第二章 魔女の祝福
1
朝。
制服を着るべくシンプルな下着姿になったところで部屋の姿見に映る自分の姿を見て、美樹は溜息をつく。
これと言った特徴の無い自分の姿。
取り立てて美少女と言えるわけも無く、二次性徴が終わったとは思い難いほど身体のラインも起伏に富んでいるとは言い難い。ボリュームに関してはまだまだこれからと言えるだろうけど、体育前の着替え何かを見れば同級生の中でも性差が低い方なのは確かだと思う。
かと言ってボーイッシュと言うわけでもない。
手入れが大変なので短めにしている髪は校則に触れない程度に脱色しているが、それがかえって容姿をどこにでも居るようなモブキャラにしてしまっているのが悲しい。
つまるところ、小林美樹とはそう言う人間なのだ。
勉強もスポーツも秀でている部分が無い。
取り立てて取り柄も無く、取り立てて目立つわけでもなく。
アイドルに憧れても真似するような事も無く。
放課後にフライドポテトを摘みながらお喋りするのは楽しいが、何か意味があるかと言われれば特に無い。
どこにでも居る、ただ一人の少女。
これから何かを見つければ良いと、日常を浪費する日々。
そんな日常が、かけがえの無い物だと悟る時が来るとすれば。
それは酷く不幸な事なのだろう。
「早く食べないと遅れるわよ。折角近くの羽邑北に入れたのに、だらしない生活したらダメじゃない」
「はーい」
母親のお小言を聞き流しつつ、バターを塗ったトーストを齧って野菜スープの具を咀嚼する。
「あと、そろそろおじいちゃんの所に行って高校進学報告しなきゃだめよ」
「ん。そうだね」
御年六十八歳の祖父は健在である。一応、同じ羽邑市内の結構離れた郊外に家がある。
そこが小林家の本家、と言う事になる。祖父は大した家系ではないと言っていたが。
同じ町に住みながら、祖父にはまだ高校合格を電話で連絡しただけだった。
昨今、高校の入学式でも家族が大勢で押しかけると言うのは少ない。祖父母も入学式には着ていない。
避けていた理由は色々あるが、一番大きい理由は祖父には羽邑北高校への進学を反対されたから。
地域では一番いい学校と思うのに、祖父には「あそこに行ったらいかん」と子供のころから言われ続けていた。
子供のころから言われると言う事は刷り込まれてしまうと言う事だと思う。
「行ってきまーす」
少し登校時間に余裕のない状態で家を出た。
今日は梅雨の合間の晴れ。とは言え、放課後にはまた崩れるだろうと予報されている。
そのまま真っ直ぐ。コンビニにも寄らず、学校へ。
「おはよう。今日はちょっと遅かったね、美樹ちゃん」
「おはよう理都子。待った?」
「ちょっとだけね」
理都子と合流して、少しペースを落として歩く。
「おはよう」
後ろから声がかかる。振り替える間もなく、美樹の隣に来て少し荒れた息を整える。
「おはよう。珍しいね、千夏がこんな時間に来るなんて」
「昨夜データ整理して夜更かししちゃったんだよ。不覚だった」
外見優等生で、実際中身も相応である千夏は美樹が登校する頃にはすでに教室に居る事の方が多かった。
三人揃って校舎までのルートを歩く。
すると、前庭に人だかりができているのが見えた。
しかも、そこに集まっているのは全員が女子だった。まるでアイドルの出待ちをしているみたいに、黄色い声を上げてワイワイと騒いでいる。
その中心に居た女生徒を見て、美樹は更に驚いた。
腰まである長い髪。しかもその色がおそろしく目立った。
まるで梅雨の合間に太陽光で輝く蜘蛛の糸を思わせる銀髪。
何の変哲もない学校と言う空間に、突然現れた余りにも異質な存在。
「………え? 誰? あの人」
「いや、誰って。まさか知らないの? 凄い有名人だけど」
「う、うん。あんな人、この学校に居たんだ………」
校則に則れば完全にアウトなラインだ。これほど目立つ外見なら噂で聞いていてもおかしくない。
「うん。三年の木佐谷瞑子先輩。ラスベガスに東欧系アメリカ人のお婆さんが居て、それで遺伝で髪が銀色なんだって」
「占い研究会の会長で、その占いが良く当たるって女子には凄い人気らしいよ。ついた呼び名が『魔女』って言うのも頷けるね」
そう言えば、昨日現超研の輪納谷が美樹たちを、占い研を訪ねてきたと勘違いした事を思い出す。なるほど、放課後に噂を聞いた女子たちが旧校舎を訪れては、紛らわしい現超研のドアを叩いているのかもしれない。
思わず視線を釘づけにされていると、不意に木佐谷は相手をしていた少女たちから顔を逸らし、美樹たちの方を見て微笑んだ。
それを見ると溜息しか出ない。
日本人離れしているのに、その美の基準から逸れていない。ハーフタレントのような尖った美形とも違う、神秘性を帯びたエキゾチックの奇跡。
「………反則級の美人さんだ」
「異国の血ってのは偉大だね」
美樹と千夏がうんうんと頷き合ってるところ、理都子だけは別の表情を浮かべていた。
「………私、ちょっとあの人苦手かも」
「そう? 優しそうに見えるけど」
「………何だか怖い気がする。やっぱり苦手」
人の好き嫌いをあまり言うイメージではない理都子の意外な感想に戸惑いながらも、三人は昇降口で靴を履き替える。
すると、外から走って来た少女が三人を呼び止めた。見覚えは無く、学年で色違いのリボンを見ると二年生だ。
「ええと、貴女たち?」
「はい?」
「瞑子お姉さまから伝言よ。『放課後に悩みの相談を受け付ける』って」
場にそぐわない『お姉さま』、と言う呼び名に面くらいがらも美樹が訊ね返す。
「………ええと、どう言う事でしょう?」
「貴女たち、知らないの? お姉さまは放課後に占い研究会の部室で占いをするの。でも凄く人気があるから、一日数人だけ。それもお姉さまが選んだ人しか占って貰えないの。朝からご指名を受けるなんて、滅多にないのよ」
女生徒は少し熱っぽい口調で主張する。この少女が木佐谷瞑子に心酔しているのは一目瞭然だった。
「………いきなりそんな事言われても」
「………私はあんまり」
「いいじゃない。折角のご招待だし、あたしも興味あるから行ってみましょう」
意外にも千夏が喰いついた事に戸惑いつつ、美樹も頷いた。それに合わせるように理都子も頷く。
「木佐谷先輩に、『放課後伺います』とお伝えください」
