むかし々
きっかけは、ささいな言い争いのはずだった。
つい先ほどまでやかましかった婆さんが、血しぶきを上げながら倒れるのを爺さんは呆然と見守った。
だらりと下げた爺さんの右腕には、血でべっとりと濡れたナタが握られていた。そのナタが、婆さんの脳天をかち割ったのだ。
いったい何がいけなかったのだろう。
真っ赤に染まった手をじっと見つめ爺さんは思った。
普段は近隣でも知られた仲のよい夫婦だった。言い争いなど、滅多にしたことがない。
それが、どうして今日に限って……
爺さんは食い込んだように離れない指を、一本一本はがすようにナタの柄から外す。
ムシロにくるんだ婆さんを、爺さんは裏庭に埋めた。
※
朝が来た。
爺さんは一人で朝飯を食べた。昨日食べ損ねた婆さん自慢のきのこ汁を冷や飯にかけて胃に流し込んだ。
その日、爺さんは山に行かず畑を耕してすごした。
そして、行商から買った花の種を、裏庭の掘り返して新しい土の上に蒔いた。
花の種を蒔きながら爺さんは思った。
この花の種が、昨夜の口喧嘩の始まりだった。
街へ竹篭やら何やらを売り、その金でいくつかの必需品を買って帰った。
婆さんの作った籠はできが良く、いつもかなりの額で売れる。
いつもなら、余った金を少しちょろまかし爺さんは一杯引っかけて帰るところだ。
なあに、赤ら顔も里への帰りの道のりで酒精もすっかり抜けてしまう。
だが、その日は爺さんはその金で花の種を買った。ささやかながら、婆さんへの感謝の気持ちだったのだ。 ただ、素直に花を買うのがいまさらながら気恥ずかしく、花の種を買った。
どんなに婆さんは喜ぶだろうと、年甲斐もなく爺さんの胸はときめいた。
結果はどうであったろう。
婆さんは喜ぶどころか、口汚く爺さんを罵った。
「こんな無駄遣いをして!」
「む、無駄遣いだ……?」
「無駄遣いは無駄遣いだ」
口ごもる爺さんに対し、畳みかけるように婆さんは言う。あまりの婆さんの剣幕に、爺さんは尻餅をついた。
「だって、おまえ……」
あえぐように口を開いた爺さんを、婆さんは「なんだいっ」と吐き捨てるように言い、腕組みをして見下ろした。
「だって、おまえ。ワシは今日は一杯引っかけずに帰ってきたんだ。その金で、この花の種を買ってきたんだ」
爺さんの言葉をじっと聞いていた婆さんの目が、見る見るうちにつりあがった。上気していた頬が、さ
らに赤らんでいく。
「なんだって、おまいさん」
爺さんは自分の間違いを悟った。今まで『街で一杯』は婆さんは黙認してくれているものだと思っていた。だが違ったのだ。
「なんだって、おまいさん。今まで……今までそんな無駄遣いをしていたのかいっ、私に隠れて!」
そこから、怒涛のような罵声が爺さんを襲った。
娶ってから五十余年にもなるが、こんな婆さんを初めて見た。おとなしく、よく気が利く女だと思っていたがそれは間違いだったのか。 まぁ事細かに、今ではもう爺さんが忘れてしまったようなことから、日常の不満などを口がよく回るものだという勢いでまくしたてる。
嫁いで一年も経たないうちに、隣村の娘と浮気をした――だとか。
娘を出産するとき、他の村の若者たちと町へ飲みに行き三日家を空けた――だの。
飯を、クチャクチャと音を立て喰うのが我慢ならない――だとか。
いびきがうるさくてたまらない――だの。
出てくる、出てくる。この五十余年貯まりに溜めた不満の数々。爺さんは呆気にとられた。なんと、こんなに執念深い女だったのかと。
爺さんはため息をつくと、冷たい風に背中を丸めて家へと入った。
※
色づき始めたつぼみを眺め、爺さんはため息をついた。
そこへ通りかかった里の若者が、
「爺さま、まだ婆さまは帰ってこないのかい」
と声をかけた。
婆さんの姿が見えず不信がった周囲に爺さんは、
『けんかをして怒った婆さんは、家を出て行ってしまった。長いことの疲れを落とすために湯治に出かけると置手紙があった』
と嘘をついたのだ。
振り返った爺さんは力なく笑い、「ああ、まださ帰ってこないだ」と答えた。
「そうかい。よっぽど爺さま怒らせたんだな。セリ婆さまはできた人だで」
若者がそう返すと、途端に爺さんはぽろぽろと泣き出した。
「わ、わ、爺さま」
若者は慌てた。
「そうさな。ワシが悪かったんだ。婆さんが戻ってきたら、たんと詫びねばならん。いくら詫びても詫び足らん」
「いや、いや、爺さま」
うずくまって泣き出す爺さんの背中をさすり、若者は爺さんをなぐさめる。
「大丈夫、大丈夫だ。そう気落ちせんと、もうじきだ。もうじきすっきりした顔して婆さまは帰ってくるって」
※
淡紅色の花が、ゆらゆらと風に吹かれて可憐に揺れている。
すっかりやつれ、面変わりした爺さんが所在無く佇んでいた。
