げ公有化すること。
⑨階級闘争 経済的・政治的に対立する階級間の争い。特にマルクス主義において、歴史の基本的な動因とされる。
⑩大躍進運動 1958年から中国で毛沢東思想に基づいて始められた高度経済成長政策。「15年でイギリスに追いつく」を合言葉に鉄鋼大増産、人民公社化などが図られたが、経済均衡の失調、農村の荒廃、三千万人の餓死者を出し、59年毛沢東は国家主席を辞任。
⑪文化大革命 中華人民共和国で一九六六年から一九七六年までに行われた社会騒乱である。全称は無産階級文化大革命(プロレタリア文化大革命)。
⑫破四旧 四つを打破すること。文化大革命用語。民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に排除すること。新態を立てることと合わせて、「破四旧、立四新」と表現する。
⑬牛棚 文化大革命中に「牛鬼蛇神」と言われて闘争の対象となった者が入れられた牢(牛小屋)を指す。
⑭批闘 文化大革命用語・公開の席上で批判闘争すること。
⑮認罪 罪を認めること。自白すること。
⑯内モンゴル人民革命党粛清事件