食人少女と尋常少年
激しい雨が降り続いていた。あたりは灰色の空に覆われている。
遠くにはなだらかな山がそびえているのが見え、左右に目をやると、果てしなく続く田園。
(寒いな……)
黒いカッパに身を包み、一人の少年が小さな道を歩いていた。
かつて暮らしていた街にも敵国の軍が押し寄せ、家族とも離れ離れになり、わずかな荷物だけを持って逃げていった。
(ここまで来たら、誰からも追いつかれないだろうが……)
しかし、これからどうするか?
(なんで、世界がこんなになっちまったんだよ……!)
青年はもし『神』が形として存在するなら、それにつばを吐きたいつもりだった。誰がこんなことを好んでするものか。
雨は冷たかった。冷酷だった。
だが、それでも進まねばならなかった。
彼は、途中から道を左に曲がるとそこに広がる並木林に突っ込んだ。
それから、一つの木に荒くもたれて、深く息をつく。
(ここまでくりゃ、『奴』もおってこないだろう……)
少年は無理に力を酷使していたので、下半身もすでに大きく抵抗の色を見せ始めていた。
無論、『奴』がこのまま立ち去ってくれるというのはあまりにも希望的な予想だ。それもまた十分に理解している。
さらに遠くへ――と意いつつ、林の奥に頭を向けると、そこには二つの分かれ道が続いていた。
どちらとも、はるか奥に続いているらしい。そして、森に中へと入っていくようだ。
(ここからさらに向こうに逃げれば、もっと『奴』を撒くことができる……)
あの男が閒違った道を進んでくれればいいのだ。仮に正しい道を選んだとしても、それには長い時間がかかるはずである。
(よし、行けるぞ!) 少年は左の道へと走りこむ。
あの悪名高い『ウイルス』の所為により、世界は急速に崩壊しつつある。
すぐ隣に住んでいる人間が、ある日突然心を持たない殺人鬼に変わるという、どこかのホラー小説にありそうなことが世界を舞台に起こりだしたのだ。どこか遠い場所での出来事であればよかったが、それは少年のすぐ近きをも容赦なく巻き込んだ。
あのような状況に置いて、冷静に行動できる人間などあるまい。
実際、もろもろの国家や組織などによって行われた性急な『感染者』の隔離政策はほとんど意味をなさなかった。それらを全く無視し、ウイルスは人類に対して終わりのない競争を仕掛けたのだ。
今少年が逃げているのも、まさにそのウイルスからの『逃走』にほかならぬ。
少年がどうしても歩くことしかできなくなったころ、彼はもう人里を離れた山地の方にいることを知った。まわりはもう森を抜け、草木のぼうぼうとした山にすぐ近くで囲まれ、家と呼べるようなものはほとんど見当たらず、少し離れたところで大きな川が流れていた。
少年は、恐怖を覚えた。
(知らない所に来ちまった……) 何しろ、あの街にいたのもわずかなことだ。それよりも前は、もっと離れたところに住んでいたのだから。
少年の頭に、またもや暗い念が起きる。
そもそも行く当てもないのに、これからどこに行けばいい? 野垂れ死にするのか?
かさかさかさと後ろから歩む音が聞こえた。
すぐにそれがただの足音ではないことを感じ、少年が振り向くと――
「あ……」
一人の男が、片手に長めのナイフを持って後ろから近づいていた。口と手が、それぞれ血にまみれている。
表情は、別の物に移り変わる途中であるかのような、微妙な顔だ。
だが、それは彼に異常な恐怖を与える。
(そんな……、どうして、こんな所まで!!)
凍りつく少年。
もはやこうなっては、運命は明白。
瞳が一気に小さくなった時、少年の口から大きな叫びがほとばしった。そのまま、訳も分からず前方へと突き動かされた。
少年は左右も分からずに走った。後ろからは『感染者』が追いついてくる。
(殺される――殺される殺される、っ殺される!)