「あら、爺さま」
声をかけた里娘は、あまりに暗い爺さんの表情に一瞬息を呑んだ。が、すぐに気を取り直し微笑みかける。
「おっかさんがこれを持っていけって……」
器を差し出した娘の動きが止まる。
「爺さま?」
何かにひどく驚き自分を見る爺さんに、娘は小首を傾げた。
「あら……?」
なにやらヌルっとしたものが頬を伝った。拭ってみると、なまあたたかい。「何かしら」と娘は拭った手を見た。
頬を拭った手は、赤く染まっていた。いったい何がどうしてと娘が首を傾げる間にも、なまあたたかいものが頬を、顎を伝う。
娘は再び顔に触れ、探る。
「あ、あ、や……い・や……いやだ――――!?」
ギャッ、と叫び声が一声高く上がった。
かしゃん、と娘の手から転がり落ちた器が、地面に当たって割れた。重いものが転がる音が、それに続く。
赤く染まりながら地面に倒れた娘を足許に、呆然と爺さんは立ちつくす。その爺さんも、赤く濡れていた。
だが、それは爺さんの血ではない。
里のあちこちから、同じような悲鳴が上がった。
なんと異様な光景なのだろう。里のあらゆる人が、若者も年寄りも幼子までも、目から鼻から耳からといわず体中の穴という穴から地を噴き出し絶命していく。
里には、生きている者は爺さんだけが残った。
そこは地獄もかくやという光景だった。干乾びた屍が転がり、血の池が出来上がっていた。
そして、不思議なものを爺さんは見つけた。その血の池に身を乗り出し、池の水をすする影のように黒いケダモノの姿を発見した。
おぼつかない足取りで、爺さんは池へ向かって歩き出した。
今日はなんて異様なこと続きなのだろう。へたりと爺さんは座り込んだ。黒いケダモノと思った物の正体を知り愕然とする。
「婆さん……」
対岸にいるソレは爺さんの声に気づいたのか、一度顔を上げると赤く染まった唇をゆがめてニィと笑った。そして再び池に顔をうずめる。
爺さんはすっかり腰が抜けてしまった。
ゴクリ ゴクリ
ゴクリ ゴクリ
咽喉を嚥下し、婆さんは血を飲み下す。そうすると、白髪頭が緑なす艶やかな黒髪へ、しわの刻まれた肌が、張りのあるみずみずしい肌にへと変化を遂げる。
ゆらり、婆さんは立ち上がる。里の者の血をすすり変化した若い盛りの姿であでやかに微笑むと、池の水面をすべり爺さんのもとへ駆け寄る。
「お爺さん」
優しい声音で呼ばれ、爺さんは顔を上げた。そして、自分を見下ろし微笑む婆さんの姿を認めると、頭を抱えうずくまる。
「ゆ、許してくれ、婆さん」
姿は、若い頃の婆さんの姿だった。が、練り絹のように白く滑らかな肌、血にぬれ艶然と赤く色づいた口唇が爺さんの本能に警鐘を鳴らした。
「ワシが悪かった、悪かっただ……許しとくれ、許しとくれぇ」
うずくまり震える爺さんの肩に、婆さんは手を乗せる。
驚く爺さんにやわらかく微笑みかけると、「お爺さん、もう怒っていませんよ」と囁く。
「婆さん……」
肩に置かれた手の冷たさも忘れ、爺さんは目の前の美女に見入った。
ぬれたように輝く黒い瞳が爺さんを見つめていた。
「昔のように、二人仲むつまじく暮らしましょうよ」
婆さんは爺さんの胸に寄りかかると、甘い声で囁きかける。
こわごわと爺さんは腕の中の婆さんに触れた。肩は触れれば崩れそうなくらい華奢だった。背にうねる黒髪は、しっとりとした質感で爺さんの指に絡みつく。だが、確かな存在感を実感した。そして、首筋から香るえもいえぬ芳香が爺さんを包む。
「許してくれるのか、ワシを」
感涙にむせぶ爺さんの胸に、婆さんは白い指を這わせる。
「ええ、お爺さん」
そう言うが早いか、鋭く伸びた爪を爺さんの胸に突き立てる。
手に脈打つ肉塊を握りしめ、婆さんはのどを震わせて笑う。
重く自分に乗りかかる爺さんをうるさげに払うと、哄笑響かせて立ち上がる。
「ば・あさんや……」
地面に転がった爺さんは、力なく右手を婆さんへ差し出す。胸からあふれる血を地面に吸わせながら。
ばさりと、婆さんは肩にかかる黒髪を背へ払う。
「えぇえ、許しますよお爺さん」
赤い唇が弧を描く。着物の合わせに手をかけ、白い胸元をあらわにする。だが、その胸には不釣合いな黒い穴が左胸に開いていた。
「私にあと足りないのは、心臓だけ。むしろ感謝しますよ、お爺さん」
爺さんの心臓を収めた穴は見る間にふさがり、瑕ひとつない肌が生まれる。
足許を見れば、しわがれた爺さんの指が婆さんの足首を握り締めていた。
「ばぁ・さ……ん・」
汚らわしいものを払うように、爺さんの腕を払う。うっと一声上げ、爺さんはこときれた。
婆さんは鼻を鳴らす。
足元に転がる爺さんの亡骸を一蹴りすると、ごろりと転がり、ぼちゃんと池に落ちた