千夏の伝言を受けた女生徒は、また外に飛び出していく。
「でもちょっと意外かも。千夏が占いに興味持つなんて」
「『魔女』って呼ばれるほどって興味無い? 面白そうじゃない」
一方の理都子は口数が少ない。
オカルトに興味を持っているのだから占いにも興味を持ちそうな気もするが、本気で木佐谷先輩が苦手と考えているのだろう。
「放課後、ちょっと楽しみだな」
少しハイになっているような感じの千夏。
(………何か、ちょっと変かも)
美樹の心の中に、かすかな不安が生まれていた。
2
空模様はたちまち悪くなった。
まだ降り始めてはいないものの、もってあと三十分と言うところだろう。
占い研は旧校舎の二階の奥に部室を持っている。と言っても現超研の真上ではなく、特別教室側だ。
「元図書室の真上。感じからして美術室かな」
「………廊下の椅子は、もしかして待ち時間用だったりする?」
「それ以外、考えられませんなあ」
「ここ、本当に学校の部活なの?」
壁際に木製の丸椅子が並んでいた。長年使い込まれたその椅子は、表面がすべすべしている。
美樹の言う通り、高校の占い研究会としては破格の状態と言える。行列のできる占い研究会、ってどれほど人気なんだろう。
ただし、今日は誰も座っていない。
原因は明らかで、扉には「本日予約のみ」の看板がかかっていた。
「………こう言う看板まで用意しているのかな」
使われている感じからして、今日作った物ではなさそうだ。
「………これは私たちの事と考えていいよね?」
「だろうね」
千夏が扉をノックすると、すぐに中から「どうぞ」と声がかかる。
「失礼します」
何も無い。伽藍とした小さな教室。おそらく元々は美術室だったのではないかと思われる名残の中に、紫のテーブルクロスがかけられた机が一つ。ぽつんと置かれていて片方の椅子には銀髪の美人が座っていた。
衣服は制服のままだし、占い研究会だからそれなりの内装を施していると思い込んでいた美樹は、何だか肩透かしを喰らったような気分だった。
昨日、本ぎっしりの現超研を見ていた先入観みたいなものがあったのかもしれない。
「どうぞ。座って頂戴」
向かい合うように用意されていた三つの椅子。何となく真ん中に美樹が。左右に千夏と理都子が座った。
「始めに言っておくけれど、私が占えるのは貴女と」
細く白い指はまず美樹に向いた。その指が、今度は千夏に動いた。
「そして貴女だけ」
「理都子は駄目なんですか?」
「ごめんなさいね。占いには相性があってね。無理なモノは無理なの」
横目で見た理都子は、木佐谷先輩の目を見ないように顔を逸らしていた。
「それで、あたしたちを占ってくれると言うのは?」
「ええ。過去を見てもしょうがないし、占いは将来を見通すもの。早速やってみましょうか」
そう言うと、木佐谷は細長い大きめのカードを机の上に広げた。トランプよりも一回り大きいそれは、女子ならピンとくる物だろう。
「タロットですか?」
「ちょっと違うわ。これは古代エジプトの神々を描いたエジプシャンタローよ」
「あ、知ってる。有名な漫画にあったよね。エジプト九柱神って奴だ」
「九枚ではないわね。九枚足して十八枚あるのよ」
「普通のタロットは使わないんですか?」
千夏の問いに、木佐谷は上品に笑って答えた。
「私の祖母はラスベガスで占い師をしているの。上客がたくさん居て、たぶん、アメリカ国内で一番稼いだ占い師じゃないかしら? その祖母から教わったのがこっちなの。私たちにはこっちの方が相性良いから」
「あんまり見ないですよね」
「日本だとマイナーだし、アメリカだとフリーメイスンリーがね。少しうるさいの」
微笑んだままだが、まるで赤子をあやしているかのように上機嫌な雰囲気。
「フリーメイスンリー、って?」
「世界的秘密結社よ。一応慈善とか友愛とかが目的になっているけど、政治介入や陰謀論も絶えない団体。黒魔術や、エジプト魔術を起点とするとも言われているの。フリーメイスンリーのシンボルである『三角ピラミッドに一つ目』はホルスやトートを示すエジプト魔術のシンボルだから」
理都子が小声でオカルト的説明をする。
「どちらかと言えば陰謀論はイルミナティ寄りの方なんだけれど、日本では混同されるわね。本来は別の組織なのに上位組織とか言われているの」
そう言うと、木佐谷は一枚ずつ神々を三人の前に並べる。
「元々はヘリオポリス九柱神と言って、エジプト創世神話に関わる神々を指したものよ。そののち、天地を占う術としてエジプシャンタローが生まれた。朝の太陽アトゥム。ナイルの神クヌム。天空神ホルス。智慧の神トート。裁きの神アヌビス。冥府の王オシリス。大地の神ゲブ。嵐と戦いの悪神セト。家の守護神バースト。原始の水ヌン。世界を支える大気シュー。天蓋と星々の女神ヌト。中天の太陽ラー。豊穣神アメン。復活の女神イシス。混沌の使者セベク。愛と幸運の牝牛ハトホル。夕暮れの太陽、古の黒きアテン」
計十八枚が並ぶ。いずれも獣頭人身であったり、人の形をしてないものだったりと、ちょっとしたモンスター図鑑だった。
「この神々は、全て古の時代に君臨していた、旧き支配者たち。過去も未来も、全ては神々の綴る一枚の物語」
机の上に裏返して広げられたカードを、美樹は片手でかき混ぜるように指示される。
それから一枚を選び、自分の目の前に縦に置く。
残ったカードはシャッフルされ、一つの山札に纏められる。
木佐谷が一回。その後、美樹が納得できるまでカット。その際、必ず百八十度回転させて形を山に戻す。
「これで準備はできたわ。それじゃあ最初の一枚を左から右に捲りなさい。貴女から見て上下で正位置逆位置になるから」
言われた通り、美樹が捲る。
現れたカードは、『智慧の神トート』の逆位置。
「………ええと?」
「知識。貴女が求めるのは知識。ただし、逆位置の知識は正道に反するもの。暗く、表にできない、邪道の知識」
一瞬、腑に落ちた。
七不思議なんて怪談を求めるのは、そう言う感じなのかもしれない。
同じ印象を受けたのか、隣の千夏も肩を震わせていた。
「まだ分からない。あたしらが七不思議を探索しているって事は、この人が知っててもおかしくない」