体の疲れなど死に対する恐慌で消え去った。
だが、少年の理性が崩壊しようとするときに、小さな銃声が響いた。
別に小さな音ではなかった。ただ、少年の恐怖がそれに対する感性をにぶらせてしまったのだ。
少年は振り向いた。銃の音に対する驚きとは別の理由で。
男の動きが停まった。彼の脚に一つ穴が開いて、血が噴き出したように赤く染まっていた。
後ろを向いたまま、わずかに足を遅める少年。
「くたばれ、この野郎が!」
若い女の猛る声が聞こえた。そして、今度はずっと大きい銃声が炸裂し、彼の耳をつんざく。
男の下半身の一部を、再び金属がえぐりとっていた。この時は、かかとをわずかに掠って。
少年がじっと見つめる先で、男はそのまま、草が繁っている前面に崩れ落ちた。
(一体、誰が……?)
どうしようもなく、また目を前に向けると、一人の少女の姿がそれにとまった。
腕に黒い縄をくくりつけて、前方に向かって銃を向ける、年端も行かなさげな一人の少女が。
ほかに誰もいなかった。ただ二人だけが少年の認識する世界のうちに存在していた。
(彼女は、誰だ?)
その瞬間、この二人の目がぱたりと合った。
この時、この少女が危険であるという気はしなかった。同時に、この少女に感謝しようという感情もわきあがらなかった。
とても、不思議な感覚だ。ただ、不思議な脱力感のみ。
「あなた……、大丈夫!?」
大声で呼びかける少女、思わずよろける少年。
「――怪我はない?」
少女は銃を肩にかけながら、彼の元へと寄り添ってきた。片腕には黒い縄をまきつけている。
「いや、なんにも……」と言いながらも姿勢をうまく立ち上げることができない。
ふたたび、まろびそうになるのを、
「いや、大丈夫じゃない」と腕を取り、
それから『感染者』の方を視て、
「――だめか。これは使い物にならない」と声を低くつぶやくのだ。
「僕を、疑わないのか?」
「感染者だったら、そんな声あげて逃げないはずでしょ」
他人に対して『感染していない』と信じこませるためには、できるだけ生き生きと振る舞うことが大事らしい――と誰かから聞いたことがある。『発症』する直前は、誰もが基本的に、無感動で無関心なそぶりを見せると言うのだから。
「とりあえず、こいつを縛っておかないと……」
すると、少女は腕に巻き付けていた縄をこの男の腹あたりに巻き付け始めた。ぐるぐると、ぐるぐると。
あやうくその体に触れないように、慎重な動きで。『感染者』の血を浴びると、同じように感染するおそれがあった。
「『感染者』の体はそこまで強いのか?」
少女が信頼に足る人間が判断もしないまま、少年の口は問われた。
「前、逃がしてしまったことがあったから」
少女はそれからさらに何かを言いそうな予感だったが、実際には沈黙を以て続けただけ。
男はその場に放置された。
「さあ、こっちに来て」と自分の家へと案内した。それは、川に面したところに立つ、単純な外見の一軒家。
見知らぬ少女に連れられている、この時には、なぜか自分か意外と穏やかな場所にいるように感じられた。すでに雨はほとんど消えぎえとなり、川の流れの音にじっくり聴き入るとそれは彼の心を落ち着かせた。山と田畑を両方見ると、それは彼がもはや追跡者の魔の手から逃げ出したろうという安心感が次第にわきあがってきた。
すぐ目の前にやってくると、男は女に問うた。
「ここが、君の家なのか?」「そうよ」
一つ煉瓦の花壇が家によりそっていた。花壇には花がとりどりと植えられている。
(今は戦争が終わっているかどうかさえ分からない時世だというのに。こんなことをする暇人がどこにあるってんだ)
だが、それをあえては言わぬ。
「ところであなた、名前は?」 少女の頬がやや赤い。わずかに興奮しているかのごとくだ。
「……猪飼信二」
猪飼は少しばかり少女の顔が明るいことに、違和感を覚えた。
「私はねえ、正義の味方!」 その顔のままに、両腕をはりあげる。
猪飼はこの時点で、あることを考え始めていた。
「なるほどね、正義の味方さん」とふざけてみると、
「ああ、それは本名じゃないの」と応える。
(この少女は、何か違っている) その意いが頭をもたげた時、
「池野光奈というのが本名。そして私の肩書が『正義の味方』なのよ」
(なんで『正義の味方』なんだ?!)
