風の名はアムネジア
昔このタイトルのアニメを見たとき、タイトルの格好良さに惹かれて書いたものです。内容は全く関係ありませんが、ご一読頂ければ幸いです。
彼は確かにそこにいた。盆地を見下ろす、小高い丘の上にいた。鉛色に曇る空の下、一人佇んでいた。彼が見下ろす盆地には、小さな街、いや街と呼ぶには小さすぎる集落が見える。集落の中には以前と同じように、人々が日々の営みを繰り返しているに違いない。大した夢や期待も無く、ただその日その日を過ごし切る為に住民達が額に汗する、それが彼の故郷だった。
【何故ここに来てしまったのか?】
彼は枯れかけた雑草の上に腰を下ろしながら、自問してみた。答えなど出るはずも無い。例え二度と足を踏み入れる事が叶わなくとも、ここは彼を育んでくれた故郷なのだから。集落の脇に目を移すと、大きな楕円形の空き地が見えた。過去には整地され、草木の繁茂を許さなかったその場所も、今や雑草たちに占拠されている。彼はふと目を閉じてみた。
楕円形の空き地は彼の脳裏でかつての姿を取り戻し、あの日の観衆の歓声まで呼び戻してくれた。
【何一つ変わらない。】
彼は記憶の中へ逃げ込んだ。在りし日の栄光に酔いつつ、現実を拒絶した。人間は感傷の中だけでは生きられない。あの日から今日までの彼自身が、それを一番良くわかっていた。だがかつての思い出に縋らなくては生きていけないのも人間なのかも知れない。
ため息をつきながら、目を開いてみた。いつの間にか夕暮れが迫っており、集落の屋根からは夕餉の支度か数本の煙が立ち上っていた。その煙はまっすぐに鉛色の空へと融合していくかに見えた。ここで彼は、やっとあることに気付いた。
【そうだ、今日は風が無い。】
その日小高い丘に囲まれた集落は、かつて無い熱気と期待で溢れ返っていた。普段は人の往来すらまれなその集落では、一つの話題で沸き立っていた。この集落で生まれた未来の英雄を讃えていた。国内男子短距離走で優勝、しかも国内新記録タイ。次に走れば日本記録更新は間違いないだろうと下馬評は告げていた。そしてその故郷は、彼の生まれた集落でその記録を樹立させることを願った。当初は学校のグランドを借りての非公式なものを予定していたが、この騒ぎに自治体までもが盛り上がり、仮設グランドを建設する計画が持ち上がった。そして記録樹立の折には、記念スタジアムが建設される運びとまでなっていた。その話題の中心にいたのが彼だった。
周囲は彼の才能のみに注目していたが、彼本人が最も必要としていたのはコーチだった。そのコーチの指導を受けてから、彼は初めてその才能を開花させた。彼はコーチに全幅の信頼を寄せていた。
急ぎ拵えのグランドが完成し、いよいよその日がやってきた。いつものようにウォーミングアップを済ませた彼は、コーチの横に座りゆっくりとため息をついた。彼には今一つ自信が無かった。練習中新記録の壁を一度も破ることが出来なかったからだ。当初彼はこの計画に反対だったが、熱心に勧めてくれるコーチと生まれ故郷へのせめてもの恩返しとばかりに出場を決めた。コーチの言葉一つ一つを噛み締めながら、コーチから渡された紙コップ震える手で受けとった。走る前に必ず飲み干すコーチ特製の栄養ドリンクは、いつにまして舌を痺れさせながら喉元を降りていった。
彼はスタートラインに立った。マスコミや陸上ファンに圧倒されながらも、地元民達が自分を遠巻きに応援してくれている。先ほどまでの不安は嘘のように消え、闘争本能を剥き出したような彼がいた。額から流れる汗が一つ一つ数えられるほど、皮膚の感覚は鋭敏になる。太陽の照り返しが痛いほどに輝いて見える。アイドリングを始めた彼の鼓動は、外に洩れるほど力強かった。口腔は乾ききり、ジェットエンジンの吸気孔の如く、大気を吸い上げる。人のざわめきの中でも、衣擦れすら聞き逃さないほど彼の聴力は研ぎ澄まされる。そしてスタートの合図を今か今かと待ち焦がれる身体を押さえるので彼は必死だった。
乾いた銃声とともに彼はスタートした。スタート、そして加速。彼はいつもどおりの手応えを感じていた。いつもどおりであれば記録には届かないかも知れない。しかしそんな不安すら覚えることなく、彼は何かに憑かれた様にひたすらゴールを目指し走り続けた。その時彼は確かに感じた。体毛が逆立つほど敏感になった背中に、痺れるような追い風を。その風に運ばれるかのように彼は瞬く間にゴールした。
鼓膜が割れんばかりの大歓声の中、彼は日本記録樹立を知った。彼はインタビュアーに問われ、興奮のあまり呂律すら回らぬ口でコーチの指導の素晴らしさと、あの痺れるような追い風を語った。コーチは感激のあまり、彼を抱き上げた。そして興奮のさなか風は彼が飲んだ栄養ドリンクの紙コップを記者達の足元まで運んでいた。
恐らくそこに悪意は欠片も無かった。紙コップを拾った記者は、かの記録樹立者が試合前どんなものを飲んでいるか、ただそれだけの好奇心からその内容を調べただけだった。しかし一週間後の新聞や雑誌は、彼のドーピングの記事で埋め尽くされていた。
英雄は一瞬にして地に堕ちた。彼は集落にも居られなくなり、人込みに出ることすら出来なくなった。そして薬物は彼の体を確実に蝕んでいた。眠くも無いのにあくびを連発し、突然涙が溢れる。なんの前触れも無い動悸や発汗に襲われる。薬物による副作用のために彼は人目を忍んで病院に通わざるを得なかった。いつの間にか彼から話題は逸れ、誰も彼を追い回さなくなった頃彼は最後の通院を終えた。そして帰りがけ、体全体が後ろに押し戻される様な不思議な感覚に襲われた。ふと自分の足元に空き缶が転がり寄るのに気付いた。その空き缶が彼をかわす様に転がり去るのを見て彼はようやく気が付いた。
【風が吹いているのだ。】
以来彼は風を感じることは無くなっていた。
小高い丘に座ってから小一時間が立とうとしていた。彼は裾にまとわりつく枯れ草をものともせずに歩き始めた。あの風は何だったのだろうか?あの日の風は彼に一瞬の栄光を与えた後、全てを奪い去った。そして人々の記憶すら風が吹き消していく。彼は二度と戻ることの無い生まれ故郷を一瞥し、足早に去って行った。
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