でも、最初のカードを選んだのは美樹だ。何を引こうとこじつけるのかもしれないけれど。
「次のカードをひいて、今のカードの右隣りに。アルカナのように図形を作る事は無いから。貴女がこれから作るのは、あなた自身のヒエログリフ板と考えなさい」
山札から引いてきたカードはそのまま右に置く。同じように左から右に開ける。
『冥府の王オシリス』の正位置。
「………これはまた…………一体どうなっているのかしらね。オシリスの正位置は生から死。逆位置は死から生。前に邪法の知識があるなら、これは。………ごめんなさい。これだけでは読めない。次を捲って」
「え、あ、はい」
三枚目。
「………逆位置の『ゲブ』? ゲブは大地。しかしゲブは農業のような大地の豊穣ではなく岩や土、大地そのものを示唆する。その逆位置は地上ではなく地下。エジプトに限らず、地中海では地下に冥府があると考えられていた」
四枚目。
「…………『朝の太陽アトゥム』の逆位置。正位置は始まりを告げる。創造する。逆位置は始まりに戻る。廃棄する。………五枚目が一応最後になるの。五枚目は?」
「………『復活の女神イシス』の正位置、です」
五枚が並んだ机の上を、木佐谷は見ていなかった。目を閉じたまま、中空を見つめている。
無言の時間は一瞬か、それとも何十分だったか。
その静寂は、不意に発した木佐谷の声で破られた。
「…………もし、今、貴女が何か知識か書物を求めている行動をしているのなら、すぐに止めなさい」
「ええっ?」
木佐谷は相変わらず三人の方を見ていない。
「あまり良くない………と言うか、普通は出ない悪相が出ている。貴女の人生を歪ませてしまうほど、今、強い悪境に居るの。このまま状況に流されれば、最悪、死では済まないでしょう」
「死では済まないって、一体何を言ってるんです! 冗談は止めて下さい!」
「自覚の有る無しに関わらず、貴女は今、禁忌の知識を求めている。その道は生から死。すなわち命懸けの一方通行。求める物は恐らく地上には無く、地下。それは始まりに戻る事。何かを廃棄するか、あなた自身の廃棄。そして最後が復活の正位置。これが酷く問題なの」
「………いい言葉ではない、と言う事ですか?」
「この流れでこの意味が来ると言う事は、おぞましい結果にしかならない。少なくとも、貴女はこれまでのような人生に留まる事は出来ない。白かった世界が突然黒になるように、確実に、貴女の世界は壊れる」
「もういいです!」
木佐谷の言葉を遮ったのは、千夏だった。
「こんな馬鹿な話、もう聴く必要無い!」
「え?」
止める間もなく、千夏は教室から出て行く。それに着いていくように、理都子も席を立った。
立ち上がるタイミングを逸したのは美樹のみ。
気まずい空気の中で木佐谷を見ると、彼女は優しく微笑んで美樹を見つめた。
「あ………ええと。すみません」
「ええ。仕方ないわ。こんな結果を出されたら不愉快になるでしょうね」
「木佐谷先輩は、私たちが七不思議を調べているって知ってたんですか?」
「七不思議って、この学校の?」
「はい。文芸部で部誌を出すんですけど、その為に色々調べていて」
「………そう言う事。少し納得できたわ。この学校の七不思議は私も詳しくないのだけれど、聞いた限りでは、ただの怪談ではないわ。数字の臭いがする。おそらく順番が関係している。本当の順番通りに並べ変える事で、真実が浮かんでくるはず」
(本当の順番?)
わざわざ順番が指定されていたのに、それが実は本当の順序を隠す物だった、と言う事だろうか。
「でも、そう言う事。もしかしたら………もう、手遅れかもしれない。私が貴女を占う事で、未来が既定されてしまったかもしれない。私の占いは、出て行った彼女が思うような子供だましの単純な物ではないし、詐欺同然の霊感占い師の手口でもない。神官に未来視の力を与えたと言う、黒きアテンの思い浮かべる結末。これが神の望みなら、覆すのは難しい」
「私の身に何か起きるって事ですか?」
「ええ。貴女をここに呼んだのは私。だから、魔女の誇りにかけて、貴女を一回だけ助けてあげる。貴女は私を『お姉さま』と呼べる?」
惹き込まれそうな宇宙色の瞳。息をするのも忘れてしまう美貌に、時間が止まる。
「ええっ?」
「私をそう呼ぶのなら、魔女ヤハブの身内として、一度だけ助けてあげるわ。覚えておきなさい」
「………魔女ヤハブって、先輩の事ですか?」
「そうよ。私が主から頂いたウィッチネーム。魔女は義理堅いの。目には目を報いには報いを。恩には恩を好意には好意を」
「………覚えておきます」
そう言うと美樹は席を立ち、一礼して教室を出た。
*
美樹を見送った木佐谷は、机の上に残った山札から最後に捲らせるはずだった六枚目を捲った。
「………ああ、やっぱり」
美樹が捲る筈だったそのカードは、『嵐と戦いの悪神セト』の逆位置。
正位置の意味は、自らに降りかかる災い。
逆位置の意味は、自らが引き起こす災い。
復活の次に来る災害の組み合わせは、更に良くない。
「封印が解けるのね。探していた忌まわしい魔道書の封印が。きっとそれが始まりになる」
すでに空模様は崩れ、雷光が空を割っていた。
3
占い研究会の部室を出ると、待っていたのは千夏だけだった。
「何か言われた?」
「あ………うん。特に。結構待ってない?」
「え? そんなに経ってないと思うけど。でも。あんな相手に不安を押し付けるなんて占いじゃない。詐欺師のやり方だよ。素人占いでも質が悪いよ!」
教室内に声が聴こえるんじゃないかと思うほど声が大きいので、美樹は少し焦った。
廊下に並べられていた木製の待合椅子に腰を下ろして千夏を見上げる。
憤る千夏に対して美樹が驚くほど冷静なのは、木佐谷が千夏の感情を先に読んでしまっていたからだ。
当てずっぽう、と言えなくもない。悪い占いの結果に激昂する相手を見るのは占い師の常。そこから経験則で察したとしても不思議は無い。
無い、が。
そんなイカサマや詐欺師紛いとは比べ物にならないほど異質な感じを受ける。
もし彼女が占いとは無関係のイカサマをしているとすれば、それは人知を超えた何かではないかと思ってしまう。
「それより、理都子は?」
「下の旧図書室を見てくるって。先に帰って良いってさ」