少女の顔は明るいが、そこには名状しがたい『何か』がある。
「それより、あなたは一体どこから来たの?」
猪飼は、あえてこう言うことにした。
「逃げてきた。親とけんかになってな」 先ほどの疲労で、長々と話をするのは面倒くさい。
「そう。それでこんな人里離れた場所に……」 少女は珍しげに目を細める。
あるいは、ばれているのかもしれない。その可能性を思いついたとき、わずかばかり後ずさりがなされた。
「心配しなくていいわ」
腕をさっと差し出す光奈。
その細い腕に、猪飼は柔らかさとたくましさの両方を猪飼は感じた。
少女の瞳は、うってかわって真面目なものとなっていた。
「今は日本中が無政府状態になってる。あたりをうろついているだけでも十分危険な状態よ。それなのに、どこかの誰かさんとも分からない人を外に留め置けるわけないじゃない。さあ、おいで」
猪飼はその時、光奈が自分の味方ではないのかと言う錯覚に襲われた。それがあまりにも好人家的な感情であることは分かっている。隣にいつもいる人ですら信用できない世界なのだから。
だが、それを越えて、少女の顔は真摯に猪飼を見つめた。猪飼は光奈の声と表情に、演技とは意われない、相当追い詰められているらしいものを感じた。
「私は逃げ場を失った人を見捨てたりなんかしない。だから、怖がらないで」
決して光奈を信じたわけではない。だが、彼女が隠している何かに手を入れなければならない、という直感がうごめくのだ。
それは好奇心ではなく、むしろ義務感によるところが大きい。
「ほら、こっちにおいで!」
(だまそうとしていると、意っているのか?) 猪飼は自分の抱いた感情に少しとまどっていた。
中は意外と整えられていて、きれいだった。
光奈はまず猪飼に飯を与えた。それはたいがいが肉で、米や野菜はわずかな量だった。
「見たことのない種類の肉だが……」
「なにしろ、普通は食べないものだからね」
犬や猫の肉だろうか、といぶかった。
壁には、銃が立てかけられている。
「君は、銃が使えるのか?」
「使えなかったら、どうやってこんな所を生きていけるのよ?」
光奈はむっとした。
「僕が住んでいた町じゃ、銃なんて一部の人間しか持ってなかったから」
すると猪飼は少し前に見た情景を思い出し、ぞっとした。
光奈はじっと彼の目をのぞき込む。
「まあ、そうよね。そんな人が『なったら』……」
猪飼は魂が抜けたように、しばらく凝り固まっていた。
「ごめんなさい。悪いことを言ってしまった」
「いや、いいんだ」 我に返った時はすぐそう答えたが、けれども表情はほとんど変わっていなかった。
「君はいつからここに?」
「五年くらい前ね。今までずっと一人で暮らしてきた。まわりをうろつく『感染者』を撃ち殺しながらね」
(『撃ち殺しながら』だって?)「このあたりには『感染者』がよく出没するのか?」
「ごくまれに。それ以外に、熊とか、外国の兵士が近づいて来ることもあるわ」
「奴ら、まだ残っていやがるのか……。銃は、どこで拾ったんだ」
「誰かが名前は……豊野なんとかって言ったかしら……」
豊野という名前に、猪飼はある程度感ぐくことがあった。父の友人に確かそういう人間がいたような気がする。少し前に消息がつかめなくなったと言ってたような……。
考え事にふけっていると、光奈は少し紅潮したような顔で言う、
「私ね、今話し相手を得られてうれしいのね。ちょうど、興奮を抑えてるところなんだけど」
「それでそんな、明るい顔つきになってるのか」 猪飼はこの肉を旨いと思ったが、同時にこれが何の肉であるか気になった。
「ま、まあね」 そのときの光奈の表情にも、何かしら気にかかることがある。
「これって何の肉だ?」
「近くで獲れる肉なの」 きっぱりと答える光奈。
猪飼はこの際、極力少女に疑念せしめぬよう努力した。
そうでないと、あるいは何が起こるか分かったものではない。
「……この姿勢のままいるのも疲れる。筋肉の痛みが残っちまうからな」
といって立ち上がる。それから脚を動かし、数歩か床を移動する。
「ええと……ここらへん、歩き回ってもいいか?」
「いいけど――」
少女の目が一気に鋭くなった。
「私にはやらなきゃならないことがあるの」
急に心が老けたようだ。
「私、今から二階に上がる」 明らかにこの娘は、こちらをいぶかしげな目で観ていた。
「何のために?」
「あなたには関係がなくてよ」
猪飼は、はっとして少し身を引き締める。
「ああ、すまないな。いつの間にか気がゆるんでいた」
「そんな、別に固くなってくれなくてもいいのよ」
どうやらこの池野光奈と言う女には触れられてはならないことがあるらしい。
先ほどかなり受け入れるような態度を取っていたが、少し譲歩したほうが良いかもしれぬ。
「僕は別に君に干渉するつもりはないさ。君が嫌とすることには何もしない」
「深入りしないのなら、別にいいわ。この家には、私だけの秘密があるのよ」
「秘密だって……?」
まだ疲れが取れているわけではない猪飼に、顔を近づける光奈。
そこで猪飼の肩をぎっとにぎる。
猪飼は、間近での光奈の表情に、圧倒されそうになった。これは明らかに、尋常ではない。
「この家の、二階の奥の部屋に今から私は行く。あそこには誰にも教えちゃいけない秘密がある。あれに触れたら、ただじゃおかない」
先ほどのあどけなさがある光奈の顔はもうない。
「ああ……わかった」
「わかったなら、もうそんな顔はおよし」
光奈は猪飼の腕から手を放したが、一種の固さが顔にとどまっていた。そのまま光奈は二階へと上がっていってしまった。
(やれやれ……これからどうすればいい……?)
猪飼は途方に暮れていた。彼は自分が今までずっと、そしてつい先ほどに危険な目に遇ったこと、ここでもまた、何か巨大な不安に陥っていることで、めいる様子だった。
(どうしてこんな時世に生まれちまったんだよ……)
さきほど食べた肉は、その時こそ変な感じはしなかったが今になってみると、なぜかおぞけがする。
原因はわからない。
少女は長い間ここで一人暮らしをしていたらしい。しかも、生死の境目が明らかではないような生活だったようなのだ。
そのような人間が、自分のような見ず知らずの人間を何も疑いなく受け入れるだろうか?
「まさか」
そう猪飼はつぶやいてから、しばし憮然とした。
もしかしたら、後で自分を殺しに来るのではないか?