「あー、うん。私はどうしようかな?」
「天気も崩れたし、もう帰っていいと思うけど」
「………そっか。そうしようかな」
占いが気になる、と言う部分は表に出さず、作り笑いを浮かべる。
何となく隣の椅子を撫でていると、美樹は違和感を覚えた。
「………あれ?」
「どうしたの?」
「う、うん。この椅子の表面に何か刻まれた跡がある。ほら」
美樹が座った椅子の隣。
木の座面に、カタカナで七文字が刻まれていた。
その瞬間。
稲光が廊下を照らす。
その光に照らされた椅子には、見覚えのある名前が刻まれていた。
トコカワカズコ
遅れてきた雷鳴が誰かの悲鳴を覆い隠した。
「………ねえ。これって、さっきから刻まれてた?」
「………覚えてない。でも。あの人が刻んだとしか。あたしらが七不思議を調べてるって事を知って、驚かせようとこんな事を」
そんな人間には見えなかった。
いや。
言ってしまうなら、こんなチャチな悪戯をするような器の人間には見えなかった。
それどころか、美樹の中では木佐谷の存在がどんどん大きく膨らんでいく。
それは決して好意的な感情ではない。
今なら理都子が木佐谷を苦手と言った理由が理解できる気がする。
エキゾチックな美人と言うイメージは歪みに歪み、捉えどころのない異形へと姿を変えた。
怪物。
美樹の中に生まれたイメージはそれだ。
二つ年上と言う事を差し引いても、年齢と中身が大きくずれているような、そんなイメージに付きまとわれた。
それなのに、彼女の言葉は甘い。安心を得られるのではと信じてしまえるほどに。
「………昔、七不思議を知ってた人が刻んだのかもしれないよ」
「………学校の備品だし、そう言う事もあるかもしれない、けど………けど」
それ以上の真実を口に出すのが怖い。
誰だって見ればすぐに分かる。
経年で変色した木肌を彫刻刀か何かで削ったようなその跡は。
たった今削ったみたいに真新しい木の断面を晒しているのだ。
もし、これが誰かの手に寄るものならば、少なくとも数日以内の最近の仕業だ。
もちろん、木佐谷の仕業と言う可能性も否定できない。
しかし美樹はそんな楽観的な想像はできなかった。
七不思議に関わる何かが始まってしまった。
木佐谷の不吉な占いと合わさって、そんな不安が美樹の中に渦巻き始めた。
*
『………先生? 自分です。輪納谷です』
「輪納谷? どうした。わざわざ電話をかけてきて」
『今、県の図書館です。掴みました。とんでもない情報です。ええと、画像データを添付して送りました』
「お、おう」
『これが本当なら、原因は少なくとも開校当時になる。自分は明日の土曜日も探索に入ります。では!』
興奮しているのか、電話はあっさりと切れた。送られてきたデータを確認すると、それは古地図を写した画像だった。
添付情報によれば、幕末よりも少し前の頃の物だ。
「………古地図をスマホで写しても見にくいんだがな………。これは今の学校がある場所。一族の敷地内、か。山と堀と屋敷だけ。詳しい事は記さず。ちょっとした大名並みの扱いだな。これは」
江戸時代。地図製作は年貢の関係からも重要な事業だった。何年かに一度、役人が総出で必ず計測していたし、石高はもちろん水場や寺社も記した。人を集められる集会場の把握は支配者層にとっては大事な情報だし、水場は生活に関わる重要拠点。
もし年貢を納めない隠し田と呼ばれる未申告の水田が見つかれば、集落に重罰があった。
ところが、この古地図は敷地内とは言え余りにも大雑把な物だ。
仮にこの一族が名主、大地主だったとしても、それだけでは武士の介入を防ぐ術は無かった筈なのだ。
「………この事を見ても、この一族が異常な待遇だった事は理解できる。しかし、輪納谷は何を見つけたんだ?」
画像は他の場所を写していない。
と言う事は、この範囲で輪納谷は何かを発見した、と言う事になる。
「………山はあっても、首塚の名前は無い。社があるとも記していない。完全な秘密主義か」
権力を受け入れない力。
そしてそれは信じ難い事に明治維新も富国強兵も軍国主義の時代も越えて、そして唐突に終わった。
驕れる者も久しからずと言うが、この一族は実に二百年以上天下の支配を退けてこの地に君臨したのだ。
十分過ぎると言うよりも、何かがおかしいと感じる。
「………いや………そうか。何かが書かれている、と言う事じゃない。何も書かれていないからこそ奇妙な部分がある、そう言う事か?」
不意に思い当たる。
そう。『首塚』と言う異様な言葉が、一体いつ、どこから出てきたのか。これだけの秘密主義が漏れたとは考えにくい。証人たちは死んでいる。なのに開校から十年そこらで七不思議が記録され、『首塚』と言う言葉が生まれた。
データによれば、確かに首吊り事件も何度か発生している。
しかし首吊りと首塚では隠喩の意味に隔たりがある。
「なぜだ? 一体、火事から開校までの十年、一体ここで何があったんだ?」
輪納谷のように周囲の情報を埋める事はできる。しかし、それでは肝心の核に辿り着けない。推測するしかないが、それは本質を見誤りかねない危険な気がする。
「………生き証人が居れば、な」
まだ年数的には不可能なラインではない。七十代、或いは八十代。存命は十分に期待できるのだ。
(調べてみるか。地元の老人会や公民館の集会に名簿がありそうだし、確か別の学校で夜に高齢者向けの学習講座をしている所があったな)
浅松はふと教員室の月行事の記された黒板に目を向ける。
これは月初めに教頭が今月のスケジュールを書き込む黒板だ。
単に曜日の確認のつもりだったのだが、浅松はそこで奇妙な文字の羅列を見出した。
予定の何も書いていない数日後の欄。
チョークではっきりとその言葉は書かれていた。
トコカワカズコ
「………誰の悪戯だ?」
文芸部が部誌を残しているし、現超研が研究を残している。
七不思議七番目が『トコカワカズコ』である事は、十分知られていてもおかしくない事だ。
兄や姉がこの学校に在学した事があれば、あるいは近所にこの学校のOBやOGが住んでいたのなら、その情報は伝えられている可能性は十分に考えられる。
だが、幾らなんでも。わざわざ教員室に落書きをしていくような真似をするのだろうか?