ふと、あらぬ恐怖が頭をよぎった。
さっきの肉は動物のものとは少し意えなかったし、少女の振る舞いはあまりにもこちらをたぶらかすかのようだ。
いや、だとするなら、なぜ自分を置いてあちらに行ってしまうのかが解せない。
それから、『感染者』を撃った後のあの言葉――
『だめか。これは使い物にならない……』
いまだ確信になったわけではない。というより、確信することが怖い。
しかし、猪飼が一度身を起こすとその心はもはやとどめることができない。
(……今しかない)
『したい』と『したくない』が頭の中で激しい速さで回転する中、まず猪飼は部屋の中を一通りめぐってみた。そこは家具は一通り古いものでずっと前から取り換えられてはいないようだった。この時世では、そもそも必要物資を集めることが困難なのだから。
いくつかふくらんだ袋がたんすやたなに置かれてあったが、恐らくこれは食料などがつめられているのだろう。もしや、山奥に出かけて狩りをしてもいるのだろうか。
だが、これでも猪飼はまだ疑念を消せなかった。
それから少年は二階へ上がった。
二階には廊下を通して、二つの部屋があり、一つは一階以上に物の少ない部屋だった。床に所々ほこりが集まっており、少しでも踏むと舞い上がりそうになっていた。ここには少し前まで大きなものがおかれていたのだろう、少し前に持ち去られた、ということか。
あの少女が生まれた時からここに住んでいたということなら、彼女の家族が逃げ出していったということなる。でなければ、他の誰かが姿をくらました後、少女がここに住み着いたということだ。
さらに猪飼は奥の部屋へと歩んだ。
それはさきほどより小さな部屋であったが、そこには大量の棺桶のような物が積み上げられていた。わざわざ分散させればいいものを、所せしとばかりに一カ所に集中している。
だが、それだけではない。
「これは一体……!?」
猪飼はその異様な光景に動揺せずにはいられなかった。
池野光奈がその部屋で、身をかがめて、何かをして、いた。
池野光奈は一つの棺桶を引き開けた。
そこに入っていたのは、一人の兵士だった。いくつもの縄にしばられ、包帯で目隠しをさせられていた。
「こいつはまさか……」
脚が途中でなかった。きれいに切断されていた。骨や筋肉のむき出しになった断面が、わずかにのぞく。
池野光奈はナイフを持っていた。池野光奈はそしてそれを、兵士の脚へとあらたに突き入れる。
肉が肉から離れていく音。
その時、光奈の声が部屋に響いた。
「……私の両親は、こいつらに殺されたの」
少女の口調は先ほどとほとんど変わらなかった。
違う。全くの対称だ。
「まだ物心がついてもない頃にね。あの時、誰かの救助がなきゃ、死ぬしかなかった」
猪飼信二は、その場で立ち尽くしていた。彼の頭は、まさに渾沌の状態。
「あの時から、私は孤独になった」
振り返りもせず、光奈は立ち上がった。ナイフからは血は滴らない。重力の法則を嫌うかのように。
「本当なら、そこで私も死ぬべきだったのよ」
「死ぬべき……?」
「……少し違う。私に父親なんていなかった。父の顔なんて覚えてすらない。ただお母さんしか私にはいなかった――けどそのお母さんが……」
そのまま光奈は前にうなだれる。
猪飼は急に、なんともいえない罪悪感を感じだす。なぜ、この少女がそのような目に遇わなければ?
「でも、私を助けてくれた、二人の人間がいたのよ。
名前もあまり覚えてはいないけど、私はあの二人のおかげで、なんとか生きながらえることができた」
この少女がいかなる表情をしているのか、予想もつかない。
「でも、単に生きながらえることができただけ。彼らは私の心の支えにはならなかった」
「そいつらは――一体何者なんだ?」
猪飼の脳内は疑問だらけだ。情景の恐ろしさよりも、この少女の謎に対するゆかしさの方が、この時は勝った。
「知らない。そんなことは何も教えてくれなかった。というよりそんなことに関心を持てるくらい私には余裕がなかった」
「今、どこにいる」
棺桶の中の人間がどうなるのか、訊きたくなる衝動を猪飼は必死で抑えた。
「さあね。忘れちゃった。気づくともう消えていたのよ」
光奈の口調はあくまでも表むき淡々としていた。
一体この彼女がどのような心境なのか、少年は少女の心を引き裂いてでも調べたくなった。
だが――それよりもまず。
「この男を、今からどうする?」
「食べるのよ」
「食べる……!?」
「だってこいつら、人間だけど人間じゃないじゃん」
「け、けど――」
ゆくりかに振り向いて、猪飼を見つめる光奈。
その眼には、一種異様な雰囲気がある。
「あの人たちは、本当に色々なことを教えてくれた。銃の扱い方とか、動物の皮のむき方とかね。
私は今、自分で獲れるものだけで生活をしている。畑を耕したり、犬とか鼠をとって食べることでなんとかその日限りの生活をしてるの。
でも、動物だの植物だのだけで生活に必要なものを摂るのはやっぱり充分じゃない。だから、仕方なく――」
棺桶の底に横たえられた兵士を見た時、猪飼には彼を憎む心が起こっていた。こんな服装をした、同じような人間がいかなる蛮行を遂げたか、猪飼は少なからずこの目で観てきた。
今さら、くだらぬ慈悲を起こして、この抵抗不能の男に暴力の嵐を見舞うことをためらいなどしない。
であるにせよだ。
「まさかあんた――」 その先に続く言葉を、誰が好むか。
「そうよ。『感染者』なんだからね」
この少女は、気が狂っているのだろうか?
「安心して。食べるのは『感染者』だけよ。ゾンビでもないんだし、その肉は食用に――」
「違う。そういうことが訊きたいんじゃない!」激高。
「この私は確かに狂人でしょうね!!」光奈は猪飼を上回った声で。
「人間が人間を食って生きてるんだったら、そいつは人間じゃなくてただの獣風情に過ぎない! 自分でもよく分かってる! けど、生きるためには仕方ない。手段を選んでなんかいられない! まさに私は人間としてあるべき規則を越えたクソ野郎だ。この世界で、恥を棄てるのはもう不可能。恥を棄てられない人間はますます多くの恥を受けることになるから」
光奈は苦しみを素直に言い表した。おそらくはこれが彼女の本音なのだろう。実際、光奈の顔には己の所業に対する悔恨も同じほどあったのだから。
少年は、もう一度問う。
「なんで僕を受け入れた?」
その答えは、驚くほど意外。
「さみしいからよ」
「さみしいって……」
「たしかに、誰にもこのことは知られちゃならない、絶対に秘密にしなければならないってことは分かってた……でも、やっぱりこれには耐え切れなかった。あなたがこんなことをする前にあなたを処理しておけば(激しい怖れが猪飼に臨んだ)よかったんだろうけど。
けど、そうしたら、私はもう本当に、孤独になってしまう」
「孤独に耐え切れずに、僕を迎えたってわけだな?」
わずかな瞬間ののち、光奈は物言いと音調がまったく一致しない言葉を吐いた。
「あれ? 最初に告ったこと、もう忘れたの?」 まるで、自分を責めるかのように。
直後、猪飼は激しい衝撃を胸に感じた。
細い、黒い筒が猪飼の視線の前方に向かってこちら側に差し出されている。
つまり。
光奈は銃口をこちら側に向けている。
間違いない、本気だ。
「おい、あんた……」
「私だって本当は、こんなことしたくない!」
光奈の表情には非常に微妙なものが感じられた。
それは怒りであり、かたや悲しみであり、また切なさであった。
そういったおのおのの感情をなぜ懐かねばならないのか、という理不尽。
「あとそれに……もしこんなことをしている人間の存在が知れたら、私は多分殺される」
「な……なんだって……!?」
「ここはずっと私しかいない場所かと意ってた。でも、あんたん所の奴かは知らないけど、やけに銃とかナイフとかで武装したのが近づくようになってね。殺してはいないけど、多分そいつらから殺しに来るでしょう。あんたはそいつらに保護されて、あたしのことを知らせるに定まってる!」
猪飼は狼狽し、両手のひらを見せる。
「き、君には十分世話になった! 恩に着るよ。だから約束する、僕は君のことなんて誰にも言わない。このことは必ず秘密にする、絶対に――」
「私は他人なんて信用しないっ!」 ここで一気に構えの姿勢へ。
猪飼は心臓が停まりそうな心地だった。
「い、嫌だ、死にたくないよ!」
「なら私と取引しなさい」 なおも冷然と。
「な、何をだ!?」
「あなたがここで死にたくないなら、私とここにい続けなさい。誰かに情報をもらさないためにもね」
光奈は初めて銃を下げた。
「ここで暮らせってのか?」
「それ以外、何を意味するというの?」
奇妙だ……。この少女は、言うことと成すことが一致していないように見える。
「君はおかしい」
しばらく沈黙があった。それは続けば続くほど二人を限りなく隔てるように見えたが、ある時点においてそれは破れた。
落ち着きを手にしつつあった猪飼によって。
「僕を殺すのが嫌だと言って、今僕を殺すとしたな?」
怒りとも戸惑いが半ばした声で、猪飼は問うた。
「確かにね。この面でも私はもう正気じゃなくなってる。
――この世界ではね、異常こそが正常なの」
異常こそが正常だと?