思わず自分の座席から立ち、それを消しに行く。
それはちょっとした違和感。
現実の世界に滲み出した、微かな一滴の異形の黒。
だが。
白い紙に落とした墨汁がたちまち黒い染みを広げるかのように。
異形の黒は、現実を侵し始める。
*
旧図書室は、本棚以外何も残っていなかった。
辛うじて掃除は入っているようで、埃は思ったほど多くは無い。
「………知識。逆さの知識。失われた筈のそれがあれば私は………」
理都子は呟きながら空の本棚の隙間を見回しながら歩く。
探しているのは隠された何か。隠し戸か、床下収納の入口か。
やはり何も無い。
『禁忌の寄贈図書』
七不思議五番目に位置するその謎。
あると言われながらもすでに無い。
この校舎が建ってから、十年目にしてすでに「ある筈なのに無い」とされている。
その奇妙な物語。
読んだ者を発狂させたと言う古文書。しかし、怪談では「何人も犠牲者を出した」とは言っていない。つまり、怪談を真実と仮定するなら、読んだ人間は限られている。おそらく開校から十年で僅か一人だ。
不確定な噂だが、存在は確定している。
「………あの魔女も狙っているかもしれない」
しかし、あの魔女がこの学校に以前から居るとすれば、彼女をしてもその古文書を見つけていないと言う事になる。
そんな事があるのだろうかと疑問が残る。
歩きながら考える。さすがに隠し部屋の類も、床下収納も見つからない。
こちらでないとすれば、保管を目的とした場所に置いていた筈。
図書室の奥には、小さな書庫がある。
元々は鍵が付いていたようだが、すでに鍵をかける意味の無くなっていたので出入りは可能だった。
しかし、そこにも何も無い。空っぽの本棚が並んでいるだけだ。
念入りに確認しても、ただ本棚が並ぶだけ。
崩れた天気の外は、しばしば雷光を輝かせている。
「…………お腹、空いたな………」
徒労が空腹を招いた。
「………ここではない、としたら。………それはどこにあるの?」
その呟きに答えるかのように、パキッと音が鳴った。
長い年月を経て、日に焼け色褪せた木製の壁。
パッと見た感じでは分からないが、そこには無数に傷が刻まれていた。
年相応の下品な言葉から、相合い傘まで。定番中の定番が並んでいる。
その、相合い傘に刻まれた名前に、理都子は見覚えがあった。
「………『トコカワカズコ』?」
相手の居ない相合い傘に七不思議七番目の名前。
だが、奇妙な事に。
それは今さっき掘られたかのような、真新しい木肌を下に見せている。
「………すでに始まっている? そう、始まっているの?」
愛おしそうにその名前をなぞり、理都子はいつものように微笑む。
4
土曜日の朝。
美樹はいつものように制服に着替えて一階のダイニングに降りた。
父好みの暴力的なまでに塩辛い鮭の切り身を玩んでいると、対面式キッチンの向こうに居る母が言った。
「今日は夕方まで晴れるんですって。おじいちゃんの所に挨拶してきなさい」
「………はーい」
「電話で、美樹が行きますって言っておくから。ちゃんと行くのよ」
「はーい」
七不思議に関わり始めてから、ちょっと気が詰まっている感じがする。気分転換に祖父の家を訪れるのも良いかも、と美樹は思う。
結局鮭は半分で放置し、美樹は玄関を飛び出した。
晴れているとはいえ、空気は梅雨の湿度でむっとする。
汗をかくと色々困るので、走らないように急ぐ。
途中で昨日と同じように理都子と一緒になった。
理都子の表情はあからさまに暗い。具合が悪そうと言うよりは気落ちしているみたいだった。
「昨日は図書室で何か見つかった?」
「………何も。やっぱりあそこには無いのかも」
「そっか。まあ仕方ないよね」
美樹も、微かに感じた異常とも言い難い出来事は言わない。
「今日はどうするの?」
「あー、今日はちょっと用事。おじいちゃんとこ行ってこないと」
「そう」
やっぱり昨日の占い研での仕打ちが気落ちさせているのかな、と美樹は思う。
木佐谷瞑子。魔女と呼ばれるだけはある、独特の雰囲気を持つ女性だった。
近くに居ると、彼女の雰囲気に呑まれてしまうのだ。
でも、あれだけの女子に慕われている人にしては、理都子への態度が冷たかった。
評判なんて気にせず我が道を行く人なのか。
それとも、そんな物からはとっくに超越してしまった人なのか。
今朝は、千夏は一緒にならなかった。
案の定、美樹よりもずっと早く教室に来ていたのだ。
「おはよう」
「ん、ああ。おはよう」
珍しく、ぼぉーっとしていたらしい。自分の座席で、学習道具も開かず黒板の方を見ていた。
「珍しいね。一時間目の古文の予習でもしてると思ったのに」
「あたしだってぼぉーっとするくらいはあるよ。ちょっと考えてた事もあるし」
「考えてたって?」
「七不思議。何か気になるんだよね。今日は文芸部で調べてみるつもり。美樹は?」
「私は用事があるから、帰る」
「まあまだ六月だし急ぐ事もないだろうけどね」
「家でも調べてるの?」
「そりゃまあね。ま、調べてるって言っても今のところは過去の研究の読み比べって感じだけど」
「何かわかった?」
「一個だけ」
「何?」
「コピペしたかと思うほど中身が変わらない。手抜きをしていたか、あるいは」
「あるいは?」
「………絶対に変えられない何かがあるか」
「何それ」
「わかんない。たぶん中二病の妄想みたいなもの」
それっきり千夏は黙ってしまった。
*
古文の授業は退屈だ。
と言うよりも、板書のチョークの音が催眠効果をもたらすと言う説は絶対に正しいと思う。
一時間目にして早くも睡魔と戦う美樹は、そんな事を考えていた。
古文。万葉集なのか土佐日記なのか伊勢物語なのか。少なくとも現代日本語では無いもの。
とにかく古文の教師が何かを板書している。
「えー、それではこの文章を現代語に訳して読んで貰おうか。今日は二十二日だからして、ええと」
出席簿はあいうえお順で男子前半女子後半。小林は危険ラインだが、今日はぎりぎりセーフ。
指名された女子が板書に書かれた文章を読み始める。
「『トコカワカズコは貴い方に見初められ、輿入れする事になった』」
目が覚めた。
教室内が先ほどまでの緩んだ空気とは全く異なるざわつきに支配されていた。
千夏の方を向けば、千夏も驚いた顔で黒板の方を見ていた。
「おいおいおい。どうしてそんな訳になるんだ? どこを見ているんだ!」
古文教師が怒鳴りかけるが、指名された生徒は、恐る恐る黒板を指差した。
「そう、書いてます」
女生徒の言う通りだった。
板書には古文調で確かにそう書いてある。
もちろん教科書にそんな文章は載っていない。
「………あー、すまん。別な所を書いたようだな………。うん」
教師は自分で書いた板書を消し、新たに文章を書き始めた。今度は普通に源氏物語の一節だった。
微妙な空気が流れる中、一時間目の授業は終わった。
美樹は早速千夏の席に向かう。
「…………さっきの何?」
「先生がわざとやった、と言う感じじゃなかった。………もしかするとあれかも」
「あれ?」
「トランス状態。昔の言葉で言うと神憑り。何かに憑依されて、それで自動筆記した、って事かも」
「………偶然、じゃないよね。トコカワカズコって」
「ご丁寧にカナ文字だった。まさか平安期の名前ではないと思うけどちょっと待って………うん、ネットにも無い」
千夏はスマホを捜査して検索するも、期待する答えは出てこない。
「………まだ、まだ、悪戯の域は出てない。………でも。こんな事ってある?」
その言葉に、美樹は答えられなかった。
それから放課後までは何も起きなかった。
帰る前に、千夏に言葉をかけておこうと近付くと、千夏は古文のノートを広げていた。
「予習?」
「ううん。………さっきの板書、写しておいたの。全文はこんな感じ」
トコカワカズコは低い身分であったが、貴い方に見初められ輿入れする事になった。
家では大事なお役目を任されて、それを全うした。
トコカワカズコは社に祀られるようになった。
「………これで間違いない。この文章が正しいと仮定して、考えられるトコカワカズコの正体について」
「身分が低いけど、良いお家にお嫁に入った。大事な役目を任されて、それをちゃんと行った」
「そのまんまでしょ、それじゃあ。三行目に社に祀られたってあるよね? つまり神様になった、と言う事。二行目と三行目の間に何かあったかもしれない。でも、仮に何も無かったとしたら、二行目の大事なお役目の意味はほぼ一つしかない。たぶん」
「………一つって?」
「人柱。つまり、生贄」
「………え? だ、だってお嫁に入ったんでしょ?」
「訳では『貴い』、としているけど原文は『やんごとなき』。これ、人に使う場合は最上と言う意味になるの。知ってるよね?」
「あ、ええと、そうだっけ?」
「現代で使う時は『やんごとなき事情』とも言うけどね。この場合は重要だとか大事とかそんな感じだけど、古語では最上。つまり普通は帝。天皇か上皇、あるいは法皇なのよ」
「ええっ?」
「もちろんここで天皇が出てくる筈がないから、天皇より上の存在を示す。つまり、神様。一行目は神様に輿入れする、つまり生贄になると言う意味にもとれる」
千夏はペンの頭をノートにとんとんと打ち付ける。
美樹に話していると言うよりは、自分で喋りながら頭の中で情報を整理しているかのようだった。
「………例えば、神様とかなら、その、巫女さんになる、って言う話じゃないの?」
「………巫女と言えば四番目は鋸巫女………まあそれはいいか。巫女と言うのも神様に仕える者と言う点では輿入れとも考えられるけど、どうかな? 祀られるなら人柱の線が有力なのは間違いないし。生贄になる前に巫女として身を清めるって事もありそうだし。巫女って処女性が大事にされるのって基本は近代以降なんだよね」
「そうなの?」
「そうなの。たぶんキリスト教の修道女の影響じゃない? キリスト教系女学校ができて、女子に教義に基づく処女性教育を施して、それが神道にも影響を与えた、とか」
「………トコカワカズコが生贄だったとしたら………七不思議はどう言う事なの?」
「まさか学校建てる時に人柱埋めた何て事は無いと思うけど。実際、明治維新の後でもトンネル工事とか炭鉱とかだと、末端労働者が次々死んだりして、その遺体を埋めて人柱にしたって話はあるのよね。何らかの事故に遭った女性を人柱として埋める、くらいの事件があったとしても不思議ではない、けど」
「けど?」
「………それでは一行目と二行目に合わないか。この電波文が正しければ、の話だけど。どこまで行っても妄想考察にしかならんか」
こんなおかしな話、論理より直感の方が真実に近づく気もする。
「ここまで。あたしは文芸部に行く。美樹は用事があるんでしょ?」
「うん。おじいちゃんの所に行く事になってるの。電話で連絡されてるからすっぽかせないし」
「はいはい。せいぜい孫のお役目を果たしてきなさい」
そう言うと、千夏は手早く荷物を纏めて教室から出て行った。
*
祖父の家に行くには、バスに乗って行く事になる。
少し郊外なので市内に比べると本数が一時間に一本しかなく、最終も六時台と早い。
夜道は街路灯の整備が整わず真っ暗になるのを、子供の頃泊まりに行って知っている。
早く行って早く帰らなければならないと言う交通状況の不便さが、美樹の足を遠ざけていた原因でもある。
そして、もう一つは中学の頃、祖父が会う度に「羽邑北には行くな」と繰り返していた事が挙げられる。
そんな祖父の言葉を無視して羽邑北に進学した身としては、なかなか顔が合わせづらい。
最寄りのバス停から歩く事更に十五分。
元は農家の平屋を何年か前にリフォームした、広い敷地の家が祖父の家であった。
「おばあちゃん、来たよ」
家の軒先に作った家庭用の菜園で作業していた小柄な祖母に挨拶する。
「あらあら美樹ちゃん。よく来たね。暑くないかい?」
「ちょっとね。上がるよ」
勝手知ったる田舎の実家。
早速家の中に入ると、作業を切り上げた祖母が泡の立つサイダーの入ったガラスコップを持って来た。
農作業着は脱いで、初夏らしいワンピースだ。
「今日は晴れて良かったよ」
「なーに、そろそろ梅雨も明けるよ。畑がそう言ってる」
「そう言うのって、やっぱりわかるんだ?」
「なんとなくだけどねえ。それは高校の制服かい? 最近のは昔と違っておしゃれだねえ」
冬服はブレザー。下にニットのベストを着ける事もある。夏服はブラウスに某ネクタイとベスト。クーラー対策でサマーカーディガンを持ち歩いている娘もいる。