そんなことにかまけていられるか。異常であることが正常だなんて、そんな道理を誰が受け入れられる。
何を正常漢ぶっているのだ。いっそのことこの女のように離れかけのネジを投げ飛ばせばよいと言うのに。
「私を軽蔑しても構わないけれど、そういう心づもりでいるあなたの心から維持できるかどうか」
だがまだ、抵抗がある。自分がこの少女のごとくなってたまるか。
自分はあくまでまともな心を持ったままで死ぬんだ。
「僕は死ぬのが恐い。この家を出ようとしたら、その時こそ君が僕を殺すときだ」
猪飼は二つの心の間で揺れ動いた。この言葉は自分が異常者たることを志願して放った言葉。
「なぜそう言えるの?」
「君が全く理解できない人間だからだ」
「じゃあ私もあなたを理解しない」
「それでいい」と投げやりに言うと、
「いや、だめよ。もしかしたらあなたこそ私を殺すかもしれないんだから」
「行動で示せってか?」 猪飼は訊きかえしてしまった。
「なら、こいつを突き刺す勇気はある?」
迷う。
猪飼の中の、正常者たることを目指す意思がますます強められた。
そんなことをしていいわけがない。敵であれ、もっとましな処遇があっていいはずなのに。
「知るか……そんなもん」
「少しだけ、待ってあげる」
言いながら、光奈はナイフを手渡した。先ほどの物ではない。きれいなものを。
一瞬、少年は自分の立場を理解しなかった。いや、理解などしたくなかった。
さまざまな感情の波濤が襲った。この中には善意もあれば、悪意もあった。
それによってしばらく猪飼は、世界が渾沌へと崩れ去った錯覚を覚えた。
これを破ったのは――
「何、してんのよ!?」
光奈は瞋った目で猪飼をにらみつけた。
それは純粋な憎しみの感情。
「あたしと感情を共有しているんなら、こうしなさいよっ!」
そのまま猪飼の手を取ってそれを一気に振り上げる。
そして振り下ろす。
気づくと、猪飼の手がナイフをにぎって、人間の腹に深々と突き刺さっていた。
猪飼はそれを視た時、何かが心の中で破裂したのを感じた。心の中で、迷いが崩れ始めたかのごとく。
男はナイフを突き刺されても、表情をわずかだに変えなかった。むずがゆくさえ意っていないように。
男が自分を嘲っているという感じは猪飼にはしなかった。ただ、目前なるこの男は、世界の全てを超越する、この世界とは無縁な存在に思えた。
そこから突如として起こったのは、原因不明の激しい怒りだった。先ほどの迷いを、完全に消し飛ばしてしまいそうなほどの。
なぜだ。
なぜ、自分はこのような心の状態に置かれているのだ。
怒っていることに対して、猪飼は怒った。
「見なさい、こいつはあなたの悲しみを悦んでいるのよ!!」
光奈が叫んだ。
彼女の声は本当に、憎しみに満ちていた。
苦しみを共有している、という意味だ。
その瞬間、猪飼は一瞬自分が男に対して喜禍心を感じていることに気づいた。
だが、光奈の言葉がその感情を抑え込んだ。
すると、猪飼に起こる二度目の怒りの奔流。
どうして、こいつはまだこんな顔をしていられるのか。なぜまだ俺の憎しみをそういう風に受け流せ続ける?
心の迷う部分が精神を離れるように――猪飼の理性的な部分がその脳髄からだんだんはがれだしてきた。そのことに頭ではわかっていたが、もう感情がそれを漸次ふきとばしていった。
「あなたには苦しみを理解しようとする気持ちが足りない!」
叫ぶ狂女。
少年はそれを受けて、再び一撃を男の腹に突き付けた。ナイフは血で紅に満ちている。
彼の息ははや荒い。
「こいつらがどれほどの非道をしたか理解していない! そんな勢いじゃまだこいつらに対して復讐してるって言えないわよ!」
狂女は叱咤するというよりも八つ当たりのごとく怒鳴り散らしているかのようだ。
だが、それは本物だった。狂女の怒りは、彼女を人外の物として人間から分別した。
不思議なことに、猪飼は罪悪感で身がつぶれそうになっていた。
池野光奈は、人ではなく鬼神の顔を以て少年をにらみつけていた。それは少年にとって、恐怖ではなく、悲しみだった。
まさに、この少女はいたわるべき存在なのだ。それなのに、自分はついさっき少女の身の上を理解しようとせずに、これから逃げることばかり考えていた。
「さあ、もっとやりなさい! 早くしないと血が固まる!」
少女はずっと一人寂しくこの復讐を続けていたのだ。これ以上なく孤独な復讐を。
なぜ彼女は、自分をこのようにしてはやしたてるのか。それは、ようやくこのようにして同志を得た、その喜びがかくさせるのである。
そして、猪飼もそれを喜んでいた。
なぜなら、生まれてこのかた、こんな喜びは感じたことがなかったから。
冷静な理性がなおもこう言う。
そんなことをしてはならない。お前はそうすることでお前自身を傷つけているのだ。
だが不思議なことに、猪飼にはその呵責さえも快楽に感じられてきた。
すぐそばでは、鬼女が自分をにらみつけて、はやく良識を棄てろとうながす。猪飼のその部分が全力で、それにあらがおうとする。一方猪飼の獣性が鬼女のそれと同化しようとしている。
そのことに、まさに猪飼は快感を感じずにはいられなかった。
もう一線を越えてしまうと、何もかもが受け入れるべきものに見えてきた。
猪飼は我も忘れて男の体に刃を打ち続けた。
それがなますであるかのように、刺し続けてた。――目を向けることさえためらわれる紅。
「まだ懲りないわよ。ずっとやってしまえばいいのよ。そうやって自分を破壊しちまえ。」
猪飼は、ふと視界に写った光奈の顔に、笑いではなく苦痛のゆがみを見た。
自分自身に対する悔恨だ。
なぜ、私は、こんな獣同然の身に堕ちているの?
じっと、少女の微妙な表情を見つめられた。
なぜか、猪飼は理性的なところがあった。この状況でさえ、確かに猪飼は今自分の持っている精神的状態をあざわらっていたのである。彼自身がそれを自覚していた。
「だめだね。これじゃ調理できない体になっちゃう。
でも……まあいいか。ストレスはとことん発散しなくちゃならないんだから」 猪飼の動きが停まったわずかな時間に、光奈のつぶやき。
だが、それを持っていながら猪飼はこの冷笑的部分が決してその凶行をおしとどめることはないと知っていた。
猪飼の客体的自我は、自分がやっていることに対してむなしいと思っていた。一方、主体的自我はそれとは大きく異なる。
楽しんでいたのだ。
どのように楽しんでいたのかは、理性では理解しがたい。けれども確かに、猪飼は自分がそれをむなしいと思っていながら、より直截的な感覚では価値を見出していたのである。
つまり、このようなものには価値がないことに価値があるのだと。
行う価値がないのに、行う価値がある。
「もう、飽きたの?」
光奈は笑って答えた。
「飽きて、ないさ」 はっとした時、猪飼は絶頂に近いものを全身に感じていた。
棺桶の男は腹をひき肉の塊となしていた。そこにはもう、人間としての尊厳などかけらもない。
それは、この二人にも当然いえることで。
「あなたの顔、こわいわ」
猪飼は男に対して嫌悪感などみじんにも感じていないようだ。まるでそれどころか、愛情をさえ抱いているかのよう。
猪飼は自分がこのような非道を成したこと、それを恥じていること、怖れていること、そのような感情を抱いていたこと自体にあきれ、またあきれていることに戦慄しているのを同時に自覚した。
(ああ、自分を貶めるってのはこんなにも気持ちのいいことだったんだな)
その複数の自覚に、不可思議な快楽を感じていたのである。