「セーラー服も人気あるよ。レトロなのが可愛いって。おじいちゃんは?」
「すぐ戻って来るよ。美樹ちゃんが乗るバスの時刻知ってるから」
祖母の言葉通り、サイダーを飲み干す前に軽トラックが戻って来た。
「おう、よく来たな」
小柄だが農作業で良く日に焼けた祖父が入って来る。
「じいさん、年頃の娘の前に出てくるんだから、シャワーで汗流してきなさいな」
「おう、すまんすまん。高校の制服か。よく似合っとるぞ」
「夏服だけどね」
がはは、と笑いながら祖父は風呂場に向かった。
「じいさんもやきもきしてたからねえ。高校受かったって聞いた時は本当に喜んでたよ」
「あはは。早く来れなくてごめん」
祖母と軽いお喋りをしていると、窓から見える敷地内に軽自動車が入って来たのが見えた。
「あ、お客さん来たみたい」
「はて、誰か来るって話は聞いてないけど。まあ前触れ無しに来るって事はここら辺じゃよくあるからねえ」
程なく、インターホンが来客を告げた。
祖母が玄関に行くのを見送った美樹の耳に、その声が聴こえてくる。
「確かに小林留蔵はうちの者ですが、失礼ですがどちらの方です?」
「私、県立羽邑北高校で地域史を教えております、浅松と申します」
来客は確かにそう言った。
「えっ?」
思わず美樹も玄関に向かう。
「浅松先生?」
文芸部顧問も、驚きの表情を浮かべている。
「小林か? なんでここに居るんだ?」
「ここ、私の父さんの実家」
「………小林なんてありふれた名字だから思いもしなかった」
「美樹ちゃんの知ってる人かい?」
「うん。うちの学校の日本史の先生。あと郷土の地域史担当。それから私の所属する文芸部の顧問」
「あらあら。とにかくお上がりになって下さい」
祖母の招きで浅松は靴を脱いで上がる。
「先生が何でおじいちゃんのうちに?」
「俺もお前たちに負けないように研究しないといかんと思ってな。小林留蔵氏はこの辺りの話に詳しいと聞いて来たんだ」
浅松と共に居間の家具調テーブルに座る。
祖母は麦茶を浅松と祖父が座る筈の上座に出してテーブルの横に座った。
しばらくして、半袖の開襟シャツとハーフパンツと言うさっぱりした格好で祖父がやって来る。手に持った団扇で煽ぎながらどっかりと胡坐をかく。
「ふーむ。妙な来客が重なったんもんじゃな。まずは美樹、遅くなったが高校入学おめでとう。なんで羽邑高に入ったかは言わんが」
「あのさ。おじいちゃんって、羽邑北が嫌いなの?」
「儂も羽邑高OBじゃよ。反対しとったのは別の理由じゃ。んで、そちらの方が羽邑高の先生とな?」
「はい。日本史と地域史を担当しています、浅松と申します」
「いきなり来てもおらんかったらどうすんじゃ」
「今日はご挨拶だけと思っていまして。まさか小林君のご家族とは思いませんでした」
「………ふーむ。なんだか妙な絵面だが偶然か」
「妙な絵面って何よ」
「いやほら、あるじゃろう? 教師と生徒が懇ろになってしまったとか」
「無いから! 何て事言うのよ!」
思わぬ言葉に美樹は顔を真っ赤にするが、祖父はガハハと笑ってそれをいなす。
「冗談じゃ冗談。して、わざわざ先生がここに来たのは何故かな?」
「はい。私は大学時代に民俗学に興味を持ちまして、羽邑北高校に赴任した後も地域史を担当する事になりました。しかし、戦前の事ですら資料が少なく。そこで高齢の方々に当時の様子などを聞き取りしようと考えたのです。留蔵さんを訪ねたのは、留蔵さんが詳しいとお聞きしたからなのですが」
留蔵は何かを思案するような表情を浮かべたが、すぐにぽつりと訊ねた。
「………ところで、先生の大学はどちらです?」
「千葉、夜刀浦にある飯綱大学と言う私立大学です」
「………なるほど。ところで美樹や。そろそろバスの時間ではないか?」
「え? あ、ああ、うん。そうだね。これを逃すと一時間待ちか」
「夏とは言え女子高生が遅くなるのは関心せん。今日は家に戻りなさい。おお、遅くなったがこれは入学祝じゃよ。大事に使いなさい」
お年玉のポチ袋が渡された。女子高生にとっては結構な大金が入っている。
「わ、ありがとう!」
「ばあさん、美樹をバス停まで送りなさい。あと、何か土産になりそうな物もな」
「はいはい」
「じゃあおじいちゃん。またね」
「おう。身体に気をつけなさい」
美樹は手を振ると、玄関から外に出た。
*
残ったのは留蔵と浅松。
留蔵は少しぬるくなった麦茶を一口飲んで、おもむろに切り出した。
「単刀直入にお訊ねする。羽邑の地に居た一族についての話をご所望かな?」
「………はい」
深く長い溜息を吐く。それはまるで濁った物を吐き出すかのようだった。
「単なる好奇心で首を突っ込んでいい話ではないぞ。資料はほとんど残されておらんとは言え、多少でも調べれば、あの忌々しい一族がどれほど奇妙な力を持っていたか、分かるじゃろう」
「承知しています。実を言えば、私は飯綱大学でそう言った因習を持った一族や集落が日本の各地に存在した事を学びました」
「ほう?」
「例えば、1978年の宮城沖地震で壊滅した宮城県旧伊須磨郡谷地村。リアス式海岸と言う地形から山間にある漁村と言う奇妙な立地でありながら、異様なほど海の幸に恵まれ飢える事も困る事も無く、権力の介入もほとんど無かったと記録されていた。しかし、調査の結果、彼らが良く知られる宗教とは全く異なる、古の神々を信仰していた事が判明した。そのおぞましい儀式と共に、です。もし、私の予測通り羽邑の一族が同じような存在だとしたら、滅んだ今でも極めて危険な状態にあるかもしれない。あの禁断の知識は、人が死んだ程度では消滅しない」
浅松の説明は異常だった。
こんな話の仕方で尋ねられるなど、正気の話ではない。
否。
そうではない。留蔵が異常を理解できる、それこそが信用に至ると確信して、浅松は説明を続けた。
「………いいえ。すでに、始まっているかもしれないのです。留蔵さんは羽邑北高の七不思議の一つ『トコカワカズコ』と言うものをご存知ですか?」
「………なに?」
「………ご存じなのですね。今、羽邑北高の様々な場所で『トコカワカズコ』の名前が浮き上がっている。ある時は落書きで。ある時は教師の板書で。ある時はスマホに入る謎メールで。その謎の名前が出現しているのです。私も最初は何かの悪戯かと思った。しかし、今日確認しただけで、校舎内で二十件近い発生がある。中には人の手が入ったとは思えない場所やタイミングもあります。もう、悪戯や科学では説明できないレベルになっている。異変が始まっているんです」
「………先生はその事を知って如何にしようと言うのです?」
「止めます。このまま放っておけば、必ず災厄に繋がる。それが、飯綱大学の旧図書館で学んだ私の使命です」
「しばし待たれよ」と留蔵は言い残し、書斎に向かった。
留蔵はすぐに、厳重に封がされた箱を持って戻って来た。
「………遂にこれが役立つ時が来てしまったか」
封を切って開けられた箱の中には、とても古いノートが一冊入っていた。少なくとも数十年前の物だろうが保存が良かったのか、読む事に支障はなさそうだった。
「七不思議の中に『禁忌の寄贈図書』と言う物があるじゃろう?」
「………はい」
「あれは儂じゃよ。儂の事件が七不思議になったんじゃ」
「なんですって?」
「あの忌まわしい書物のせいで、儂は一月ほど心身不安定に陥った。そして、これがその時造った訳本じゃ」
「………拝見してもよろしいですか?」
「構わん。ただし、気を強く持ちなさい。それは、ただの人が手にするには余りにも冒涜的過ぎる」
恐る恐る、浅松はそれを手に取る。
「『二道草子』ですか」
書き殴ったような簡素な題字を確認し、慎重にページを捲り、記された内容に目を通す。
だが、浅松の目は次第に恐怖の色を浮かべ始めた。
ページを捲るたびに苦悶の吐息を漏らすが、それでも捲る手を止めない。
「………これは………そんな馬鹿な。まさか!」
「他の人間に見せた事は無い。先生が初めてじゃよ。これを見せると決めたのは、先生が飯綱大学の旧図書館に居たと聞いたからじゃ。儂が死ぬまでに何も起きなければ、これは飯綱大学旧図書館に送るつもりじゃったよ。おそらく、先生はこれに類似する本をご存知と見える」
千葉県夜刀浦にある私立飯綱大学。
医学部と薬学部が有名だが、実は人文社会学部のとある分野で非常に有名だった。
それは、禁忌の知識を記した稀覯本の収集と研究だ。
一説では旧帝国大学の図書館と比肩された飯綱製薬の蒐集書庫。
今は旧図書館特別保管庫と呼ばれる場所に存在するそれらは、一般の学生は目も触れる事無く卒業する。
しかし、一方でその知識から悲劇を防ごうと研究する者たちも居る。
浅松はまさにその一人だった。
「………ええ。間違い無い。これは………この内容は、ポール・アンリ・ダレット伯爵が収集した忌まわしき儀式の集大成『屍食経典儀』だ」
「儂が相談した飯綱大学の教授も同じ事を言っておったよ。二道とは餓鬼道と畜生道を指す言葉。この忌まわしき書物が編纂されたのは室町時代の半ば頃。死骸と交わり人間の死肉を喰らう餓鬼畜生への転生について書かれたもの。故に別名を『鬼畜草子』と言う。この『二道草子』こそ、かつてこの羽邑の地に栄えた一族の力の源となった物なのだ」
5
「………立ち入り禁止で手入れもされていない、か」
輪納谷は今、裏山に来ていた。
彼の目的は、首塚と呼ばれる社を調査する事。
どうしてもその眼で社の縁起を確認しなければならなかった。
輪納谷は、この社にこそ秘密があると考えていた。
生徒の自殺があってから、この裏山には入る者はいなくなった。周囲はフェンスに囲まれてしまっている。そのフェンスもつる草や蔦に覆われて緑の壁になってしまった。
それを乗り越えても、上る道も初夏を過ぎて草が生え放題でとても気軽に立ち寄れる場所ではない。
何とか藪漕ぎをしながら頂上を目指す。
「………はあ、はあ。あった、あったぞ!」
小さな古びた社。周囲は何故か草が生えていない。
踏み固めたのでもなく、手入れをしているわけでもなく、苔すら生えない場所であるらしい。
おかげで社は緑に呑まれる事無く存在し続けていた。
大きさはせいぜい子供の背丈。小さいが、しっかりと造られた物だ。扉はきっかり羽邑北高の校舎を向いている。
「………つまり、校舎から見て正面を向いてると言う事だな。しかし、僕の考えではこれは戦後、一族が滅んだ後に建てられた物だ。それなのに、すでに存在しない一族の場所に向いている。これはどう言う事なんだろうか。普通の神社なら、何かしらの縁起が中に納められている筈なんだが。それに、どうしてここが『首塚』なんて呼ばれるようになったのだろうか」
社とは基本的に仮の容れ物に過ぎない。御神体がそこにある事もあれば、ただ拝む場所として置かれる事もある。
神社であれば本殿がある筈だが、この山の頂上にはそれらしき跡が無い。
そうなると山自体を御神体と見ていたか。
「………やっぱり開けるしかないか」
固く閉じられた社の扉。しかし、鍵は古い閂で、錆びてはいるが何とか開けそうだ。
日が暮れる前に、事実を確認しないと。
輪納谷はそう考えて社の扉を開いた。
「………え?」
まるでおぞましいものを想像していた輪納谷は、その事実に呆気にとられる。
そこには御神体を収めるスペースはあったが、何も無かった。
………扉を開くのは難しくない。
輪納谷と同じようにここに来て、そして御神体を奪ったのだろうか?
扉の内側には、この社の縁起が刻まれていた。
「ええと『昭和二十五年 卯月十五日 ■■建立』………誰が建てたかは読めないけど。これは、大火事のあった直前だぞ?」
尚も輪納谷は社を調べる。
「………これを造った直後に一族は滅んでいる。過去の調査ではこの二、三日後だ。大火事の原因も不明のままだが、一族郎党が集まっていたと言う事は、何らかの理由があった筈だ」
不意に、ガサリと言う物音が耳に入った。
(………動物? この山は周囲から独立しているんだ。熊なんて居る筈がないとしても、野犬か?)
後ろを振り返ると、夕暮れが差し込んだ空間には何も居ない。
「………気のせい、か?」
再び社に眼を戻そうと視界を動かしたところで、輪納谷はそれを見てしまった。
まるで酷い火傷を負った裸の人間。
赤黒い肌に、潰れたような顔。
しかしその体躯は、二足歩行の人と言うよりも、獣のそれだ。
それが、数えられるだけでも五体以上。木の陰や草の合間から輪納谷を睨んでいる。
「ひっ!」
逃げないとまずい!
そう考えた時、輪納谷は後ろから殴り倒された。